太平洋戦時中のヒットラー像 

「変なはなしだと思われるかも知れません。まったく変なはなしです。しかし、それを変だと思わないほど、ぼくは日常そのことに慣れっこになっていたんです。いや、そうじゃない。今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです。」

机の前に座る男性と積まれた本の画像

これは、昭和13年(1938年)に発表された石川淳の「マルスの歌」に登場する人物の言葉だ。
後から考えればおかしい、あるいは間違っていたと思えることでも、その渦中にある時には慣れてしまっていて、変だと思うことも疑問を持つこともない。そうしたことはしばしばあるし、むしろそれこそが普通なのだろう。

逆に言えば、それほど当たり前だと思っていることや常識を問い返すことは難しく、さらに言えば、後から振り返って「変だ」「間違っている」と言い、過去の当たり前や常識を批判することほど易しいこともない。かつての当たり前を非難する際に「今の常識も実は変かもしれない」と疑うことは難しいのに対し、今の常識とは異なる過去のものを批判することは容易だからだ。

そうした視点から第二次世界大戦中の日本におけるヒトラー像を振り返ると、当時の日本の「当たり前」が見えてくる。

昭和10年代(1935年〜)の日本は、ドイツとの連携を急速に強めていた。
昭和11年(1936年)11月25日には日独防共協定を結ぶ。その目的は共産主義インターナショナル(コミンテルン)の脅威に対抗するためであり、実質的にはソ連を仮想敵国とした同盟だった。

その翌年の昭和12年(1937年)にはイタリアが加わって日独伊防共協定となり、さらには昭和15年(1940年)9月27日に調印される日独伊三国同盟へとつながっていく。

当時の日本は、昭和12年(1937年)7月に勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争に突入した時期であり、ドイツとの関係強化は東アジアでの勢力維持・拡大のための有効な政策だった。
そうした中で、ドイツを率いるヒトラーをたたえることは、まさに「今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです」という状況そのものだった。


昭和13年(1938年)8月には、ドイツからヒトラーユーゲント派遣団が来日し、大歓迎で迎えられた。

その際に歌われた歌は、北原白秋や『荒城の月』で知られる土井晩翠によって作詞されたものだった。
北原白秋の「万歳ヒットラー・ユーゲント」では、「燦たり輝くハーケン・クロイツ」、「万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナチス」というリフレインが繰り返され、3番の歌詞では大和とゲルマンの協調が謳われている。

燦たり輝くハーケン・クロイツ 
勤労報国また我が精神 
いざ今極めよ大和の山河を 
卿等ぞ栄えあるゲルマン民族 
万歳ヒットラー・ユーゲント 万歳ナチス

土井晩翠の「ヒットラーユーゲント歡迎の歌」の副題にも、ドイツ語で「Willkommen! Willkommen! Heil Hitler-Jugend!」と記され、「ハイル・ヒトラー」という音の響きが耳に入ってくる。

この青年派遣団は当時の日本で熱狂を巻き起こし、若者たちの凛々しい姿から「美しきファシズム」という言葉が生まれた。

そうした動きと並行して、同じ昭和13年(1938年)には、河合栄治郎の『ファシズム批判』など4冊が発売禁止処分になり、河合は翌年には社会の秩序を乱すとして起訴された。
この事件は、当時の日本では、ファシズムに対する批判が変なのであり、「美しきファシズム」という言葉が流通し、ヒトラーに対する賛美は決して「変なはなし」ではなく、むしろそれが当たり前だったことを示している。


エッフェル塔の前に立つ男性の写真

ヒトラーの国際戦略は巧みに組み立てられ、1939年(昭和14年)8月には、敵対するはずのソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上で、その秘密議定書に基づきポーランドへ侵攻した。他方、ソ連軍もポーランド東部に侵入し、両国でポーランドの国土を分割した。

1940年(昭和15年)には、ドイッ軍は、北ヨーロッパのデンマークとノルウェーへの侵攻を開始する一方で、デンマーク、 ノルウェー、 オランダ、 ベルギーに侵入、 続いてマジノ線を突破し、 ダンケルクにてイギリス軍を撤退させた。 六月に パリが陥落し、 ドイッの英本土爆撃が始まると、 イギリスの敗北は時間の問題とされ、 戦局は完全にドイッの勝利とみなされた。

翌1941年(昭和16年)6月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破り、ソ連を奇襲攻撃した。ヒトラーにとって、本来的に共産主義国家であるソ連は倒すべき敵であり、2年前の独ソ不可侵条約は、他国への侵略の間にソ連を抑え込んでおくための手段に過ぎなかったといえる。

ヒトラーに率いられたナチス・ドイツがこのように勝利を収め続けていた時、同盟国である日本の中でヒトラーが英雄として称賛されたことは、驚くにはあたらない。
現在の視点から過去の英雄視を非難したとしても、それは時代錯誤でしかないと言わざるをえないだろう。


1939年(昭和14年)8月の独ソ不可侵条約は、日本にとっては「背信行為」であり、ドイツに対する感情も一気に変化した。ヒトラーに対する人気も翳りを見せたが、しかし、ドイツが快進撃を続けているという情報に接するに従い、昭和15年(1940年)春頃からは再びヒトラー人気が盛り上がった。「尊敬するヨーロッパ人」で一位にあがったり、ナポレオンなどの世界史的英雄との対比が盛んに行われたりもした。

日本の伝統的な衣装を着た女性のモノクロ写真

そうした中で、昭和15年(1940年)9月、偶然にも、二つのヒトラーに関する雑誌記事が発表された。一つは小説家・国枝史郎の「ヒトラーの健全性」(「外交」9月2日)、もう一つは小林秀雄の「我が闘争」(「朝日新聞」9月12日)である。

ヒトラーの「健全性」などという題名は、現在からみると信じられないのだが、当時の社会情勢と、著者である国枝史郎の芸術観を知ると、その論の展開は理解することができる。

国枝は、未来派の芸術作品を嫌い、伝統に基づいた作品、とりわけ後期印象派を好んでいたようである。そこで、未来派を罵倒したヒトラーの姿勢こそ健全であるというのが、彼のエッセーの趣旨なのだ。
(「ヒトラーの健全性」あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/47273_41499.html

色と形が交錯した抽象画で、鳥や植物が鮮やかに描かれています。

確かにヒトラーは、アカデミズム的な保守的作風の絵画を好み、キュビスム、ダダイズム、未来派などの近代前衛芸術を、健康な国民的感情に反する「気違いの産物」とみなしてひどく嫌い、1937年には「退廃芸術展」を開催して非難の対象とした。

国枝はそうした芸術観と戦争で使用される近代兵器を同じ土俵の上に置き、伝統の価値を強調する。

第一次世界大戦中の軍服を着た男性のポートレート。

 ヒトラーは天才だと云われている。
 私もそう思う。
(中略)
 彼を総統にいただき、今次の欧洲大戦争を惹起した独逸(ドイツ)にとって、何より幸福だったことは彼が変質的天才で無く、変質的芸術家で無かったことである。
 彼が、未来派絵画を謳歌するていの変質的芸術家であったならば、漸進的戦術と、伝統を改良した新兵器とを用いて、難攻不落と称されたマジノ線を、ああも簡単に、ああも天才的に突破することは出来なかったであろう。
(国枝史郎「ヒトラーの健全性」)

未来派は、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるものとされるが、そうした芸術のあり方は国枝にとっては「破壊的、急進的、非写実的」であり、「変質的」だとみなされる。そして、伝統を破壊するような兵器では、1940年にフランスへ侵攻したドイツ軍が、フランス側の防衛線であるマジノ線の要塞を突破することなどできなかっただろうという。

つまり、ヒトラーは、芸術においても戦闘においても、伝統を尊重する天才であり、だからこそ「健全」だというのが、国枝史郎の主張だった。

白黒の肖像写真の男性が真剣な表情でカメラを見つめている

小林秀雄は、当時ベストセラーとなっていた室伏高信訳のヒトラー『我が闘争』を読み、国枝と同様にヒトラーを「天才」とするが、「健全性」という点では意見を同じくせず、そこに「憎悪」を読み取る。

これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。
(中略)
ナチズムの中核は、ヒットラーといふ人物の憎悪のうちにあるのだ。毒ガスに両眼をやられ野戦病院で、ドイツの降伏を聞いた時のこの人物の憎悪のうちにあるのだ。
 (小林秀雄「我が闘争」)

古い書籍の表紙で、中央に「我が闘争」と書かれ、周囲に花や草の装飾が施されています。

小林がこの書評で解明しようとするのは、ヒトラーに率いられたナチス・ドイツの政治思想そのものではなく、ヒトラーという人間が抱える憎悪に由来する「異常な情念」と、それを現実の政治に変える凄まじいエネルギーだといえる。

小林秀雄の分析では、ヒトラーは、先入観を持って自分の関心のある問題を検討すると、自分の考えと相入れないものを無視してしまうため、「自己の教義に客観的に矛盾する凡てのものを主観的に考えるといふ能力を皆んな殺して了(しま)ふ」と考えていた。そこで、自分の考えと相入れないものも含めて、あらゆるものを主観の中に取り込み、徹底して自分自身の問題として考えた、と小林は捉える。

彼は、彼の所謂(いわゆる)主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴(つか)んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発している様に思はれる(小林秀雄「我が闘争」)

軍服を着た3人の男性と犬が立っている白黒の写真

ヒトラーの政治的・軍事的な成功は、「主観的に考へる能力のどん底まで行く」ことで、「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」が働くことに由来している。それが小林秀雄の分析だった。彼は、ヒトラーの思想の善悪を問題にするのではなく、ヒトラーが現実の政治を動かす能力の秘密に迫ったのだった。

だからこそ小林は、「ヒットラーといふ男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない」と結論付けた。ヒトラーの政治的な力は、その人物自身の内面にある「憎悪」や「欲望」、そしてそこから生まれる「直覚」に根ざしている以上、外面的な政策や制度だけを取り入れても、その本質を再現することはできない。小林は、そのように考えたものと思われる。

ちなみに、『我が闘争』の書評を収録している『小林秀雄全集』では、文章に改変が行われている。冒頭の二段落が省略され、「天才のペン」が「一種の邪悪なる天才」と変更されていたり、上に引用した「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く」以下の一節が削除されていたりする。しかも、そうした改変についての注記は見当たらない。
このような改変は、戦時中に書かれた文章を後世の価値観から読み替えることにつながり、歴史的事実の確認を妨げるだけではなく、読者の不信を招くことにもつながる。戦時下において小林秀雄がヒトラーをどのように捉えていたのかを検証するためにも、原文を正確に再現することが強く望まれる。
(「朝日新聞」に掲載された記事は、このブログの項目の最後に添付してある。)


昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃と、それに続くアメリカ・イギリスに対する宣戦布告によって太平洋戦争が始まり、日本はアメリカとの全面戦争に突入していった。

散らかった部屋で執筆する男性。

そうした中で、同盟国であるドイツを率いるヒトラーに対する評価が大きく変わることはなかった。昭和17年(1942年)2月に発表された坂口安吾の「日本文化私観」でも、ヒトラーはナポレオンと並ぶ「大天才」として捉えられている。

 「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
 この悔いや悲しさから逃げるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。ヒットラーは、一度も退却したことがないけれども、彼等の大天才でも、家を逃げることは出来ない筈だ。そうして、家がある以上は、必ず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃げることが出来ない筈だ、と僕は考えているのである。だが、あの大天才達は、僕とは別の鋼鉄だろうか。いや、別の鋼鉄だから尚更・・・と、僕は考えているのだ。そうして、孤独の部屋で蒼(あお)ざめた鋼鉄人の物思いに就て考える。(坂口安吾「日本文化私論」)

坂口安吾は、「帰る」ことで初めて感じられる「悔いも悲しさ」から文学が生まれると考えているのだが、そうした文学論は別にしても、軍事的には常に前進し、退却したことがない「大天才」として、ナポレオンとヒトラーの名前を特別な配慮なしに挙げている。

このことは、太平洋戦争下の日本において、ヒトラーがユダヤ人迫害やナチスの政治的犯罪の象徴としてではなく、ドイツを率いる「大天才」、そして軍事的な成功を収めた人物として捉えられていたことを示している。そして、それは当時の社会における一つのヒトラー像だったと考えられる。

だからこそ坂口安吾は、ナポレオンとヒトラーを「前進し続ける大天才」として並べ、その人物像が読者にも共有されていることを前提として、特に説明を加えることなく文章の中に取り入れているのだと考えられる。


白黒のポートレート写真、スーツを着た男性の横顔。

戦時中の日本におけるヒトラー像を辿ってみると、現在の評価とは全く異なっていたことがはっきりと見えてくる。その時代の空気を無視し、現在のヒトラー像を過去に投影して、戦時下のヒトラーに関する言葉を取り上げ、非難の対象とすることは、容易だ。しかし、過去の事実を事実として知るための妨げになる可能性がある。

そのことと、ヒットラーに引き入られたナチス・ドイツの行為を断罪しないこととは、次元のことだ。

実は、最初に引用した石川淳の「マルスの歌」は、昭和13年(1938年)1月に『文学界』に掲載された際、反軍国主義、反戦的であるという理由で内務省から発禁処分を受けた。そして、作者の石川と、雑誌の編集責任者だった河上徹太郎は、罰金刑に処せられた。

軍国主義が日本全体を覆い尽くす中で、「マルスの歌」の主人公は、「いざ起て、マルス、勇ましく」という流行歌を聞くたびに鬱陶しい気持ちになり、最後にはレコードをかけようとする人間に対して、「やめろ」と叫んでしまう。

番人がレコードを掛けようとしている。ああ、何を掛けるのだ。ここでもまた、あのレコード・・・・・「やめろ。」思わず、わたしは声に出していた。声はにくにくしくひびいたようであった。ひとびとはけげんな顔でわたしのほうへふりむいた。そして、たちまち叱責の眼がわたしを突き刺した。(石川淳「マルスの歌」)

この叱責の眼に抗い、時代の空気とは異なる声を上げることがどれほど困難だったのかを知れば知るほど、時代の空気の中で、大勢とは違う考えを持つこと自体の難しさがわかる。

多くの場合、私たちの言葉は、私たちの生きる時代の言葉と連動し、微妙な偏差の中で振動しているにすぎない。そこから大きくずれれば叱責の視線が投げかけられるが、むしろ、大きくずれることのほうが少ないと考えるほうが自然だろう。

したがって、それぞれの言葉を読み解く際に、それが発せられた時代の言葉たちを知り、そこでの偏差を読み解くことで、問題の言葉の意味や価値が徐々に理解できるようになる。「やめろ」という言葉を理解するためには、「叱責の眼」も同時に知ることが不可欠なのだ。

その相互関係を無視して、読者の視点からだけ言葉を読んでも、読者の価値観しか見えてこない。その反対に、同時代性に基づいた上で、戦中のヒトラーに関する言葉を読むことで、当時の日本を知る手掛かりとなるはずである。


戦中のヒトラー像については、以下の論文に詳しい。

岩村正史「昭和戦前期日本人のヒトラー像」『法政論叢法政論叢』36 (2), pp. 209-228, 2000.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalps/36/2/36_KJ00003722368/_article/-char/ja/


小林秀雄「我が闘争」

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