ドガとロートレック Edgar Degas et Henri Toulouse-Lautrec 室内の画家

女性の背中を描いた二枚の絵がある。

どちらがエドガー・ドガで、どちらがアンリ・トゥールーズ=ロートレックだとわかるだろうか?

ちょうど30歳の年齢の違いはあるが、二人の画家は、19世紀後半にあって、印象派と象徴主義という二つの大きな絵画の流れの中で、独自の世界を構築した。

彼らは、室内の人工的な光の下で、女性たちの肉体の動きを描き出すことによって、人間の生の感情を表出することに成功した。
ここでは、二人の画家の世界に一歩だけ足を踏み入れてみよう。

印象派と象徴主義

ドガもロートレックもしばしば後期印象派の画家と言われることがあるが、クロード・モネとも、ジョルジュ・スーラとも随分と違っている。
印象派は基本的に、光を捉えることを中心的な課題とし、アトリエから出て太陽の光の下で絵を描いた。

Claude Monet, Le Pont d’Argenteuil
Georges Seurat, Un dimanche après-midi à l’île de la Grande Jatte 

ドガもトートレックも、描く対象は室内にいるバレリーナや庶民の女性、娼婦たちであり、光は室内の照明である。
同時代性ということで言えば、光を捉えることで共通しているが、しかし、彼らは色彩よりも、線によるデッサンや構図を重視した。

ドガのデッサンは、それだけですでに絵画に劣らない表情を見せている。彼女の体の動きがそれだけですでに何かを語っている。

Degas, Danseuse ajustant son chausson

印象派より少し遅れて展開された象徴主義の絵画では、外の世界は全く問題にせず、内的世界を捉え、表現することを目指した。
例えば、オディロン・ルドンの「花咲く雲」を見てみよう。

Odilon Redon, Nuages fleuris

この絵画が現実の世界を再現したものではないのは明かである。
私たちの目の前にあるのは、画家の内面世界であり、彼の魂の象徴といってもいい。

ドガとロートレックは、印象派や象徴主義の画家と同時代性を共有しながらも、彼らとは異なる世界を作り上げている。
二人は、デッサンと構図に重きを置き、人間の肉体の動きをある空間の中に位置付けることで、見る人に強い共感を引き起こす絵画を描いた。

エドガー・ドガ

入浴する女性は、他人の眼差しから解放され、自分自身でいる。ドガの言葉を借りれば、「雌猫が自分の体を舐めている」時のように無防備。
そうした時の肉体は、伝統的な裸体画の中の理想化された形ではなく、弛緩し、自然なものになっている。

「浴槽」は、そうした女性の姿を描いた一枚。

Edgar Dega, Le Tube

彼女は桶の中で、自分の髪の色に似た褐色のタワシのようなもので、背中をこすっている。その右手の動きとは対照的に、左手は自分の体を支えるためにグッと力を入れ、青みがかった灰色の盥を押さえている。

彼女の職業はわからないが、生活に疲れ果て、悲しみに溢れたという様子ではなく、ただたんに体を洗っている。
美化されるのでもなく、感傷的になるのでもない、彼女の自然さが、見る者に強い感情を引き起こす。そして、そこに、絵画的な美が発生する。

右側の約3分の1が棚で占められている構図は、ヨーロッパの絵画の伝統にはなく、浮世絵の影響だと考えられる。
その構図によって、画家はこの場面を真正面から見るているのではなく、鍵穴からこっそりと覗いているような効果を生み出している。
だからこそ、女性は他者の視線を気にせず、自分自身でいるのだ。

ドガはこうした背中を何度も描いているが、常に自然な美しさがある。

Edgar Degas, Après le bain – femme nue sessuyant la nuque
Edgar Degas, Danseuses au repos

背中だけではなく、正面からの姿でも、デッサン力が発揮され、体の動きが感情を見事に伝えている。

Edgar Degas, La Chanteuse au gant
Edgar Degas, Les Repasseuses

動きがない場合でも、静止した姿の形態が、描かれた人物の感情を伝えていることに変わりはない。

Edgar Degas, L’Absinthe

アンリ・トゥールーズ=ロートレック

ロートレックの描く女性の背中は、ドガに匹敵する。
ロートレックも、線に固執し、体の形態と運動の分析を行い、たとえ動かない肉体でも、その不動さがすでに動きとして感情を表現するような絵画を描いた。

「化粧」では、上半身が裸の女性が、背中をこちらに向けている。

Henri Toulouse-Lautrec, Femme à sa toilette

彼女の体は決して理想化された美を表してはいない。痩せこけた背中、少し筋肉のついた肩、無造作に投げ出された右足。
乱雑に広げられた白と青の布の上に座り、とりわけ大きな感情を表現しているわけではない。服を着替える途中で、ただ一息ついているだけなのだろう。
その自然さが、見る者の想像力を刺激し、様々な感情を読み取らせることを可能にしている。

ロートッレクもドガと同じように、洗濯する女性を描いている。

Henri Toulouse-Lautrec, La Blanchisseuse

ここでは、白いシャツと真っ黒なスカートのコントラストが印象的に配置され、顔の表情以上に、肩に込めた力が彼女の何らかの決意を伝えている。

ベッドの真ん中に二人の女性が横たわる姿を描いた一連の絵画からは、スキャンダラスなテーマでありながら、二人の幸福感があふれ出している。


ロートレックが構図を強く意識する時には、浮世絵的な構図が使われることがある。
「ムーラン・ルージュにて」では、画面の左手を占めるバーのカウンターや、半身が画面の外にはみ出した右手の女性の存在が、そのことを明確に示している。

Henri Toulouse-Lautrec, Au Moulin Rouge

こうした浮世絵的な構図が、ロートレックの生み出した新しいポスターの世界を特徴付けていることにも注目したい。

ロートレックのポスターでは、構図の面白さと同時に、肉体が躍動し、動きの面白さが魅力を生み出している。その点で、絵画と変わるところはない。


アンリ・トゥールーズ=ロートレックの描き出す人間も、エドガー・ドガの描き出す人間も、取り立てて大きな動きをするわけでもなく、強い感情が表現されてているわけでもない。
それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、私たちの心を強く引きつけ、共感の感情を引き起こす。

二人の画家は、日常の何気ない一瞬の姿を捉え、私たちにその美を伝えていると言ってもいいだろう。

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