シャルル・ボードレール 新しい美の創造 1/5 『悪の華』の出版まで

シャルル・ボードレールは、19世紀後半以降の詩および芸術に最も大きな影響を及ぼした詩人だと言っていい。

彼は1821年に生まれ、青春時代にはロマン主義に熱中し、ロマン主義的な美を追い求めた。
その後、1850年を過ぎる頃からは、ロマン主義に基づきながらも、それまでとは異なった美を模索し、新しい美を生み出すことになった。

古典主義やロマン主義において、美しいものと美しくないものは明確に区別されていた。
古典主義では理性に従い、ロマン主義では感情を中心に置きながら、古代ギリシア・ローマから続く美の基準はそのまま保たれていた。
ロマン主義を主導したヴィクトル・ユゴーは、『ノートルダム・ド・パリ』の中で、エスメラルダとカジモドを対照的に配置し、美と醜の対比によって美の効果を高めようとした。その中で、エスメラルダが美、カジモドが醜という基準は変わることがなかった。

それに対して、ボードレールは、「美は奇妙なものだ」とか「美は人を驚かせる」といった表現で示されるように、それまでは美の対象ではなく、むしろ醜いとされてきたものを取り上げ、「美」を生み出そうとした。
そのことは、『悪の華』という詩集の題名によってはっきりと示されている。テーマは「悪(mal)」であり、「華(Fleurs)」は「美」の表現である「詩」を意味する。

彼にとって、醜と美の基準を変更し、卑近な現実を永遠の美とするものが、「近代的(モデルニテ)な美」だった。
そして、ロマン主義的な美からモデルニテの美へと進む過程で、現実と理想(イデア)という二元論的な世界観から離れることになる。
芸術家によって創造された世界は、現実を素材としながらも、現実から自立し、それ自体で独自の生を有する。ボードレールは、そうした新しい世界観を作り出す第一歩を踏み出したのだった。

地図や版画の大好きな子ども

シャルル・ボードレールは、1821年4月9日に生まれた。
同じ年には、『ボヴァリー夫人』の作者ギュスターヴ・フロベールや、文学におけるレアリスム(写実主義)の主導者であるシャンフリーも生まれている。

1820年代、フランスではロマン主義の運動が勃興し、古典主義と激しい戦いを繰り広げ、最終的に、ヴィクトル・ユゴーを中心にした若いロマン主義者たちが勝利を収めた。
その姿は、1830年の7月革命を描いたドラクロワの「民衆を導く自由の女神」によって象徴されている。

その後、文学史的な視点からは、ロマン主義は、1843年に上演されたユゴーの芝居『城主たち』の失敗を機に下火になったとされている。

そうした流れを見るだけで、1820年前後に生まれた人々にとって、青春時代がロマン主義芸術一色に埋め尽くされていたことがわかるだろう。

ボードレールもその中の一人だが、その一方で、彼が生まれた時にはすでに62歳になっていた年老いた父親から、18世紀の古典主義的な趣味を受け継いでもいた。
韻文詩「旅」は、「地図や版画の大好きな子どもにとって、/ 宇宙は、彼の旺盛な食欲に等しい。/ああ! 世界は、ランプの光の下で、何と大きなことか!」という詩句で始まるが、実際、子ども時代のボードレールは、骨董品や絵画などに囲まれ、幸福な時を過ごしたものと思われる。

しかし、その幸福は、彼が6歳の時、終わりを告げる。
1827年に父親が亡くなり、翌1828年、母カロリーヌ(旧姓デュフェー)が軍人のジャック・オーピックと再婚。それは、幼いシャルルにとって、母との間に一人の男性が入り込むことであり、とりわけ義父の軍人的な生活や思考は、彼が成長するにつれ、強く反発するものとなっていく。

1831年、オーピックがリヨンに配属されることになり、シャルルもリヨンの学校に通うようになる。
1836年、15歳の時に一家とともにパリに戻り、名門のルイ・ル・グラン校に転入する。その頃の彼は、孤独で人とあまり触れ合わず、ロマン主義精神の先駆者であるシャトーブリアンの小説『ルネ』に熱中していた。

1839年、18歳の彼はリセの最終学年にいる時に教員と問題を起こし、ルイ・ル・グラン校を退学させられてしまう。
そのために別のリセで卒業認定を受け、パリ大学法学部に入学する。しかし、法律の勉強には向かわず、反ブルジョワ的なボヘミア生活を送る若い芸術家たちに混じり、アルコールに溺れ、ガス燈の下に立つ売春婦を買うような生活を送る。

そんな放蕩生活から遠ざけるため、彼の家族は、1841年6月、ボードレールをインドのカルカッタに向かう船旅に出発させる。しかし、20歳の青年は、憂鬱な様子で船室に閉じこもり、レユニオン島に帰港した機会を利用して船を下り、11月になるとフランスに帰国する船に乗船する。

彼にとって、現実の旅は強いられたものでしかなく、幼い時に地図を見ながら夢見た旅ではなかった。想像力が生み出す夢の旅は、後年、詩の力によって甦ってくることになる。

1842年2月にパリに戻ったボードレールは、4月9日に成人に達する。そこで、亡き父の遺産を自由に使えるようになると、サン・ルイ島に住み、高級な家具や絵画を収拾し、エレガントな服に身を固めたダンディスムを追求し、女優ジャンヌ・デュバルを愛人とするといった生活を始める。

ブルジョワの社会道徳からかけ離れたそうした姿勢は、ボードレールによれば、本能や自然さを制御し、自発性を拒否して、自己をコントロールするという、生活美学に基づくものだった。

しかし、そうした生活は多大の出費を伴うものであり、1844年、オーピック夫妻は息子を禁治産者にして、遺産を自由に使えないようにしてしまう。それは放蕩息子にとって「恐ろしい卑しめ」に感じられた。

美術批評家から『悪の華』の詩人へ

A. 美術批評家

1845年、ボードレールは、母の旧姓を加えたボードレール=デュフェーという名前で、官製美術展に出品された作品を紹介する『1845年のサロン』を出版する。この本が、彼の出版活動の最初の作品だった。

翌年、再び、サロン評である『1846年のサロン』を出版する。
前年のものは、歴史画、肖像画、風俗画、風景画、デッサンと版画、彫刻といったジャンル分けに基づき、それぞれのジャンルについて画家たちの作品を紹介するといった、ごく一般的なサロン批評の形式を踏襲していた。
それに対して、『1846年のサロン』は、ドラクロワを中心に置き、次に見ていくようなボードレール自身の「美学」を展開した。

(1)「ロマン主義とは何か?」

この問いかけは、1840年代においてボードレールの考える美が、ロマン主義を基盤としていることを示している。
そのロマン主義の本質は次のように定義される。

ロマン主義と言えば、現代芸術と言うことになる。つまり、内密性、精神性、色、無限への憧れ。

「内密性」、「精神性」は、人間の内面に主眼が置かれることを示す。
「無限への憧れ」は、現実を超えた次元、プラトニスムのイデア界を目指す動きを意味する。
「色」に関しては、ドラクロワの絵画を通して、線を中心にした絵画との対比の中で説明される。

(2)色彩の画家ドラクロワ

ボードレールは、ドラクロワを「現代芸術」の主導者であると見なす。

人間が自然(現象世界)を見る時、「形」で捕らえることもあれば、「色」を取り出すこともある。
絵を描く場合、形は「線」で作り出す。線は物の細部まで描き出し、繊細な形を浮き上がらせることができる。しかし、光や空気を描くことはできない。
それに対して、光や空気を担当するのが、「色」。画家は、画筆の色のタッチによって、光の効果や空気感を伝える。

ドラクロワにとって、自然とは巨大な辞書である。彼は、その1枚1枚を、確かで深みのある眼差しで、展開させ、参照する。

辞書をそのまま「再現」しても、辞書でしかない。つまり、画家が自然を模倣し、再現しても、絵画にはならない。
画家は、自然という素材を自分の「気質」に応じて感じ取り、そこから得た素材を組み合わせて一つの構築物として、1枚の絵を創造する。
その「気質」は、「線」による形ではなく、「色」を通して表現される光や空気感を通して、観る者に感じられる。

ドラクロワが「現代派」の主導者と見なされるのは、彼が色彩の画家であることによる。

(3)現代生活の英雄性

古典主義において、描かれる対象は神話、宗教、古代の歴史などであり、不死の英雄たちの姿を永遠の美として描き出すことが課題だった。
そうした中で、19世紀に入り、バルザックの『人間喜劇』の作品群のように、自分たちの生きる身近な社会を対象とした作品が作られるようになった。
ボードレールが「現代芸術」という言葉を使う時、19世紀の社会を対象としていることが前提にされている。

その社会は、産業革命が進み、都市に貧しい労働者たちが密集し、美の対象とはほど遠い光景が広がっていた。
理想とは正反対の、全てが移ろい易く、空しい生の現実。そんな「現代生活」を描きながら、しかしそれを不死の英雄たちの美に匹敵する、永遠の美へと昇華させること。それが「英雄化」である。

あらゆる美は、潜在的な全ての現象と同じように、永遠なものと束の間のもの、— 絶対的なものと固有なもの、を内蔵している。絶対的で永遠の美は存在しない。あるいは、そうした美は、様々な美の表面全体からいい部分だけを取り出した抽象的なものにすぎない。それぞれの美の固有な要素は、熱情(パッション)に由来する。私たちは固有の熱情を持っているために、私たちの美を有している。

「絶対的で永遠の美」が存在するとしたら、それはイデア界であり、現実には存在しない。その上、そうした美を想像しても、抽象的なものにすぎない。

それに対して、時間の流れとともに全てが変化する現実生活は「束の間」ではあるが、個々の人間にとって「固有なもの」であり、一人一人の「熱情(パッション)」を宿している。
(引用した文では書かれていないが、絵画においては、「色」がパッションを表現する。)

以上のように見てくると、『1846年のサロン』の美学が、19世紀の社会の現実を素材として、古典主義の美に匹敵する美を生み出すことを中心的な課題にしていることがわかる。

そして、その課題を、ボードレールは詩の世界で実践しようと試みたのだった。

B. 詩人への道

この時期、ボードレールは、美術批評の出版だけではなく、様々な新聞や雑誌に皮肉の効いた記事を書いたりしていたが、その間も常に詩集の出版を考えていたらしい。『レスビエンヌ』という題名の詩集の出版予告が何度か出ていることから、彼の意図が推測できる。

ただし、少数の詩がいくつかの雑誌に掲載されるだけで、なかなか詩集は出版されず、ボードレールが詩人として広く認識されることはなかった。

やっとある程度まとまった数の詩を発表するのは、1851年になってから。「煉獄」という総題の下で、11の詩が「議会通信(メッサジェ・ドゥ・ラサンブレ)」という政治新聞の下段に掲載された。

そこで表現されているのは、1848年の2月革命における共和主義に対する熱狂と、その後に続く抑圧的な政治権力の復活という現実を体験したボードレールの、倦怠や現実への嫌悪感。「ル・スプリーン(憂鬱)」と題された3つの詩、「芸術家の死」「恋人たちの死」、「嫌悪の樽」といった題名が並んでいる。

同じ時期、1851年の終わりから1852年の始めに、テオフィル・ゴーチエが編集責任者をしていた「パリ評論」という文芸雑誌に12編の詩を送っている。しかし、その中から採用されたのは1編だけ。

12編の中に含まれていた「大都市の2つの薄明」と題された詩は、パリの街の朝と夕方の情景を題材とし、「現代生活の英雄性」に真正面から取り組んだ詩だが、「パリ評論」では不採用に終わり、「演劇週間」というマイナーな雑誌にしか掲載してもらえなかった。

1855年になり、良識派と呼ばれる人々を読者とするメジャーな総合雑誌「両世界評論」に、「悪の華」という総題の下、18編の詩が掲載される。

この雑誌に記事が掲載されることは、一冊の本を出版するのと同じ価値があるとみなされ、ボードレールの詩がかなりの評価を得た証拠のようにも思われる。
しかし、「悪の華」という総題に注が付けられ、決して詩の内容に賛同しているわけではないという、言い訳めいた編集部の言葉が記されている。
ボードレールの詩は、自分たちの時代の堕落や苦痛に満ちた精神を独特の仕方でいきいきと表現している例として取り上げたのであり、決して同じ方向に進むことを読者に勧めるわけではない。それが良識派の見解だった。

このように見てくると、ボードレールは、1857年の『悪の華』出版以前、決して広く認められた詩人ではなかったことがわかってくる。

実際、彼の名前は、詩人としてよりも、エドガー・アラン・ポーの翻訳者として知られていた。
そのことは、韻文詩の掲載には前向きでなかった「パリ評論」が、同じ時期に、「エドガー・アラン・ポー 生涯と作品」という紹介文を掲載していることからも推定できる。

ポーとの関係でより重要なのは、ボードレールがアメリカの詩人・作家を「精神的な兄弟」と見なし、自らの美学をポーを通して発見していったことだといえる。
(1)芸術の目的は作品の美。真実、道徳、有用性が目的ではない。(耽美主義)
(2)作品はその中に作品の原理(批評)を含んでいる。
(3)「超自然なもの(surnaturel)」へと向かう精神の動き。

こうした点は、『1846年のサロン』ではまだはっきりと表現されてはいず、ポーの作品と接する間に、ボードレールの中で徐々に明確になってきたのだと考えられる。

C. 『悪の華』裁判

1857年6月21日、100編の詩で構成された『悪の華』が発売される。
そのうちの半数以上はすでに様々な新聞や雑誌で発表済みだったが、ボードレールの意識では、新しい詩も含め、100編で完全な一つの構造体を成す作品だった。

詩集の巻頭には、「読者へ」と題された挑発的な詩が置かれている。

愚かさ、過ち、罪、吝嗇が、
我々の精神を占拠し、肉体を苦しめる。
そして、我々は、愛しい悔恨を養い育てる、
物乞いたちが、害虫に栄養を与えるように。
(中略)
「倦怠(アンニュイ)」だ! ーー 意図せずに流れ出す涙に溢れた目をして、
それは断頭台を夢見る、水ギセルをふかしながら。
読者よ、君は知っている、この繊細な怪物を、
ーー 偽善者の読者よ ーー 我が同類 ーー 我が兄弟よ!

この詩はすでに1855年の「両世界評論」に掲載されたもので、良識派の読者たちの反発をあえて引き起こす意図があったものと思われるが、同様の反応が1857年の詩集に対してもすぐに起こることになる。

7月5日付けの「フィガロ」紙には、『悪の華』の「不道徳さ」を非難する記事が掲載され、「あらゆる精神の狂気とあらゆる心の腐敗に開かれた病院であり、それらを治療しようにも、治癒不可能だ」と断罪される。

それに続き、7月7日には、公衆道徳を乱し、宗教道徳を攻撃する作品という理由で、裁判にかけられる。検事は、同じ年の前半フロベールの『ボヴァリー夫人』を裁判にかけたのと同じエルネスト・ピナールだった。

ピナールは、ボードレールについて、人間の本性の最も秘められた部分まで暴き出し、とりわけその悪の部分を強調し、誇張することで、強い印象を生み出す詩人だと規定した。
その上で、公衆道徳および良俗に対する違反を犯していると考えられる13の詩篇を朗読、それらの猥雑で冒瀆的な傾向を明らかにしようとした。

裁判の結果は、弁護側の主張が受け入れられず、有罪となる。
公衆道徳および良俗を犯している詩句は、猥雑で羞恥心を損なうリアルな記述によって官能を刺激し、読者に有害な結果をもたらす。それが判決の主な理由だった。
そして、6編の詩を詩集から削除することと、ボードレールには300フランの罰金が科せられた。

『悪の華』に対するこうした非難は、1857年の出版当時、ボードレールの詩がどのように読まれていたのかを知る上で大変に興味深い。

彼は同時代の社会の現実から様々な悪を取り上げ、そこから美を生み出そうとしたが、しかし一般の読者にとって、問題となる描写や表現はリアルなものでしかなく、「現代社会の英雄性」はなかなか理解されなかった。
例えば、削除を命じされた詩ではないが、「腐った屍(Une Charogne)」の場合には、道ばたで目にした犬の死体を取り上げ、ハエや蛆などがたかる醜い姿と愛する女性を重ね合わせ、恋愛詩としていく。

ーー でも、いつか君はこの汚物に似てくるだろう。
このおぞましい汚染源に。
わがの目の星よ、わが自然の太陽よ、
君、わが天使、わが情熱よ!
(中略)
その時、おお、美しい人よ、ウジ虫に言ってくれ、
口づけで君を食い尽くすウジ虫に、
ぼくは、形象と神聖な本質を保ったのだと、
分解されたぼくの愛の!

こうした詩が、良識を備えた読者に受け入れられる可能性はほとんどなかったし、現在でも解説がなければ理解されるのは難しいだろう。

ボードレールはそうした反応をわかった上で、新しい詩の可能性を追求したのだった。
つまり、美しいとされるものをより美しく描くことで得られる「美」は、彼らの時代の美としては過去のもの。新しい美は、現代社会の醜い現実をテーマとしながら、永遠の美となっていくもの。
その試みが、1857年の時点では一般的に受け入れられないことが、裁判によって示されたのだった

ボードレールも、一般的な読者たちの不理解は予想していただろう。
彼にとって痛手だったのは、罰金の300フラン以上に、完璧な構造体として構成された詩集から6編の詩を削除しないといけないことだった。
第2版を出版する場合、たんに94編の詩集にするのでは、『悪の華』全体の構成が意味をなさなくなってしまう。

この不幸をボードレールは逆手に取り、数年かけて新しい構造体を構想した。そして、その新しい試みが、彼の美学をロマン主義から大きく前に進める推進力となっていく。

もう一つ裁判によって変化したことがある。
それまで詩人としてそれほど知られていなかったボードレールという名前が広く知られることになり、彼の知名度が一気に上がったのだった。
現代風に言えば、バズる、あるいは炎上することで、認知度が跳ね上がる。
それと同じことが、1857年に、『ボヴァリー夫人』の小説家フロベールや、『悪の華』の詩人ボードレールに起こったのだった。


ボードレールの作品

詩の翻訳は訳者の解釈に基づく日本語表現を読むという側面が強いので、『悪の華』の翻訳はいくつかあるが、どれがいいとは言いがたい。そのために、一応参考まで。

『悪の華』掘口大學訳、新潮文庫。

『ボードレール全詩集(1)』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫。

『ボードレール批評(1)美術批評(1) 』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫。

参考

クロード・ピショワ、ジャン・ジーグレール 『シャルル・ボードレール』渡辺邦彦訳、作品社。

阿部良雄『シャルル・ボードレール 現代性の成立』河出書房新社。

阿部良雄『群衆の中の芸術家 ボードレールと十九世紀フランス絵画』 ちくま学芸文庫。

テオフィル・ゴーティエ『ボードレール』井村実名子訳、国書刊行会。

個人的には、ポール・ヴェルレーヌが1865年に「アート」誌に発表した「シャルル・ボードレール」が、最初にボードレールを知るためには非常にいい紹介文だと思う。日本語訳がないのが残念。

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