宮沢賢治「心象スケッチ」の意味――Mental Sketch Modifiedと中原中也

宮沢賢治と中原中也は、現在でも人気の高い詩人であり、愛読者も多い。二人の詩人のつながりについても、これまでさまざまな考察が行われてきた。しかし、興味深いことに、二人とも生前はほとんど無名といっていい存在だった。宮沢賢治が出版できたのは、大正13年(1924年)の詩集『花と修羅 心象スケッチ』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけであり、中原中也が生前に出版した詩集も、昭和9年(1934年)の『山羊の歌』一冊だけだった。

たぶん宮沢は中原のことを知らなかったのではないかと思われる。他方、中原は『花と修羅』が出版された際にたまたま手にし、それ以来、愛読していたことが知られている。そして、中原が宮沢について書いた文章を読むと、宮沢賢治のすべての著作の鍵となる「心象スケッチ(Mental Sketch Modified)」がどのようなものなのかを、とても分かりやすく知ることができる。

その理由の一つは、二人の詩人が同じような感受性を共有していたことにある。しかし、それだけではない。大正時代に日本で大きなブームとなったアインシュタインの相対性理論に由来する新しいものの見方に基づき、当時の人々は、物理的な世界観と精神世界とを融合させた世界のあり方を探ろうとしていた。そのような時代的背景も見逃すことはできない。

そうしたことを頭に置きながら、中原中也が宮沢賢治について書いた短い文章を手がかりに、二人の詩作の根底に流れる基調低音の調べを探っていこう。

(1)心象スケッチ

宮沢賢治の詩としてもっともよく知られているのは、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節で始まる「永訣の朝」だろう。
また、賢治は童話作家としても広く知られているため、親しみやすく読みやすい作家だと思われるかもしれない。
しかし、彼の詩には硬質で抽象的な言葉がちりばめられており、読み進めるのに骨が折れることも少なくない。

「心象スケッチ」という言葉が出てくる『花と修羅』の「序」は、宮沢賢治の詩的・童話的世界を知るうえでもっとも重要な作品である。しかし、その意味を読み解くのは決して容易ではない。

まずは、その冒頭と最後の一節だけを読んでみよう。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

(中略)

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

ここには、「現象」「命題」「心象」といった概念的な言葉だけではなく、「有機」「交流電燈」「複合体」「鉱質インク」「明滅」といった物理学を思わせる言葉、さらには「因果」という仏教を連想させる言葉も使われている。

また、「過去」という言葉は理解できても、「過去とかんずる方角」という表現には何らかの特別な意味が込められているように思われるし、「第四次延長」となると、現代の私たちにはすぐには理解しがたい。

このような硬質な言葉が次々と現れる中で、「影と光のひと鎖」が「心象スケッチ」であると説明されても、すぐには腑に落ちないだろう。

しかし、こうした言葉を手がかりにして見えてくることがある。それは、「わたし」という存在は固定した実体ではなく、光が明滅するように、一瞬ごとに現れては消えていく現象であるということだ。そして、そのような「わたし」が、その時々に心に浮かんだイメージを書き綴ったものが、「心象スケッチ」なのである。そのことを賢治は読者に伝えようとしている。

その賢治の詩句を、中原中也は「宮沢賢治の詩」と題する短い紹介文の中で、的確に読み解いている。そこで鍵となるのが「現識(げんしき)」という言葉である。ここでいう「現識」とは、外の世界を見た瞬間に心に浮かぶ、生き生きとしたイメージのことだと考えると分かりやすいだろう。

 彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識(げんしき)を、それが頭に浮ぶまゝを、 ― つまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。
 彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあつたのです。彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考(かんこう)さるべきものでも翫味(がんみ)さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さへすればよかつたのです。
(「宮沢賢治の詩」『レツェンゾ』昭和10(1935年)年6月号)

実際に宮沢賢治が詩や童話を「幸福に」書いていたのかどうかは分からない。しかし、中也がこの言葉に託した意味は、賢治が外の世界で見聞きした事柄から受け取った、生き生きとしたイメージを、「頭に浮ぶまゝ」に書き留めようとした、ということだろう。あれこれ頭で考えたり、意図的に構成したりするのではなく、その瞬間に生まれたイメージを「出来るだけ直接に」言葉へ定着させること。それこそが、中也のいう「幸福に書く」ということなのである。

このように、中也は賢治のいう「心象スケツチ」を、「生の印象」という分かりやすい言葉に置き換えて説明する。そして、その印象は、賢治が世界に目を向けるたびに、次々と心に浮かび、そのまま言葉へと姿を変えていく。その絶え間なく移り変わる瞬間について、賢治が「せはしくせはしく明滅しながら」と表現したところを、中也は「印象の生滅するまゝに」と言い換えているのである。

さらに中也は、その生きたイメージについて、「惚れ惚れとさせるものであつた」と語る。惚れ惚れとさせるのは、世界がその瞬間に立ち現れる、生の印象そのものである。だからこそ賢治は、そのイメージを概念によって加工するのではなく、「出来るだけ直接に」言葉へと定着させようとした。中也は、その点にこそ宮沢賢治の詩の本質があることを、短い文章の中で見事に言い当てている。

ただし、中也は、「第四次延長」や「因果交流電燈」といった独特の言葉の背景にある、当時新しく生まれつつあった世界観そのものについては論じていない。そうした考え方は、同時代の読者にはあえて説明するまでもない知識だったのかもしれない。しかし、現代の読者にとっては、大正時代の日本で大きな流行となったアインシュタインの相対性理論に触発された新しい世界観をたどることが、その詩句を理解するための大切な手がかりとなる。

(2)四次元の時空の日本的解釈

心象スケッチとは、外界の出来事や物体という物理的な側面と、それらが心の中で生成するイメージという内的な側面とが一体化したものともいえる。現代の私たちからすると不思議に思われるが、当時は、そのような物理的世界と精神的世界との融合が、最先端の科学によってもたらされると考えられていた。その中でも、宮沢賢治に最も大きな影響を与えたのが、「四次元世界」という新しい世界観だった。

古典物理学では、三次元の空間が時間の経過とともに変化すると考えられてきた。つまり、空間と時間は互いに独立したものとみなされていた。

それに対して、1905年、アルベルト・アインシュタインは特殊相対性理論を発表した。その根本的な原理は、時間と空間は絶対的なものではなく、観測者の運動状態によって時間は遅れ、長さは縮むというものである。すなわち、時間と空間は互いに独立した絶対的な存在ではなく、観測者の運動状態に応じて結び付いたものとして理解されるようになった。

その後、1908年、ミンコフスキーは、「空間そのもの、時間そのものは影にすぎず、両者が結びついたものだけが独立した実在として残る」と述べ、アインシュタインの特殊相対性理論を四次元幾何学として定式化した。
彼は、三次元空間に時間を加えた「四次元時空」という見方を提示し、世界を、時間の中で変化する三次元空間ではなく、「時間を含む一つの四次元的な時空」として捉える新しい世界観を示したのである。

もっとも、この四次元時空は本来、物理学上の概念である。しかし、日本では、三次元空間を物理的世界と捉える一方で、時間の流れを生命や精神の働きと重ね合わせ、第四次元を精神世界と結び付ける議論が展開されることがあった。

その代表例が、『通俗第四次元講話』(大正11年〔1922年〕)に収められた「第四次元序話」である。寮佐吉(りょう・さきち)は、次のように述べている。

 第四次元は、人間を知覚の三次元空間から解放するものである。此を取入れると、精神の視界が拡大して、人生の問題、生命及び死の問題、霊魂の問題、神の問題其の他人間に関する総べての問題は、不可解、神秘或は奇蹟等ではなくなって、四次元空間に於ける一個の自然現象となるのである。要するに第四次元の観念を知らない人人は、知覚の三次元空間に東縛せられてゐる人人である。新しき自由人と云ふことは出来ない。
 加ふるに、近時世間の興味を引いてみるアインスタインの相対性原理はミンコフスキーの四次元世界(空間と時間の結合せる世界)と深い交渉を有してゐる。此の点に於いても第四次元の観念の深い洞察は、大なる意味を有する。是によって見れば、第四次元の観念は、数学者物理学者に取って有用なるばかりでなく、あらゆる人人に取って興味の深いものである。

ここで寮は、三次元から四次元へと視点を移すことによって、人生、生命、死、霊魂、神といった、一見すると超自然的に思われる問題までも「四次元空間に於ける一個の自然現象」として理解できるようになると説いている。その意味では、外界と内面とを一体のものとして捉える「心象スケッチ」という発想とも重なる部分がある。

『花と修羅』「序」の冒頭に置かれた「わたくしといふ現象」という表現も、こうした思想的背景を踏まえるならば、その延長上で理解することができるだろう。

また、「第四次元序話」には、「幽霊は四次元的である」という記述も見られる。「あらゆる透明な幽霊の複合体」という一節も、こうした発想に由来する可能性が考えられる。

大正時代には、四次元世界を精神世界と結び付ける試みは少なくなかったらしい。『花と修羅』刊行の二か月前に出版された成瀬関次『第四次延長の世界』(大正13年〔1924年〕)では、催眠術や透視の研究者の名を挙げながら、物理と精神とが一体化した世界像をどのように構想するようになったのかが語られている。

私が『超立方体』といふやうな事に思ひをひそめた抑々(そもそも)のはじめは、明治四十一年頃、桑原といふ人の著「精神動」を読み、続いて福来博士の講演を聴いた頃に端を発する。其の後たしか大正二年と覚えてゐる、リテラリイダイゼスト誌上で、フォースデイメンションの解説といふやうなのを見て、線と平面と立方体といふ風に説いてあるのを非常に面白く思つたから、早速その読後の印象を私の考へに加味して「第四延長の説明」と題し、大正三年の夏頃、日本師範学会の誌上ほか二三に発表した。

成瀬は、”Fourth Dimension” を「第四次延長」と訳しているが、それは『春と修羅』「序」の「すべてこれらの命題は/心象や時間それ自身の性質として/第四次延長のなかで主張されます」という表現とも一致している。

宮沢賢治の実家は代々浄土真宗を篤く信仰し、賢治自身も十代後半に大乗仏教の中心的経典である『法華経』を読み、人々に仏を慕い求める心を起こさせる「救済の智慧」が説かれた箇所に深い感銘を受けたことが知られている。その後は日蓮宗系の国柱会に入信し、自ら布教活動にも携わった。

このような宗教的精神文化と、アインシュタインやミンコフスキーによって示された新しい時空観とが結び付くことによって、四次元世界を精神世界として理解する日本独自の解釈が形成され、それが大正時代には広く受け入れられていったものと考えられる。そして、そのような思想的風土の中で育まれた「四次元世界」のイメージが、宮沢賢治の「心象スケッチ」の世界を支える重要な背景の一つとなったのである。

(3)時間と地質学

四次元世界における「時間」について、宮沢賢治は、盛岡高等農林学校で専門的に学んだ地質学や土壌学と結び付けながら、きわめて具体的なイメージとして描いている。つまり、地層とは時間が空間の中に可視化されたものである、という視点が示されているのだ。

『春と修羅』「序」にも、賢治の専門とする地質学の用語が用いられている。

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
(中略)
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

新生代は約6600万年前から現在まで続く地質時代であり、そのうち沖積世(現在の完新世)は約1万1700年前から現代に至る、人類文明と直接つながる時代である。
一方、白堊紀は約1億4500万年前から6600年前まで続いた中生代最後の時代であり、大型恐竜が繁栄した時代として知られている。「白堊紀砂岩」は、その時代に形成された砂岩層を指す地質学上の用語である。

ここで注目すべきなのは、賢治が地質年代を単なる年代としてではなく、「巨大に明るい時間の集積」と表現していることである。地質学において地層とは、岩石が積み重なった空間であると同時に、それぞれの時代が順次積み重なった時間の記録でもある。地下へ掘り進むことは、そのまま過去へ遡ることを意味し、地層とは、時間が空間の中に保存された姿にほかならない。

このように考えるならば、「白堊紀砂岩の層面」に「透明な人類の巨大な足跡」を発見するという表現も、単なる幻想ではない。現在と遥かな過去とが一つの時空の中で重なり合い、異なる時代の存在が交錯するという、四次元世界のイメージとして理解することができる。

もちろん、これはミンコフスキーの四次元時空そのものを地質学に適用したという意味ではない。しかし、時間を独立した流れとしてではなく、空間の中に具体的な形で刻み込まれたものとして捉える発想は、賢治が専門的に学んだ地質学と、当時広く受け入れられつつあった四次元世界の世界観とを結び付ける契機になったと考えられる。

そのように考えると、四次元世界は賢治の学問と直結していることになる。さらに、それが彼のもう一つの中心的な関心事であった宗教思想とも結び付いたとすれば、この世界観はまさに賢治にふさわしいものだったといえるだろう。地質学は「時間を空間として可視化する学問」であり、それが四次元時空のイメージと響き合い、さらに宗教思想へとつながるのだ。

科学によって捉えられた時間と空間、地質学によって可視化された悠久の時間、そして宗教が見つめる生命や存在の意味は、賢治の中では互いに対立するものではなく、一つの世界像の中で統合されていた。その統合された時空間こそが、「心象スケッチ」の舞台であったと考えることができる。

(4)長期の時間と明滅する時間

重層化された地質が時間を空間として表現したものだとすると、賢治は一方で、時間そのものの流れにも独自のまなざしを向けている。そして、その時間の捉え方には、大きく二つの方向があるように思われる。
一つは、人間の一生をはるかに超える悠久の時間であり、もう一つは、一瞬ごとに生まれては消えていく「明滅する時間」である。ここでは前者を「長期の時間」、後者を「明滅する時間」と呼ぶことにしよう。

A.長期の時間

長期の時間は、地質年代と対応するほど長いスパンを通した流れを捉えたものであり、「序」では、2000年という時間が想定されている。

おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

ここで賢治は、現在から二千年後の未来へと意識を移す。『花と修羅』が出版されたのは1924年だから、視点は3924年に置かれていることになる。そして、その未来から現在を振り返り、あたかも現在が遠い過去の地質時代であるかのように眺めるのである。

ところが、未来の地質学者たちが探し求めるものは、地中の化石ではない。賢治は視線を天空へと向け、「気圏のいちばんの上層」から、青空いっぱいに羽を広げる無色の孔雀の化石が発掘されるという幻想的な情景を描き出す。その後、現在をはるかに通り越して白堊紀へとさかのぼり、透明な人類の巨大な足跡が発見されるという空想を重ねる。

その際、孔雀は「無色」、人類の足跡は「透明」と形容される。どちらも化石でありながら、現実の物質というよりも、透き通った幻影のような印象を与える。そこには、賢治が描こうとする世界が、物理的な存在であると同時に、それを心の中に映し出したイメージでもあることが示されている。

このように、賢治は地質学が扱うような悠久の時間の流れを自由に行き来しながら、人間の存在をその壮大な時間の中に位置づけようとしている。しかし、「序」には、こうした長期の時間とは対照的に、一瞬一瞬が生まれては消えていく時間も描かれている。

B. 明滅する時間

長期の時間を描く一方で、賢治は一瞬一瞬の時間の流れにも鋭いまなざしを向けている。「序」では、それは「せはしくせはしく明滅しながら」という一句に凝縮されている。そして、この表現をもっとも的確に読み解いたのが中原中也である。中也はそれを「印象の生滅するまゝに」と言い換え、一瞬ごとに生まれては消えていく時間のあり方を鮮やかに言い表している。

この時間観に立てば、心象スケッチとは、一度描かれたらその姿のまま固定されるものではない。絶えず新しい姿へと変容し続けるものなのである。

そのことを象徴しているのが、賢治が「心象スケッチ」を英語で mental sketch modified と表現していることである。ここで modified という言葉は、完成した作品ではなく、生命の脈動とともに絶えず姿を変え続けるスケッチの本質を端的に示している。そして、その変容の様子は、「序」の冒頭で「わたしという現象」を描いた詩句の中に、すでに具体的に表現されている。

わたしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(中略)
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

「交流電燈の/ひとつの青い照明です」という中心部分はまったく変わらない。しかし、その前後の言葉は変化している。

最初、「交流電燈」は「有機」という科学的な用語によって修飾されている。それが後半では、本来は仏教の用語である「因果」へと書き換えられる。一つの心象スケッチが、生命を支える科学的なイメージから、原因と結果の法則に基づく仏教的な世界観へと変容しているのである。

この変容の契機は、「交流電燈」という言葉そのものにも潜んでいる。「電燈」は直流(DC)ではなく、周期的に電流の向きが変わる交流(AC)によって光を放つ。そのように異なる方向を往復する「交流」という発想は、科学と宗教という異なる世界を結び付けようとする賢治の思考そのものを象徴しているようにも思われる。そう考えるなら、「青い照明」は、アインシュタインに始まる新しい時空観と宗教的精神とが重なり合う「第四次延長」の世界を照らす光として読むこともできるだろう。

このように、「わたしという現象」の心象スケッチは、一つの完成した像ではなく、時間の流れとともに絶えず変容し続けるものとして描かれている。

そのような明滅と変容の様子は、『銀河鉄道の夜』の原稿の中で、具体的なイメージとして描かれている。
ジョバンニがカムパネルラに目を向けると、そこには彼の姿はなく、代わりに黒い帽子をかぶった一人の大人が立っている。その男は一冊の大きな本を手に、紀元前2200年ごろの人々が考えていた地理や歴史について語る。そして静かに一本の指を上げ、ゆっくりと下ろす。その瞬間、ジョバンニの目の前で世界そのものが明滅し始める。

そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともって、またなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消きえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。(「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿。読みやすくするために句読点を付けた。)

この場面では、黒い帽子の男が指を上げ下げするたびに、「自分」という意識も、汽車も、天の川も、世界のすべてが一瞬光り、次の瞬間には消え、再び光るという明滅を繰り返している。そのたびに世界が開き、歴史が立ち現れ、そして再び消えていくのである。

ここには、「わたしという現象」が明滅するという『花と修羅』の発想が、『銀河鉄道の夜』という童話の中で具体的な光景として描き出されているのである。

さらに賢治は、『注文の多い料理店』の「序」において、そのような変容を物語の内容だけではなく、童話そのものの性質としても語っている。

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいに、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
(中略)
 わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾(いく)きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

賢治の目には、「ぼろぼろのきもの」が「びろうど」や「羅紗」、さらには「宝石いりのきもの」へと変わって見える。「朝の日光」は飲み物となり、「すきとおった風」は食べ物となる。『花と修羅』の「序」の言葉を借りるなら、それらはすべて「透明な幽霊の複合体」であり、その姿は一瞬ごとに新たな形へと変容していく。

そして、そのような変容は、物語そのものにも及ぶ。一つ一つの「おはなし」は、虹や月あかりから生まれたものであり、それ自体が絶えず姿を変える存在なのである。

実際、賢治自身は原稿に何度も手を入れ、一度出版した作品にも改稿を重ねた。また、「おはなし」は読者の心に届くことで、さらに新たな姿へと変わっていく。賢治の願いは、それが単なる「氷砂糖」のような甘い菓子ではなく、「すきとおったほんとうのたべもの」となって読者の心を養うことにあった。

このように、心象スケッチとは、一度完成して終わる作品ではない。それは、明滅する時間の中で、新たなイメージを生み出しながら絶えず modified され続ける営みなのである。

(5)名辞以前の感覚

では、宮沢賢治の心象スケッチとは、結局どのようなものなのだろうか。その答えを探るために、ここでもう一度、中原中也の言葉に戻ることにしよう。

中也が生前には発表しなかった「宮沢賢治の世界」には、「宮沢賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事」として、いくつかの項目が挙げられている。その最初には、次のような一節が記されている。

「これは手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。

(「宮沢賢治の世界」『詩園』昭和14(1939年)年8月号)

この言葉は、中原中也自身の詩論の中心をなす考え方でもある。要するに、私たちは「手」という言葉を口にする以前に、すでに何らかの感覚を経験しており、詩人の言葉とは、その名辞以前の感覚を読者に呼び覚ますものである、ということだろう。

こうした考え方は、哲学者・西田幾多郎(1870―1945)の「純粋経験」とも深く響き合う。『善の研究』は、その説明から書き起こされている。

 経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者も、その実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。(『善の研究』明治44年、1911年)

宮沢賢治になりかわって、その詩論を準備するような気持ちで文章を書いた中原中也に従えば、心象スケッチとは、言葉になる以前の「真に経験そのままの状態」を、その都度言葉によって形にしたものだと言ってよいだろう。

その経験は、中原が「宮沢賢治の詩」で用いた「現識(げんしき)」という言葉にも置き換えられる。ここでいう現識とは、世界を見た瞬間に、まだ言葉や概念によって整理される以前に、心の中へそのまま立ち現れる生き生きとしたイメージのことである。

しかし、その現識を他者へ伝えるためには、どうしても言葉を用いなければならない。
芸術家とは、言葉という手段を用いながらも、その背後にある生の経験を読者へ届けようとする存在なのである。そして、そのような芸術家として中原が深く共感したのが、宮沢賢治の「心象スケッチ」だった。

もう一度、中原の言葉を読んでみよう。

彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考(かんこう)さるべきものでも翫味(がんみ)さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。
(「宮沢賢治の詩」)

ここでは、心象スケッチを、アインシュタインの相対性理論に触発された新しい世界観、「第四次延長」という時間と空間の捉え方、そして「明滅する時間」の中で絶えず modified され続ける営みとして見てきた。しかし、その根底にあるものは、中原のいう「現識」、すなわち言葉になる以前の、生きた経験そのものだったのである。

中也は、言葉として書かれた心象スケッチを読みながら、その背後にある賢治の「生」の瞬間ごとの「現識」に触れ、そこに「惚れ惚れと」したのだった。

私たちもまた、中原中也の導きの下で、宮沢賢治の詩や童話の言葉を通して、その背後にある生きたイメージに触れることができるだろう。そして、その経験がいつしか『注文の多い料理店』の「序」にいう「すきとおったほんとうのたべもの」へと変容するならば、それは賢治が願った読書のあり方に、もっとも近いものと言えるのではないだろうか。


情報や言葉があふれる現代の私たちは、つい世界を「名前(名辞)」や「概念」だけで分類し、分かった気になってしまいがちだ。しかし、世界は本来、一瞬ごとに新しく生まれ変わる「明滅する時間」の中にあり、私たちの心もまた、その中でせわしく明滅している。

賢治や中也の言葉に触れるということは、私たちが忘れてしまった「言葉になる前の、世界のみずみずしい手触り」をもう一度思い出すことにほかならない。

ネット上の安易な言葉の消費とは異なる、その剥き出しの「生」の経験。それこそが、いつしか『注文の多い料理店』の「序」にいう「すきとおったほんとうのたべもの」へと変容するのではないだろうか。それをつかみ取ることこそが、賢治が私たちに願った、最も幸福な読書のあり方なのだ。

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