
21世紀の今の時点から第二次世界大戦のことを考える時、どうしても現在の視点からしか見たり、考えたりすることができない。戦争のない今では、戦争に反対することが当たり前であり、当時の日本人たちは本心では反戦だったけれど、声を上げることができなかったに違いないと思ってしまうのは、自然な反応ではないだろうか。
しかし、その時代に生きていた人間たちは、その時代に当たり前とされていたことの中で生きていたのであり、それは現在の「当たり前」とは違っている。
明治時代の後半から大正時代、そして昭和の初年にかけて、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争へと戦争や軍事的緊張が続く時代を経験していた。昭和13年(1938年)には国家総動員法が成立し、昭和15年(1940年)頃になると、やがてアメリカとの決戦をも視野に入れる方向へと進んでいた。
そして、昭和16年(1941年)12月8日未明、大日本帝国海軍が、オアフ島の真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃した。日本はその後、アメリカとイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入する。
太宰治の「十二月八日」は、作家の妻がまさにその日の出来事を綴った日記形式の短編作品で、昭和17年(1942年)2月1日発行の『婦人公論』に発表された。
そして、そこには、いかにも太宰治らしいユーモアを通して、当時の日本人が戦争をどのようにとらえ、受け入れていたのかが、淡々と綴られている。

太宰治は、この作品の中で、100年後の読者を想定し、こんなふうに書いている。
ちなみに、語り口も女性のものになっているのだが、もしかすると、昭和13年(1938年)に太宰と結婚した美知子という女性の視点を借りて、太宰自身が語っているのかもしれない。
昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。
2026年の今、私たちは約80年後の読者にすぎないのだが、多少は太宰の望みに応えることにもなることを期待しながら、戦争の歴史の参考にさせてもらうことにしよう。
本文は「青空文庫」で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/253_20056.html
YouTubeに朗読もアップされている。
(1)紀元二千七百年の美しいお祝い
最初に、「もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃」という年代に注目したい。

「紀元二千七百年」という数字は、『日本書紀』に、神武天皇が辛酉年の正月朔日に橿原宮で即位したと記されていることに由来する。
この「神武紀元」は、明治5年(1872年)に定められ、ある算定方法に従って神武天皇の即位年を紀元前660年とした。そこから計算すると、昭和15年(1940年)は「皇紀2600年」となる。実際、1940年11月10日には宮城前広場で内閣主催の「紀元二千六百年式典」が開催され、14日まで関連行事が行われた。全国各地や海外の日本の勢力圏でも、さまざまな奉祝行事が行われている。
太宰治は、このような「紀元二千六百年」の祝典を下敷きにして、100年後にも「紀元二千七百年の美しいお祝い」をするだろうと、未来の読者に視線を投げかけているのである。
現在の日本でも、神武天皇の即位から2700年続く国だといったことが語られることがある。それが、まさに第二次世界大戦中の日本における国家観との連続性を示す言葉でもあることには、注意しておきたい。
(2)帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり
真珠湾攻撃の当日、ラジオ放送によって、太平洋戦争に突入したことが国民に伝えられる。

十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ)(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹(いぶ)きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
戦争の結果を知っている読者であれば、「米英軍と戦闘」が、やがてどれほどの悲劇をもたらすことになるのかを知っている。そのため、日本軍の行動を、なんと馬鹿げたことかと批判することもあるだろう。
しかし、当時の日本に生きていた人々にとっては、これを中国との戦争の延長として受け止めた人もいただろうし、語り手の女性のように、これまでとはまったく違う事態が始まったと感じた人もいたことだろう。
少なくとも、「今までと違う私」、「今までと違う日本」になったという彼女の感覚は、戦争の結果を知らない当時の人々が、この日の出来事をどのように受け止めたのかを考えるうえで、重要な手がかりになる。
「強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ」
「聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち」
こうした表現からは、戦争が勝つか負けるかという結果ではなく、これまでとは何かが決定的に違う事態が始まったことを、彼女が直感的に感じ取ったことがうかがえる。
(3)西太平洋って、どの辺だね?
太宰治は、独特なユーモアの感覚を交えながら、当時の日本人が世界全体の状況をそれほど正確に把握していなかったであろうことを、夫である作家の地理音痴として描いている。
「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
私はがっかりした。主人は、どういうものだか地理の知識は皆無なのである。西も東も、わからないのではないか、とさえ思われる時がある。つい先日まで、南極が一ばん暑くて、北極が一ばん寒いと覚えていたのだそうで、その告白を聞いた時には、私は主人の人格を疑いさえしたのである。去年、佐渡へ御旅行なされて、その土産話に、佐渡の島影を汽船から望見して、満洲だと思ったそうで、実に滅茶苦茶だ。これでよく、大学なんかへ入学できたものだ。ただ、呆あきれるばかりである。
「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう。」
と私が言うと、
「そうか。」と不機嫌そうに言い、しばらく考えて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」
おっしゃる事みな変である。主人の愛国心は、どうも極端すぎる。先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹(かつお)の塩辛(しおから)ばかりは嘗(な)める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。
「主人」は、「西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースは知っていても、その「西太平洋」がどこにあるのかを知らない。
南極は南にあるから暑く、北極は北にあるから寒いと思い込み、佐渡に旅行して、日本海に浮かぶ島影を見て、そのはるか彼方にある満洲だと思う。もしかすると、世界の地理だけではなく、日本の地理にさえ不案内だったのかもしれない。

さらに、「日本は日出ずる国」と言われ、「東亜」とも呼ばれるという知識は持っている。当時の日本で盛んに語られていた「大東亜」という言葉にもなじんでいたため、日本が「東亜」の中心に位置するという感覚もあったのだろう。だからこそ、日本は日が昇る方向である東にあるべきであり、アメリカが東にあることには納得できない。
そのため、妻の「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう」という言葉に対して、「アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか」と返答することになる。
妻によれば、そうした考えは極端な「愛国心」に由来するもので、次の「毛唐」と「鰹の塩辛」の話にもつながっていく。
「僕なら、どんな洋食だって食べてみせる」という自慢も、地理音痴と結びつくことで、さらに笑いを誘う。
こうした、知識の不足と愛国心とが奇妙に結びついた人物像を、太宰治はあえてユーモラスに描いているのだが、こうした姿が当時の庶民の普通の姿だったのかもしれない。
(4)身近なことこそが関心事

戦争という大事件、あるいは大惨事を前にすれば、私たちの日常生活が大きな影響を受けるのは当然のことだ。しかし、実際の生活の中では、目の前にある出来事の方が、より大きく私たちの意識を占めている。
そうした現実は、後世からはしばしば忘れられてしまう。
だからこそ、幼い娘のおむつ、夫の服、隣の奥さんについて語る主婦の言葉は、戦争の渦中にいた人々がどのように日常を生きていたのかを知るうえで、貴重な手がかりになる。
井戸端へ出て顔を洗い、それから園子のおむつの洗濯にとりかかっていたら、お隣りの奥さんも出て来られた。朝の御挨拶をして、それから私が、
「これからは大変ですわねえ。」
と戦争の事を言いかけたら、お隣りの奥さんは、つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、
「いいえ、何も出来ませんのでねえ。」
と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。
お隣りの奥さんだって、戦争の事を思わぬわけではなかったろうけれど、それよりも隣組長の重い責任に緊張して居られるのにちがいない。なんだかお隣りの奥さんにすまないような気がして来た。本当に、之これからは、隣組長もたいへんでしょう。演習の時と違うのだから、いざ空襲という時などには、その指揮の責任は重大だ。私は園子を背負って田舎に避難するような事になるかも知れない。すると主人は、あとひとり居残って、家を守るという事になるのだろうが、何も出来ない人なのだから心細い。ちっとも役に立たないかも知れない。本当に、前から私があんなに言っているのに、主人は国民服も何も、こしらえていないのだ。まさかの時には困るのじゃないかしら。不精(ぶしょう)なお方だから、私が黙って揃えて置けば、なんだこんなもの、とおっしゃりながらも、心の中ではほっとして着て下さるのだろうが、どうも寸法が特大だから、出来合いのものを買って来ても駄目でしょう。むずかしい。
真珠湾攻撃の当日であろうと、幼い子供を持つ母親は、おむつを洗濯しなければならない。
また、隣組長になった奥さんと話をすれば、「戦争の事を思わぬわけではなかったろうけれど、それよりも隣組長の重い責任に緊張して居られるのにちがいない」と、相手の立場を思いやる。

しかも、これからは演習ではなく、本物の戦争になる。空襲に襲われることさえ、まだ漠然としたものではあっても、予測されている。
しかし、妻がこの時もっとも心配しているのは、空襲そのものではない。もし自分が田舎に疎開することになったら、夫は一人で生活できるのだろうか、ということなのだ。「何も出来ない人なのだから心細い」と夫の身を案じ、服をどうしたものかと考え、最後には「むずかしい」とつぶやく。
ここに、戦争が始まった日の人間の現実がある。
日常生活を生きているかぎり、私たちの意識を占めるのは、必ずしも歴史的な大事件そのものではない。目の前にある子供の世話や、隣人との会話、家族の心配の方が、はるかに切実なのである。
(5)ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい
戦争が終わって振り返れば、なぜ戦争などをしてしまったのかとか、軍部が流す偽りの情報に騙された国民が可哀想だなどと考えるのが、ごく普通のことだ。しかし、戦争の渦中にいるごく普通の人々は、その時代の空気を吸って生きているのであり、自然にその空気と同化していく。
台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程(これほど)までに敵愾心(てきがいしん)を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅(め)っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要(い)りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛(つら)い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐(いきがい)をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。

1941年、日本とアメリカの対立は経済面でも急速に深まっていた。
アメリカは7月に在米日本資産を凍結し、8月には石油製品の輸出規制を強化した。こうした緊張の高まりの中で、日本国内にもアメリカへの敵愾心が強まっていったことは想像できる。
日記の記述に見られるように、「けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊ども」の罵り、「日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい」と願う気持ちは、当時の日本の雰囲気をそのまま伝えていると考えてもいいだろう。
どんなに物資が欠乏し、耐乏生活を強いられることになっても、国を守るためであれば耐えられると、ごく自然に思うようになる。さらに進んで、「かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う」と、誰かに強制されたわけでもなく、自らそう感じることさえある。
実際には、戦争に反対する人もいたに違いない。しかし、妻の日記の記述は、「時代の空気」とはまさにこうしたものなのだということを実感させてくれる。

「やりましたわね、いよいよはじまったのねえ。」
この言葉を、1941年12月8日に実際にどれほど多くの日本人が口にしたのかを知ることはできない。しかし、少なくとも、この作品には、真珠湾攻撃を知った瞬間に、戦争への恐怖よりも高揚感を覚えた人間の姿が描かれている。
先に書かれていた「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」という変化の予感は、ここでは愛国心と結びつき、言いようのない高揚感へと変わっている。その様子が、手に取るように伝わってくる。
(6)まあほんとに学生のお方も大変なのだ
現在から考えれば、数多くの若者たちが赤紙を受け取り、兵士として戦地に送られたことは悲劇でしかない。そのことは当時としてもある程度共有される感覚であり、知り合いの学生が徴兵されるのを知った時の反応は微妙である。
帰って暫しばらくすると、早大の佐藤さんが、こんど卒業と同時に入営と決定したそうで、その挨拶においでになったが、生憎(あいにく)、主人がいないのでお気の毒だった。お大事に、と私は心の底からのお辞儀をした。佐藤さんが帰られてから、すぐ、帝大の堤さんも見えられた。堤さんも、めでたく卒業なさって、徴兵検査を受けられたのだそうだが、第三乙とやらで、残念でしたと言って居られた。佐藤さんも、堤さんも、いままで髪を長く伸ばして居られたのに、綺麗さっぱりと坊主頭になって、まあほんとに学生のお方も大変なのだ、と感慨が深かった。

「早大の佐藤さん」とは、太宰治を慕って出入りしていた若い文学青年の一人、佐藤英夫を指すと考えられる。
「帝大の堤さん」は東京帝国大学の学生だった堤重久で、のちに『太宰治との七年間』という回想録を残している。二人とも実在の人物であり、この作品の登場人物には実在の太宰周辺の人物がモデルになっていると考えられる。
もっとも、その二人がこの日に太宰宅を訪れたという出来事そのものが、どこまで事実だったのかは別の問題である。ここで重要なのは、作家の妻の目を通して描かれた、学生の徴兵に対する感情の複雑さである。
妻が佐藤さんに対して「お気の毒」だと思うのは、まず「主人がいない」ことに対してであり、徴兵されることそのものについてではない。そして、彼女が佐藤さんにかける言葉は、「お大事に」である。そこには、これから兵隊になる若者に対する心配と、送り出さなければならない時代の空気が入り混じっている。
一方、堤さんは、徴兵検査の結果が「第三乙」だったため、「残念でした」と言っている。
当時の徴兵検査では、第三乙は身体に多少の疾病などがあるものの兵役には差し支えないとされ、第二補充兵役に編入される区分だった。つまり、堤さんにとって「残念」という言葉は、徴兵を免れることができて残念だという意味ではなく、甲種などのより上位の区分にならなかったことへの残念さだったと考えられる。
その堤さんの「残念」という言葉は、現在であれば、合格してしまい残念というふうに受け取られるだろう。しかし、当時であれば、正規の「甲種」でなくて残念と理解されたに違いない。「日本の綺麗な兵隊さん」となり、兵士として戦うことが、国のためであり、それが時代の空気だったのだ。
ただし、そのことを心の底から喜べないのも、ごく自然な人間の感情である。だからこそ、作家の妻も、「いままで髪を長く伸ばして居られたのに、綺麗さっぱりと坊主頭に」なった二人の学生が去っていく姿を見て、「まあほんとに学生のお方も大変なのだ」と感慨を深くしている。
ここには、愛国心と、若者が戦争へ向かっていくことを悲しむ気持ちが同時に存在している。その狭間にある感情こそ、戦争のただ中に生きた人間の、複雑な心の真実だったのではないだろうか。
(7)園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ

アメリカとイギリスに宣戦を布告し、太平洋戦争に突入する。そうした中で、どんなに耐乏生活を強いられたとしても、日々の生活はこれまでと同じように続き、人々はその日その日の暮らしをするしかない。その暮らしの中で、人々はそれぞれの幸福も見つけていく。
作家の妻であり、幼い子供の母である女性にとって、もっとも大きな幸福の一つは、幼い子供を心の底から愛する時間だったに違いない。
夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。園子のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴム鞠まりのように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花の様なおへそが附いている。足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になってしまう。どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。
園子ちゃんをお湯に入れながら、「足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと」と感じる時間ほど、母親にとって幸福な時間はないだろう。
しかも、それは太平洋戦争の開戦を告げるニュースが流れた、その日の出来事なのである。
彼女は夕刊の「帝国・米英に宣戦を布告す」という大きな活字を読み、開戦のニュースに「感激をあらたにした」。それでも、その夜に彼女がもっとも細やかに描いているのは、園子を銭湯に連れて行き、その小さな身体をお湯に入れる時間なのだ。
ここには、歴史の大事件と、人間の日常生活が同時に存在している。
戦争が始まった日であっても、母親にとって、子供の手や足の可愛さに夢中になる時間は失われない。戦争という巨大な出来事が始まったからといって、人間の日常が突然消えてしまうわけではないのである。
むしろ、こうした日常の幸福があるからこそ、人々は戦争の時代を生きていくことができたのかもしれない。
昭和16年(1941年)12月8日の最も大きな歴史的出来事は、もちろん日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告したことだった。しかし、この一日を生きた一人の母親にとって、その夜のもっとも幸福な時間は、園子をお湯に入れ、裸身の可愛さを眺め、抱いている時間だった。
「十二月八日」は、そうした戦時下の日常の現実を、私たちにはっきりと教えてくれる。
ここまで七つの断片を取り上げて、太宰治が真珠湾攻撃の開始された日の出来事を、日記形式で書き綴った文章を読んできた。その際、とりわけ注意したのは、現代の視点から作品を解釈しない、ということだった。
私たちはしばしば過去の作品に対して、現在の視点を投げかけ、現在的な読解を試みようとする。戦争の時代の作品に関しては、そこに戦争を推進する主張がなされていたのか、反対に、こっそりとではあっても反戦の思想があったのか、といったことをことさらに問題にしようとする。
「十二月八日」に関しても、「うんと戦争の話をしたい(4)」といった部分について、軍部の偽りの情報に動かされた言動であり、一般の市民は国家権力に欺かれていたことを、太宰はここで暴いているのだ、といった解釈が提示されることがある。
しかし、開戦後の日本軍が最終的に敗北することを、当時の人々が知っていたわけではない。少なくとも真珠湾攻撃の直後、日本軍は緒戦で大きな戦果をあげ、東南アジアや太平洋の広い地域へ急速に進出していった。1942年6月までには、東はマーシャル諸島、西はビルマ、南はソロモン諸島方面、北はアリューシャン列島へと、その占領地域を拡大していた。
重大なニュウスが続々と発表せられている。比島、グワム空襲。ハワイ大爆撃。米国艦隊全滅す。帝国政府声明。全身が震えて恥ずかしい程だった。みんなに感謝したかった。私が市場のラジオの前に、じっと立ちつくしていたら、二、三人の女のひとが、聞いて行きましょうと言いながら私のまわりに集って来た。二、三人が、四、五人になり、十人ちかくなった。

もちろん、日本政府や軍部が発表した戦果のすべてが正確だったわけではない。たとえば、「米国艦隊全滅す」という大本営発表の表現は、実際の戦果を大きく誇張している。しかし、だからといって、開戦直後の日本軍が実際には何の戦果もあげていなかったわけでもない。ニュースに誇張があったとしても、そこには実際の戦果も含まれていた。そして、人々はラジオの前に集まり、その知らせに耳を傾け、「ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい」と思う。
これが、少なくとも「十二月八日」が描いている現実なのである。
人々がすべて軍部の情報に騙されていたとか、本当は戦争など拒否していたけれど表に出せなかったなどと解釈してしまえば、この日記が私たちに伝えている最も大切なものが、かえって見えなくなってしまう。
その点について、太宰治の妻・美知子が回想録の中で書き記した一節がある。

長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。(津島美知子『回想の太宰治』)
これは昭和53年(1978年)に書かれた回想なので、開戦のニュースを聞いて「解決への道がついた」と思った太宰治を含めた一般の人々の思い込みを、「無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想」と振り返っている。
しかし、重要なのは、後から見れば「愚かしい感想」であったとしても、当時は、それが「解決への道」だと思われていたということである。その時代の人々が何を知り、何を信じ、何を期待していたのかを知ることが、戦時下を生きる人々を理解することにつながる。
繰り返すことになるが、「十二月八日」は、遠くから眺めた戦争ではなく、戦争を生きる人々の生(なま)の姿を伝えている。そして、そこにこそ、この作品の価値がある。
太宰治の言葉をたどることで、私たちは、後から結果を知っている者としてではなく、まだ何も知らないその日の人々とともに、戦争が始まった一日を生きる感覚に近づくことができる。
文学の価値は、まずは、そうした実感を伝えることになる。反戦は、その後から考えればいい。