カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 冒頭の一節(Incipit) 変な奴の違和感

時々、ちょっとおかしいと感じる人に出会うことがある。逆に、自分が他の人と少し違っているのではないかと感じ、居心地が悪くなる時があったりする。
そうした違和感は、あまり意識化されていない回りの雰囲気を漠然と感じ取り、そこから多少ズレていると朧気に感じる時に生まれてくる。
つまり、個人がおかしいというよりも、目に見えない規範との違いが、居心地の悪さ、違和感を生み出すのだといえる。

アルベール・カミュは、1942年に出版された『異邦人(L’Étranger)』の中で、そうした違和感をテーマとして取り上げた。

ムルソーは、母親の死、恋人への想い、殺人等に対して、「当たり前」とは違う反応をする「変な奴」。
普通であれば、ある状況に置かれればこうするだろうという行動を取らない。そのために、他の人たちは、彼の行動の理由も、彼自体も理解できない。
しかも、いくら「なぜ?」と問いかけても、ムルソーの答えはピンとこない。

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モリエール 人間嫌い Molière Le Misantrope 17世紀後半の二つの感受性 オロントのソネットと古いシャンソン

「人間嫌い(Le Misantrope)」の中で、オロントが自作のソネットを読み、アルセストとフィラントに率直な意見を求める場面がある。(第1幕、第2場)

この芝居が上演された17世紀後半は、人と合わせることが礼儀正しさと見なされ、相手に気に入られるように話すことが、宮廷社会に相応しい行動だった。

フィラントは、そうした「外見の文化」の規範に従い、ソネットを誉める。

その反対に、アルセストは、心にもないことを言うのは偽善だと考え、思ったことを率直に伝えるのが正しい行為だと考えている。
そこで、オロントに意見を求められた時、最初は遠回しな言い方をするが、最後には直接ソネットは駄作だと貶してしまう。
https://bohemegalante.com/2020/10/11/moliere-misantrope-sonnet-oronte/

その際に比較の対象として、古いシャンソン「王様が私にくれたとしても(Si le roi m’avait donné)」を取り上げ、その理由を説明する。
その時の詩とシャンソンに関するアルセストの批評から、私たちは、17世紀後半における2つの感受性を知ることができる。

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モリエール 人間嫌い Molière Le Misantrope 批判の仕方 comment critiquer ?

Statue de Molière à la Comédie française

モリエールは「人間嫌い(Le Misantrope)」の中で、主人公アルセストと彼の友人フィラントの前を前にして、オロントが自作の詩を読み、率直に批評して欲しいという場面を設定している。

フィラントは、中庸を守り、人と合わせることが礼儀正しいとされる17世紀フランスの宮廷社会的規範を、忠実に実践している人物。
それに対して、アルセストは、自分の心に忠実に生き、内心の思いを率直に伝えることを信条としている。

その二人の前で、オロントは「希望(L’Espoir)」という題名のソネットを読む。その時、言葉の上では率直に批評して欲しいと言うが、心の底では賞賛されることを期待している。

ところで、フランス語を勉強し、フランス文学に親しんだ人間であれば、パリに行った時、演劇の殿堂であるコメディー・フランセーズに、一度は足を踏み入れてみたいと思うに違いない。
そのコメディー・フランセーズで上演された「人間嫌い」の中から、ソネットの場面を見てみよう。(フランス語がわかるわからないではなく、パリで芝居を見る喜びを感じながら。)

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モリエール 人間嫌い Molière Le Misantrope 自分に正直に生きる?

Nicolas Mignard, Molière

17世紀を代表する劇作家の中で、コルネイユとラシーヌは古代ギリシアやローマの英雄たちを登場人物にした悲劇を中心に創作活動を続けた。
他方、モリエールの芝居は、彼と同じ時代の人々を舞台上に登場させた。

その理由は、モリエールの活動が田舎回りの劇団から始まり、そこでは滑稽な笑劇が人気を博したことから来ているかもしれない。
その過程で、彼の興味は、ルイ14世を頂点とした宮廷社会の中で、個人と社会の葛藤から生じる様々な問題に向いたのだと考えられる。

「人間嫌い(Misantrope)」が取り上げるのは、21世紀の私たちの視点から見ると、偽善と正直さの葛藤のように思われる。簡単に言えば、人と上手くやっていくためには多少の噓もしかたがないか、それとも、正直であることが大切なのか。

主人公のアルセストを特徴付けるのは、正直さのように感じられる。
人々は心を偽り、その場だけでいい顔をして、後ろに回れば悪口を言い放題。アルセストはそうした「偽善(hypocrisie)」を攻撃し、心に抱いた思いは全てそのまま口にし、行動する。
ところが、彼の愛する女性セリメーヌは、偽善そのもの。どんな男にもいい顔をし、誰からも好かれようとする。
彼等二人の間には、中庸を地でいくフィラント。彼は人の気持ちを害さず、「人に気に入られる(plaire)」振る舞いを忘れない。

では、17世紀にも同じ視点でこの劇が捉えられたのだろうか。

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浮世絵への道 étapes vers le Ukiyo-é 

江戸時代を代表する浮世絵が17世紀の後半に描かれるようになるまでには、室町時代後半からの絵画の伝統があった。
その流れを辿ってみると、平安時代に確立した大和絵と、鎌倉時代以降に大陸から移入された漢画が融合され、新しい時代の美意識を生み出していく様子を見ることができる。

地獄草紙 東博本 雨炎火石

「うき世」とは、元来は、「憂世」と記され、日々の生活の過酷さを表す言葉だった。
来世に極楽「浄土」に行くことが理想であり、この世は「穢土(えど)」であり、厭わしく、憂うべき場所。

そうした現実感は、地獄絵等によって表現されている。
地獄の絵とされているが、実際には、現実の過酷さの実感を伝えるものだったと考えられる。

その「憂世」が「浮世」に変わる。
現実の厳しさは変わらない。しかし、束の間の一生だからこそ、昨日の苦しさを忘れ、明日の労苦を思い煩わず、今日この時を、浮き浮きと楽しく生きようと考える。
最先端をいくファッションを楽しみ、最新の話題や風俗を享受する。
そうした時には、官能性を隠すことなく、悪所と言われた遊里と芝居町を住み処とする美女や役者たちをモデルにして、美人画や役者絵が描かれる。

浮世絵は、現実を「浮世」と思い定めた時代精神を表現する絵画なのだ。

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ヴィクトル・ユゴー 「エクスターズ」 『東方詩集』 Victor Hugo « Extase »  Les Orientales 

1802年に生まれ1885年に83歳で死んだヴィクトル・ユゴーが、フランス・ロマン主義文学の中心であったことに異論の余地はない。
1820年代にはすでにロマン主義を先導する詩人、劇作家だった。
また、現在でもよく知られている『ノートル・ダム・ド・パリ』や『レ・ミゼラブル』の作者でもある。

そうしたユゴーの創作活動は、簡潔にまとめるにはあまりにも膨大であるが、ここでは1829年に出版された『東方詩集(Les Orientales)』に収録された「エクスターズ(Extase)」を読み、ユゴーの詩の本質がどこにあるのか考えみよう。

最初の出版物である『オード集(Odes et Poésies diverses)』(1822)の「序文(Préface)」には、次のような一節が見られる。

 Au reste, le domaine de la poésie est illimité. Sous le monde réel, il existe un monde idéal, qui se montre resplendissant à l’œil de ceux que des méditations graves ont accoutumés à voir dans les choses plus que les choses.

詩の領域は果てしない。現実世界の下には、理想の世界がある。その理想の世界は、大切なことをずっと瞑想し、事物の中に事物を超えたものが見えている人々の目には、光輝いた姿を現している。

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ルソー エミール Jean-Jacques Rousseau Émile Profession de foi du vicaire savoyard 自然宗教 Philosophie naturelle 

ジャン・ジャック・ルソーは、五感を通して感じる「感覚(sensation)」と、その感覚が引き起こす「感情(sentiment)」を人間存在の中心に据え、個人と社会のあり方について様々な思索を展開した。

1762年に出版された『エミール』では、子供から成人に至るまでの人間の成長を見据えた教育論であるが、青年時代を扱う章の中で、宗教感情について論じている。

その際に、「サヴォワ地方の助任司祭(vicaire savoyard)」を登場させ、助任司祭の「信仰告白(profession de foi)」という形式で、「自然宗教(la religion naturelle)」がどのようなものかを定義する。
「自然宗教」とは、キリスト教の人格化された神や教会の儀礼を否定し、人間が生まれながらに持っている感受性や、聖なるものを信じる気持ちに基づいている、普遍的な信仰心と言えるだろう。

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ヴォルテール 理性で神を捉える 『寛容論』 Voltaire Traité sur la tolérance 理神論(déisme)と友愛(fraternité)

フランスの18世紀は啓蒙主義と呼ばれる時代。
フランス語では、Siècle des lumières(光の世紀)。光とは、一言で言えば、人々の「無知」を照らす「理性の光」。

合理的な思想が支配的になるに従い、科学による証明が真理の条件となり、物理的に確認できないものは疑いの対象となる。
そうした物質主義的な哲学思想の発展は、キリスト教が支配的な社会の中で、信仰を問題にすることにつながった。

キリスト教では、神の啓示や奇跡を信じることが前提となる。
理性的に考えると認められない事柄が、超越的な神によって行われたことを信じることが、信仰の基礎である。神の言葉や奇跡を疑うことは、信仰からはずれることになる。

他方、啓示や奇跡は、理性的な思考では受け入れることができない。科学的に証明することも不可能である。
そこで、神の存在を否定し、「無神論(Athéisme)」を主張する人々がでてきても不思議ではない。
実際、18世紀フランスの思想家の中でも、ディドロやドルバックは無神論者と呼ばれた。

もう一つの考え方は、「理神論(déisme)」。
理神論では、創造原理としての神の存在は認めるが、創造された後の世界は、ネジを巻かれた時計のように、自然の法則に従い活動を続けると考える。
その結果として、人格を持った神(例えばイエス)の存在を認めず、啓示、予言、奇跡等を否定し、、理性に基づいた信仰を模索した。

その理神論を代表するのがヴォルテール(1694—1778)。
彼の『寛容論(Traité sur la tolérence)』(1763)の第23章「神への祈り(Prière à Dieu)」は、汎神論を最もよく表現している著作として知られている。

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ランボー 「別れ」 Rimbaud « Adieu » もう秋だ!

『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の最後に置かれた「別れ(Adieu)」は、ランボーの綴った散文詩の中で最も美しいものの一つ。
スタイリッシュな冒頭の一言だけで、ランボーらしい歯切れのよさと、思い切りがある。

L’automne déjà !

「もう秋だ!」

こんな一言だけで、読者を詩の世界に引き込む。
そして、こう続ける。

— Mais pourquoi regretter un éternel soleil, si nous sommes engagés à la découverte de la clarté divine, — loin des gens qui meurent sur les saisons.

— だが、なぜ永遠の太陽を惜しむというのか。俺たちは神聖な光の発見へと乗り出しているんだ、— 四季の流れに沿って死にゆく奴らから遠く離れて。

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