ランボー 「わが放浪(ファンテジー)」 Rimbaud « Ma Bohême (Fantaisie) » 放浪する若き詩人の自画像

「わが放浪(ファンテジー)Ma Bohême (Fantaisie)」は、1870年10月に、年長の友人ポール・デメニーに預けた手書きの詩22編の中の一編。

翌1871年6月にデメニーに手紙を書き、全ての詩を燃やしてくれと依頼した。しかし、幸いなことに、デメニーは要求に従わなかった。そのおかげで、私たちは、16歳を直前にしたランボーの書いた詩を読むことができる! 

当時のランボーは、「詩人になる」という目標を掲げ、模索していた。
1870年5月24日に高名な詩人テオドール・ド・バンヴィルに送った3編の詩(「感覚(Sensation)」を含む)は、ロマン主義的な傾向をはっきりと示していた。
その1年後、1871年5月に書かれた「見者(le Voyant)の手紙」では、ロマン主義の詩を真っ向から否定し、「あらゆる感覚を理性的に狂わせ、未知なるものに達する」という詩法を展開した。

その中間時点にあるデメニーに託した詩群は、ロマン主義から出発して「見者の手紙」の詩法へと歩みを進めつつある段階にあった。
そのことは、放浪と詩作のつながりをテーマとする「感覚」と「我が放浪」 を並べてみるとよくわかる。

「感覚」では、全ての動詞が単純未来に活用され、まだ実現されていない希望が理想として思い描かれる。

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers

ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

理想との対比を強調するために、「わが放浪」では動詞は過去時制で活用される。

Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
Mon paletot aussi devenait idéal ;
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
Oh ! là ! là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !

ぼくは出掛けていった、破れたポケットに拳骨を突っ込んで。
ハーフコートも同じように、理想的になっていた。
大空の下を歩いていたんだ、ミューズよ! ぼくはお前の僕(しもべ)だった。
あーあ! なんて数多くの輝く愛を、ぼくは夢見たことだろう!

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ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

「感覚(Sensation)」は、15歳のランボーが、高踏派を代表する詩人テオドール・ド・バンヴィルに宛てた1870年5月24日付けの手紙の中に同封した詩の一つ。

その手紙でランボーは、16世紀の詩人ロンサールを起源とし、ロマン主義から高踏派へと続く、「理想の美(la beauté idéale)」を追い求める詩人たちを真の詩人と見なし、その系譜の中に自分を位置づけている。
「感覚」はその言葉を証明するために同封された詩だった。

「感覚」の中で使われる動詞が全て単純未来で活用されるのは、「私(je)」の感じる幸福感が、これから実現されるはずの「理想」であり、15歳の少年詩人がその感覚に「美」を見出したことを示している。

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue !

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう、
麦の穂にちくちくさされながら、細い草を踏んで。
夢見心地の中で、草のひんやりとした感覚を感じるだろう、ぼくの足に。
風が浸すままにしておくだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を!

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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 5/5 錯乱から昇天へ

告白の最後の部分に至り、愚かな乙女は再び地獄の夫の行動に言及し、その後、彼の言葉をそのまま繰り返す。

  « S’il m’expliquait ses tristesses, les comprendrais-je plus que ses railleries ? Il m’attaque, il passe des heures à me faire honte de tout ce qui m’a pu toucher au monde, et s’indigne si je pleure.
    « ― Tu vois cet élégant jeune homme, entrant dans la belle et calme maison : il s’appelle Duval, Dufour, Armand, Maurice, que sais-je ? Une femme s’est dévouée à aimer ce méchant idiot : elle est morte, c’est certes une sainte au ciel, à présent. Tu me feras mourir comme il a fait mourir cette femme. C’est notre sort, à nous, cœurs charitables… »

 もしあの人があの人の悲しみの数々を説明してくれるとしても、私がそれを理解できるでしょうか、あの人の嘲り以上に? あの人は私を攻撃し、この世で私の琴線に触れる可能性のあるもの全てを、何時間もかけて恥ずかしいと思わせるようします。そして、私が泣くと、腹を立てるのです。
 「ーー ほら、あのエレガントな若者、きれいで静かな家に入っていくだろ。名前はデュヴァルか、デュフールか、アルマンか、モーリス、そんな感じかな。一人の女があの無能なアホをどうしようもなく愛した。で、彼女は死んじまった。今じゃ、天国で聖女になってるだろうよ。お前も俺を死なせることになる、あいつが女を死なせたみたいにさ。それが俺たちの運命なんだ、慈悲の心を持った俺たちのな。」

(朗読は12分50秒から)
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 4/5 悲しい楽園

愚かな乙女は、地獄の夫に捉えられた囚人のようだったと語った後、不安を抱えながらも彼女なりに幸福を感じていた様子を口にする。

 « Ainsi, mon chagrin se renouvelant sans cesse, et me trouvant plus égarée à mes yeux, ― comme à tous les yeux qui auraient voulu me fixer, si je n’eusse été condamnée pour jamais à l’oubli de tous ! ― j’avais de plus en plus faim de sa bonté. Avec ses baisers et ses étreintes amies, c’était bien un ciel, un sombre ciel, où j’entrais, et où j’aurais voulu être laissée, pauvre, sourde, muette, aveugle. Déjà j’en prenais l’habitude. Je nous voyais comme deux bons enfants, libres de se promener dans le Paradis de tristesse. Nous nous accordions. Bien émus, nous travaillions ensemble.

「そんな風にして、私の悲しみは絶えずぶり返し、自分の目から見てもますます道を踏み外していきました。ーー 私のことをじっと見つめようとしたかもしれないみんなの目からも、同じように見えたことでしょう、もし私が永遠にみんなから忘れられるという刑を宣告されていなければ! ーー 私はますますあの人の思いやりに飢えていきました。口づけや愛情のこもった抱擁があれば、天国でした。暗黒の天国です。私はそこに入りました。できれば、そこに取り残され、哀れで、耳が聞こえず、口がきけず、目が見えないでいられたらと思いました。そうしたことにはもう慣れていたのです。私には、私たち二人が善良な子供のように見えました。悲しい「楽園」を散歩する自由もありました。私たちはわかり合っていました。とても嬉しくて、一緒に働きました。

(朗読は9分0秒から。)
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 3/5 生を変えてしまう秘密

愚かな乙女は、地獄の夫の乱暴で野蛮な側面に触れた後、今度は、優しい側面も数え上げる。

 « Parfois il parle, en une façon de patois attendri, de la mort qui fait repentir, des malheureux qui existent certainement, des travaux pénibles, des départs qui déchirent les cœurs. Dans les bouges où nous nous enivrions, il pleurait en considérant ceux qui nous entouraient, bétail de la misère. Il relevait les ivrognes dans les rues noires. Il avait la pitié d’une mère méchante pour les petits enfants. ― Il s’en allait avec des gentillesses de petite fille au catéchisme. ― Il feignait d’être éclairé sur tout, commerce, art, médecine. ― je le suivais, il le faut !

 「時々、あの人は穏やかな方言みたいな言い方で話すことがあります、死は悔いを引き起こすとか、不幸な人達が本当にいるんだとか、辛い仕事のこととか、旅立ちは心を引き裂くとか。安い酒場で私たちが酔っ払う度に、あの人は泣きました、周りにいる人達を惨めな家畜みたいにじろじろ見ながらです。真っ暗な通りでは、酔っ払いたちを起こしてあげたりもしました。あの人、幼い子供に対する意地悪な母親の同情心を持っていたんです。ーー 立ち去る時には、教会に信者のお勤めを教わりに行く女の子みたいな良い子の様子をしていたものでした。ーー どんなことでも知っている振りをしていました、商売も、芸術も、医学も。ーー 私はあの人の後をついていきました。それしかないんです!

朗読は5分40秒から
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 2/5 醜悪で残酷になりたい

愚かな乙女(vierge folle)は、地獄の夫(époux d’enfer)に従う不幸を口にした後、今度は夫の言葉をそのまま書き写すことで、彼がどのような人間なのか浮き彫りにする。

その言葉は、作者ランボーが自分の言葉として書くのではなく、愚かな乙女(ヴェルレーヌ)の口を通すことで、ヴェルレーヌから見た地獄の夫(ランボー)の姿を反映していることになる。

 « Il dit : ” Je n’aime pas les femmes. L’amour est à réinventer, on le sait. Elles ne peuvent plus que vouloir une position assurée. La position gagnée, cœur et beauté sont mis de côté : il ne reste que froid dédain, l’aliment du mariage, aujourd’hui. Ou bien je vois des femmes, avec les signes du bonheur, dont, moi, j’aurais pu faire de bonnes camarades, dévorées tout d’abord par des brutes sensibles comme des bûchers… “

「あの人はこう言うのです。『女は好きじゃない。愛情ってのを、もう一度考え直さないといけない。わかっていることさ。女たちが望めるのは、今じゃ安定した立場だけ。その立場が手に入ったら、心も美もそっちのけ。残るのは冷酷な軽蔑さだけ。それが今は結婚生活の餌だ。幸福の印を持っている女たちが目に入ることもある。俺ならあいつらをいい仲間にすることもできただろう。そんな女たちが最初に乱暴者たちにがつがつ食われるんだ。薪の束みたいに感じやすい奴らにさ。』

(朗読は3分40秒から)
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ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 1/5 ヴェルレーヌの目を通したランボーの自画像

アルチュール・ランボー『地獄の季節(Une saison en enfer)』の中心に位置する「錯乱(Délires)」前半には、「愚かな乙女(Vierge folle)」と題された散文詩が置かれている。

そこでは、ポール・ヴェルレーヌの目を通して描かれたランボーの自画像が描かれる。
他者の目を通した自画像?

1871年9月、ランボーはポール・ヴェルレーヌの呼びかけに応じて、シャルルヴィルを離れパリに向かう。その時、ランボーは17歳になる直前、ヴェルレーヌは27歳だった。
ヴェルレーヌは結婚して1年しかたっていなかったがランボーに夢中になり、翌1872年の夏から2人は北フランスやベルギーを通り、9月からはロンドンで暮らし始める。
しかし、2人の生活は平穏なものではなく、ランボーは何度かヴェルレーヌと別れようとして、フランスに戻ることもあった。それは、ランボーがヴェルレーヌに書き送った手紙の表現を借りれば、「喧嘩にあけくれ荒れた生活」だった。
その結末は1873年7月に訪れる。ブリュッセルで別れ話をする中で、ヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ち、怪我をさせるという事件が起こる。その結果、ヴェルレーヌは約2年間、監獄に収監さることになる。

こうした経過を簡単に辿るだけで、2人の関係の中で、ランボーが男役、ヴェルレーヌが女役だったらしいことが推測できる。

「愚かな乙女」に目を移すと、最初に、地獄の夫(l’époux infernal)が、「地獄の道連れ(un compagnon d’enfer)の告白(la confession)を聞こう。」と話を始める。
次の、その内容が、彼の道連れである愚かな乙女(vierge folle)の打ち明け話(une confidence)として語られる。
夫はランボー、乙女はヴェルレーヌを思わせる。

その告白の中で、愚かな乙女が地獄の夫のことを延々と語り、言葉によって夫の肖像を描くとしたら、それは、ランボーがヴェルレーヌの視線を通して自分の肖像を描いていることになる。

その自画像でとても興味深いのは、ランボーの自己意識を知ることができると同時に、ヴェルレーヌに対する意識も知ることができることである。
ランボーにとって、ヴェルレールは何だったのか? 
そのヴェルレーヌにどのように見られていると思っていたのか?

こうした他者意識と、他者を通して見る自己意識という仕組みは、実は、私たちが自分について考える時の仕組みかもしれない。
そのように考えると、「愚かな乙女」がますます興味深い散文詩に思えてくる。

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ランボー イリュミナシオン 文  Rimbaud Illuminations Phrases 

プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいると、巨大な建造物でありながら、内部は超精密に構成された文に感嘆する。だが、その一方で、常に息を詰め、集中力を保っていかなければ迷子になてしまいそうで、息苦しくなってくることもある。

そんな時、ふと、ランボーの『イリュミナシオン』の「文(Phrases)」と題されたいくつかの断片に目をやると、突然の解放感に捉えられる。

 Avivant un agréable goût d’encre de Chine, une poudre noire pleut doucement sur ma veillée. — Je baisse les feux du lustre, je me jette sur le lit, et, tourné du côté de l’ombre, je vous vois, mes filles ! mes reines !  

 墨の心地よい味わいを生き生きとさせながら、黒い粉がシトシトと振りかかかる、僕の眠れぬ夜の上に。— ぼくはランプの炎を小さくする。ぼくはベッドの上に身を投げる。そして、闇の方に体を向けると、お前たちが見えてくる、ぼくの少女たちよ! ぼくの女王たちよ!

なかなか寝付けない夜(veillée)、部屋の闇がランプの煤でますます黒くなる。明かりをさらに小さくすると、暗闇はさらに深くなる。

この文を読むと、2022年10月26日に亡くなったピエール・スーラージュ(Pierre Soulages)の黒の絵画が思い出される。

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ランボー マラルメ 詩句の仕組み

フランス文学において言葉の音楽性が重視されるが、とりわけ詩に関しては、意味と同等の重要性を音が持つ。

そうした中でも、19世紀後半の二人の詩人ランボーとマラルメの詩句は音楽的に大変に美しく、意味を理解するのはしばしば非常に困難だが、それにもかかわらず高く評価されている。
というか、最初は理解が難しくても、音楽的に美しいおかげで、なんとか意味の深みにまで到達したいという気持ちにさせられる、と言ってもいいかもしれない。

当たり前のことだが、翻訳では詩句の音楽性を感じることができない。翻訳された詩の最も大きな問題はそこにある。詩の理解にはフランス語で読む必要があるのはそのため。

ただし、一口に音楽性と言っても、ランボーとマラルメの音楽はかなり違っている。ランボーの曲はすぱっとした直線を感じさせるが、マラルメの曲は柔らかく丸みを感じさせる。

その点を前提にした上で、詩句の意味的な理解を考えてみると、二人の詩句の難しさが別のところから来ることがわかってくる。
ランボーの詩句では語彙の不整合が、マラルメの詩句ではそれに加えて構文の破壊が、意味の伝達を妨げる。

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モーパッサンからネルヴァル、ランボーへのウインク

1892年の初頭にモーパッサンが精神に異常をきたした時、治療にあたったのはエミール・ブランシュ博士だったが、博士はずっと以前にはジェラール・ド・ネルヴァルの治療も行っていた。
ネルヴァルは、エミール・ブランシュ博士の父親エスプリ・ブランシュ博士にお世話になったこともある。

モーパッサンはそのことを知っていたに違いない。直接ネルヴァルのことを話題にすることはなかったようだが、精神疾患を取り上げた「オルラ」の中には、ネルヴァルに向かってウインクをしているような記述がある。

その理由を私なりに推測すると、一般的に狂気と見なされる世界観と、詩の生み出す美とが連動していることを、モーパッサンなりに示そうとしたからだと思われる。
同じ箇所に、アルチュール・ランボーに向けてのウインクもあることから、「狂気ー詩ー美」の繋がりがよりはっきりと示される。

問題の箇所は、目に見えないが確かに実在すると感じられる存在をオルラと名付け、それが世界を構成する4つの元素(水、火、大地、空気)と同様の、なんらかの元素ではないかと自問した後に記されている。

でも、あなたはこう言うかもしれない。蝶だ! 空飛ぶ一輪の花だ! ぼくはといえば、一匹の蝶を夢見る。宇宙と同じ位大きい。羽根の形も、美も、色彩も、動きも、描くことさえできない。でも、ぼくには見える。・・・・蝶は、星から星へと向かい、その飛翔の軽やかで調和のとれた息吹で、星々を、新鮮でかぐわしいものにする! ・・・天上の人々は、蝶が通り過ぎるのを目にし、恍惚となり、魂を奪われる!・・・(「オルラ」)

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