
フランソワ・ヴィヨンの名前は、日本では太宰治の『ヴィヨンの妻』によって広く知られている。あるいは、芥川龍之介の「フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した」(「或阿呆の一生」)という一節から、この中世フランスの詩人に興味を持った人もいるかもしれない。
芥川や太宰に愛され、本国フランスでもヴェルレーヌやランボーらに愛読されたことを知れば、どうしてもヴィヨンの原詩を直接読んでみたくなる。
しかし、中世のフランス語は現代フランス語とは大きく異なっているため、少し努力しないとなかなか読み解くことができない。ここでは「それでも原語でトライしてみたい」という読者の存在を期待して、綴り字は現代風に補正しつつも、単語や構文は中世フランス語のまま、ヴィヨンの最もよく知られた詩「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み解いていくことにする。

フランソワ・ヴィヨンは、中世末期の百年戦争の混乱期に生まれ、何度か牢獄に投獄され、実際に死刑宣告を受けたこともあった。そうした極限状態のなかで、絞首台に吊るされた者たち(pendus)の姿を想像し、その死体を見物する生者たちへ語りかけるという構図を着想したのだろう。
実際、この詩の正式な題名は「ヴィヨンが、彼自身と仲間たちが絞首刑に処されるのを待ちながら書いた、バラード形式の墓碑銘」(l’Epitaphe en forme de ballade que fit Villon pour lui et ses compagnons s’attendant à être pendus avec eux)というものである。
この題名の中でバラード(Ballade)という言葉が使われているが、中世の定型詩法において、その形式は厳密に規定されていた。
この「墓碑銘」が属する「大バラード(la grande ballade)」は、「1行10音節」「1詩節10行」の本体が3つ、さらに「1詩節5行」の結句(envoi)が1つ、計4つの詩節で構成される。
韻の構成は、10行の詩節ではababb / ccdcd、5行の結句ではccdcdという定型が決まっていた。
「絞首刑にされた者たちのバラード」は、この厳格な定型を守り抜いているだけでなく、詩句の音楽性も見事に工夫されており、死者と生者のために捧げる祈りとしての効果を最大限に高めている。
その高い詩的達成を知れば、ヴィヨンがいくら無頼で放浪の人生を送ったとしても、キリスト教が絶対的だった中世において、乱暴な言葉で詩を綴ったとは考えられないことがわかるだろう。
従来の日本語訳では無頼漢らしい粗野な口調が用いられることも多いが、ここでは提示する日本語は、できる限りフランス語の語順に忠実に、そして神や聖母マリアに捧げる切実な祈りにふさわしい言葉遣いを心がけることにする。

また、この詩の内容は「キリスト教の教え(leçon)」、「絞首台の死者たちの描写(description)」、「神への祈り(prière)」という3つの要素に分かれるため、各部分を色分けし、ブロックごとに読み解いていく。
名優ジェラール・フィリップによる素晴らしい朗読をYouTubeで聴くことができる。彼の声に耳を傾け、15世紀フランス語の音楽的な詩句に身を委ねていると、中世フランス語への抵抗感も自然と消えていくに違いない。
第一詩節

実際にヴィヨンの詩句を読む前に、まず古い時代のフランス語について少しだけ説明しておこう。
動詞は活用するが、その前に主語となる代名詞を明示する必要はなかった。その点については、フランス語の祖先ともいえるラテン語と同様だった。
例えば vivre(生きる)は、vous vivez と主語の代名詞をつける場合も、vivez と活用だけで済ますことも可能だった。そのため、avoir をただ活用だけして avez と vous なしで済ますことも、voir を vous voyez と代名詞付きで活用することもあった。
冠詞に関しても厳密な規則がなく、使用の有無はかなり自由だった。
さらに、現代語と異なる言葉の使い方もあり、例えば plus tôt は、現代フランス語の「より早く」という時間の意味ではなく、「よりいっそう(plus volontiers / d’autant plus)」を意味した。
そうしたことを頭に入れて、最初の4行を読んでみよう。
ここでは、絞首台で首をつられている者たちの代表としてヴィヨンが見物人たち(vous)に話しかけ、彼らに同情(pitié)を寄せてくれれば、神が見物人たちにより一層の慈悲(mercis)をかけてくださるだろうと説いている。(こうしたキリスト教の教えの言葉は以下の部分ではピンクに色付けする。)
Frères humains qui après nous vivez
N’ayez les cœurs contre nous endurcis,
Car, si pitié de nous pauvres avez,
Dieu en aura plus tôt de vous mercis.
人類の兄弟たちよ、私たちの後に生きる者たちよ、
私たちに対して、頑なな心を持たないでください。
あなた方が、哀れな私たちを憐れんでくれれば、
神はそれによって、あなた方によりいっそうの慈悲をかけてくださるでしょう。

まず最初に、ヴィヨンは絞首台に吊るされた者たちの代表として、見物人たちに「人類の兄弟たちよ(Frères humains)」と呼びかける。その時、見物人たちは「私達(nous)」の後に生きる者として描かれ、逆にヴィヨンたちはすでに死んでいることが示されている。
そして、自分たちに対して頑なな心(les cœurs … endurcis)を持たないことや、哀れな私たち(nous pauvres)を憐れんでくれるよう、否定命令(n’ayez)や条件節(si … avez)を用いて訴えかける。
しかし、その要求だけでは終わらず、神(Dieu)から報いがあることも同時に告げる。
そこで使われる merciという言葉は、現代語でも「ありがとう」という意味だけでなく、「慈悲」や「恩寵」という意味も持っている。 あなた方が私達に寄せてくれる同情(pitié)のおかげで(en)、あなた方は神からさらなる慈悲(mercis)を受けることができるだろう、というのである。
人間が他者に対して抱く感情を pitié(同情・憐れみ)とするならば、神が人間に与えるものは merci(慈悲・恩寵)であるという、キリスト教らしい言葉の使い分けがここで行われていると考えることができる。
。。。。。
次の4行は、絞首刑になった死体を描写する部分だが、その描写のリアルさは「見る(voyez)」という言葉によって最初に示されている。つまり、見物人たちが見た姿がそのまま描かれていることになる。(描写の詩句は茶色に色付けする。)
現代語との違いとして、現代フランス語の quant à ...(〜に関していえば)が、古フランス語では quant de …と前置詞が異なっている点が挙げられる。
また、piéça は「すでに/とうの昔に(depuis longtemps)」という時間を表す古仏語で、現代フランス語には存在しない。
Vous nous voyez ci attachés cinq, six ;
Quant de la chair, que trop avons nourrie,
Elle est piéça dévorée et pourrie,
Et nous, les os, devenons cendre et poudre.
あなたがたはここで、私たちが5人、6人と吊るされているのを見ています。
肉体、私たちがあまりに肥やしてしまった肉体といえば、
とうの昔に食いちぎられ、腐り果て、
骨となった私たちは、灰や粉になろうとしています。

吊るされているのが5人なのか6人なのかはっきりしないのは、風が吹き、死体が揺れていることを暗示しているのかもしれない。
そこで見えている死体は、生きているときには悪事で富を得たために、随分と肥え太っていたのだろう。
私たち(nous)は肉体(la chair)に栄養を与え、肥やしすぎてしまった(avons nourrie)のだった。
それが随分前に(piéça)絞首刑にされたために、鳥や虫に食いちぎられ(dévorée)、腐っている(pourrie)。
そして今では骨(os)だけになり、その骨すらも灰(cendre)となり、粉(poudre)になろうとしている。
こうして非常にリアルに死体の様子が描き出され、読者にぞっとするような(macabre)印象を与えることで、祈りを促す役割を果たしていると考えてもいいだろう。
さらに、この情景を記憶に刻み込むために音の工夫も見られる。
子音を反復させるアリテラシオン(allitération)という詩法が用いられ、食いちぎられ(dévorée)、腐った(pourrie)おぞましい様子が、d と p の音の反復によって強く印象付けられている。
D : de (la chair) – dévorée – devenons – cendre
P : trop – piéça – pourrie – poudre
このようにして、視覚的な描写と聴覚的な響きの相乗効果によって読者の心に強く訴えかけ、祈りを促す効果を発揮しているのである。
。。。。。
第1詩節の最後の2行は祈り(prière)であり、とりわけ最後の1行は、すべての詩節の末尾で繰り返されるリフレイン(折返し句)となる。(祈りの詩句は青色に色付けする。)
De notre mal personne ne s’en rie :
Mais priez Dieu que tous nous vueille absoudre!
私たちの苦しみを、誰も笑わないでください。
むしろ、神に祈ってください、私たちみんなの罪を赦してくださるようにと!

「私たちの苦しみ(notre mal)」と言うとき、「私たち」とは絞首台の上にいる死者たちだけを指すのではなく、彼らを見物している人々をも含んでいる。つまり、すべての人間を指しているのである。そして、すべての人間が何らかの苦しみ(mal)を抱えているのだから、誰一人としてそれを笑ってはならない(ne s’en rie)。
その祈りが人間すべてに関わることは、最後の行の「私たちみんな(tous nous)」という表現によって明確に示されている。神に祈る目的は、決して絞首台に吊るされた者たちのためだけではなく、すべての人々の罪や過ちを神が赦す(absoudre)ことを願ってのことなのだ。
この最後の1行によって、「人類の兄弟たちよ(Frères humains)」という冒頭の呼びかけの必然性が明らかになる。ヴィヨンの墓碑銘は、彼一人の救いにとどまらず、私たちすべての救いを願うものなのである。
(以下 2/2 に続く)