
「女性の天皇っていたのですか」と質問されて、少しだけびっくりしたことがある。聖徳太子の時代の天皇は推古天皇という女性だったことは誰でも知っていると思っていたからだ。
しかし、「何人の女性天皇がいたのか」と問われると、まったくわからない。そこで、簡単に調べてみることにした。すると、8人の女性天皇が存在し、2人は2度天皇位に就いていることがわかった。
(1)第33代 推古天皇(在位:593年1月15日 – 628年4月15日)
(2・3)第35代・第37代 皇極天皇(重祚して斉明天皇)
皇極天皇:642年2月19日 – 645年7月12日
斉明天皇:655年2月14日 – 661年8月24日
(4)第41代 持統天皇(在位期間:690年2月14日 – 697年8月22日)
(5)第43代 元明天皇(在位期間:707年8月18日 – 715年10月3日)
(6)第44代 元正天皇(在位期間:715年10月3日 – 724年3月3日)
(7・8)第46代・第48代 孝謙天皇(重祚して称徳天皇)
孝謙天皇(在位期間:749年8月19日 – 758年9月7日)
称徳天皇(在位期間:764年11月6日 – 770年8月28日)
(9)第109代 明正天皇(在位期間:1629年12月22日 – 1643年11月14日)
(10)第117代 後桜町天皇(在位期間:1762年9月15日 – 1771年1月9日)
事実確認:「万世一系」と「男系男子の皇位継承」
女性天皇の存在は簡単な事実の確認だが、では、「いつから男系男子だけが皇位を継承できると定められたのか」を調べてみると、意外なことがわかってくる。
現代に生きる私たちが当たり前だと思っていることが、明治時代からの習慣や規則だということが意外に多いことに驚くことがある。例えば、「万歳」や「乾杯」の習慣、天皇制に関しては、「一世一元制」「紀元節」「皇室の洋装」などもそうだ。
乾杯・万歳はいつから日本の習慣になったのか — 明治時代に始まった「当たり前」の歴史
「皇位継承」についても、江戸時代までは体系的に定められた規則は存在せず、先例や慣習に基づいて継承が行われていた。それが定められたのは、明治時代になってからだった。
明治22年(1889年)に制定された『大日本帝国憲法』第一条では、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められ、「万世一系」という理念が憲法に明文化された。
また第二条では、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」として、「皇男子孫」という言葉は使われているが、これが「男系ノ男子」として明文化されるのは、『皇室典範』によってである。
実際、『皇室典範』第一章「皇位継承」第一条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」という規定が定められている。
このように、「万世一系」という理念が『憲法』に、「男系男子による皇位継承」という原則が『皇室典範』に、それぞれ明文化されたのはいずれも明治22年のことである。
そして、「男系男子の皇位継承」については、次の様な事実も確認される。
明治18年(1885年)末に宮内省が示した案とされる「皇室制規」という草案では、「皇族中男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ以テ継承ス」という項目が含まれていた。
つまり、宮内省が示した案では、男系が絶えた場合には女系継承を認める案が検討されていた。
それに対して、井上毅(こわし)が、翌明治19年(1886年)に「謹具意見」(きんぐいけん)を提出し、女系容認論に反対し、男系男子継承論を唱えた。井上が主張したのは、以下の点である。
(1)「万世一系」への懸念:現在でも天皇や皇族には苗字(姓)がない一方、臣下にはそれぞれ姓がある。そのため井上毅は、もし女性天皇が臣下の男性と婚姻した場合、その子は父方の姓を帯びるものと受け取られかねず、皇統が配偶者の家系へ移ったように見なされるおそれがあると考えた。そして、それは中国で王朝交代を意味する「易姓革命」の観念を想起させ、日本の皇統の連続性に疑念を生じさせることを懸念した。
但し欧羅巴ならば源姓と称へながら源姓の人も女系の縁にて皇位を嗣ぐこと当然なりと明らむるなり、欧羅巴の女系の説を採用して我が典憲とせんとならば、序にて姓を易ふることをも採用あるべきか、最も恐しきことに思はるゝなり。(「謹具意見」)
この意見から読み取ることができるのは、井上毅が問題視したのは、女系による継承が皇統の連続性に対する疑念を招き、中国の「易姓革命」のような王朝交代と受け止められる可能性だったという点である。
(2)女性天皇「中継ぎ」説:歴代の女性天皇を見てみると、多くは未婚あるいは未亡人であり、最終的には男性天皇へ皇位が戻っている。そのため井上毅は、歴代の女性天皇は男系男子による皇位継承を維持するための例外的・一時的な存在であり、「中継ぎ」であったと位置付けた。
(3)側室制度の存在:当時は皇族・華族社会では側室制度がまだ存続しており、男子継承者を確保することが現実的に可能だと考えられていた。
このような井上毅の考え方は皇室典範制定過程で大きな影響力を持ち、最終的に旧皇室典範第一条の「男系男子継承」という原則へと結実した。
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「万世一系」や「女性天皇中継ぎ説」の解釈については議論が分かれるため、単純な事実として取り上げることはできない。一方、「側室制度」については、その実態を歴史資料によって客観的に確認することができる。
側室を持った最後の天皇は明治天皇だった。明治天皇の皇后は昭憲皇太后(旧姓:一条美子)であるが、5人の側室もいた。
| 側室 | 出自 | 子供の数 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 柳原愛子(やなぎわら なるこ) | 公家(柳原家) | 皇子1人・皇女1人(推定) | 嘉仁親王(後の大正天皇)を出産。 |
| 園祥子(その さちこ) | 公家(園家) | 2男6女=8人 | 皇子2人はいずれも早世。皇女4人が成人した。 |
| 葉室光子(はむろ みつこ) | 公家(葉室家) | 記録あり(人数の詳細は史料により差) | 子は夭折 |
| 橋本夏子(はしもと なつこ) | 公家(橋本家) | 出産後まもなく死去したとされる | 子の消息については資料が限られる |
| 千種任子(ちぐさ ときこ) | 公家(千種家) | 子なし、とする資料が多い | — |
明治天皇と側室との間には、計15人(皇子5人・皇女10人)の子供が生まれたが、無事に成人したのは5人(皇子1人・皇女4人)だった。そして、その中で唯一成人した男性皇子が、のちに大正天皇として即位することになる。
現代では側室制度そのものは廃止され、一夫一婦制が社会の原則となっている。そのため、当時の制度に違和感を覚えるかもしれない。しかし当時は側室制度が公認されており、側室である柳原愛子が生んだ嘉仁親王(大正天皇)は正統な皇位継承者として扱われた。
この事実は、井上毅が「謹具意見」を著した当時、側室制度の存在によって男系男子による皇位継承を維持できるという考え方が、現実的な前提として存在していたことを示している。
江戸時代から明治時代へ:歴史的考察
江戸時代の将軍は、征夷大将軍として、形式的には天皇からその地位を授かった存在であった。こうした統治の仕組みは、源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、武家政権が受け継いできたものである。
実際、私たちは江戸幕府の将軍については、徳川家康をはじめ何人かの名前を挙げることができる。しかし、江戸時代の歴代天皇の名前となると、すぐには思い浮かばない人も多いだろう。その中に二人の女性天皇がいたことも、一般にはあまり知られていない。
この状況が大きく変化するのが幕末である。ペリーの来航に象徴される欧米列強の進出を受け、日本では開国をめぐる議論が起こり、幕府と反幕府勢力の対立が激化した。その際、反幕府勢力の旗印となったのが「尊皇攘夷」、すなわち天皇を尊び外国勢力を退けようという思想だった。
この争いは、最終的に薩摩・長州を中心とする倒幕派の勝利に終わる。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は慶応3年(1867年)に「大政奉還」を行い、公家と武家が協力する新たな政治体制を構想した。
しかし、倒幕派は朝廷を動かして「王政復古の大号令」を発し、将軍職は廃止され、政権は天皇のもとへ返還されることとなった。
その際、新政府が政治的正統性を示すために掲げた理念が、「神武創業ノ始ニ復古ス」という言葉であった。「復古」とは、政治の正統性を神武天皇にまで遡る皇統に求める考え方を示したものである。
このように見ると、約260年間続いた江戸幕府に代わる新たな国家を築くにあたり、新政府は飛鳥時代よりもさらに遡り、神武天皇以来連綿と続く皇統という理念を国家統合の象徴として位置付けたと考えることができる。
そして、その理念を法制度として具体化したものが、『大日本帝国憲法』と『皇室典範』だった。
憲法第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、皇室典範第一条の「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」は、その根幹をなす規定である。
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では、戊辰戦争や江戸城無血開城、会津戦争、五稜郭の戦いを経て旧幕府勢力がほぼ制圧された後も、新政府はなぜ天皇を中心とする国家体制をさらに強化したのだろうか。
その背景の一つとして考えられるのは、欧米列強による植民地化の圧力に対抗し、日本の独立を維持するとともに、近代国家として欧米諸国に肩を並べる国家を築こうとしたことである。
幕末には攘夷を唱えていた人々も、明治維新後には欧米から積極的に制度や技術を学び、殖産興業・富国強兵を推進した。学制の公布による近代教育の整備や徴兵制の導入なども、その一環である。さらに、日本は欧米列強に学びながら国力の増強を進め、やがて対外的な影響力を拡大していくようになる。
こうした近代化政策の中で、新政府は欧米諸国の政治制度についても積極的に調査した。
憲法制定に先立ち、伊藤博文らはヨーロッパに渡り、とりわけプロイセン憲法やドイツ憲法学を詳しく研究した。帰国後は、ドイツ人法律顧問ロエスレルらの助言も受けながら、伊藤博文、井上毅らが、憲法・皇室典範の起草を進め、枢密院での審議を経て『大日本帝国憲法』が制定された。
このように、明治政府は近代的な立憲国家を構築するにあたり、プロイセンをはじめとするヨーロッパ諸国の制度を重要な参考とした。一方、当時のヨーロッパ王室では、「サリカ法」に代表される男系継承の原則を採る国も少なくなかった。「サリカ法」はフランク王国時代の法に由来し、中世以降、ヨーロッパ王室の王位継承に大きな影響を与えた制度として知られている。
井上毅らが男系男子継承を制度化した背景については様々な要因が考えられるが、日本古来の皇統観に加え、こうしたヨーロッパの君主制の影響も一つの要因だった可能性が指摘されている。
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「万世一系」という理念も、近代国家を形成するうえで重要な意味を持ったと考えられる。
江戸時代にも「日本」という国家意識そのものは存在していた。しかし、幕藩体制のもとでは、人々の日常生活はそれぞれの藩との結び付きが強く、近代国家における「国民」という意識はまだ十分には形成されていなかった。
こうした状況の中で、「万世一系」という理念は、近代国家として国民を統合する象徴として大きな役割を果たしたと考えられている。神武天皇以来一つの皇統が続いてきたという歴史像は、日本という国家の連続性と独自性を示す理念として位置付けられた。
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一方、家制度についても注目すべき点がある。
江戸時代にも武士や有力農民には家督相続の慣行が存在したが、皇室における男系継承という考え方が国民全体に共有されていたわけではなかった。
明治政府は民法によって戸主を中心とする家制度を全国的に整備した。その結果、父系を重視する家族観が社会全体に定着していった。
このような歴史的経緯を踏まえるならば、現在でも男系男子による皇位継承を当然の前提と考える人が少なくない背景には、明治時代以降に制度化された皇室典範や家制度の影響がある可能性も考えられる。ただし、その評価については歴史学・法学・政治学などでさまざまな見解が示されており、現時点で一つの結論があるわけではない。
神話と歴史の間

女性天皇が話題になるとき、「日本は神武天皇以来2700年近い歴史を持つ国である」と説明されることが少なくない。
その根拠となるのは、『日本書紀』に記された神武天皇の即位に関する記述である。
辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 (『日本書紀』神武記)
(現代語:辛酉(しんゆうねん)の年の春正月、庚辰(こうしん)の日を朔(月の第一日)として、天皇は橿原宮(かしはらのみや)において帝位にお即きになった。)
この記述をもとに、明治政府は暦法による換算を行い、神武天皇の即位日を紀元前660年2月11日と定め、「紀元節」とした。
この神武天皇が皇室の始祖ということになるのだが、では両親は誰だったのかということも当然気にかかる。
系譜をたどると、父は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)、母は玉依姫(たまよりびめ)であり、いずれも神として描かれている。神武天皇は、その二人の間に生まれた四男とされている。
すると、当然、神から生まれた子は神なのだろうか、それとも人間なのだろうか、という疑問が湧いてくる。
現存する日本最古の書物である『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇は神々の子孫として描かれる一方で、東征を行い、戦い、人々を率いて大和に至り、初代天皇として即位した人物としても描かれている。そこでは、神話の世界から人間の歴史へと物語が移り変わっていく構成が見られる。
こうした系譜は、皇室の由来と正統性を示す重要な物語として位置付けられていたと考えられる。
その一方で、現代の歴史学の立場からは、神々から人間へとつながる系譜をそのまま史実として扱うことは難しい。
そこで、神武天皇に関する記述を歴史的事実と受け止める人もいれば、神話として理解する人も出てくる。こうした異なる見方が、長い歴史の中で共存してきたことも、日本文化の一つの特徴なのかもしれない。