ヴィクトル・ユゴー 「若い時の古いシャンソン」 Victor Hugo « Vieille chanson du jeune temps » 初恋の想い出と恋する自然 ロマン主義から離れて

1802年に生まれ、1885年に死んだヴィクトル・ユゴーは、19世紀の大半を生き、『ノートルダム・ド・パリ』や『レ・ミゼラブル』といった小説だけではなく、数多くの芝居や詩を書き、フランスの国民的作家・詩人と考えられている。

「若い時の古いシャンソン(Vieille chanson du jeune temps)」は、1856年に出版された『瞑想詩集』に収められ、1820年代に始まったフランス・ロマン主義に基づきながら、その終焉を告げ、新しい時代の感性を示している。

また、その詩の中では自然が恋愛と関連して重要な役割を果たしているが、その感性は、日本的な自然に対する感性とはかなり違っている。自然を巡る二つの感性を知る上でも、「若い時の古いシャンソン」は興味深い詩である。

ヴィクトル・ユゴーは韻文の魔術師といっていいほど巧みに詩句の韻やリズムを操るが、「若い時の古いシャンソン」では、非常にシンプルな詩の構成にしている。

7音節で、交差韻(ABAB)の詩句で、9の四行詩(カトラン)。合計36行の詩。

歌われているのは、「ぼく( je )」が16歳の時のほろ苦い恋の想い出。20歳のローズという女性に誘われて森の中を散歩するが、「ぼく」は彼女の誘いに気づくことなく、何事もなく終わってしまう。
そして、最後に、その想い出を今でもずっと考えていると言う一言で、詩は終わる。

この淡い恋の想い出が物語として語られる。つまり、「私」とローズという登場人物が、出会い、森に向かい、その中を散策し、そこから出るまでが、時間的な順序に従って、叙事的に語られていく。
こうした物語の語りは、「若い時の古いシャンソン」が、あたかも個人の歴史の言い場面を描いた叙事詩であるかのような印象を与える。

その上で、その出来事を思い出している「ぼく( Je )」の今にはっきりと言及され、不在の過去への思いを強くだすロマン主義的なテーマの枠組みも設定されている。
ただし、ユゴーの意図は、ロマン主義的な抒情を表出することではない。では、その狙いは何か。

第1カトランは、登場人物2人と、場所、そして3つの時制が示され、詩の全体的な枠組みが提示される。

Je ne songeais pas à Rose ;
Rose au bois vint avec moi ;
Nous parlions de quelque chose,
Mais je ne sais plus de quoi.

ぼくはローズのことを考えてはいなかった。
ローズがぼくと一緒に森にやってきた。
ぼくたちは何かの話をしていた。
でも、私はもう何を話していたか覚えていない。

登場人物はぼく(je)とローズ(Rose)。
場所は森。
二人は何かを話したが、その中身はもう覚えていない。

動詞の単純過去形は、過去の出来事を示す。ここでは、Rose vint(ローズがやってきた)というのが、唯一の出来事。

半過去形は、その出来事が起こった時に、どのような状態にあったのか描写する。
ローズがやって来る前、ぼくは彼女のことを考えてはいなかった。(songeais)
彼女と森を歩いている間、何かを話していた。(parlions)

こうした過去の想い出を思い出しているぼくがいる。それは詩の語り手の今の時間帯。

この4つの詩句は、音節数が7つで、韻を踏んでいることから、韻文だといえる。しかし、それ以外の点で、散文と変わるところがないという印象を与える。

こうした詩句をアルチュール・ランボーは「韻を踏んだ散文」と言い、ステファン・マラルメは「普遍的な報道文」と非難し、詩とは韻文という形式ではないはずだと主張した。その時に標的だったのは、ユゴーのこうした詩句なのかもしれない。

他方で、ユゴーにとっては、民衆を導くのが詩人の役目であり、民衆に理解されない詩は、その役割を放棄していると考えていたことだろう。
彼が、この詩の題名にシャンソンという言葉を使ったのも、誰でも口ずさむわかりやすい歌という意味を込めてのことだったかもしれない。
ユゴーの天才は、超絶技巧だけではなく、単純さも生み出すことができるのだ。


第2カトランの動詞は全て半過去形。二人が森の中を散歩しているときの様子が描かれる。

J’étais froid comme les marbres ;
Je marchais à pas distraits ;
Je parlais des fleurs, des arbres
Son œil semblait dire: “Après ?”

ぼくは大理石のように冷たかった。
ぼくは虚ろな足取りで歩いていた。
ぼくは、花や木について話していた。
彼女の目は、こう言っているように思われた。「それで?」

最初の3行では、冒頭でぼく(Je)が反復され(アナフォール)、ぼくがどんな様子だったのかが、絵画の中でのように描かれている。

もしぼくに恋する気持ちが芽生えていたとしたら、決して大理石のように冷たいなどということはない。彼女を隣にして、気が散るということもない。

その上、ぼくは花や木について口にする。
それに対してローズは何も言わないが、彼女の目は、花や木の話の後で、何かもっと大切なことはないのかと言っているように思われる。

ユゴーは、ここであえて、「それで?」という言葉を直接話法にして、それが過去の発せられた言葉ではなく、今、ここで言われているように印象を与えることに成功している。
ぼくは、あの時には、ローズの目の意味を自分に問いかけることはなかった。しかし、今、思い出を振り返り、その意味を理解したように思うのだ。
直接話法によるローズの言葉によって、語り手の今が浮き彫りになる。

日本的な感性を持つ読者にとって興味深いのは、花や木を語ることが、ユゴーの詩では、内心を語ることとは逆のこととされていることである。
日本であれば、先々草木に人の心を託して、歌にする。つまり、自然の事物を語ることは、心を語ることにつながる。
それに対して、ユゴーは、草花を語る事は内心とは何の関係もなく、ローズの愛に応える手段などとは全く考えない。ローズが待っているのは、草や木の話の後なのだ。

自然に関する感性が、フランスと日本で対照的であることが、こうした簡単な記述から、推測することができる。

第3カトランと第4カトランでも、半過去形の記述が続く。

La rosée offrait ses perles,
Le taillis ses parasols ;
J’allais ; j’écoutais les merles,
Et Rose les rossignols.

Moi, seize ans, et l’air morose ;
Elle, vingt ; ses yeux brillaient.
Les rossignols chantaient Rose
Et les merles me sifflaient.

朝露が真珠のような雫をプレゼントしてくれていた。
灌木がくれるのは、パラソル。
ぼくは進んでいった。そして、ツグミの声を聞いていた。
ローズが聞くのは、ウグイスの声。

ぼくは16歳。陰気な様子をしていた。
彼女は20歳。目が輝いていた。
ウグイスたちがローズを歌っていた。
ツグミがぼくに向かって鳴いていた。

第3カトランでは、美しく、二人を優しく受け止めてくれる自然が描き出されている。

朝露(la rosée)とその粒(真珠 ses perles)は、初恋の新鮮さを暗示する。

灌木の形作るパラソルは、二人の愛を受け入れる自然のイメージ。

そして、ツグミとウグイス。ツグミもウグイスも、歌声で名高い。

鳥の歌声も、日本の詩歌であれば、歌人の心の表現としてしばしば用いられる。
しかし、ユゴーの詩では、別の使われ方をしている。

第4カトランで、ぼくとローズのコントラストに言及されることから、二種類の鳥の役割が、登場人物の心の内を明かすことではないことがわかってくる。

ぼくは暗い様子をし、ローズの瞳は輝いている。
その対比から、ツグミとウグイスは、二人が別々のことに関心を向け、決して一つの心で、同じ鳥たちの声を聞いているのではないことが見えてくる。
別の見方をすると、二種類の鳥は、鳥としての実態が重要なのではなく、別の鳥という違いだけが問題にされているのである。

ツグミとウグイスは、ぼくとローズの心を告げる、人間にとって親しい存在であるのではなく、自然という外の世界の存在として捉えられているといえるだろう。


第5カトランから第7カトランでは、ローズの行動と、それに対するぼくの反応が語られる。

Rose, droite sur ses hanches,
Leva son beau bras tremblant
Pour prendre une mûre aux branches
Je ne vis pas son bras blanc.

Une eau courait, fraîche et creuse,
Sur les mousses de velours ;
Et la nature amoureuse
Dormait dans les grands bois sourds.

Rose défit sa chaussure,
Et mit, d’un air ingénu,
Son petit pied dans l’eau pure
Je ne vis pas son pied nu.

ロースは、真っ直ぐに立ち、
美しい腕が、震えながら、
枝から、ミュールの実を一つ取ろうとした。
ぼくは彼女の白い腕を見なかった。

水が流れていた。新鮮で、波だった水が、
ビロードの苔の上に。
恋する自然が、
眠っていた、会話に耳をそばだてない大きな森の中で。

ローズは靴を脱ぎ、
無邪気な様子で、
小さな足を透き通った水の中に入れた。
ぼくは彼女の素足を見なかった。

第5カトランと第7カトランは、ローズの行動と、それに対するぼくの反応が、単純過去形で語られている。

Berthe Morisot, Paysanne avec des oies au bord de l’eau

最初、ローズは、背を伸ばして、手を震わせながら、ミュールの実を取ろうとする。次に、靴を脱ぎ、小川の水に足を浸す。
こうした彼女の行動が、単純過去形の動詞( leva, défit, mit )で、カメラが人の動きを追うように、次々に語られていく。

ぼくの行動は、二つの詩節とも、第4行の詩句の冒頭で、「ぼくは見なかった(je ne vis pas)」と、単純過去形で繰り返される。
冒頭での同じ語句の反復は、アナフォールという詩の用法で、その語句を強調する役割を果たす。

ローズがミュールの実を取ろうとする行為も、素足を小川に浸す行為も、恋の誘いを思わせる。第7カトランでは、あえて、無邪気な様子と補足されているが、しかし、それだからこそ、ますます彼女の行動の隠れた意味が暗示されることになる。

しかし、ぼくはそれに気づかない。白い腕も、素足も見ない。
この二つの「見なかった」という言葉からは、16歳の「ぼく」が「冷たく(froid)」、「虚ろで(distrait)」、「陰気で(morose)」だったことに対する、皮肉で醒めた語り手の今の視線が感じられる。

第5カトランと第7カトランに囲まれた第6カトランでは、動詞が半過去形(courait, dormait)に置かれ、ローズとぼくの行為の背景となる自然の様子を描いている。

その時、「恋する自然(la nature amoureuse)」という表現が使われ、大きな森が恋愛の舞台として機能する場所であることが、明確に示される。
その森は、二人の会話に耳をそばだてることはなく、何も聞かない(sourd)、好意的な自然なのだ。

Claude Josephe Verne, la Bergère des Aples

自然を舞台にした無邪気な恋愛は、ヨーロッパで長く続く「田園詩」の伝統を思わせる。
そこでは、理想化された田園風景を背景として、しばしばコリュドンと呼ばれる羊飼いと、フィロメーラと呼ばれる少女が、無邪気な愛の会話を交わす。

詩の題名「若い時の古いシャンソン」の「若い時」とは、詩人個人の青春時代というだけではなく、人類がまだ若かった時代を含んでいると考えてもいいだろう。
ユゴーは、『瞑想詩集』の序文で次のように書いた。

時に人は、「私」と書く詩人に文句をつけ、私たちについて語れと言う。しかし、私があなたたちに向けて「私」と言う時、私はあなたたちについて語っているのだ。

ユゴーの意識の中では、彼が書く私の物語は、人類の物語だということになる。
従って、私の16歳の時の恋物語は、人類の青春時代の物語となり、伝統的な「田園詩」と通底していると考えることもできる。


森の中での淡い恋の想い出は、ぼくの迂闊さに対するローズの最後の言葉で終わりを告げる。

Je ne savais que lui dire ;
Je la suivais dans le bois,
La voyant parfois sourire
Et soupirer quelquefois.

Je ne vis qu’elle était belle
Qu’en sortant des grands bois sourds.
“Soit ; n’y pensons plus !” dit-elle.
Depuis, j’y pense toujours. 

              Paris, juin 1831        

ぼくは、彼女に何を言えばいいのかわからなかった。
ぼくは、彼女について森の中を歩き、
彼女を見ていた、時に微笑み、
時にため息をつく彼女を。

ぼくが、彼女が綺麗だと言うことを見たのは、
会話に耳をそばだてない大きな森から出た時だった。
「わかった。もうそれは考えないようにしましょう。」と彼女は言った。
その時から、私はずっとそれを考えている。

                      パリ、1831年6月

第8カトランでは再び半過去形に戻り、「ぼく」の様子が描かれる。
何を言っていいのかわからず、ただ彼女の歩く後を着いていき、微笑みの意味も、ため息の意味もわからない。

そして、最後の詩節、逆転が訪れる。
第5カトランと第7カトランで使われた「ぼくは見なかった(je ne vis pas)」の反復が冒頭で使われる。
しかし、変形が施され、意味が肯定に分かる。つまり、「ではない(ne…pas)」から、「・・・の時は・・・だけ(ne … que)」という限定表現(je ne vis que)に変えられ、彼女が美しいのを最後に意識することになる。
しかし、それは、森を出た時。遅すぎた。後の祭り。

その気持ちは、16歳の「ぼく」の気持ちであると以上に、「若い時の古いシャンソン」を歌う詩人の今の気持ちだといえる。
ユゴーは現在性を強調するかのように、「わかった。もうそれは考えないようにしましょう。」と、ローズの言葉を直接話法にしている。
あたかも、彼女が今、ここで、そう言っているかのように。

そして、その「今」に反応するかのように、詩を書いている今の「私」は、そのことをずっと考えている(j’y pense)と、現在形で記す。
動詞の現在形は、第一カトランで、「何を話したのか覚えていない(je ne sais plus de qoui.)」という言葉の中で、一度使われていた。

今の「私」は、ローズとの過去の想い出をずっと考えていて、そこに一つの楽園、失われた楽園を見出している。

この最後の詩句は、ロマン主義の抒情詩の枠組みを顕在化させる。
そこでは、過去に理想の時を見出し、現在は失われた時と見做す。
そして、不在の過去を理想の楽園として、強烈な憧れを抱く。
決して到達できない理想、イデアへのメランコリックな思いから生まれる抒情性こそが、ロマン主義的抒情の本質である。
その典型は、1820年に書かれたラマルティーヌの「湖」の中で、大変に美しく表現されている。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/

「若い時の古いシャンソン」には、現在と過去の関係だけではなく、自然のテーマも用いられ、ロマン主義の詩と考えられてもおかしくない。

そして、そのように見えることがユゴーの意図だっただろう。
実際には1855年に書かれた「若い時の古いシャンソン」に、1831年6月という日付が書き込まれていることが、その証拠である。
1830年代は、フランス・ロマン主義の最盛期。

ユゴーの個人的な活動に限っても、1830年にはエルナニの戦いがあり、ロマン主義が古典主義に勝利を収めた記念的な年。
31年には『ノードル・ダム・ド・パリ』が出版され、芝居では『マリオン・ドロルム』の初演。詩集『秋の葉』も出版された。
従って、1831年という日付は、ロマン主義の刻印だといえる。

では、本当にユゴーは、1855年に、ロマン主義の詩を書こうとしたのだろうか。

1850年代の初頭にはユゴーはナポレオン3世と対立し、皇帝を弾劾する『懲罰詩集』を53年に出版。55年からは、英仏海峡にあるイギリス領のガーンジー島に亡命する。
『瞑想詩集』を56年に出版したのも、その亡命の最初の時期だった。

その時代、絵画ではクールベの先導するレアリスムがセンセーションを巻き起こし、文学にも波及した。
詩の方面では、テオフィル・ゴーチェの『七宝螺鈿集』や、ルコント・ド・リールの『古代詩集』が出版され、無感覚(impasssible)を中心概念とするパルナス派のベースが作られつつあった。

このように新しい芸術観が芽生えつつあった時期に、ユゴーが過去のロマン主義を単に再現する詩を書くとは考えにくい。
としたら、彼の狙いはどこにあったのだろう。

「若い時の古いシャンソン」には、ラマルティーヌの「湖」から発散する強い抒情性は感じられない。
抒情性は、不在の理想に対するメランコリックに渇望から生まれるのだが、「それ以来、私はそれをずっと考えている。」という詩句には、どうしてもローズの愛を取り戻したいという強い欲望が感じられない。
つまり、今、それが欠如しているという感覚がなく、むしろ、過去は思いを通して現在にある。

言い換えると、ロマン主義的な構図に基づきながら、視点は過去への渇望ではなく、現在の中に過去が含まれていることに移っている。
今は喪失の時でありながら、その中に不在の時を想い出として含む。

現在に対するこうした意識の変化を浮かび上がらせるために、ユゴーはあえてロマン主義的な図式を描き出し、1830年代と1850年代の意識の違いを明らかにしようと意図したのではないだろうか。

芸術は現在性の探求へと向かいつつあった。そうした中で、過去を描くことが追憶ではなく、現在を描くことでもあるという意識が出来つつあった。
ローズの気持ちに気づかないでいた迂闊で無邪気な自己に対する、醒めて皮肉な視線。現在の自己に対するその視線が、「若い時の古いシャンソン」のテーマであり、その視線は現代性(モデルニテ)につながるだろう。


自然に対する感性

日本的な感性にとって興味深いことは、ローズを通して感じられるヨーロッパ的自然観である。

田園詩の中でも、ロマン主義のテーマとしても、自然は数多く描かれ、自然が恋愛の舞台として出てくることが多くある。
ユゴーの言葉で言えば、「恋する自然(la nature amoureuse)」。
恋愛の物語に相応しい背景。

しかし、ローズは、花や草について語るぼくの言葉に、感情を読み取ろうとしない。「ぼく」も、花や草に気持ちを託すなどとは、考えていないようである。

そうした姿勢は、日本的な自然観と全く違っている。
『万葉集』の作者不詳の一句。

天雲の 棚引く山に こもりたる 我が下ごころ 木の葉知るらむ

雲が棚引き、その下に山がこもっている。
私の心もこもっていて表には現れないが、しかし、木の葉だけはその心を知っていてくれるだろう。

日本的な感性では、木の葉について語ることは、内心の思いを語ることであり、歌人達は、はっきりとは口にしない心の秘密を山川草木に託した。

その理由は、人間と自然とは原初的には一つの存在であり、自然の表情がすでに人間の感情表現だと感じられることによる。
自然の生と人間の生は一つ。二つが分離するのは、意識によって自己が自覚され、その反対側に自然が成立する時である。

ヨーロッパでも、自然に生命を認め、生きた存在と考える思想もある。
物質主義的、実証主義的な思考では、無性物に生命を認めない。しかし、非合理主義的な思考の中では、全ての物に命を認めることがある。

ユゴーは、『瞑想詩集』の最後の部分に置かれた「影の口が言うこと」の中で、「全てが口をきく」とか、「全てには魂が満ちている」と言い、人間と無性物の垣根を取り払う思想に基づいた思考を展開している。

ボードレールも、有名な「コレスポンダンス」の中で、生きる自然を歌った。

La Nature est un temple où de vivants pilliers
Laissent parfois sortir des confuses paroles :
L’homme y passe à travers des forêts de symboles
Qui l’observent avec des regards familiers.

自然は一つの神殿。生きた柱が、
時として、混乱した言葉を発する。
その中で、人間は象徴の森を通る。
彼を親しげに見つめる森を。

https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/

木々達は生命を持ち、人間の理性では理解できない言葉をささやき合う。そして、人間がそこを通ると、親しげな視線を投げかけてくれる。
自然は決して人間と対立する存在ではなく、逆に、親しい(familier)な存在なのだという認識。

しかし、その「親しさ」は、決して、日本的な感性の持つ親しさではない。
森はシンボルであり、人間と一体化してはいない。
人間と自然の間には境界線が引かれ、それらは最初から別々の存在である。その上で、自然と人間が共鳴し、対応(コレスポンダンス)することがあると考えられる。

自然はアレゴリーの一つの項目になるとしても、決して人間と一つではない。
花や草がアレゴリーとしての意味を持たないときには、ただの物質にすぎず、人の心を語ることはない。

「若い時の古いシャンソン」のローズの「それで?」という言葉は、私たちに、日仏の自然観の決定的な違いを教えてくれる。

日本では、人間と自然、世界は、原初的には一つ。主客の分離は事後的な出来事になる。

ヨーロッパでは、人間と自然は別々の存在。その二つが対応するとしても、独立した存在であることに変わりはない。
自然は恋する自然として恋愛の舞台となり、二人の愛に好意的であり、内心を象徴することがあるとしても、決して内心そのものではない。

鶯の音(おと) 聞くなへに 梅の花 我家(わぎへ)の園に 咲きて散る見ゆ

この歌が歌うのは、鶯の声、梅の花だけ。
鳥の鳴き声を聞きながら、家の庭で、梅の花が咲き、散ってく姿を見る。

ローズがこの句を読んだら、「それで?」と言うだろう。
しかし、日本的な感性は、ここに「風流」を感じる。
この違いから、日本的自然観とヨーロッパ的自然観の違いが垣間見える。

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