エミール・ゾラ 『居酒屋』と「ルーゴン・マッカール叢書」 — 生の科学 ー 2/2

エミール・ゾラは、実証主義精神に基づき、科学的な方法論を文学に応用し、全20巻におよぶ「ルーゴン・マッカール叢書」を20年以上に渡り書き続けた。
その核となるのは「遺伝」であり、一人の女性から発生した家族のメンバーたちを異なる「環境」に置く「実験」を行い、その中で示す様々な姿を「観察」し、20冊の小説を通して報告する。それが、「第二帝政下での一つの家族の博物誌及び社会史」という副題を持つ叢書の趣旨だった。

ただし、その意図が全作品の骨格を形作っているとしても、それだけでは実験室に置かれた標本の骸骨になってしまう。骨に肉付けをし、命を吹き込まなければ、小説として成立しない。

叢書の第7巻目にして、最初のヒット作となった『居酒屋』は、主人公のジェルベーズを中心に生身の人間たちの葛藤が読者の胸を打つ。
さらに、ジェルベーズの三人の息子クロード、エティエンヌ、ジャックは、画家の生活情景を中心にした『作品』(岩波文庫の訳名は『制作』)、炭鉱のストライキを描く『ジェルミナル』、殺人に駆り立てられる男の物語『獣人』の中心人物になる。一人娘は、高級娼婦を素材とした『ナナ』の主人公ナナ。
この5つの小説を取り上げるだけでも、それぞれに肉付けが異なり、標本の骸骨ではなく、生きた人間の生命感がひしひしと伝わってくる。

実際、ゾラは19世紀後半のフランス社会に生息する人間の博物誌を構想したが、そこで描かれる人々にはどくどくとした赤い血が流れているように感じられる。
読者が、主人公たちの悲惨な人生に現実以上のリアルさを感じ、胸を痛めるのはそのためだろう。

「ルーゴン・マッカール叢書」の全体像

A. 鏡と仮説

ゾラが「ルーゴン・マッカール叢書」を構想した際にモデルにしたのは、バルサックの「人間喜劇」だった。

バルザックは19世紀前半の社会の全体像を壮大なフレスコ画のように描き出し、18世紀の博物学者ビュッフォンの『一般と個別の博物誌』に匹敵する「社会の博物誌」を作成しようとした。
ゾラによれば、バルザックは、現代社会の内部と外部を見通し、全ての階級の人々を射程に入れ、政治や宗教についてモラリスト的な考察を行った。その結果、「人間喜劇」は現代社会を映し出す「鏡」となっている。

もしゾラがバルザックと全く同じことを19世紀後半の社会に対して行うのであれば、彼の独自性を発揮することはできない。
では、「人間喜劇」の全体をモデルにしながら、どこに違いを出すのか?

  1. 叢書全体の基盤に「科学」を置く。
  2. 「真実」に到達するため、バルザックのように社会の多様な姿を網羅するのではなく、一つの家族を取り上げ、同一の遺伝子を持つ家族のメンバーが異なった環境によって変容するメカニスムを解明する。(ルーゴン家とマッカール家の系統樹の作成)

科学に基盤を置き、遺伝と環境のメカニスムを解明するというゾラの意向に従って考えると、「ルーゴン・マッカール叢書」は、社会を映し出す「鏡」というよりも、学者の提示する「仮説」、あるいは「仮説を彩る具体的な例」と見なす方が相応しい。

その仮説の根拠となる理論は、遺伝学者プロスペル・リュカの『神経系の健康状態および疾患状態における自然遺伝の哲学的生理学的論考』(1847-1850)から来ている。
リュカが遺伝として主に問題にするのは、神経症や精神疾患であり、そうした疾患は主に母親から遺伝するとされた。

実際、この学説が「ルーゴン・マッカール叢書」全体を貫いている。

B. 系統樹の要素

全ての始まりには、アデライド・フークがいる。
彼女は1768年生まれ。父親が精神的な疾患のために死亡したこともあり、アデライードもそうした気質を受け継いでいる。
18歳の時、ルーゴンと結婚するが、彼の死後、マッカールと暮らす。
第二帝政の始まる直前の1851年、彼女は発狂し、レ・テュレットの精神病院に入院。
1873年、第二帝政が終わりを告げた後、103歳で脳充血のために死亡。

a. ルーゴン家

アデライドは、鈍重だか温厚な庭師ルーゴンと結婚し、ルーゴン家の始まりとなる。
二人の間には、ピエールという男の子が生まれ、ピエールからは5人の子どもが生まれ、さらに次の世代へと引き継がれていく。

ルーゴン家の人々は、権力と金銭への欲望に動かされ、『獲物の分け前』『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』『金(かね)』といった小説の中心を占める。
また、叢書を総決算する20巻目『パスカル博士』のパスカルも、ルーゴン家の一員である。

ルーゴン家に関する小説は、どちらかと言えば、資産家階級の社会を中心に展開し、金銭に対する貪欲さと権力に対する指向が、社会を動かすメカニスムの原動力となっている。

b. マッカール家

アデライドは、ルーゴンの死後、アルコール中毒患者で暴力的なマッカールと暮らすようになる。二人の間には、アントワーヌとユルシュールという男女の子どもが生まれる。

「マッカール家」

アントワーヌ・マッカールには、二人の女の子と一人の男の子ができる。
息子ジャンは農民であり(『大地』『壊滅』)、娘リザ(『パリの腹』)はパリの中央市場で大きな肉屋を営む。もう一人の娘はジェルベーズ(『居酒屋』)で洗濯女。三人とも労働者階級に属し、ルーゴン家とは対照的な存在である。

ジェルベーズは、オーギュスト・ランティエとの間にクロード(『作品』)、ジャック(『獣人』)、エティエンヌ(『ジェルミナル』)という三人の男の子を産み、ランティエの失踪後、クポーとの間にアンヌ(『ナナ』)という女の子ができる。

彼らは、精神疾患は母親から後の世代に遺伝するというプロスペル・リュカの理論を最も生き生きと肉付けする人物たちであり、アデライドから伝えられた負の遺伝的要素を強く持ち、欲望の対象はしばしば酒や快楽に向けられる。
そのために、産業革命が進み、資本主義経済が社会に浸透していく中で、淘汰される対象となり、社会の底辺をうごめく存在となることが多い。

「ムレ家」

ムレ家は、ユルシュール・マッカールがムレと結婚し、3人の子が生まれるところから始まる。
娘の一人シルヴェールは、叢書の第1巻『マッカール家の運命』で、アデライドの世話を受ける少女として登場する。

男の子フランソワ・ムレは、親類関係にあるピエール・ルーゴンの娘マルトと結婚するが、最後は気が狂い、自宅に火を放ち焼死する。(『プラッサンの征服』)

彼らの息子オクラーブ・ムレは、パリで百貨店を始め、成功を収める。(『ごった煮』『ボナール・デ・ダム百貨店』)
もう一人の息子セルジュは神父となるが、野性的な少女アルビーヌを愛することで、愛と信仰との板挟みで葛藤する。(『ムレ神父のあやまち』)

ムレ家の人々にも精神的な破綻が顔を覗かせるが、社会的な階層でいえば、ルーゴン家とマッカール家の中間にあり、ブルジョワ社会を描き出す存在だといえる。

C. 現代生活の悲劇と生命の動き

「ルーゴン・マッカール叢書」を構成する小説のほとんどは悲劇的な結末を迎える。
その理由は、ゾラの科学主義がダーウィン的な進化論に基づき、精神疾患やアルコール中毒の遺伝が自然淘汰される種の側に位置する人間を造り出すからである。
マッカール家の人々だけではなく、マッカール家の人々もその決定から逃れることができない。そのために、ゾラの小説は図式的で、1880年に発表した「実験小説論」の応用に過ぎないといった批判が提出されることもあった。

しかし、一人の人間の人生が遺伝と環境によって決まると考えたとしても、古典的な悲劇の中で、運命が予め決められている主人公と同じことになる。
ゾラの小説を現代生活における悲劇と見なせば、物語が常に暗転することを機械的で決定論的すぎると非難することは意味がない。

そして、悲劇の美が、予め決められた運命に必死に抵抗する主人公の心と行動から生まれてくるとしたら、ゾラの主人公たちにも同じことが言える。
彼らは遺伝として伝えられたアルコール依存、暴力、精神の病などに必至に抵抗し、意志の力で与えられた環境の中を生き抜き、できればその環境を変えようとする。
その個人の「生(せい)」の動きに読者は心を動かされ、辛く悲しい物語だとわかっていても、小説を読み進めることになる。

その争いの場としてエミール・ゾラが選んだのが、第二帝政という時代だった。
19世紀後半の約20年を占めるその時代(1852-1870)、資本主義経済が社会に浸透し、労働者の貧困が大きな問題となっていたことは、カール・マルクスの名前を思い出すだけで理解できる。
富裕層、市民、労働者という階層の違いにかかわらず、様々な野心や欲望がぶつかり合い、社会生活は情念の坩堝といった状態だった。
ルーゴン家の中にも、マッカール家の中にも、敗残者だけではなく、成功者もいる。民主主義の時代には、様々な可能性が残されている。だからこそ、葛藤が多くなり、激しくなる。

そこでは、一人一人の人間が、自分の「気質」に従って欲望を実現しようとし、「遺伝」と「環境」という決定論的な要素によって定められた目に見えない運命と戦い、葛藤を繰り返す。
その葛藤にこそ人間の「生命」が感じられ、それがゾラにとっては「真実」であり、彼の描き出そうとしたものだった。

生(vie)の息吹

ゾラの目指した文学が、科学を土台としながらも、「生(せい)」の動きを伝えることだとしたら、彼はそれをどのように実現しようとしたのだろうか?

A. 俗語の使用

ゾラは、自分たちの時代を生々しく伝えるために、普通は文学で用いない言語である俗語を用いた。
それが19世紀後半の読者に与えた生(なま)の感覚は、翻訳では伝えることができないし、現代のフランス人にとっても、その感覚を捉えることは難しいかもしれない。

現代の日本であれば、次のような言葉から俗語の感覚が摑めるかもしれない。
「今日はチルるつもり!久しぶりの休みだから。」
「 “ドライブ・マイ・カー” 見た? 飛ぶぞ。」
こうした言葉に触れている若者であればピンとくるが、そうでなければ感覚が伝わらない

ゾラが使った俗語の典型的な例が、『居酒屋』の題名である« L’Assommoir ».
この言葉は「殴り倒す、打ち殺す」を意味する動詞« assommer »から派生した名詞で、「先端に鉛の玉のついた棍棒」が本来の意味であり、殴られた結果として「悲惨な結果をもたらす突然の出来事」を意味することもあった。
そして、19世紀の一般的な辞書には、「酒場」という意味は登録されていない。

そこで、ゾラが参照した俗語辞典(アルフレッド・デルヴォ『青臭い言葉の辞典』1866)を見ると、Assommoirはパリの下町だった「ベルヴィルの一軒の酒場の名称」であり、それが「低級な酒場の総称になった。そうした店で民衆は、頭をクラクラさせる偽造酒を飲む」という定義がなされている。

 L’Assommoirという小説の題名を目にした当時の一般の読者たちは、私たちが「チル」は「くつろぐ」、「飛ぶぞ」は「ハイな気分になる」という意味を説明されるのと同じような気分だったに違いない。
他方、俗語を日常使用していた読者たちにとっては、assommoirという言葉が自分たちの現実をヴィヴィッドに感じさせたに違いない。

こうした俗語の使用は、題名だけではなく、『居酒屋』の本文でもふんだんに見られる。
残念ながら、それが生み出す効果は、日本の読者にも、多くの場合にはフランス語を母語にする現代の読者にも伝わってこないのだが、しかし、俗語を使うことで、小説で描かれる情景にゾラが生々しさを吹き込もうとしたことは頭に入れておきたい。

B. 遺伝と環境に抗う慎ましい願い

『居酒屋』の主人公ジェルベーズは、アデライド・フークの孫。
一族の故郷であるプレサンで暮らしている時にオーギュスト・ランティエとの間に二人の子どもができ、彼らを連れてパリで暮らし始める。しかし、ランティエは家族を残して、別の女と家を出て行ってしまう。
その後、彼女は洗濯女として働き、真面目なブリキ職人クーポーと出会い、暴力を振るわないという約束を信じて彼と結婚する。二人は懸命に働き、アンナという女の子も生まれ、ジェルベーズの念願が叶い、洗濯屋の店を持てるところまで生活が好転する。

こうした状況は、ジェルベーズが遺伝と環境による決定に抗い、自分では意識していないとしても、運命を変えようとして必死に生きていることを示している。
しかし、古典悲劇と同じように、彼らの運命は、クーポーが仕事中に屋根から墜落するところから、あっという間に暗転する。二人とも酒に溺れ、貧困の中で悲惨な死を迎えることになる。

こうした大まかな展開を知った上で、ジェルベーズとクーポーが、コロンブ親爺のアソモワール(居酒屋)で初めて食事をする場面を読むと、ジェルベーズが決して情念の生理学や遺伝の研究に則って描かれた図式的な人物ではないことがはっきりと感じられる。
彼女には小さいながらも強い望みがあり、それを目標に生きているのだ。

二人は、アルコール漬けのプラムを一緒に食べている。

「ああ!お酒を飲むのってだめだわ!」と彼女は小さな声で言った。そして、こんなことを話した。以前、プラサンにいる頃は、母親と一緒にアニス酒を飲んだものだった。でも、ある時、それで死にそうになり、こりごりした。それ以来、酒を見ることもできない。
「ほらね。」と彼女はグラスを見せながら付け足した。「プラム、食べちゃった。でも、ソース(酒)は残すわ。飲んだりしたら気分が悪くなりそう。」
クーポーも、みんながたっぷり注いだウイスキーをかぶ飲みする奴らを理解できなかった。プラムをつまむのは悪くない。でも、ヴィトリオル(酒)やアプサントとか、それ以外の豚野郎(安酒)どもとは、おさらばだ! そんなものは必要なかった。友だちたちが彼をからかっても無駄だった。彼が扉のところにいる時に、シュラール(酔っ払い)たち、ミーヌ・ア・ポワーヴル(酒場)に入って来た。(中略)クーポーは最後にこう言った。
「俺たちの仕事は、足が丈夫じゃなくちゃいけない。」

まず指摘しておきたいのは、ゾラがこの場面で、俗語を取り入れていること。酒を意味するソースやヴィトリオル、酔っ払いを意味するシェラール、酒場を意味するミーヌ・ア・ポワーヴィル(胡椒の鉱山)と、俗語は全てアルコールに関係している。
すでに指摘したように、それらの言葉によって、低級な酒場であるアソモワールの雰囲気が、当時の読者にはひしひしと伝わったに違いない。

そうした雰囲気の中で、ジェルベーズとクーポーは、自分たちの遺伝子の中にアルコール依存症が入っていることを自覚し、ジェルベーズは実際に飲み過ぎて死にそうになった経験もあり、酒を飲まないように用心していると語り合う。
遺伝と環境に対する抵抗が、彼らの口から語られているのである。

しかし、その一方で、ゾラはそんな抵抗が意味を持たない可能性も暗示している。
彼らは、酒場にいて、一緒にアルコール漬けのプラムを食べている。酒を避けるといいながら、酒を飲む場所にいるのだ。

そこで、ジェルベーズは、プラムは食べたけれど、ソース(酒)は残したと言う。
この言葉は、彼女が科学的な仮説を証明するだけの骸骨のような存在ではなく、命の通った一人の女性であると感じさせる。

最後に、彼女は以下のような望みを口にする。

「ほんとだって!私って欲張りじゃないの。大したことを望むわけじゃない。理想はね、何事もなく働くこと、いつでもパンが食べられること、小さくてもこぎれいな眠る場所があること、わかって、ベッドとそれからテーブルと椅子二つ。それ以上はいらない・・・。ああ!子どももちゃんと育てたい。できればいい立派な大人になってほしい・・・。もう一つ理想を言ってよければ、いつか結婚したとして、ぶたれないこと。いやなの、ぶられたくないの・・・。えーと、それが全部、わかってくれる、それで全部・・・。」
彼女は自問し、望むことを色々と考え、それ以外には何も見つけなかった。しかし、ためらった後、また話し始めた。
「そう、人間って、最後になって望むのは、ベッドで死ぬことだわ・・・。私は一生懸命に人生を生きた後、ベッドで死にたい、自分の家で。」

ジェルベーズの理想は、普通の人間の普通の願いにすぎない。普通に働き、食べることができ、こぎれいな場所で眠ること。
できれば、二人の子どもをそれなりに育て、立派な大人にしたい。
もう一つは、当時の民衆の女性であればごく普通だったかもしれないこと、つまり、暴力を振るわない男と結婚したいと願う。
子育てと夫の暴力の部分は、動詞の時制が条件法になっているので、できればそうありたいと思うが、彼女にとっては高望みだ感じられていたのかもしれない。そこからは、彼女の置かれた生活環境と、彼女の人柄が直に伝わってくる。

最後に彼女はもう一つだけ願う。それは、自分の家のベッドの上で死ぬこと。
小説の結末は、彼女のこの願いを打ち砕くものになっている。クーポーは事故で怪我をした後から酒浸りになり、ジェルベーズも同じように酒に溺れる。
最後はアパルトマンの部屋から追い出され、階段下の隙間で死を迎える。そして、異臭に気づいた住人によって発見される。

結局、遺伝と環境が彼女の慎ましい願いに打ち勝つ。その戦いの結果は、アソモワールの奥に置かれた酒の蒸留器(アランビック)が予告している。

彼女は立ち上がった。クーポーは、彼女の望むことに強く頷いていたが、時間の心配もしていた。しかし、二人はすぐに店から出て行かなかった。彼女は店の奥の方で、オーク材の囲いの後ろに置かれたものを見に行きたかったのだ。赤い銅の蒸留器が、小さな中庭に面した明るいガラス窓の下で動いていた。ブリキ職人は彼女の後ろについて行き、それがどうやって動くか説明した。その器具の様々な部品を指さし、巨大な蒸留の管を示した。そこからアルコールの透明な流れが滴り落ちていた。

ジェルベーズもクーポーも、酒を拒否しながら、しかしすぐに居酒屋から出て行かず、用もないのに店の奥に引き寄せられてしまう。そこには、酒の源流となる蒸留器が置かれ、アルコールの透明な流れが流れ出している。

ジェルベーズは決してその流れに逆らうことはできない。それは予め決まっている。しかし、彼女はそれとは知らずに、あるいはその流れを変えようとして、慎ましい願いを実現しようと努める。
その戦いこそがジェルベーズの「生」の証であり、ゾラが作り出そうとした「生」の動きだと考えることができる。

C. 理想と現実の「生」

「生」が理想と対立して描かれることもある。

ゾラは何よりも「真実」を追求したが、彼にとってそれはプラトニスム的なイデア(理想)や規範にではなく、人間が生きる「現実」に見出すものだった。
そうした理想と現実の「生」の対立が、小説の展開の中で描かれることもある。

ジェルベーズとクーポーの間に生まれたアンナは、ナナという名前で女優としてデビューする。彼女の演じる芝居は『金髪のヴィーナス』。つまり、神話の世界で劇が展開する。

その時、舞台の奥で、雲が開け、ヴィーナスが姿を現した。ナナは、とても背が高く、18歳にして肉付きがよく、女神のまとう白い上着を着、長い金髪を肩の上で簡単に結い、舞台の前の照明に向かって下りてきた。静かに落ち着いた様子で、観客に微笑みかけていた。そして、長いアリアを歌い始めた。

ヴィーナスが、夕方、彷徨うとき・・・・

二番目の詩句が始まるとすぐ、観客席の人々は顔を見合わせた。冗談だろうか、劇場支配人ボルドナブがなにか挑戦を挑んでいるのだろうか? これまでに音程がひどく、テクニックなしで歌われる声が、ここで聞かれることは決してなかった。

舞台の上で観客が目にするのは、劇の中の女神ヴィーナスだが、生身のナナでもある。

ヴィーナスの歌はひどくて聞くに堪えないが、ナナの肉体の魅力は魅力的。そして結局、観客はナナを賞賛することになる。
従って『ナナ』のこの場面は、女神という理想像ではなく、現実に生きる女性を選択する世界観を表現していると考えることができる。

そ選択が読者に委ねられることもある。
ジェルベーズとランティエの息子クロードが画家として苦悩する姿を描いた『作品』の最後は、その場面は置かれている。
クロードの妻クリスティーヌは、夫が夢中になって描く「女性」という理想像に嫉妬し、「女性」と自分のどちらを選択するのかと迫る。

「ねえ、よく見てったら! あなたが今どうなっているか言ってみて! あんな絵、おぞましいわ、嘆かわしくて、グロテスク。あなたはそれに気づかなくちゃいけない! わかっている? 醜くて、馬鹿げてるでしょ? ・・・ あなたは負けたの。それなのにどうしてまだやり続けようとするの? そんなのまっとうじゃないわ。だから私、怒ってるの・・・。立派な画家でなくたって、私たちには生が残っている。そうよ! 生よ、生よ・・・。」
彼女は梯子の段の上にロウソクを置いていた。彼が下りてきて、よろけたので、彼女はおお急ぎで彼の方に走ってきた。二人とも梯子の下で、彼は一番下の段の上で転んでいて、彼女は腹ばいになり、彼のぶらっとした手を力一杯握りしめた。
「ねえ、生があるよの・・・。悪夢を追い払って、生きましょう、一緒に生きましょう・・・。」

クリスティーヌの目には、クロードが追い求める「女性」は、生命に欠け、単なる外観でしかなく、見知らぬ宗教の偶像のようにしか見えない。

「ほら、比べてみて。私、彼女より若いわ・・・。あなたがあの女の肌に宝石を付けてやったってだめだったのよ。あれは萎れている。乾いた葉っぱみたい・・・。でも私はずっと18歳。だってあなたを愛してるんだから。」

こうした言葉にもかかわらず、理想を求めるクロードは、大きな梯子の上で首を吊って自殺してしまう。彼の前には、失敗した作品、つまり「女性」があった。

この挿話では、クリスティーヌによって「生」という言葉が何度も繰り返され、理想との間で選択が迫られる。
芸術家はどちらを選ぶべきなのか?
その答えは、クロードの死をどのように考えるかにかかっている。

伝統的な芸術観では、理想を追い求めることが芸術の本質と見なされていた。
しかし、19世紀後半になると、「生」を捉えることが芸術の在り方という芸術観が成立しつつあった。
その場合には、クロードはクリスティーヌを選ぶ画家であったもよかったことになる。

『ナナ』と『作品』の二つの例からだけでも、ゾラが「生」に焦点を当て、小説の中で自分の芸術観を伝えようとしていたことが明かになる。

D. 大地の「生」

ゾラは物質主義的で、全てが予め決定され、人間味のない小説世界を作り上げたという非難が浴びせられることがある。確かに物語を追っていくと、主人公たちの人生は暗転するばかりで、救いがないことが多い。

しかしゾラが追い求めたものが「生」の表現だったとわかると、彼の世界では物質さえもが生命を持つように描かれていることに気づく。

『ジェルミナル』の冒頭、ジェルヴェーズの息子エチエンヌ・ランティエは、職を求めて、北フランスの炭坑街モンスーにやってくる。

平らな平野の中、星もなく、インクのように黒くあつぼったい夜、一人の男がマルシエンヌからモンスーに向かう街道を歩いていた。そこでは石畳が10キロも真っ直ぐに続き、カブの畑をつききっている。(中略)
彼は1時間前から歩き続け、モンスーから2キロのところで、左手に赤い炎を目にした。3つの松明が広場で燃え、空中に吊る下がっているようだった。最初怖くてためらったが、次の瞬間には、少しでも手を温めたいという苦痛に満ちた欲求に抗うことができなかった。

最初に一人の男に言及され、彼が大きな道を歩いていく場面は、語り手によって客観的な記述がなされている。
ところが、エチエンヌが赤い炎を目にするところから、描かれる光景は彼の視線が捉えるものになる。そして、以下の描写になると、はっきりと見える部分と、おぼろげにしか見えない部分ができ始める。

一本の窪んだ道が地面を下っていた。全てが消え去った。男の右には防御柵があった。大きな板で作られた壁のようなもので、鉄の線路を閉ざしていた。左側には草の生えた土手があり、上には建物の混乱した壁が乗り、低い屋根の続く村のような様子をしていた。200歩ほど進んだ。すると突然、道の角を曲がったところで、彼の近くに再び火が見えた。だが、彼には、死んだような空の下、どんなふうにして、火がこれほど高く燃え上がるのかわからなかった。それは煙った月に似ていた。

防御柵、鉄の線路、草の生えた土手ははっきりとした輪郭を保っている。その一方で、土手の上のある建物の壁は混乱している。
さらに進んだところでは、死んだ様な空が覆い、その下で炎がどうしてそれほど高くまで燃え上がっているのか、エチエンヌにはわからない。
こうして、描かれる景色に一人の人間の主観が加えられていく。

地面すれすれのところに、彼の眼を止めるものがもう一つあった。重々しい巨大な塊で、いくつかの建物がぐしゃとつぶれたものだった。そこから、工場の一本の煙突のシルエットがぬくっと立っていた。わずかな炎が汚れた窓から出ていた。五つか六つ悲しげなランプが、外に作られた木の骨組みに引っかかっていた。その木組みの黒ずんだ板が、巨大なトレット(砂利や泥を捨てるための背の高い建物)の輪郭をおぼろげに描き出していた。そして、闇と煙に覆われたその幻想的な姿から、ただ一つの声が立ち昇ってきていた。蒸気が吹き出す太くて長い呼吸だ。ただし、蒸気はほとんど見えなかった。

最初に、ゾラが炭鉱で使われる特殊な用語であるトレット(背の高い建物)を使い、俗語と同じ効果を出していることを指摘しておこう。

エチエンヌが初めて見るこのモンスーの鉱山は「幻想的な姿」をした怪物であり、「呼吸」している。大地が生きているのだ。

その怪物に「生」を与えるため、ゾラは、無性物である地面に生物に用いる言葉を使っていく。
煙突の「シルエット」、「悲しげな」ランプ、ただ一つの「声」、そして「呼吸」。
その過程を通して、無性物の世界と生物の世界の境がおぼろげになり、炭鉱の混乱した世界が「幻想的」な様相を帯びる。「自然」は「呼吸」する生きた存在となる。

ゾラは、「演劇における自然主義」の中で、「文学における自然主義とは、自然と人間への回帰、厳密な解剖学、存在するものの観察と描写である。」と述べているが、『ジェルミナル』のこの一節は、まさにその主張と対応した描写だといえる。


「ルーゴン・マッカール叢書」の骨組みを構成するのは、情念の生理学や遺伝と環境による決定論であり、その点でエミール・ゾラは、19世紀後半の実証主義や科学主義に基づく小説を構想したと考えても間違いではない。

しかし、それと同時に、科学では捉えきれない「生」の動きを感じ取り、「生」の息吹を小説の中に吹き込んだことも確かである。
俗語や専門用語を用いる言語表現、遺伝と環境の決定に抗おうとする登場人物たちの慎ましい願い、抽象的な理想と具体的な現実の前での葛藤、無性物と生物の境を超えた「自然」。
こうした要素を通して、ゾラは小説の中に生命感のある世界を創造したのだった。
だからこそ、例えば、ジェルベーズの姿が21世紀になっても、リアリティを持って読者の心を打つ。


エミール・ゾラの作品

『居酒屋』古賀照一訳、新潮文庫。

『ナナ』川口篤, 古賀照一訳、新潮文庫。

『制作』 (上・下)清水 正和訳、 岩波文庫。

『ジェルミナール』河内清訳、中公文庫。

『文学論集 -1865-1896』宮下志朗・小倉孝誠編集責任、藤原書店。

『美術論集』宮下志朗・小倉孝誠編集責任、藤原書店。

「実験小説論」河内清訳、白水社。

参考

アンリ・ミットラン『ゾラと自然主義』佐藤正年訳、白水社 (文庫クセジュ) 。

小倉孝誠『ゾラと近代フランス  歴史から物語へ』白水社。

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