加藤周一 「日本文化の雑種性」とその土壌

加藤周一(1919-2008)は、フランス留学のため、1951年11月に羽田空港から出国し、1955年3月、貨物船で神戸港に帰国した。彼は本来医師であり、アメリカへの留学も視野に入れていたのかもしれない。しかし、一高時代から「フランスに行きたい」という思いが強く、フランス政府の留学生試験を受け、フランスで文学研究を行う道を選んだ。

フランス留学を経て帰国した加藤は、敗戦から10年を経た日本を、ヨーロッパでの生活体験を踏まえて見つめ直し、日本の文化について思索をめぐらせ、その成果を次々と発表していった。

1955年6月に発表された「日本文化の雑種性」は、明治維新以降に近代化された日本のあり方を問い直すものであり、翌1956年9月の「果たして『断絶』はあるか」の一節では、日本が外国の文化を受容する土台について論じている。

ここでは、この二つの日本文化論を通して、加藤周一が提示した日本文化のあり方を探っていこう。

(1)雑居性

歴史を振り返ると、日本は7世紀から19世紀までの約1200年間、中国文明の圧倒的な影響下にあり、19世紀後半の明治時代からは欧米の影響を受けてきた。そして、その影響が広範囲に及び、かつ深くまで浸透しているために、何が日本本来の伝統なのかが分かりにくくなっているほどだといえる。

フランスでの留学生活を終え、久しぶりに日本を目にした加藤周一には、日本の伝統的な様相と近代化された日本という二つの側面が、同時に感じられたらしい。「日本文化の雑種性」では、その二重性が次のように記されている。

日本の第一印象とでもいうべきものはこうであった。海に迫る山と水際の松林、松林のかげにみえる漁村の白壁、墨絵の山水がよく伝えているあの古く美しい日本、これはヨーロッパとは全くちがう世界であるということが一つ、しかし他方では玄界灘から船が関門海峡に入ると右舷にあらわれる北九州の工場地帯、林立する煙突の煙と熔鉄炉の火、活動的で勤勉な国民がつくりあげたいわゆる「近代的」な日本、これはマレーとは全くちがう世界であるということがもう一つ。(「日本文化の雑種性」)

「古く美しい日本」と「近代的な日本」の共存は、21世紀を生きる私たちにとっても当たり前のことだが、フランス留学から戻った加藤の目には、二つの文化が共存する日本の姿が、より新鮮に映ったのだろう。

興味深いことに、加藤は帰国の船旅で立ち寄ったシンガポールの様相を見て、こうした二つの文化の共存が決して当たり前ではないことを、強く意識したに違いない。彼は、フランスの出港地であるマルセイユ、途中で立ち寄ったシンガポール、そして到着地である神戸を比較することで、日本の独自性を発見したのだった。

神戸に上陸したときの印象も全く同じものである。神戸はマルセーユともちがうが、シンガポールともちがっていた。外見からいえばシンガポールの方が神戸よりもマルセーユにちかいが、それはシンガポールが植民地だからであって、シンガポールの西洋式の街はマレー人が自分たちの必要のために自分たちの手でつくったものではない。そういう植民地にとっての問題は、原則としては、はっきりしている。植民地か独立国か、外国からの輸入品か国産品か。もしそういうところで文化が問題になるとすれば純粋に国民主義的な方向でしか問題になりえないだろう。(「日本文化の雑種性」)

シンガポールはかつて植民地であり、その町がヨーロッパ化されているとすれば、それはシンガポールの人々のためではなく、植民地を支配したイギリス人のために行われたものだった。

ところが、神戸ではそうではない。
関門海峡で見た光景と同じように、二つの文化が共存している。しかも、シンガポールとの比較を通して、その共存の仕方そのものの独自性も見えてくる。

ところが神戸では話がそう簡単にゆかない。港の桟橋も、起重機も、街の西洋式建物も風俗も、すべて日本人が自分たちの必要をみたすためにみずからの手でつくったものである。シンガポールの西洋式文物は西洋人のために万事マルセーユと同じ寸法でできているが、神戸では日本人の寸法にあわせてある。西洋文明がそういう仕方でアジアに根をおろしているところは、おそらく日本以外にはないだろうと思われる。マレーとちがうし、インドとも中国ともちがう。そのちがいは、外国から日本へかえってきたとき、西ヨーロッパと日本とのちがいよりもはるかに強く私の心をうごかした。(「日本文化の雑種性」)

「神戸では日本人の寸法にあわせてある」。この言葉は、加藤周一の考える日本文化の特徴を、端的に物語っていると言ってもいいだろう。日本は確かに近代化され、欧米文化の強い影響下にある。しかし、それは欧米の文化をそのまま受け入れたということではない。日本人の生活や感覚に合わせて受容され、既存の日本文化と共存する形へと変化しているのである。

加藤周一は、こうした異質な文化が排除されることなく、同じ空間に並存する日本文化のあり方を、「雑居性」という言葉で表現したのだった。


(2)外国文化を受容した土壌

1956年に発表された「果たして『断絶』はあるか」において、加藤周一は、中国の文化や欧米の文化の到来が、それ以前の日本文化との断絶をもたらしたのか、という問題を取り上げる。

その答えを最初に明かしてしまえば、「断絶はなかった」ということになる。より正確に言えば、外来の文化は断絶をもたらさなかったし、他方で、排除されることもなかった。日本の土壌にまかれた外国種の種も、その土地の栄養を吸い上げ、原産地とは異なる美しい花を咲かせたのだった。

加藤は、日本の土壌の最も大きな特色として、「超越性の欠如」を指摘する。

(・・・)仏教渡来以前の原始宗教的世界には、超越的な彼岸思想がなかった、仏教、儒教、および西洋文化の影響も、その点においては、日本人の意識をけっきょく変革しなかったということに尽きる。(「果たして『断絶』はあるか」)

「超越的な彼岸思想」というのは分かりにくいかもしれない。例えば、インドや中国から伝来した仏教の思想では、現世を超えた世界や、そこからの解脱が重要な意味を持つことを念頭に置くと、加藤のいう「超越的な彼岸」が、現実世界を超えた場所を前提としていることが分かる。キリスト教であれば、神と人間との間には根本的な隔たりがあり、神は人間の世界を超えた存在として捉えられる。

それに対して、日本化した仏教では、死後の極楽に行くことよりも、現世の利益や幸福を願う傾向が強い。日本では、今生きている世界への愛着が、極楽への関心よりもはるかに強い。究極的には、ここにあるものがすべてなのだ。

そして、そうした現世への関心は、自然への親近感と、それを表現する和歌や俳句などによって示されてきた。

超越的な彼岸がないということはこの感覚的自然が唯一の、究極の実在だということである。また同時に日常の感覚的な経験が唯一の、究極の真実だということでもある。そこから季節の移り変りに敏感な抒情詩まで、日常的経験と観察から成る日記または日記的文学の距離は遠くないだろう。(「果たして『断絶』はあるか」)

『古今和歌集』や『万葉集』を見ても、春夏秋冬を詠う歌が数多く収録されている。そこで詠われるのは、自然を超えた究極の美ではなく、具体的な草木や花の姿と、それに伴う人の心のあり方である。そこでは、日常的な経験が究極の対象であり、それを超えた永遠が対象となっているわけではない。

そうした日本的な日常性は、芸術を日常生活の中に組み込み、生活を美化する方向へと向かったと、加藤周一は考える。

美の世界は、日常的世界から独立したものではなく、日常的世界の延長である。芸術的衝動がイコノグラフィーを通じてあらわれなくなったときには、額縁のなかの絵として発展する代りに、ふすま絵とか屏風とか扇面とかいう形をとってあらわれる。すなわち、純粋芸術が発生する代りに、生活の美化がおこるだろう。かくして、工芸的美術の発達は、わが美術史の一つの特徴であった。装飾的傾向は必然的にそれに伴う。光琳でさえも屏風に描いた。彼は、天才的な装飾家であったのではなく、装飾的傾向を前提とする文化の枠のなかで、あらゆる造形美術に共通の理想を実現した天才だったのである。(「果たして『断絶』はあるか」)

欧米では、絵画はキャンバスの上に描き、額に入れて飾る。それは、芸術を日常生活から切り離し、独立した空間に置くことにもつながる。

それに対して、日本では、芸術も日常生活の中に組み込まれてきた。絵画は襖や屏風に描かれ、人々が暮らす部屋の空間そのものに組み込まれていた。

加藤が日本最高の画家の一人とみなす尾形光琳の絵画も、部屋の一部としての屏風絵だった。それは「純粋芸術」ではなく、「生活の美化」の一部だったのだ。

現代の日本でも、例えば包装紙などに美しい装飾が施されている。どうせ捨ててしまうのだから、単色で十分なはずなのに、そこにも美が意識される。それは、「生活の美化」が現在の日本でも自然に継続していることの証にほかならない。

そのことは、加藤の考察によれば、「超越的な彼岸思想」がない日本の土壌が、どのような花の種をまかれたとしても、日常的世界の延長上に美の世界を開花させたことを意味している。

ここで注目したいのは、その日本の土壌こそが、外国の文化を受容した際にも、それを額縁に入れて日常生活から切り離すのではなく、「日本人の寸法にあわせて」日常生活の延長線上に配置する原動力となったのではないか、という点である。

そのことは、自然についても当てはまる。加藤は、日本の伝統において、日常的世界における自然とは、現実そのままの自然ではなく、実は文化化された自然であることに注目する。

『万葉集』の「自然」も、そのかなりの部分が、中国の詩の影響を受けて、いわば文学化された自然であった。『古今集』およびそれ以後の勅撰集の「自然」に到っては、もっと文学的である。すなわち平安朝の歌人たちは、自然一般に鋭敏だったのではなく、文学的伝統が繰り返した自然の主題に敏感だったのである。彼らはたとえば「ほととぎす」という鳥よりも、「ほととぎす」という言葉を好んでいたらしい。鳥は自然に属し、言葉は文化(文学)に属する。
(「果たして『断絶』はあるか」 追記)

日本において、外来の文物は、いったん言葉に還元され、その言葉が流通することによって、言葉が指し示す現実の事物を好ましいものとする感受性が形づくられていく。そして、その文化的な伝統が「生活の美化」を促し、現実世界においても、私たちの感受性に形を与えていくといってもいいだろう。

しかも、その作用においては、異文化も日本語によって媒介されるため、日本文化の中に容易に受容され、排除されることがない。これこそが、加藤周一のいう日本文化の「雑種性」を生み出してきた土壌だったのではないだろうか。


加藤周一がフランスから帰国した1955年、日本には「古く美しい日本」と「近代的な日本」が共存していた。神戸の港に並ぶ西洋式の建物や起重機も、シンガポールのように外国人のためにつくられたものではなく、日本人が自分たちの生活のために取り入れ、「日本人の寸法」に合わせたものだった。

加藤がそこに見いだしたのは、単純な西洋化でも、伝統の断絶でもない。中国や欧米からもたらされた異質な文化は、日本の文化を消し去ることなく、また排除されることもなく、日本の土壌の中で受容され、そこに新しい形を与えられてきたのである。

その背景に加藤が見たのが、「超越的な彼岸思想」の欠如であった。現世の日常と自然を究極の実在として受け入れる日本の文化は、芸術を日常生活から切り離すのではなく、「生活の美化」へと向かわせた。そして、外来の文化もまた、日本人の生活や感覚に合わせて受容されていった。

加藤周一が「雑種性」という言葉で捉えた日本文化とは、異質なものを排除して純粋性を守る文化ではなく、異なる文化を受け入れながら、それを自らの生活の中に取り込んでいく文化だったのである。

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