ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その1

このブログは、ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)の『ボエム・ギャラント(La Bohême galante)』から名称を借用している。その理由は、私が長年にわたりネルヴァルの詩や散文を愛読する中で、もっともネルヴァル的だと思える作品の一つであり、とりわけ愛着のある題名だからだ。

ネルヴァルは現在でも、夢と狂気の作家などというレッテルを貼られ、作品はそうした視点を通して読まれることが多い。しかし、実際に彼の紡いだ言葉を彼の生きた時代に引き戻して読んでいくと、それらの言葉は身近な友人たちとの対話から成り立ち、お互いに知っている事柄について、ユーモアや皮肉を込めて、面白おかしくやり取りしていたのだということがわかってきた。彼が頭に置いていた読者は、非人称で不特定な人々ではなく、少数の知り合いに限られていたといっていいかもしれない。

逆に言えば、ネルヴァルの言葉を丹念に読み解いていくことで、私たちも、1808年に生まれ1855年に亡くなったフランスの作家と直に言葉のやり取りをしているような感じがしてくる。友だちになったとは言えないけれど、知り合いの一人には入れてもらえるような気がするのだ。

『ボエム・ギャラント』で言えば、19世紀の半ばのフランスで、1848年の2月革命の後、ナポレオン3世が権力をにぎり、帝制を確立する時期にあたる1852年、ネルヴァルは友人で『ラルティスト(L’Artiste)』という豪華な雑誌の編集長だったアルセーヌ・ウッセイから、一緒に過ごした青春時代の思い出を書くように誘われる。

その注文に応じてネルヴァルが書く内容は、当然、友だち仲間ではよく知られていたことであり、内輪話といってもいい。仲間同士でああだった、こうだったと言いながら、楽しい時を過ごす。そうしたシンパシーに富んだ言葉が綴られる。

当然のことながら、私たち現代の読者は知らないことが多いので、それなりに調べることが出てくるのだが、そうしているうちに、いつの間にかネルヴァルの仲間うちの一人になった気分になってくる。

これから何回になるかわからないのだが、『ボエム・ギャラント』について少しずつこのブログで書いていくことは、私の独り言のようなものになるかもしれない。その意味では、ネルヴァルがしたことをここで私がたどり直すと言ってみたい気もする。

ただし、言葉によって美を表現することがネルヴァルの最終目標だったのだと私は思うのだが、残念ながら、私は作家ではないので、言葉の美を作り出すことはできない。ただ、『ボエム・ギャラント』をめぐって、ふらふらと読書の散策をすることだけになるだろう。

『ボエム・ギャラント』のエピグラフ、をめぐって

1852年7月1日の『ラルティスト』誌で『ボエム・ギャラント』の連載が開始された時、題名の下には、« À Arsène Houssaye »(アルセーヌ・ウッセーへ)という言葉が置かれ、次に、イタリアの詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニの牧歌的悲喜劇『忠実な羊飼い(Il pastor fido)』(1590年)の詩句が、イタリア語のままエピグラフとして引用されていた。

実は、このイタリア語の詩句には、一行だけ出典不明の言葉が紛れ込んでいる。それが、このエピグラフのいちばん面白いところなのだが、その話は少し後に回そう。まずは詩そのものの意味を味わうことにしたい。

O primavera, gioventù de l’anno 
   Bella madre di fiori,
D’herbe novelle e di novelli amori ;
   Tu torni ben, ma teco 
   Non tornano i sereni
E fortunati dì delle mie gioie :
         Tù torni ben, tù torni, 
          Ma teco altro non torna
Che del perduto mio caro tesoro
Che delle mie care e felici gioie
La rimembranza misera, e dolente !…

Le cavalier GUARINI
(Pastor fido)

イタリア語はフランス語に近いし、『ラルティスト』誌の読者であればそれなりの文化的な素養があっただろうから、フランス語訳は必要なかっただろう。

他方、私は少しだけならイタリア語を勉強したことはあるが、それほど読めるわけではないので、やはり訳して理解するしかない。


普通であればこれでエピグラフの解釈は終わるはずなのだが、実は一つどうしてもわからないことがある。それは、最後から2行目の詩句 « Que de mes chères et heureuses joies » が、グァリーニの原文にはないことだ。

私の恩師であるジャック・ボニ(Jacques Bony)先生は、非常に緻密で堅実な研究をなさった方なので、その部分に注を付け、フランス国立図書館でグァリーニ『忠実な羊飼い』の様々な版を調べたけれど、この詩句が出てくるものを見つけることはできなかったと正直に書いている。

例えば、1686年に出版された対訳本を見てみても、その詩句は存在していないことを確認することができる。


ジャック・ボニ先生は、二つの仮説を立てている。
(1)ネルヴァル、あるいは、編集者のアルセーヌ・ウッセイが、書き加えた。
(2)『忠実な羊飼い』が何かのアンソロジーに掲載され、その際に付け加えられた。

最初の可能性について、現在であれば、引用する者が勝手に詩句を変更したり、新しい詩句を付け足したりすることはないだろうと思うのだが、19世紀には実際にありうることだった。

その実例の一つが、ヴィクトル・ユゴーの『秋の葉(Les Feuilles d’automne)』(1831年)で確認される。

その詩集の14番目、« Ô mes lettres d’amour, de vertu, de jeunesse »(おお、私の愛、美徳、青春の手紙たちよ)のエピグラフには、次の詩句が掲げられている。

Oh primavera ! gioventù de l’anno !
Oh gioventù ! primavera della vita !

フランス語と日本語に訳してみると、こんな感じだろうか。

Ô printemps ! jeunesse de l’année !
Ô jeunesse ! printemps de la vie !

おお春よ、年の若さよ!
おお若さよ、人生の春よ!

1行目はほぼ『忠実な羊飼い』の詩句のままだが、2行目は原文にはなく、ユゴーが自分で書いたものだと考えられている。

この例からみて、『ボエム・ギャラント』のエピグラフでも9行目の「失われた私の愛しい宝の」だけではフランスの読者には少しわかりにくいと考えて、あえて「私の愛しく幸せな喜びの」を付け足したと考えることも不可能ではない。

その一方で、18世紀や19世紀に出版されたイタリア詩のアンソロジーや、イタリア語の教科書の中に、原文にはない詩句が挿入され、それをネルヴァルかウッセイがそのまま引用したという可能性も捨てきれない。

以前であれば、フランス国立図書館に籠もり、ひたすらそうした本を探ってみることをしただろうけれど、現在はネット情報が格段に進化しているので、ある時、偶然出典が見つかる可能性があるかもしれない。ただし、私が今の時点で探している限り出典は見つけられていないので、新たなデジタル資料の公開によって解決する可能性を待つしかないという状態に、現状では留まっている。

多くの読者にとっても、さらには専門に文学を研究している多くの人々にとって、その一行の出所などはどうでもいいことに違いない。


ところが、この話にはもう一つ気になる点が残されている。

1852年12月に『ラルティスト』誌に掲載されていた「ラ・ボエム・ギャラントの」連載が終わるのだが、その直後に、ネルヴァルは、そこで使われた素材をある意味では使い回して、 Les Petits Châteaux de Bohême(『ボヘミアの小さな城』)という小さな本を出版する。
本の大きさはほとんど日本の文庫本と同じで、ページ数も96ページと非常に限られたものだった。

その際、冒頭に献辞とエピグラフが置かれているのだが、少しだけ違いが見られる。
(1)本を捧げる相手が、雑誌の連載の場合には、編集長のアルセーヌ・ウッセーだったが、今回は、« À un ami »(友に)という風にして、固有名詞が消されている。
(2)『忠実な羊飼い』からのエプグラフが、最初の三行だけになり、先ほどから問題にしてきた出典不明の詩句もなくなっている。しかも、作者の名前もなく、題名だけが記されている。

A UN AMI


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O primavera, gioventù de l’anno 
   Bella madre di fiori,
D’herbe novelle e di novelli amori …

Pastor fido

こうした違いを見ていると、ネルヴァルの本心は、アルセーヌ・ウッセーの要請で連載を始めたとはいえ、その編集方針には必ずしも満足していなかったのではないか、とも思えてくる。実際、そのように考えられ、「ボエム・ギャラント」を『ボヘミアの小さな城』の下書きであるかのように見なすことさえあった。

そして、もしそのように考えると、『忠実な羊飼い』からの長い引用も、実はウッセーの意図を反映したものであり、問題の一行も雑誌の編集長が勝手に書き加えたのかもしれない、といった推測さえ成り立つことになる。

しかし、ネルヴァルがそんなことを気にするのだろうか。むしろ雑誌に掲載している時にはそれに合わせ、どんなに小さくても本の形で出版する際には、別の意図を持って編集に当たるだけの、心の広さがあったのではないだろうか。

もちろん、こうしたことはすべて推測に過ぎない。それでも、私はネルヴァルの言葉の微妙な声を聞きたいばかりに、こんな調査につい時間をかけてしまうのだ……。


ネルヴァルと直接関係ないかもしれないのだが、『忠実な羊飼い』の問題の詩句をモンテヴェルディが作曲していて、ネルヴァルの時代のフランスでも、また現代の日本のクラシック音楽ファンの間でも、かなりよく知られている。

面白いことに、『マドリガーレ集 第3巻』(1592年)に収められた « O primavera, gioventù de l’anno » の歌詞は、グァリーニの詩をそのまま用いているのではなく、複数の箇所が自由に組み合わされている。


O primavera, gioventù de l’anno,
bella madre de’ fiori,
d’erbe novelle e di novelli amori,
tu ben, lasso, ritorni,
ma senza i cari giorni
de le speranze mie.
Tu ben sei quella ch’eri pur dianzi,
sì vezzosa e bella;
ma non son io quel che già un tempo fui,
sì caro a gli occhi altrui.

おお、春よ、一年の青春よ、
美しき花の母、
新しき草木、そして新しき恋の母よ。
おまえは確かに戻ってくる、ああ、悲しいかな。
だが、私の希望に満ちた
あの大切な日々を伴うことなしに。
おまえは確かに、かつてのように
それほどまでに優美で、美しいままだ。
しかし、私はかつての私ではない、
あれほど他人の目に愛おしく映った私ではないのだ。


エピグラフに紛れ込んだたった一行の詩句をめぐっても、こんな寄り道をすることになってしまう。

私にとって、ネルヴァルに付き合うとは、こうした迷路をさまようことだと言えるだろう。としたら、『ボエム・ギャラント』をめぐる散策は、どのくらい続くのか、見当もつかない……。

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