
宮沢賢治の「やまなし」は、小学校の国語の教科書に採用されている作品である。しかし、教える側からは、「難しい」「よくわからない」教材だという声が少なくない。
物語は、幻燈機から映し出された二枚の青い映像によって構成されている。最初の場面は五月、次の場面は十二月である。いずれも、川の底に暮らす二匹のカニの兄弟と、その父親との会話を中心に描かれる。
五月の場面では、前半で「クラムボン」をめぐるやり取りが交わされ、後半では、一匹の魚が何かを捕らえ、その魚が今度は鳥に捕らえられるという出来事が話題になる。
十二月の場面では、成長したカニの兄弟が泡の大きさを競い合い、続いて、川へ落ちてきた果物の「やまなし」を追いかける親子のやり取りが描かれる。

物語の筋だけを追えば、「やまなし」はきわめて簡潔な作品である。それにもかかわらず、なぜ教師たちにとって手強い教材となるのだろうか。
ここでは、その理由を、従来とは少し異なる視点から考えてみたい。
字幕付きの朗読を聞くと、文字をたどりながら、賢治の綴る言葉の音の面白さも感じることができる。
(1)なぜ「やまなし」は難しいのか——クラムボンという謎の正体を追わない読み方
私たちは何かを読むとき、そこに書かれていることの「意味」を理解しようとする。それはごく自然な読み方である。しかし、その読み方だけでは十分でない場合もある。
わからないことがあれば、それを何とか解釈し、自分なりに納得できる意味を見いだそうとする。文学作品であれば、登場人物の心理や作品全体の構成を手がかりに、作品が伝えようとしていることを探ろうとする。そして、その答えが見つかれば「わかった」と感じる。逆に、それが見つからなければ、「難しい」「よくわからない」という印象を抱くことになる。
『やまなし』は筋立てだけを見ればきわめて簡潔な童話である。しかし、三匹のカニたちの心理を読み解く余地はあまり多くない。それ以上に大きな問題は、「クラムボン」や「イサド」という固有名詞について、作品の中で説明が与えられていないことである。とりわけ「クラムボン」は大きな謎として受け止められ、それが何であるのかを明らかにしようとする試みが繰り返されてきた。ところが、この童話は、その答えを最後まで示さない。
クラムボンに関する、カニの兄弟の会話を読んでみよう。
二疋(ひき)の蟹(かに)の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳(は)ねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼(はがね)のように見えます。そのなめらかな天井(てんじょう)を、つぶつぶ暗い泡(あわ)が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒(つぶ)泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜(なな)めに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋(いっぴき)の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚(あし)の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻もどって下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢(ゆめ)のように水の中に降って来ました。
波から来る光の網(あみ)が、底の白い磐(いわ)の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影(かげ)の棒が、斜めに水の中に並(なら)んで立ちました。
クラムボンは笑い、跳ね、殺され、そして再び笑う。その間を、一匹の魚が通り過ぎる。二匹のカニはその様子を見ながら言葉を交わす。
「あらすじ」はそれだけである。カニの兄弟が何を感じているのか、魚が通り過ぎることにどのような意味があるのか、ましてクラムボンそのものについても、本文ではほとんど説明されない。
しかし、興味深いことに、これまで実に多くの解釈がクラムボンについて提案されてきた。代表的なものだけでも、アメンボ説、泡説、太陽の光説、母ガニ説、crab(カニ)+bomb(泡)説、さらには賢治の妹トシ子説まである。(参照:http://yamanasi.yoimikan.com/kuramubon.html)
近年では、「無理に解釈する必要はない」という考え方も広まりつつある。それでもなお、「クラムボンとは何か」という問いに答えを求めようとする読者は少なくない。私たちは、わからないものがあると、そのままにしておくことが難しく、そこに一つの意味を見いだそうとしてしまうのである。
。。。。。。
しかし、そうした解釈中心の読み方からは、こぼれ落ちてしまうものがある。それは、「言葉そのものが伝える感覚」と言ってもいいだろう。
カニの兄弟は、単に「わらった」と言っているわけではない。「かぷかぷわらったよ」「跳ねてわらったよ」と語り、しかも同じ言葉を繰り返している。死についても、「死んだ」と「殺された」が反復され、弟は兄にその理由を尋ねる。
また、二匹のいる川底から見ると、水面は「天井」のように感じられ、その上を「つぶつぶ暗い泡」が流れていく。それに呼応するように二匹が泡を吐くと、その泡は「ゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行」く。さらに、魚が去ったあとには、ゆらゆらと揺れる水面から太陽の光が川底へと射し込み、泡や小さなごみが影を落とすことで、光の筋が水中に立ち並ぶ映像が浮かび上がる。
「あらすじ」をたどり、クラムボンの正体を解明しようとする読み方からは、こうした細部を通して読者に伝えられる感覚が抜け落ちてしまいかねない。逆に言えば、宮沢賢治は言葉を通して、意味だけでは捉えきれない生々しい実感を伝えようとしたのではないかと考えられる。
その点で参考になるのは、中原中也が宮沢賢治について記した一節である。中原は、賢治が「もし芸術論を書いたとしたら、述べたであろう事」として、次の言葉を最初に挙げている。
「これは手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が感じていられればよい。
(中原中也「宮沢賢治の世界」「詩園」昭和14(1939年)年8月号)
「これは手だ」という言葉を通して詩人が伝えたいのは、単に「手」という身体の一部ではなく、その手が持つ生々しい実感にほかならない、と中原は考えていたのである。
こうした言葉と実感との関係は、少しわかりづらいかもしれない。中原と近い感性を共有した批評家・小林秀雄は、同じことをより具体的に語っている。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入(はい)って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了(しま)うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗(かつ)て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
(小林秀雄「美を求める心」「学生の友」昭和32年(1957年)2月)
最初に目に入るのは、まだ名前のついていない「何か」である。そして、それを「花」と認識し、さらに「菫だ」と理解した瞬間に、私たちは無意識のうちに、目の前の存在を「菫」という言葉(概念)に置き換え、「わかった」と納得してしまう。
さらに言えば、「花」という言葉自体も、目の前の「何か」をすでに概念化したものである。実際の認識は、「何か」→「花」→「菫」という段階を経ていると考えられる。
ここで小林が強調しているのは、言葉が「わかった」という記号として機能した瞬間に、その対象がもっていた生々しい実感が見えなくなってしまうという、認識の逆説である。
そして、中原も小林も、言葉が対象を理解させる一方で、その対象を直接感じる経験を覆い隠してしまうことを問題にしている。
そうした言葉の性質を踏まえた上で、中原中也は、意味の手前にある実感を伝えることこそが、宮沢賢治の、そして彼自身の詩の本質だと考えたのであろう。
ここで再びクラムボンに戻るならば、その言葉が何を意味するのかを解明しようとすることは、「『手』という名辞を口にする前に感じている手」や、「言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じ」を、むしろ遠ざけてしまうことにもなりかねない。
逆に言えば、無理に「わかろう」とする必要はない。『やまなし』を読む上でもっとも大切なのは、カニの親子の言葉に静かに耳を傾け、三匹とともに川底から水面を見上げ、その場に広がる光や音や動きを、そのまま感じ取ることではないだろうか。
それは、読者が小学生であろうと大人であろうと変わらない。深い理解の土台には、まず感覚的な共感がある。その共感があって初めて、作品は私たちに豊かな意味を開き始める。
『やまなし』という童話も、まずはそのように読んでみることから始めてよいのではないだろうか。
(2)「かぷかぷ」は何を伝えているのか——オノマトペと実感の文学論(中原中也・小林秀雄・井上ひさし)
意味はよくわからないけれど、実感が伝わってくる言葉がある。それは何だろう。
宮沢賢治の作品には、そうした言葉が実に多く使われている。まずは、『風の又三郎』の冒頭で、その効果を体感してみよう。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
「どっどど どどうど どどうど どどう」という音の連なりは、明確な概念としての意味を持つわけではない。それが何を象徴しているのか、あるいは賢治の生い立ちと結び付けて無理に意味づけする必要もない。しかし、この音とリズムに身を委ねてみると、私たちの心には、強い風が吹き荒れる生々しい「感じ」が自然に立ち上がってくる。
こうした表現を日本語では擬音語や擬態語と呼ぶが、ここでは両者をまとめて「オノマトペ」と呼ぶことにする。その性質を理解する上で、国語学者・大野晋の説明はきわめて示唆に富んでいる。
まずものの音の印象を、それに類似する言葉の音で表わす。ポン、ピン、ポンポン、ピンピン、カンカン、ガンガンという擬音語がそれである。次に、ものの状態から受ける印象と、言語の音から受ける印象との共通に頼る「サラサラした紙」とか、「ザラザラした紙」とかいう擬態語もそれである。この二つの表現法は、言ってみれば物事を理性的に分析的に表現する、あるいは普遍的な概念によってとらえるというよりも、むしろその物事の全体の形・印象を分析せずに、そのままひとまとめに受けとり、それに感覚的に反応し、感覚上何らかの脈絡のある言語の音声と結びつけ、物事から受ける感覚をそのまま言語の中に持ち込むという表現方法である。
(『日本語の文法を考える』岩波新書)
オノマトペは、対象を自分から切り離して客観的に分析するための言葉ではない。むしろ、自分の感覚や情緒を対象と重ね合わせながら、その対象から受ける印象を言葉の音へと移し替える表現である。だからこそ、私たちは頭で意味を理解する以前に、その音からある種の実感を受け取ることができる。その感覚は、一つの正解へ収束するというより、読者それぞれの身体的経験を通して立ち上がってくるものだろう。
このオノマトペの性質をめぐっては、近代文学においても興味深い対立が見られる。
三島由紀夫は、『文章読本』の中で、擬音語の本質を「抽象性がないこと」だと述べている。文学言語の抽象性を重んじる三島にとって、擬音語の多用は、作品が構築する自律的な世界を損なう危険をはらむものだった。なぜなら、オノマトペは対象を人間の感覚へ直接伝えることには優れていても、概念を自在に操作するような抽象的な表現とは性質を異にすると考えたからである。
それに対して、井上ひさしは、オノマトペを積極的に評価する立場を取っている。
ある事柄をできるだけ委(くわ)しく、生き生きと、そして具体的に語って、聞き手や読み手を自分のつくった世界に引きずり込みたいなら、擬音語や議題語をどしどし使って構わないのだ。
(『私家版 日本語文法』新潮文庫)
三島の批判にせよ、井上の擁護にせよ、両者が問題にしているのは共通して、音声が読者へ直接働きかける力にほかならない。
そして、この力を宮沢賢治ほど自在に作品全体の表現原理として生かした作家は、日本文学の中でもきわめて稀だろう。彼の詩や童話には、独創的なオノマトペが実に豊かに響き渡っている。
『やまなし』もまた、その例外ではない。作品の意味を考え始める前に、まずそこに響く言葉の音やリズムに耳を澄ませてみるとき、川底に広がる世界は、これまでとは違った姿で私たちの前に現れてくるのである。
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すでに見てきたように、「クラムボンはかぷかぷわらったよ」という兄の言葉において、「笑った」の前に置かれた「かぷかぷ」というオノマトペは、賢治独自のものと思われる。その受け止め方に正解はない。読者それぞれが自らの感覚に従って、クラムボンの笑いを感じればよいのである。
「つぶつぶ」と泡が流れる様子、カニの兄弟が泡を吹くときの「ぽっぽっぽっ」、魚が「つう」と通り過ぎる動き、太陽の光が射し込む瞬間の「パッ」、そして水面の光が「ゆらゆら」と揺れる様子。クラムボンの場面だけでも、実に多くのオノマトペがちりばめられている。そして私たち読者は、それらの響きを通して伝わってくる川底の気配を、ごく自然に受け入れている。
クラムボンの死が話題になっているにもかかわらず、カニの兄弟の会話にそれほど暗い陰が差さないのは、これらのオノマトペが生み出す穏やかで親しみ深い感覚が、川底全体を包み込んでいるからではないだろうか。
これとは対照的に、魚が鳥に捕らえられる五月の場面の後半では、オノマトペの響きも一転して、不安と緊張を呼び起こすものへと変わる。
鳥が水中へ突っ込む瞬間は、「ぎらぎらする」鉄砲玉のようだと形容され、魚の腹は「ぎらっ」と光って水面の上へ引き上げられる。その光景を目にしたカニの兄弟は、恐怖のあまり「ぶるぶる」震えてしまう。その怯えは、「こわいよ、お父さん」という言葉よりも先に、オノマトペの響きを通して読者の身体へと伝わってくる。
しかし、その一方で、金色の光の網は相変わらず「ゆらゆら」と揺れ、泡も「つぶつぶ」と流れ続けている。クラムボンが殺され、魚がカワセミに捕らえられて「こわい所」へ去ってしまっても、川底の世界そのものは何事もなかったかのように静かに営みを続けていく。そのことが、読者には文字どおり「実感」として手渡されるのである。
悲劇や脅威が不意に訪れようとも、カニ親子の営みを包む世界の穏やかさは、その底流において失われることがない。私たちは、その変わらぬ世界の息づかいにどこか安堵しながら、「やまなし」の世界へと引き込まれていくのではないだろうか。
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後半の十二月の情景に移ると、成長した兄弟が泡の大きさを競い合う場面では、オノマトペはひとまず影を潜める。そして、題名にもなっている果実「やまなし」が水中へ落ちてくる場面は、「トブン」という一音によって幕を開ける。
この響きはきわめて印象的である。何かが起こるという予感と、わずかな緊張感が、まず音そのものによって読者に伝わってくる。もし、この「トブン」に何も感じないとすれば、それは言葉が手渡す実感よりも、意味の解釈を先に求めて読んでいるからなのかもしれない。
水面の天井から落ちてきたものは、「ずうっ」と沈んでいき、その黄金(きん)のぶちは「キラキラッ」と光る。それが何であるかわからない兄弟は、「カワセミだろうか」と一瞬身構える。しかし、それらのオノマトペの響きは、それが恐ろしい存在ではないことを、どこかですでに予感させている。やがて父親が近づいて見れば、それは一つの「やまなし」であることがわかる。
そして、その果実は「ぼかぼか」と流れ、三匹はそのあとを追って歩いていく。その穏やかな充実感は、水の流れが「サラサラ」と音を立てていることからも伝わってくる。やがて枝に引っかかったやまなしの上には、月の光がつくる虹が「もかもか」と集まり、水面の波は青じろい焔を「ゆらゆら」と揺らしている。
ここには、五月の「ゆらゆら」「つぶつぶ」の世界よりも、さらに満ち足りた静かな世界が描き出されている。
だからこそ、父親の「さあ、もう帰って寝よう、おいで」という一言が、読者にも深い安らぎをもって響いてくるのである。
私たちは、クラムボンが何であるかを解明しなくても、この童話を十分に味わうことができる。いや、むしろ言葉から受け取る「実感」こそが、この作品を理解するための確かな土台になるのである。
ここではあえて、概念的な意味を限定しない音の表現であるオノマトペに注目し、童話全体が手渡してくる感覚の軌跡をたどってきた。そうして見えてくるのは、「理解」の前にはまず「感覚」があり、その感覚こそが、あらゆる解釈の前提となって作品の読解を支えているということである。
「やまなし」は、私たちに何か一つの答えを伝えようとする童話ではないだろう。まず耳を澄ませ、目の前に広がる世界をそのまま感じること。その豊かな実感の中から、一人ひとりの理解が静かに生まれてくるのである。
(3)成長する蟹の兄弟——五月と十二月に見る家族の変化
「やまなし」は二つの「幻燈」から成り立っているが、五月と十二月の情景を比べたとき、最も大きな違いは何だろうか。
多くの読者は、カワセミに捕らえられた魚と、水面に落ちてきた「やまなし」という二つの出来事の対照を思い浮かべるかもしれない。しかし、賢治がはっきりと書き込みながら、意外にも見落とされがちな変化がある。それは、カニの兄弟の成長である。
蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。
五月から十二月までの七か月という時間は、子ガニたちを大きく成長させる。そして、その内面的な変化を最もよく示しているのが、十二月の情景の前半に置かれた兄弟の会話である。
五月の兄弟は、弟が兄の言葉に素直に耳を傾け、わからないことがあれば兄に尋ねていた。ところが、成長とともに自立心が芽生えると、弟は兄に対して対抗心を抱き、自分の考えを簡単には譲らなくなっていく。
蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡(ねむ)らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。
『やっぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』
またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅(おそ)いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』
『それは兄さんの方だろう』
『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きそうになりました。
この会話からは、兄弟がこの七か月の間に大きく成長したことがよく伝わってくる。
— 弟カニ
おそらく五月の頃であれば、兄の泡の方が大きかったとしても、「兄さん、すごいね」と素直に感心していたことだろう。
しかし、「よほど大きくなった」十二月になると、弟は兄と同じくらい大きな泡を吐きたいと思うようになる。実際には兄の泡の方が大きいとしても、それを認めようとはしない。
こうした姿は、人間の兄弟にもよく見られるものである。これは喧嘩ではない。むしろ、互いを強く意識し合う、仲のよい兄弟だからこそ見られる自然な競争心なのである。
— 兄カニ
一方で、兄の振る舞いにも五月とは異なる変化が見られる。
クラムボンについて弟が「それならなぜ殺された」と尋ねたとき、兄は「わからない」と答えた。その際、「右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせ」るしぐさには、弟を思いやる優しい気持ちが感じられた。
それに対して十二月になると、兄は、自分の泡の方が大きいと言い張る弟に対して、「近くだから自分のが大きく見えるんだよ」と、見え方の違いを穏やかに説明する。そして、そのあとすぐに、「そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら」と声をかけ、弟と競い合いながらも寄り添おうとしている。
ここには、兄として少しずつ物事を考えられるようになった姿がうかがえる。弟だけではなく、兄もまた、この七か月の間に着実に成長しているのである。
。。。。。
こうした二匹の子供たちを見守る存在として、5月にも12月にも父親がいる。子供にとって父親は大きな存在であり、幼い頃には「何でも知っている」と思われることが少なくない。
5月の情景では、魚が水面へ持ち上げられるのを見て怯える兄弟に対し、父親はまず「どんなものだ」「魚の眼が赤かったかい」と問いかけ、子供たちの見たものを丁寧に確かめる。そして最後に、「そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ」と説明し、「大丈夫だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから」と安心させる。
さらに兄が「魚はどこへ行ったの」と尋ねると、「魚かい。魚はこわい所へ行った」と答える。父親は、子供たちにとって、どんな疑問にも答えてくれる頼もしい存在なのである。
幼かった兄弟にとって、父親がどれほど大きな存在だったかが、このやり取りから自然と伝わってくる。
そうした安心感は、12月になっても変わらない。
「トブン」と大きなものが落ちてきたとき、兄弟は5月の出来事を思い出し、「かわせみだ」と口にする。それに対して父親は、「遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見て」、慎重に確かめたうえで、「やまなしだ」と判断する。
経験だけで早合点する子供たちと、まず観察してから結論を出す父親。この対比によって、父親がなお子供たちの保護者であり続けていることが、読者にも自然に伝わってくる。
さらに興味深いのは、その父親にも実に人間味があることである。
兄弟が口論していたときには、「もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ」と寝るように促していたにもかかわらず、落ちてきたものが香りのよい果物だとわかると、「流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂いだな」と言い、自分も子供たちと一緒になって「ぼかぼか流れて行く」やまなしを追いかけ始める。そのときには、子供の寝る時間など、すっかり頭から消えてしまっているようである。
この人間味は、やまなしに追いついてからも続く。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔(ほのお)をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。
『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』
『おいしそうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝よう、おいで』
親子の蟹は三疋自分等(ら)の穴に帰って行きます。
波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石(こんごうせき)の粉をはいているようでした。
枝に引っかかったやまなしを見つめながら、父親は「もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができる」と語る。
子供たちにとって嬉しいのは果物そのものだが、「お酒」ができることを楽しみにしているのは、おそらく父親だけである。それでも子供たちをなだめながら、「さあ、もう帰って寝よう、おいで」と穴へ連れて帰る。
子供を寝かせようとする父親の姿と、熟した果実からできる酒を心待ちにする姿。そのどちらもが、どこか人間の父親を思わせる。
だからこそ、このカニ一家は単なる擬人化された動物ではなく、読者にとって身近で温かな家族として心に残るのである。
。。。。。
こうして三匹のカニの姿をたどってみると、「やまなし」という童話全体を通して、私たち読者が実感として受け取るのは、カニの親子の温かな関係であることがわかる。
5月と12月という二つの季節の日常風景が描かれているからこそ、子供たちの成長が手に取るように感じられ、父親もまた、単なる保護者ではなく、人間味あふれる親しみ深い存在として浮かび上がってくる。
このカニ親子の温かな関係は、小学生にとっても、小学校を卒業して長い年月を過ごした大人にとっても、かけがえのない日常の一コマとして心に残るものだろう。
クラムボンやイサドとは何かを解き明かしたり、魚が鳥に食べられることから食物連鎖を論じたりする以前に、まずは童話の言葉から伝わってくる実感に耳を澄ますこと。それこそが、「やまなし」を読む第一歩なのだと私は考えている。
(4)「すきとほつたほんたうのたべもの」 — 賢治が読者に手渡したもの
宮沢賢治は、「やまなし」の冒頭に、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」という言葉を置き、最後は「私の幻燈はこれでおしまいであります」という言葉で締めくくっている。
その二枚の幻燈は、5月と12月、それぞれの情景の最後に、言葉によって描き出されている。
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。(5月)
波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石(こんごうせき)の粉をはいているようでした。(12月)
この二枚の幻燈は、川の底にいるカニたちの目に映った映像にほかならない。そして、そのどちらもが、驚くほど美しい。こうした光景は、私たち人間が地上から天上の星々を見上げるときに目にする世界とも、どこか通じ合っているように思われる。
ここでもう一度、小林秀雄の言葉を思い出してみたい。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗(かつ)て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
言葉の意味を急いで理解しようとするのではなく、「手」という言葉が伝えようとする実感を感じ取ることができるなら、世界はこれまで気づかなかった美しさを静かに現してくれるのかもしれない。
意味の解明を急がず、川底から、あるいは地上から、ただひたすらに水面にゆれる波を、あるいは宇宙の星々を見上げる。そこにこそ、賢治が読者へ手渡そうとした美があるのではないだろうか。
そして、そのような姿勢で童話に向かうとき、宮沢賢治が『注文の多い料理店』の「序」で表明した願いもまた、私たちの中で生き始めるように思われる。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
「やまなし」が、一人一人の読者にとっての「すきとほつたほんたうのたべもの」となるならば、賢治にとって、それほど嬉しいことはないだろう。
。。。。。
こうした読み方は、たぶん国語のテストで正解を取るためには役立たないだろう。しかし、兄弟が少しずつ成長していく姿や、父親が子どもたちに向けるやさしい眼差しを感じ取り、その世界の美しさを実感することは、私たちが生きていくうえで、静かな支えとなってくれるはずである。
賢治のいう「すきとほつたほんたうのたべもの」とは、知識として理解した答えではなく、そうした実感そのものなのではないだろうか。
もし『やまなし』が、一人一人の読者にとって、そのような「すきとほつたほんたうのたべもの」となるならば、この童話は読み終えたあとも、それぞれの人生の中で、静かに生き続けていくに違いない。