François Villon フランソワ・ヴィヨン Ballade des pendus 絞首刑にされた者たちのバラード 2/2

中世の絞首刑のシーンを描いたイラスト。数人の人物が絞首刑にされ、周囲には鳥が飛び交っている。

第1詩節の10行を読むだけで、現代フランス語と中世フランス語の違いの大きさは十分に理解できたに違いない。ここでも、活用された動詞の前に主語代名詞が置かれないことや、現代とは異なる語彙が用いられていることなどを頭に置きながら、「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み進めていこう。

また、ここでもやはり、ジェラール・フィリップの朗読に耳を傾け、中世のフランス語の音とリズムを心と体に刻んでいこう。

第2詩節

第1詩節の冒頭で、絞首台に吊るされている死体を見物している人々に向かい「Frères humains(人類の兄弟たちよ)」と呼びかけたように、第2詩節でも再び frères という言葉が使われる。そして、この詩節の前半では、処刑台の上の死者と下から見ている生者が、実は近い存在であることが示される。

ここでも、現代のフランス語とは意味が異なる単語が見られる。
clamer は、現代語では「大声で叫ぶ」といった意味だが、古いフランス語では「〜を〜と呼ぶ」という意味だった。
また、「殺す」という意味のoccireは現代語では使われないが、過去分詞の occis(殺された)という形は現代でも見られる。

Si frères vous clamons, pas n’en devez
Avoir dédain, quoique fûmes occis
Par justice. Toutefois, vous savez
Que tous hommes n’ont pas bon sens rassis ;

もしあなたがたを兄弟と呼んだとしても、私たちを
蔑まないでください、私たちは処罰されたのですが、
裁判によって。しかし、あなたがたは知っているはずです、
すべての人間が、落ち着いた良識を備えているわけではないことを。

人間の骸骨と多様な衣装を着た人物が手をつないで踊っている、歴史的なイラスト

ヴィヨンは、処刑された者たちの一人として、自分たちが裁判(justice)で有罪となり、処刑されて命を落とした(occis)ことを自覚している。それにもかかわらず、まだ生きている見物人たちを「兄弟(frères)」と呼び、その呼びかけを侮蔑(dédain)すべきではないと訴えかける。

その理由は、人間には本来良識(bon sens)があるものの、すべての人が常にその心を落ちつかせ(rasseoir > rassis)、過ちを犯さずにいられるわけではなく、時には道を踏み外して犯罪者になってしまうからだ。

しかし、たとえ罪を犯した者であっても、絞首台の上下にいるどちらの人々も最終的には等しく兄弟(frères)であり、生者もいずれは死者となる運命にあることに変わりはない。そのことが、全ての人間(tous hommes)という言葉で示されている。

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海の上で神秘的に浮かぶマリア像と幼子イエスの黒白の絵画

後半は、神の恩寵が枯れることがないように、聖母マリアの御子、すなわちイエス・キリストへの仲介を願う祈りの言葉が綴られる。

最初の行の transi は、現代フランス語(transir)では「凍えさせる」や「ぞっとさせる」という意味だが、古い時代のフランス語では「死ぬ」を意味した。

âme は、現代フランス語では「魂」を意味するが、中世フランス語では ne … との組み合わせ(âme ne …)で「誰も……ない」という構文を作り、現代語の personne と同様に使われた。

また、現代語にはない harier は、古いフランス語で「いじめる」「責め苛む」を意味する。

Excusez-nous, puis que sommes transis,
Envers le fils de la Vierge Marie,
Que sa grâce ne soit pour nous tarie,
Nous préservant de l’infernale foudre.
Nous sommes morts, âme ne nous harie;
Mais priez Dieu que tous nous vueille absoudre!

私たちのために弁明してください(とりなしてください)、というのも、私たちは死んでいるのですから、
聖母マリアの御子に向かって。
主の恩寵が、私たちに対して枯れることなく、
私たちを地獄の雷火から守ってくれますように。
私たちは死んでいます。でも、誰も私たちを責め苛まないでください。
むしろ、神に祈ってください、私たちみんなの罪を赦してくださるようにと!

Excusez-nous は、現代語であれば「すみません」「失礼します」といった軽い謝罪や挨拶の意味だが、ここでは後に envers という前置詞が続き、聖母マリアの御子、すなわちイエス・キリストに対して「自分たちのために弁明してほしい」「とりなしてほしい」という切実な願いが込められている。

地獄の情景を描いた絵画で、様々な苦しむ人々や悪魔、混乱した場面が描かれている。

そしてその願いは、Que + 接続法で示され、イエスの恩寵(grâce)が nous にとって枯れる(tarier)ことのないように、という祈りとなっている。その恩寵こそが、私たちを地獄の雷火(l’infernale foudre)から守ってくれるのである。

ここでいう nous に含まれるのは、絞首台の上に吊るされている者たちだけではなく、見物人たちも暗に含まれていると考えられる。そう捉えると、続く行の nous sommes morts についても、人間とは本来「死すべき存在」であるという含意が読み取れ、すべての人間に関わる祈りとして解釈することができる。

また、harie はここでは接続法として活用されており、Que + 接続法 と同様に「……するように」という祈願を表している。したがって、âme ne nous harie は「誰も私たちを責め苛むことがないように」という祈りの表現になっている。

そして、すべての詩節の最後に置かれている「私たちの罪を許してください(tous nous … absoudre)」という祈りは、「私達を地獄の雷火(foudre)から守ってくれますように」という願いでもあり、その同一性が foudre-absoudre という豊かな韻(rime riche : 母音と子音二つの一致)によって示されていると考えることができる。

また、その ou の音は、救いの対象である nous の母音でもある。
そして、この詩節においてほぼすべての詩行に nous が含まれていることに気づくと、絞首刑にされた者の魂が救われるようにと祈ることが、祈る人間たちの魂の救いにもなるのだと納得させ、読者を祈りに導いていることが明確に示されている。

第3詩節

人と骸骨が共同で荷物を運ぶ中世の版画。

第3詩節では、最初の8行にわたり、絞首台に吊るされた死体のぞっとするような(macabre)描写が繰り広げられる。
その映像は、中世にしばしば描かれた「死の舞踏(Danse macabre)」の絵画を思わせ、「死が誰にでもやってくる」ことを実感させる。

しかし、その一方で、その姿を生々しく描くことで、第2詩節とはうってかわって、生者たちに対して「自分たちのように罪を犯すことがないように」と諭しているようでもある。そのことは、描写が終わった後の9行目の詩句で明確に示されることになる。

いずれにしても、描写のリアルさは、風に吹かれてあっちへこっちへと揺れる様子が具体的に描かれると同時に、et を挟んで二つの言葉を配置することで、詩句のリズムとしても表現されている。
さらに、[e] の音が何度も反復し、そのアソナンス(母音韻)効果によって、音としてもより強く印象付けられる。

現代では使われないdébuéは「灰汁を使って洗濯する→濡らす」、cavésは「えぐり出す」、charrierはもともと「荷車(char)で運ぶ・引きずっていく」という意味であり、ここでは「(風が死体を)あちこちへ揺さぶり、吹き流す」といった行為を表現している。

La pluie nous a débués et lavés,
Et le soleil desséchés et noircis:
Pies, corbeaulx nous ont les yeux cavés,
Et arraché la barbe et les sourcis.
Jamais nul temps nous ne sommes assis;
Puis ça, puis là comme le vent varie,
À son plaisir sans cesser nous charrie,
Plus becquetés d’oiseaux que dés à coudre.

雨が、私たちをびしょ濡れにし、洗い流しました。
太陽が、私たちを乾かし、真っ黒にしました。
カササギやカラスたちが、私たちの目を抉り出し、
髭や眉毛を引き抜きました。
決してどんなときも、私たちが腰を落ち着けて休めることはありません。
こっちへ、あっちへと、風が向きを変え、
気まぐれに、絶えず、私たちを運んでいきます。
私たちは、鳥たちにつつかれ穴だらけです、裁縫の指抜き以上に。

ひな壇の上に吊るされた人形と周囲の鳥たちのシルエットの水彩画

この描写の中で、「私たちが座っていない(assis)」という言葉により、死体がぶら下がったまま静止することがない様が明確に示される。

視覚的には、風の向きが変わり(le vent varie)、死体である私たちを絶えず運ぶ(nous charrie)、つまり左右に揺さぶり動かす。 その際、揺れ動く姿が、puis ça, puis là(次はこっちへ、次はあっちへ)という言葉によって明確に目前に浮かび上がってくる。

同様に、débués et lavés、desséchés et noircis、la barbe et les sourcils といった、中央の et を中心にして左右に配置された言葉の対比によっても表現され、さらに [e] の音が、débués, lavés, desséchés, les, cavés, arraché, les と何度も反復されることで、強い残響として耳に残ることになる。

最後に、鳥たちに抉り出された目(les yeux cavés)の痛ましいイメージが提示され、身近な裁縫道具である指ぬき(dés à coudre)と比較される。そして目だけでなく、体全体が鳥たちの嘴につつかれ(becquetés)、穴だらけになっている姿が描き出される。

こうしたおぞましい映像描写は、「死の舞踏(danse macabre)」を思わせる。
そこでは、骸骨の姿をした「死」が、法王から庶民まで、あらゆる身分の生者を巻き込んでダンスの列に誘う姿が描かれ、どんなに富や権力を持つ人間であっても、死は誰にでも等しく訪れるという「メメント・モリ(死を想え)」の教訓が込められているのである。

。。。。。

8行に及ぶ描写が終わった後に祈りが続くのだが、その冒頭において、見物人たちに対して「私たちと同類にならないように」という願いが伝えられる。

Ne soyez donc de notre confrérie;
Mais priez Dieu que tous nous vueille absouldre!

ですから、どうか私たちの仲間に入らないでください。
むしろ、神に祈ってください、私たちみんなの罪を赦してくださるようにと!

「絞首刑にされた者たちのバラード」において、nous(私たち)という言葉は、死者と生者の両者を含むことによって生者たちに死者への祈りを促し、それが同時に生者自身のためでもあるのだと伝える役割を果たしてきた。

したがって、ここで「私たちの仲間(confrérie)に入らないように」と呼びかけることは、生者を「兄弟(frères)」と呼んできたこれまでの主張と一見矛盾するように思われるかもしれない。

しかし、もしここで生者と死者を完全に分断してしまうと、直後に置かれたリフレインの中の nous が死者だけを指すことになり、生者に祈りを促す言葉の説得力が失われかねない。

したがって、非常におぞましい死者たちの情景を描き出した直後であることを踏まえると、絞首台に吊るされた者たちは自らの罪ゆえにこのような悲惨な最期を迎えたのであり、「生きている間に罪を犯して自分たちのようになってはならない」という戒めや警告を発しているのだと解釈する方が、9行目の詩句の意図に即していると言えるだろう。

「死の舞踏」が提示するように、死はあらゆる人間に等しく訪れる。だからこそ、常に死を想い(メメント・モリ)、その時におぞましい姿で終わることがないよう、生前に罪を犯すことのないようにというヴィヨンからのメッセージなのである。

第4詩節 ー 結句(envoi)

バラードの最後の詩節は「結句(envoi)」と呼ばれ、これまでの3つの詩節で展開された主題を集約し、詩全体の締めくくりとなる短い詩節である。
そこではしばしば高位の人物や神への呼びかけから始まり、詩を奉献する対象が提示される。

中世のフランス語としては、maîtrie、seigneurie、soudre という3つの言葉が出てくる。
maîtrie は、現代フランス語の maîtrise にあたる言葉で、統治権や支配権を意味する。
seigneurie は、seigneur(領主)に接尾辞 -ie がついた言葉で、「領主としての権力(領主権)」を意味する。
soudre は、「解く」「支払う」「果たす」といった意味の動詞だが、ここでとりわけ注目されるのは、absoudre(赦す)の語源となった言葉だということである。

また、n’a point という表現が出てくるが、現代語であれば il n’y a point(〜がない)であり、ここでも活用された動詞の前に主語代名詞が置かれない古仏語の例が確認できる。

Prince Jésus, qui sur tous a maîtrie,
Garde qu’Enfer n’ait de nous seigneurie :
A lui n’avons que faire ne que soudre.
Hommes, ici n’a point de mocquerie;
Mais priez Dieu que tous nous vueille absoudre.

主なるイエスよ、全ての人々の上に力を及ぼす方よ、
どうかお守りください、「地獄」が私たちの支配者にならないように。
地獄と、私たちは関わりを持ちませんし、屈することもありません。
人間たちよ、ここには何の嘲笑の余地もないのです。
むしろ、神に祈ってください、私たちみんなの罪を赦してくださるようにと!

ここでの Prince は地上の「王子」ではなく、天上の「主」を意味する。
そして、主なるイエス(Prince Jésus)と地獄(Enfer)が対比され、両者の支配の違いが maîtrie と seigneurie という二つの言葉によって示されている。
つまり、主イエスの支配がすべての人々に対する絶対的な主権(maîtrie)であるのに対して、地獄が及ぼす支配は領主権(seigneurie)のような限定的なものであり、その威光には根本的な違いがある。二つの言葉はその絶対的な格差を示しているのである。

その上で、地獄との関わり(à lui)に関して、二つのことが明言される。
一つは、私たちが地獄と関わりを持たないこと(n’avons que faire)。
もう一つは、地獄に従属して取引することはないということ(ne que soudre)。
ここでは、地獄を拒絶し、キリストによる救済を乞う強い意志が表明されている。

そして、人間たち(Hommes)、すなわち見物している人々に対して、この絞首台の上には嘲笑の余地はない(n’a point de mocquerie)と呼びかける。吊るされている悲惨な姿を笑い物にしてはならないと諭すのである。「メメント・モリ」、人間はすべて死ぬ運命にあり、みな兄弟なのだと。

そして最後にもう一度リフレインが繰り返されるが、ここで注目されるのは、祈りの核心にある absoudre という動詞の根幹に、直前で韻を踏んでいた soudre がそのまま含まれている点である。

こうした手法は、中世の詩法では rime équivoquée(多義韻)と呼ばれ、対比的な意味を強調する際に用いられた。
absoudre の場合、接頭辞 ab- は離脱や除去を意味する。そのため、soudre(縛り・従属・支払い)が打ち消され、absoudre(赦し・解放)へと意味が逆転する。その構造が視覚的にも聴覚的にも示されることで、「地獄の拘束(soudre)からの、神による解放(absoudre)」という祈りの本質が明確に浮かび上がってくる。

さらに、この absoudre の響きによって、これまで各詩節の末尾で踏まれてきた脚韻(poudre, foudre, coudre)が音の記憶として呼び起こされ、それらの破滅や苦痛からの解放こそがこの詩全体の祈りであることが、読者の耳にも強く届けられるのである。


古代の僧侶が本を持って立っている画像。

これまで見てきたように、「絞首刑にされた者たちのバラード」は、絞首台の死者を代表するヴィヨンが、見物人である生者へ語りかけ、ともに罪の赦しを祈ろうと呼びかける詩である。

風に揺れ、鳥につつかれる死体の痛々しい描写を通して、ヴィヨンは「人間は誰もが過ちを犯す弱さを抱え、やがて死を迎える」という厳しい現実を突きつける。しかしそれは、単に人々を怯えさせるためのものではない。人は皆、過ちを犯し死へと向かう「共通の運命をもつ兄弟」なのだというメッセージが込められているのだ。

さらに、巧みな押韻とことばの響きがもたらす音楽的な美しさは、聴く者を神への祈りへと静かに誘う。

現代語とは大きく異なる中世フランス語の解読は、最初は難しく思えるかもしれない。しかし、ジェラール・フィリップの朗読に耳を澄ませて何度も反復するうちに、その違和感は次第に解けていくだろう。散文とは異なり、詩は一度意味を解釈して終わりではない。歌のように何度も口にし、言葉そのものの響きを味わうものだからだ。

朗読に加え、例えばセルジュ・レジアニ(Serge Reggiani)による歌唱版を聴いてみるのもよい。中世フランス語、そしてヴィヨンの紡いだ詩句が、より身近に響いてくるはずである。

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