乾杯・万歳はいつから日本の習慣になったのか  — 明治時代に始まった「当たり前」の歴史

先日、知り合いから、「乾杯(かんぱい)は、実は完敗(かんぱい)で、GHQから日本に押しつけられたのを知っていますか」と尋ねられた。

GHQというのは、1945年8月から1952年4月まで、日本を占領し、統治にあたった連合国軍最高司令官総司令部General Headquartersのこと。

もちろんそんなことは知らないし、もしそれが本当だとすると、乾杯の習慣は戦後に始まったことになる。そこで少し調べてみると、乾杯のシーンが描かれているアサヒビールのポスターが見つかった。大正から昭和初期に作られたレトロなポスターだ。

そうしたことを知ると、乾杯が日本でいつから始まったのか、つい調べてみたくなる。自分が当たり前だと思い、何も考えずにいたことにも、それなりの歴史があり、「知らない自分」がいることを発見するのは、それなりに楽しいものだ。

そのついでに、「万歳(ばんざい)」についても調べてみることにした。そして、どちらも、日本で習慣化されたのは明治時代になってからだと知ると、現代の日本の「当たり前」の中には明治時代に始まったものが結構あり、江戸時代までの当たり前ではなかったらしいことがわかってきて、「へーっ」と思ったりする。

「乾杯」に関する簡単な歴史

「乾杯」という言葉自体は、平安時代の儀式書『新儀式』(963年頃)にも見られ、「杯の酒を飲み干す」という意味で用いられていた。つまり、この時代の「乾杯」は掛け声ではなく、動作を表す言葉だったということになる。

実は、中国語の「干杯(gānbēi)」も全く同じ漢字・意味(「杯を飲み干す」)である。中国の伝統的な酒宴では、主人と客が互いに酒を勧め合う「献酬(けんしゅう)」の礼法が基本であり、「干杯」も本来は「酒を飲み干す」という意味の言葉として用いられていた。現在のように、「乾杯!」と全員が声をそろえて杯を掲げ、一斉に飲み始める習慣は、日本にも中国にも古くからあったものではない。

では、みんなで祝杯を挙げる現在のような乾杯の習慣は、いつ生まれたのだろうか。

日本では、幕末から明治時代にかけて、西洋の「トースト(toast)」の習慣が取り入れられたことが大きな契機となったらしい。

一説には、1858年の日英修好通商条約締結の際に来日したイギリスの使節エルギン伯爵が、英国流のトースト(健康や祝意を込めて杯を掲げる習慣)を紹介したことが、その代表的な事例として挙げられる。ただし、これが日本における乾杯の始まりであったことを示す確定的な史料は残されていない。

その後、明治時代になると、鹿鳴館での外交儀礼などを通じて西洋式の乾杯が定着し、明治20年代頃までには軍隊や上流階級の式典でも広く行われるようになった。
そして、それが次第に一般社会へと広まり、今日のような「乾杯!」という掛け声で宴会を始める習慣として定着していったと考えられている。



「乾杯(乾杯)がGHQによって強制された」という説については、2020年代にSNS(特にX〈旧Twitter〉)で広く拡散した。代表的なものとして、「乾杯は戦後に作られた言葉で、本来は『完敗』を意味する。戦前は『弥栄(いやさか)』と言っていた」といった内容の投稿が見られる。

この種の投稿では、主に次のような主張が組み合わされている。
• 「乾杯は戦後GHQが作った言葉」
• 「乾杯とは『完敗』を意味する」
• 「戦前は『弥栄(いやさか)』と言っていた」
• 「GHQが『弥栄』を禁止した」
しかし、これらの主張を裏付ける歴史的な史料は確認されていない。

このうち、「弥栄(いやさか)」という言葉自体は古くから存在し、昭和初期には一部の神道関係者や国家主義的な団体が「万歳」に代わる祝意の言葉として用いた例がある。しかし、それが全国的に乾杯の掛け声として広く用いられていたことや、GHQがその使用を禁止したことを示す資料は確認されていない。

この説は、「乾杯」と「完敗」という同音異義語の語呂合わせをもとに、インターネット上で広まった都市伝説(デマ)の一つと考えられる。

「万歳」に関する簡単な歴史

「万歳」という言葉の起源は、中国語の「萬歲」に由来する。古代中国では長寿や繁栄を願う言葉であり、やがて皇帝への最上級の祝賀として唱えられるようになった。

日本でも『続日本紀』に、延暦7年(788年)の雨乞い成功時に群臣が「万歳」ととなえたという記事が見え、奈良時代末期にはすでに祝賀・慶事の言葉として用いられていたことがわかる。
ただし、当時は儀礼の中で唱えられる言葉であり、現在のように両手を高く掲げる動作を伴っていたことを示す史料はない。

現在の「万歳三唱」の形式は明治時代に成立したらしい。
一般には、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布の当日、青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の行列に対し、東京帝国大学の和田垣謙三・外山正一らの発案により、学生たちが「万歳」の歓呼を行ったことがその始まりとされる。
ただし、この時点では文言や回数が現在のように固定されておらず(馬が驚いて連呼が乱れたとする逸話もある)、また現在のような両手を掲げる所作まで確立していたことを示す史料はない。

三唱と挙手を伴う現在の形式が広く定着したのは、その後、明治20年代後半から日露戦争前後にかけてと考えられている。


このように見てくると、私たちが日本古来の伝統だと思い込んでいる習慣の中には、実際には明治時代に成立したものも少なくないことがわかる。

そうした視点で眺めてみると、天皇一代につき一つの元号を用いる「一世一元」の制度や、現在の建国記念の日のもととなった2月11日の「紀元節」も、明治時代に制定されたものである。

「一世一元」の制度

「一世一元」の制度は、1868年(明治元年)9月に発布された「明治改元の詔」により、元号を「慶応」から「明治」に改め、同年1月にさかのぼって明治元年とすることとあわせて定められた。

元号は、日本最初の元号である「大化」(645年)以来、天皇の代替わりや吉事、災異などを契機として改元されてきた。しかし、明治新政府はこの慣行を改め、天皇一代につき一つの元号のみを用いる「一世一元」の制度を採用した。

「紀元節(きげんせつ)」と「建国記念の日」

現在の「建国記念の日」は、1945年の敗戦前までは「紀元節(きげんせつ)」と呼ばれていた。そして、この紀元節も、明治新政府によって明治5年(1872)に制定されたものだった。

実は、この制定は、日本の暦を西暦(グレゴリオ暦)に合わせる制度改革と連動していた。 明治政府は「改暦ノ詔書」を公布し、明治5年12月3日を明治6年1月1日(1873年1月1日)として太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、西欧諸国と同じ暦を用いることで近代化を進めようとした。

同じ年、政府は『日本書紀』に記された神武天皇の即位を日本の「紀元」と位置づけ、祝祭日制度を整備した。
その際、当初は旧暦の1月29日を神武天皇即位の日として祝日に定めたが、改暦によって太陽暦へ移行したため、新しい暦に換算した祝日を定める必要が生じた。

『日本書紀』には、神武天皇の即位について次のように記されている。

辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 (『日本書紀』神武記)

辛酉(しんゆうねん)の年の春正月、庚辰(こうしん)の日を朔(月の第一日)として、天皇は橿原宮(かしはらのみや)において帝位にお即きになった。

ここでいう「辛酉年」は干支による年の表記であり、「庚辰朔」は「庚辰の日がその月の第一日(朔)であった」ことを意味する。

では、その年月日を紀元前660年2月11日に算定する方法はどういうものだったのだろうか。

神武天皇即位を紀元前660年とする年代については、『日本書紀』の年代構成が、中国の「辛酉革命説」の影響を受けて編成されたとする学説がある。この説では、推古天皇9年(601年)の辛酉を一つの画期とみなし、1260年(一蔀)遡った辛酉の年を神武天皇即位の年として配置したと考えられている。

また、『日本書紀』の「辛酉年正月庚辰朔」という日付については、「紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日」を求めるという簡便な方法で、新暦の2月11日に相当すると説明されることが多い。ただし、その具体的な換算手順については、明治政府自身が詳細な暦法上の根拠を公表しておらず、現在でも研究者の間にはいくつかの見解があるらしい。

「皇室の洋装」

もう一つ興味深いと思うのは、日本の皇室では、正装が和服ではなく洋装であるという、よく考えてみると不思議な慣習である。

この制度も、やはり明治時代に定められたものである。

近代化を進める明治政府は、明治4年(1871年)に「服制改革の内勅」を発布し、それまでの公家装束を廃して洋装を正装とする方針を打ち出した。そして、それまで用いられていた「衣冠束帯(いかんそくたい)」や「十二単(じゅうにひとえ)」といった伝統的な装束は、原則として宮中の重要な神事や儀式(即位の礼など)に限定して用いられるものとされた。

男性の正装については、明治5年(1872年)11月12日の太政官布告第339号により文官用の大礼服・通常礼服(燕尾服)が制定され、翌明治6年(1873年)には「皇族大礼服制」(太政官布告第64号)が公布されて、男性皇族の洋式大礼服が制度として整備された。

女性の正装については、明治19年(1886年)頃から昭憲皇后が公式の場で本格的に洋装を着用されるようになり、翌明治20年(1887年)には洋服着用を奨励する「思召書(おぼしめししょ)」が示された。これを契機として、西洋の宮廷ドレスが女性皇族の正装として定着していった。

ちなみに、「思召書」は、単に「洋服を着ましょう」という内容ではなく、「和服は活動性や衛生面で問題があり、古代の衣服はもともと現在のような和服ではない」という歴史認識をベースにしたもので、明治政府の近代化政策の根底にあった思想の一端を明らかにしている。

外国の王族が、それぞれの国の民族衣装をまとって公の場に現れる姿を見ると、日本の皇族の正装が和装ではないことに、少し違和感を覚えることもある。しかし、私たちはその姿にすっかり慣れてしまっているため、改めて疑問を抱くことはほとんどない。


何気なく「日本の古くからの習慣や決まりごと」だと思っているものの中には、実は明治時代に起源を持つものが少なくない。私自身も、「乾杯」に関する都市伝説をきっかけに、そのことに遅まきながら気づかされた。

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