
文明開化とは、明治時代に日本が欧米の文化を吸収し、江戸時代までの制度や習慣が大きく変化した現象を指す。一般的な歴史観では、文明開化は近代日本の発展につながったと考えられている。
その成功を象徴する出来事の一つが、第一次世界大戦後に成立した国際連盟において、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ常任理事国となったことだといえる。1868年の明治維新からわずか50年ほどしかたっていない1920年(大正10年)に、日本は列強の一員となったのである。
そのときの日本人が抱いたプライドは、現代の日本人が「G7の一員であるアジア唯一の国」という表現から感じるプライド以上のものだったのかもしれない。
では、文明開化以前の日本は、封建制度のもとで身分制度などによって自由が制限され、欧米に比べて遅れた時代だったのだろうか。
(1)認識の罠
私たちは、「認識の罠」とでもいうべき状態にはまってしまうことがある。
一つの言葉に納得すると、そこにとどまってしまい、別の事実があることを意識しなくなる。その後、別の事実を示す言葉に出会い、それにも納得する。その二つの言葉が矛盾しているとしても、そのことに気づかず、そのままにしてしまう。私は、こうした現象を「認識の罠」と呼んでみたい。
たとえば、坂本龍馬が言ったとされる「日本の夜明けぜよ」(実は彼の言葉ではないのだが)という言葉を聞くと、明治時代になって日本もようやく夜明けを迎え、それ以前の日本は夜の闇に包まれていた、といった印象を受ける。そこで、「龍馬、頑張れ」といった気持ちに誘われる。
維新以降の近代化、すなわち欧米化は、日本にとって大きな変化であり、文明開化が現代の日本の形成につながったと考えること自体は、間違いではない。ただし、その一面だけにスポットライトを当てていると、江戸時代までの日本が古く、遅れていて、あるいは劣っていたといった考えに結びつく可能性も否定できない。
「日本の夜明け」という表現から、「江戸時代=夜・暗闇 → 黒船来航・幕末の変革 → 明治維新=夜明け → 近代日本=昼」という構図を描いてしまう。そして、幕末から明治維新にかけての時代を、「暗い時代 → 夜明け → 明るい近代」という流れの中に位置づけ、過去は劣ったものであり、近代が優れていると見なしてしまう。
しかし、江戸時代の文化に触れると、そこにも優れたものが数多くあることがわかる。飛鳥時代から奈良・平安時代という貴族文化、鎌倉・室町を経て江戸時代へと続く武家社会の文化まで、日本の伝統文化は、決して欧米の文化に劣るものではない。
「認識の罠」と私が呼びたいのは、「文明開化」と「古来の日本文化」を個々に知っていても、それらを結びつけて考えることが少ないということだ。「日本の夜明け」というのであれば、それまでの日本は本当に闇の時代だったのか、とすぐに問い直す習慣がない。そのため、一面的な見方に終始してしまう。それでは、「夜明け」によって何が変わり、その結果、何が改善されたのかが、ぼんやりしてしまう。
(2)教育制度
「認識の罠」の具体的な例を挙げてみよう。
明治新政府は「国民皆学」を掲げ、1872(明治5)年に「学制」を定め、身分、貧富、男女を問わず、すべての子どもに教育を受けさせるという理念を打ち出した。そこには、「一般の人民、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事」を実現しようという意図があった。
このことを知ると、明治時代になり、一般の国民にも教育の普及を推進する政策が行われたと納得する。その一方で、自然に、江戸時代には士農工商といった身分制度が確立していて、教育も十分に施されていなかったのはないか、という思いにとらわれがちになる。
しかし、実際には、江戸時代にもそれなりの教育が行われていたことが知られている。いわゆる「寺子屋文化」があり、武士だけでなく庶民にも読み・書き・そろばんが普及していた。特に都市部では、識字率は世界でも高い水準にあったとされる。
もし「国民皆学は素晴らしい」という視点から、過去の教育を否定することになると、そこにも「認識の罠」が生じる。
一つの時代の優れた面を認めることと、それ以前の時代を否定することは、本来、同じことではない。ところが私たちは、一方を肯定すると、無意識のうちにもう一方を否定してしまうことがあるのだ。
さらに、その流れの中で、肯定されたものを一面的にしかみない傾向も生まれてくる。
「国民皆学」でいえば、徳川幕府を頂点とする幕藩体制の下で、一般の人々の所属意識は、まず村や町にあり、より大きな単位としては藩にあったと考えられる。現在の感覚にたとえれば、藩が一つの国家に近い役割を果たしていたともいえる。したがって、現代のように、人々が「日本という国の国民」であるという意識が社会全体に共有されていたわけではなかった。
明治になり、新政府が進めなければならなかったことの一つは、そうした藩を単位とする意識を「廃藩置県」によって解体し、人々が日本という一つの国家の国民であるという意識を形成することだった。欧米列強の侵略に対抗するためには、国力を結集する必要があり、そのためには、人々が日本国民であるという自覚を持つことが重要だったといえる。
「国民皆学」は、こうした近代国家形成のための重要な施策の一つでもあった。国民としての共通意識を形成することなしに、全国の若者を国家のために動員することは容易ではない。1873(明治6)年の徴兵令によって、士族・平民の区別なく、一定の条件を満たす男子を兵役に就かせる制度が導入されたことも、その一環として考えることができる。
しかし、当初から人々が「日本国民」として国家を守る意識を持っていたわけではない。徴兵令が実施された際には、兵役を「血税」と捉えた人々の恐怖や不満が広がり、各地で血税一揆が起こった。
その時期と、1894(明治27)年の日清戦争、1904(明治37)年の日露戦争における国民の戦争への動員や戦意高揚の状況を比較すると、明治政府が進めた学校教育や徴兵制などが、近代国家の形成においてどのような役割を果たしたのかが見えてくる。わずか20年余りの間に、徴兵制を受け入れる社会的基盤が形成され、国家と国民との結びつきも大きく変化していったのである。
こうした事実を一つひとつ確認していくことで、「国民皆学」が果たした役割も、より多面的に見えてくるのだ。
こうした考察をまとめると、次のように言うことができる。
「進歩」は必ずしも「過去の否定」を意味しない。そして、「進歩」にもさまざまな側面がある。そのことを意識しておくことが、「認識の罠」にはまらないための一つの道なのだ。
(3)平和な日本のために
近代日本の発展は、明治政府が推進した「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」と呼ばれる各方面の政策によって国力が増強し、経済的にも豊かになったことによることは間違いない。その恩恵は、現在まで続いている。
近代化、すなわち欧米化によって、たとえば、身分による法的差別の縮小、教育の普及、医療の進歩、科学技術の発達、交通・通信の発達、法の下の平等、女性の権利の拡大など、進歩と呼べるものは数え切れない。
しかし、同時に、そこに負の側面があったことも忘れてはならない。その一つが、19世紀末から20世紀半ばまで続いた欧米列強の植民地政策を、日本もまた採用していったことだったと、私は考えている。
ヨーロッパでは、1861年にイタリアが統一され、1871年にはドイツが統一された。アメリカでも1865年に南北戦争が終結し、その後、海外への進出が加速していった。こうして、従来から植民地を保有していたイギリスやフランスなどの列強との間で植民地獲得競争が激化し、アフリカ大陸だけでなく、アジアでも利権獲得をめぐる対立が激しくなっていった。
日本にも、19世紀前半から欧米の艦隊が来航し、1853年のペリー来航に代表されるように、開国を求める圧力が加えられた。日本の近代化は、こうした欧米列強の圧力に対する自己防衛の動きだったともいえる。つまり、ヨーロッパの産業や文化を積極的に取り入れ、軍事力や経済力を強化することで、植民地化されることを避け、清のように欧米列強との不平等条約を結ばされることによって政治的・経済的な主権を制限される事態を回避しようとしたのである。
そうした中で、外来文化を受け入れ、自国の社会に合わせて取り入れることに長けていた日本は、短期間のうちに近代化を成し遂げた。そして、先に述べたように、1920年(大正9年)には国際連盟の常任理事国となるまでに国力を発展させることに成功した。
その一方で、日本が列強による植民地獲得競争に参加し、台湾、朝鮮半島、そして満州へと進出し、戦争への道を歩んでいったことも、疑いのない事実である。
その際、欧米では、植民地政策によって鉄道や通信、近代医療、教育制度などが導入され、法秩序の整備によって社会的安定がもたらされたとして、植民地支配を一面的に否定することはできないという議論もある。
その一方で、21世紀になった現在でも、かつて植民地を支配した側と支配された側との間の経済的・政治的な格差が残っており、それがヨーロッパやアメリカにおける移民問題ともつながっているとして、植民地支配の負の側面が現在まで続いているという議論もある。
そうした議論とは別に、明治維新以来、日本が海外における武力紛争や戦争に加わり、台湾や朝鮮などを植民地とし、その状態が1945(昭和20)年まで続いたことは事実である。
そして、近代以前の日本において、国家が海外へ大規模な軍隊を派遣し、長期的な軍事進出を行うことがほとんどなかったことを知ると、近代日本がいかに大きな転換を経験したのかを理解することができる。
日本という国家の成立以前、古墳時代には、倭の勢力は朝鮮半島と密接な関係を持っていた。そして7世紀には、朝鮮半島における戦争に倭の勢力も関与した。663年には、百済復興を支援するために派遣された倭軍が、唐・新羅連合軍と戦い、敗北した。これが白村江(はくすきえ)の戦いである。
その後、元寇のように外国勢力から日本が攻撃された例はあるものの、日本の国家が海外へ大規模な軍隊を派遣し、継続的に軍事進出を行うことは長くなかった。
13世紀後半から16世紀にかけては、いわゆる倭寇による朝鮮半島や中国沿岸への襲撃が行われた。しかし、倭寇は日本国家による海外遠征ではなく、海賊や武装商人などによる活動であった。また、後期倭寇には中国人なども多数含まれており、これをそのまま「日本による海外戦争」とみなすことはできない。
次に、日本が国家として大規模な海外出兵を行ったのは、1592年と1597年、豊臣秀吉による朝鮮出兵であった。しかし、これは秀吉の死によって終わり、長期的な海外軍事進出にはつながらなかった。
江戸時代には、幕府による対外関係の統制が強化され、海外への大規模な軍事遠征も行われなかった。また、徳川家康が1600年の関ヶ原の戦いを経て政権を確立すると、幕府は大名を厳しく統制し、大名同士の大規模な戦闘もほぼなくなった。
その結果、武士は軍事的身分でありながら、実際には行政官、役人、教育者、警察などの役割を担うようになり、戦闘を行う機会のほとんどない身分へと変化していった。
このように見ると、白村江の戦いから明治維新までの長い期間、日本では国家による海外への大規模な軍事進出が断続的に繰り返されることはなかった。豊臣秀吉による朝鮮出兵という大きな例外はあるものの、それが長期的な国家政策として継続することもなかった。
それが19世紀後半になると、欧米列強の圧力から自国を守るために近代化を進め、軍事力を強化する中で、やがて日本自身が植民地を獲得し、海外へ軍事的に進出する側へと転じていったのである。
海外への大規模な軍事進出が長期間行われなかった時代と、明治維新から1945年までの日本を比較すると、「文明開化」が日本にもたらしたものの中に、負の側面もあったことが見えてくるのではないだろうか。
「認識の罠」から逃れることで、近代化がもたらした複合的な側面が見えてくる。そして、そうして歴史を多面的に知ることが、これからの日本の進むべき方向を考えるための一助になるはずである。
少し別の視点から、明治維新後の戦争について考えたことがあった。