
「無常という事」は、あるものを実感する姿勢(態度:1)と、それを理論的に説明しようとする姿勢(態度:2)という二つの対比を軸として論が展開されていく。その上で、後半では、この対比を前提に、「態度:2」を経た後で、いかにして「態度:1」を取り戻すかが考察される。
まず、鎌倉時代をめぐる「歴史」の考察に現れる、この二つの態度の対比を確認してみよう。
歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱(ぜいじゃく)なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。
ここでいう「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想」は、明らかに「態度:2」に属する。
これに対して「態度:1」に属するのは、歴史を生きた現実として感じ取るあり方である。小林は、「歴史」は新しい解釈によって左右されるようなものではないと言う。
この「歴史」が「態度:1」に属することは、それまでの議論を踏まえると理解しやすい。一言で言えば、過去の出来事が現在の自分の経験の中に生きた現実として立ち現れてくるとき、それは小林のいう「歴史」となるのである。
小林はかつて、「出来事の意味や背景を理論的に説明し、解釈しようとする営み」(態度:2)に強く惹かれ、そこから離れることは難しいと感じていた。しかし、比叡山で『一言芳談抄』の断片を突然思い出し、その世界を生きた現実として感じ取った経験を通して、解釈ではなく実感として受け止められる「歴史」に、美を見いだすようになったのである。
したがって、「無常という事」で用いられる「歴史」という言葉は、単なる過去の事実や歴史学の対象ではなく、過去が現在の自己の経験の中によみがえり、生きた現実として感得されるもの、という意味で理解する必要がある。
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