
フランスで「15歳未満のSNS利用を禁止する法律」が成立したが、憲法評議会はこれを違憲として無効化した。15歳未満のSNS利用を一律に禁止することが、表現の自由に対する「不均衡な侵害」にあたると判断したからである。
https://www.lemonde.fr/pixels/article/2026/08/14/l-interdiction-des-reseaux-sociaux-aux-moins-de-quinze-ans-censuree-par-le-conseil-constitutionnel_6746255_4408996.html?srsltid=AfmBOoqEzStMYuLxHhk1bdzlW68G8s6-aVU0UnOd_YfINYrFYgltwAbr
日本でもこのニュースは伝えられたが、あまり大きな話題にはなっていないようだ。
「自由」の「規制」に対しては、何か大きな事件でも起こらない限り、社会が強く反応しないというのが、日本の一つの傾向なのかもしれない。加えて、現在ではマスコミもSNS上の言論を無視できない状況にある。そのため、SNSの規制をめぐる議論そのものを避けがちなのではないか、とも思われる。
しかし、ネット空間がこれほどまでに普及した現代において、「自由」という言葉について、改めて考えてみる必要があるのは確かである。
現実世界においても、すべてが自由なわけではなく、さまざまな禁止事項が存在する。表現の自由や言論の自由であっても、無制限に認められるものではないことは、誰もが認めるところだろう。
ネット空間においても、一定の「規制」が必要であることについては、異論はないと思われる。では、ネット空間に対しても、現実世界と同じような考え方、同じレベルの規制を適用すればよいのだろうか。
(1)空想世界
空想世界は現実世界をベースにしており、現実の出来事や感情が反映されている。しかし、人は空想の中では、現実にはできないことでも自由に思い描くことができる。
たとえば、怒りにまかせて相手を殴りたいと思ったとき、現実には容易に実行に移すことはできない。しかし、空想の中で思い切り相手を殴ることで、気持ちが少し落ち着くこともある。そうしてカタルシスを得ることで、かえって現実の行動に抑制が効くこともあるだろう。
現実世界には、相手の生(なま)の反応があり、社会的なルールや他者の視線も存在する。そのため、誰もが自分の思い通りに振る舞えるわけではない。
これに対して空想世界には、現実のような直接的な手応えも、行動に伴う現実的な結果もない。だからこそ、思いついたことを自由に実行できる。その意味では、空想世界とは、現実には存在しない「100%の自由」が許された世界だともいえる。
(2)ネット世界
ネット世界はしばしば仮想空間と呼ばれるが、発信者の意識の中では、どこか現実感が希薄なまま操作が行われがちである。その意味では、空想世界と大きな違いはなく、まるで100%自由に振る舞えるかのような空間でもある。
しかし、空想世界とは決定的に異なる点がある。それは、ネット空間の向こう側には「現実」が存在しているということだ。
発信者が発信したメッセージや映像には、必ず受信者がいる。そして、その受信者は現実世界に生きる生身の人間である。発信者はまるで空想世界にいるかのように自由に振る舞うが、そこで発せられた言葉や映像が届く相手は、現実に生きている人間なのだ。
さらに、ネット空間には、「発信者の攻撃性を増幅させる仕組み」が存在する。
その一つが「フィルターバブル」である。
アルゴリズムによって自分と似た意見や、自分が関心を持つ情報ばかりが表示されるようになると、利用者は、自分が見ている情報がネット世界のすべてであるかのような錯覚に陥る。そして、同じ意見が繰り返し目に入ることで、「自分の考えは正しい」「これが世の中の真実だ」という感覚が強くなっていく。
そこに「正義感」が加わると、さらに危険である。
自分とは異なる意見を持つ人間を「間違った人」「悪い人」とみなし、その相手を攻撃することが、あたかも社会のための正しい行為であるかのように感じられてしまうからだ。しかも、ネット上で誰かを批判したり、糾弾したりすることで、「悪を正した」という自己満足まで得ることができる。
実は、こうした現象はネット空間に特有のものではない。テレビのワイドショーなどでも、事件や不祥事を取り上げる際、コメンテーターが正義感にかられたかのように、当事者を厳しく批判し、断罪する場面がしばしば見られる。SNS上で見られる「正義感に基づく攻撃」の原型は、こうしたマスメディアの言論空間にも、すでに存在していたのではないだろうか。
「いじめ」「暴力的な映像」「殺人予告」などは、空想世界の中だけであれば、一過性の思考で終わる。しかしネット空間では、それらが受信者にとって現実の脅威となる。実際、ネット上のいじめや予告行為が、現実のいじめや犯罪へと発展する例は後を絶たない。
つまり、ネット空間の危険性は、単に「自由に発言できる」ことにあるのではない。現実感が希薄なまま自由に振る舞えること、同じ情報ばかりが繰り返し提示されることで自分の考えを「真実」だと思い込みやすいこと、そして相手を攻撃することによって「正義を行った」という自己満足まで得られること。この三つが重なることで、現実世界では抑制されるはずの攻撃性が、容易に増幅されてしまうのである。
空想世界における「自由」をネット空間でそのまま行使すれば、それは現実世界に直接届き、現実の相手に作用する。しかもネット空間では、その自由がフィルターバブルによって増幅され、正義感によって正当化されることさえある。
それこそが、ネット空間に潜む本質的な危険なのである。
(3)二つの世界のズレに基づく自由の規制
こうしたネット空間の危険性を前にして、15歳未満の若者のSNS利用規制を、「表現の自由に対する不均衡な(行き過ぎた)侵害」として違憲とみなすべきなのだろうか。
現代では陳腐に聞こえるかもしれないが、「自由」には「責任」が伴う。表現が「自由」であるとしても、その表現が引き起こす結果に対しては、責任を負う必要がある。
しかしSNS上では、無責任ともいえる情報が大量に発信され続けている。その中にはヘイトを煽るものもあり、精神的なダメージを受ける人がいるだけでなく、実際のいじめや犯罪につながることもある。
発信者は、相手を罵倒しようが、殴り倒そうが、現実の相手から直接反応を受けることのない「空想世界」と同じような感覚で発信しているのかもしれない。しかし、受信者にとっては、それが「現実の出来事」となる。この「ズレ」を理解した上で、ネット空間に対して現実世界とは異なる規制のあり方を考えなければ、ネット空間の危険性を減らすことはできない。
SNSの発信者は空想世界に浸り、受信者は現実世界を生きている。このズレを踏まえた法整備は、若者にとどまらず、大人にとっても急務の課題だといえる。
フランスは、「人権宣言(Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen de 1789)」の国である。その第一条には、こう記されている。
Les hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits. Les distinctions sociales ne peuvent être fondées que sur l’utilité commune.
人は、権利において、生まれながらにして自由であり、かつ平等である。社会的な区別は、公共の利益に基づく場合にのみ設けることができる。
この宣言では、「権利において自由かつ平等であること」が、最も基本的な人権として掲げられている。
しかし、「人権宣言」は自由を無制限なものとしているわけではない。第二条では自由や所有、安全、圧政への抵抗が人間の自然的かつ不可譲の権利として掲げられ、さらに第四条では、自由の制限に関する言及がある。
La liberté consiste à pouvoir faire tout ce qui ne nuit pas à autrui.
自由とは、他人を害しないすべてのことをなし得ることにある。
当たり前のことだが、自由とは、何をしてもよいということではない。他者を害することなく自由を行使することが、自由の原則そのものに含まれているのである。
そう考えると、現実社会よりもはるかに抑制の効きにくいネット空間において、ある程度強い制限を「自由」に課したとしても、それが直ちに「公共の利益」を害することにはならないのではないか。むしろ、その「制限」こそが、より多くの人々の「自由」を保証することにつながる。そう考えることもできるはずだ。
「自由」について語るとき、個人の自由だけを見るのではなく、その自由が他者に及ぼす影響、そして個人の自由と公共の利益との関係を、今一度考え直すべき時代が来ているのである。