知の民主化? 「専門家の知見」 vs 「一人の個人の意見」

SNSでは、誰もが自由に自分のオピニオンを発信することができる。その意味では、とても民主的な対話の場であるということができる。
しかし、その一方で、専門的な分野で研究を重ねた上で発信される情報と、何の知見もないままに発信される感想とが、一つの土俵の上で相撲を取るように対峙するといった状況も生じている。

例えば、地球温暖化について、専門分野の研究者は、観測データ、物理学的理論、気候モデル、過去の研究との整合性などを積み重ね、「現在の地球温暖化は人為的な温室効果ガス排出による」と論証する。

その論証に反対するのであれば、データ、方法論、論理という同様の手続きに基づいた論証が求められる。実際、「地球はもともと温暖化と寒冷化を繰り返している」、「気温の変化は太陽活動や宇宙線の影響を受けている」といった説が提示されることもある。

しかし、それ以上にSNSでは、「そんなものは嘘だ」、「昔も暑かった」、「CO₂が増えたから温暖化したという証拠はない」、「科学者は金儲けのために言っている」などと、短い言葉で結論だけを提示し、いかにも「論破」したかのような姿勢を示す。

一見すると、とても不思議な現象である。しかし、インターネットという仮想空間では、こうした「専門家の知見」と「一人の個人の意見」が、選挙の投票にたとえれば、同じ一票であるかのように扱われ、流通している。

図示すると、次のようになる。

「発言する権利の平等」

「意見の価値の平等」

「根拠を示さない断言でも、一つの有力な意見として受け入れられる」

このようにして、SNS上では、誰もが発言できるという言論の平等が、「誰の意見も同じ価値を持つ」という認識へと変質していると考えられる。

しかし、こうした状況が続くことは、地球温暖化対策などを考える上で、近未来どころか、現在においてすでに大きな問題を引き起こすことにつながっている。

では、短い言葉で専門家や権威を断罪する発信者たちは、何を求めているのだろうか。

(1)自己肯定感の充足

「京都議定書」や「パリ協定」などを通じて地球温暖化が社会的に認知され、現在の気候変動の主な原因が人為的な温室効果ガスの排出にあることが、科学的には広く認められている。

それに対して、「温暖化は利権のでっち上げ!」、「氷河期が来る!」などと短く断言することは、「自分は騙されていない」、「大多数が騙されている中で、自分(たち)だけが真実に気づいている」といった満足感をもたらす。

こうした姿勢は、温暖化に懐疑的であるとしても、「よくわからないから信じない」という消極的な態度より、はるかに強い自己肯定感を与える。

(2)居場所の確認

一般的に共有された知見に対して逆張りをする主張は、同じ意見を持つ人々を囲い込み、ネット上の仮想空間の中に彼らの居場所を作り出す。

その際には、科学的な手続きに従った綿密な反証を提示するよりも、「温暖化は嘘」といった一刀両断の発言のほうが受け入れられやすい。

その短い言葉は、ある意味では標語だといえる。
その標語を共有することで、「正義の集団」に所属していることが確認される。そこは彼らにとって大切な居場所なのだ。

(3)心理的報酬

何かを証明するためには、事実の確認や、結論を正当化するための論証など、面倒な手続きが必要になる。その結果、そうした手続きは回りくどく退屈なものと感じられるだけではなく、一般の人々にとっては、理解するために知的な負担もかかる。

それに対して、単純で明快な言葉は、一言で反対意見を「論破」したような感覚を与え、認知的な負荷が低いだけに、快感をもたらしやすい。

「温暖化は利権を持つ側の嘘だ」、「昔も温暖化はあった」と一言で切り捨てる行為は、これまでの温暖化研究で積み上げられてきた成果を、「自分の一言で破綻させてやった」という感覚を生み出すことにもなる。そして、その感覚は、手軽な万能感や優越感をもたらす。

しかも、そこに「いいね」などの反応が加われば、その発言が他者から承認されたという感覚も生まれる。つまり、科学的な論証を否定するという行為そのものに、自己肯定感、優越感、所属感、他者からの承認といった心理的な報酬が結びつくことになる。

(4)否定の目的化

一刀両断に「論破」することは、科学的な論証の内容を吟味し、より精密な結論に達することが目的ではなく、否定という行為そのものが目的化しているといえる。だからこそ、議論や対話を飛ばして、自分の結論を一言で押し付け、相手を打ち負かそうとするのだ。

この行動の核心は、そこに心理的な報酬があることだと考えられる。つまり、不快な複雑性からの解放、居場所の確保、優越感、自己肯定感などが、短く断定的な書き込みから得られるのだ。

そして、そうした書き込みを重ねることで、その心理的な報酬に依存するようになり、どんな話題に関しても、同様の書き込みを繰り返していく。

結局、この現象の核心は、科学的主張の内容を吟味した結果として否定しているのではなく、否定するという行為そのものに心理的な報酬が結びついているという点にある。

(5)否定中毒

以上のような現象は、否定する側のコストがほとんどゼロだということから生じているのではないかと考えられる。ある事柄に対して、「嘘だ」「根拠がない」と一言で否定するだけなら、ほとんど思考する必要もなく、時間も一瞬ですむ。

しかも、それによって「専門家の意見は間違っていて、自分の説が正しい」という満足感を得ることができる。つまり、それは快感を得るためのゲームだといってもいい。しかも、そのゲームでは、ほとんどコストを負うことなく、常に自分が勝者になれる。

そうだとすれば、「否定中毒」になったとしても不思議ではない。否定すること自体が、自己肯定感、優越感、所属感、あるいは他者からの承認をもたらしているのであれば、事実を示すだけでは、その行動を止めることができないからである。


 「発言の平等」と「知の平等」は同じではない

SNSによって、誰もが自由に意見を発信できるようになったことは、民主主義にとって大きな意味を持つ。かつては、新聞、テレビ、出版社、大学など、限られた機関だけが大規模な情報発信の手段を持っていた。SNSは、その構造を大きく変えた。

しかし、「誰もが発言できる」ということと、「誰の意見も同じように正しい」ということは、まったく別の問題である。

民主主義が保障するのは、基本的には一人一人の政治的・言論的な権利の平等である。それは、一人一人が同じ知識や専門性を持っているという意味ではない。地球温暖化について研究を重ね、観測データや物理学的理論を検討し、長年にわたって検証を積み重ねてきた研究者と、SNS上で「温暖化は嘘だ」と一言で断言する個人が、発言する権利において平等であることと、その二つの発言が知識として同じ価値を持つこととは、別の問題なのである。

ところがSNSでは、両者が「一つの投稿」という同じ形式で並べられる。そして、科学的な根拠や論証の積み重ねよりも、短く、強く、感情を刺激する言葉のほうが注目を集めることさえある。

ここで生じているのは、単なる「専門家対素人」という対立ではない。より本質的な問題は、事実を確認し、根拠を集め、論証するために必要なコストと、それを一言で否定するためのコストが、極端に非対称であることにある。

しかも、否定する側には、「自分だけが真実を知っている」という感覚、他者に対する優越感、同じ意見を持つ集団への所属感、そして「いいね」などによる承認といった心理的な報酬が与えられることがある。

その結果、「何が正しいのかを確かめる」という本来の目的から離れ、否定することそのものが目的となってしまう。

重要なのは、「その人が何を信じているのか」だけではない。「その人は、その主張をすることによって何を得ているのか」という視点も必要なのである。

もし、否定することによって心理的な報酬が得られるのであれば、どれほど事実を提示しても、否定は簡単には終わらない。なぜなら、その人にとって問題となっているのは、もはや事実の正しさだけではなく、否定するという行為そのものになっているからである。

したがって、私たちが守るべきなのは、「すべての意見を同じように扱うこと」ではなく、すべての人が発言する権利を持つことと、すべての発言を同じ価値の知識として扱うことを、明確に区別することなのだ。

それこそが、SNS時代における「知の民主化」を考える上で、最も重要な課題なのではないだろうか。


私たちは何をすべきなのか

では、こうした状況に対して、私たちは何をすればよいのだろうか。

(1)「発言できること」と「正しいこと」を区別する。

SNSでは誰もが発言できる。しかし、発言できること自体は、その内容の正しさを保証しない。専門家の意見だから無条件に正しいわけでもないが、専門家に反論するのであれば、それ相応の根拠と論証が必要になる。この最低限の原則を、もう一度確認する必要がある。

(2)「反対意見を述べること」と「反証すること」を区別する。

「私はそう思わない」という発言は、個人の感想としては自由である。しかし、それだけでは科学的な反証にはならない。相手のデータ、方法論、論理のどこに問題があるのかを示して初めて、反論は論証になる。

(3)「誰が言ったか」だけではなく、「何を根拠に言っているのか」を見る習慣を持つ。

肩書きだけを信用するのも危険だが、肩書きを否定すればそれだけで自分の意見が専門家と同等になるわけでもない。重要なのは、主張を支えている証拠と論証である。

(4)SNS上で強い言葉を見たときほど、判断を急がないこと

「嘘だ」「完全に間違っている」「専門家は騙している」といった一刀両断の言葉は、非常に分かりやすく、快感さえ与える。しかし、分かりやすさと正しさは同じではない。

むしろ、そこで一度立ち止まり、「その人は何を根拠にそう言っているのか」、「反対するために、どのような証拠を示しているのか」、「その主張は、専門家による研究結果を具体的に反証しているのか」などと、問い直す必要がある。

SNS時代に必要なのは、誰かを盲目的に信じることでも、何でも疑うことでもない。

根拠のある主張と、根拠のない断言を区別する能力である。

その能力を育てることで、私たちは「知の民主化」によってもたらされた豊かな情報環境を、より有益に活用することができるようになるはずだ。

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