宮沢賢治 「よだかの星」 よだかはなぜ星になれたのか ― 孤独・不殺生戒・無我から読む

宮沢賢治の「よだかの星」は、醜い姿のために皆から嫌われていた主人公のよだかが、ある自覚をきっかけに天へ向かうことを決意し、最後には天の川の星となり、青く美しい火となって燃え続けるという、ある意味ではハッピーエンドで終わる童話である。

しかし現代では、生きることを何よりも大切に考え、死をできるかぎり避けようとする価値観が強い。そのため、主人公の死によって幕を閉じるこの物語は、そうした現代の感覚とは相容れない面があり、「よだかの星」をそのまま受け入れることが難しくなっている。

さらに、この童話は「自己犠牲」の物語として語られることが多い。しかし実際に読んでみると、その犠牲によって他の生きものたちに「ほんとうのさいわい」がもたらされる場面は描かれていない。
「銀河鉄道の夜」のサソリの寓話や「グスコーブドリの伝記」のように、自らの死によって他者の幸福が実現される物語と比べると、他者の存在はむしろ希薄である。「灼(や)けて死んでもかまいません」というよだかの言葉も、虫たちのためというよりは、自らの苦しい境遇から抜け出したいという願いのように聞こえてしまう。

そのため、最後の「そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。/今でもまだ燃えています」という一節を読み終えたとき、どこか割り切れない思いが残り、すっきりしないと感じる人は少なくない。

しかし、SNSが広く普及し、多くの人といつでもつながっているように見えながら、本心を語り合うことが難しく、少しのことで嫌われるのではないかとおびえ、心の底では孤独を抱えている現代人にとって、「よだかの星」は、一つの心のあり方をそっと教えてくれる童話でもある。

そして、そのことに気づくためには、この作品を読む視点をほんの少し変えてみるだけでいい。

(1)孤独

よだかは、周りから排除されているのだが、その背景には、鷹の存在が大きく影響しているように思われる。

鷹の言動を見る限り、「よだか」という名前が、夜と鷹からできているので、名前を勝手に使われたということではないかと推測できる。そのことは、物語の後半に出てくる「お前の(名前)は、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ」という言葉から想像することができる。

しかし、物語は、みんながよだかを嫌っているということから始まる。

 よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味噌(みそ)をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間(いっけん)とも歩けません。
 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。

よだかが嫌われているのは、「みにくい鳥」であることが原因であると誰もが思っている。しかし、それが本当かどうかは疑わしい。

夜だかは、ほんとうは鷹(たか)の兄弟でも親類でもありませんでした。かえって、よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂(はち)すずめの兄さんでした。蜂すずめは花の蜜(みつ)をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。

(童話の中では、「よだか」と「夜だか」という二つの書き方がされている。)

よだかの弟たちがきれいな鳥だとしたら、本当によだかは「みにくい鳥」なのだろうか。そんな疑いも湧いてくるのだが、よだか自身、みんなに醜いと言われているために、自分もそう信じている。そして、醜さのためにみんなに嫌われているとも思っている。

実は、そうした状況になるためには、みんなを先導する存在があるものだ。それが鷹に他ならない。

たかという名のついたことは不思議なようですが、これは、一つはよだかのはねが無暗(むやみ)に強くて、風を切って翔(かけ)るときなどは、まるで鷹のように見えたことと、も一つはなきごえがするどくて、やはりどこか鷹に似ていた為(ため)です。もちろん、鷹は、これをひじょうに気にかけて、いやがっていました。それですから、よだかの顔さえ見ると、肩(かた)をいからせて、早く名前をあらためろ、名前をあらためろと、いうのでした。

鷹がよだかを嫌う原因は、似ているということでしかない。しかし、それがどうしても気に障り、よだかに無理な要求を突きつけ、攻撃する。

よだかは、自分の名前を「神さまから下さった」ものだと考えている。したがって、それを自分の意思で変えることはできない。それにもかかわらず、鷹は「市蔵(いちぞう)」という名前に改め、みんなのところを回って改名を披露するよう命じる。従わなければ、「つかみ殺すぞ」とまで脅すのである。

こうして鷹のように強い者が力を振るうとき、周りの小鳥たちが、みんなで団結して鷹に立ち向かうことはまれであり、鷹の勢いに押されて、鷹の側に付くことが、現実世界でも多くあるのではないだろうか。

ひばりやおしゃべりの鳥がよだかの悪口を言うのも、自分たちの気持ちだと思ってそうしているののだろうけれど、鷹の権威を背景にしているようにも見える。

こうしてよだかは孤立し、「一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう」と自問することになる。

こうした状況は、よだかが地上を離れ、空に舞い上がろうとする場面でも変わらない。太陽だけではなく、夜空に輝くすべての星々からも拒絶される。

太陽は、同情はしてくれても、「お前はひるの鳥ではない」という理由で、拒否する。

夜の星では、4月の午後10時から深夜にかけて見える星々の名前が挙げられる。
賢治が名前を上げるのは、西の空の青白い星はオリオン座の一等星リゲル、南で青くまたたく大犬座のシリウス、北の天頂に輝く大熊座の北斗七星、東の空に深夜に昇る鷲座のアルタイルだと考えられるのだが、それらは天空の東西南北、全ての方角を示している。

こうした星たちも、よだかの願いを聞くことはしない。無視したり、「おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか」とか、「少し頭をひやして来なさい」、さらには、「星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ」などと言う言葉で、拒絶する。

このように、昼でも、夜でも、よだかを迎え入れてくれる星はないことになる。

天空に向かう決心をした時、別れを告げに訪れた弟の鳥であるかわせみだけは、「兄さん。行っちゃいけませんよ。」と言ってくれるが、それ以外の鳥たちからは孤立無援なのだ。

よだかが地上を離れようとした理由は、単に死を望んだからではない。地上にも天空にも自らの居場所を見いだせなかった、その徹底した孤独こそが、よだかを天へ向かわせたのである。

(2)自覚

こうした状況に追い込まれているよだかが、自分の外観のせいでこうなっていると思いながらも、しかし、それが正当な扱いでないと不満を抱いていることも、ごく自然なことだといえる。自分は何も悪くないと思っても、当然だろう。

一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂(さ)けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。

よだかがこう思うのはごく自然なことで、読者の誰もがよだかに共感するに違いない。せっかくいいことをしたのに、嫌われ者だという理由で感謝することもせず、外見を笑いものにするめじろに対して、怒りを感じたりもするだろう。

そうしたよだかの言葉の中に、宮沢賢治は一つの仕掛けを仕組んでいる。それが、「僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない」という言葉だ。

鷹の理不尽ないじめに苦しんでいるよだかがこうした思いを抱くのはごく自然であればあるほど、この言葉は有効に働くことになる。というのも、次の場面で、「よだかの星」の中心になるエピソードが続き、ある自覚が生じるからだ。

独り言の後、よだかは夜の空に飛び立ち、いつものように口を開けて餌となる小さな羽虫を取る。
一回目は、何も気づかず、いつもの通りだ。しかし、二回目になると、一匹のかぶと虫が喉にひっかかりもがくのを感じ、すぐに呑み込むのだが、「何だかせなかがぞっとした」ように感じる。

そして、三回目、ある自覚に至る。

また一疋(ぴき)の甲虫(かぶとむし)が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

先ほどの「僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。」という言葉が、「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される」と悟ることで、完全に覆される。

よだかが辛いのは、自分が鷹に殺されること以上に、自分が小さな虫たちを殺さなければ生きていけないことであり、これまでそうして殺すことで生きてきたことを自覚したことなのだ。

こうした苦悩について、現代の読者はすんなり納得するよりも、食物連鎖の中で人間も生きているのだから当たり前のことだと感じ、よだかの苦しみに共感することはできないかもしれない。そのことは、時代による感受性の変化の中で起こりうることで、当たり前のことだといえる。

しかし、そうだからといって、よだかは変な考え方をしているとか、間違っているとか自分の価値観に従って判断してしまうと、鷹のようになってしまいかねない。まずは、自分とは違う考え方や感じ方が示された時、それを理解することから始めることが大切になる。

生きるために他の生物を殺すことをどう捉えるかという問題は、実は仏教の「不殺生戒」の解釈と深く関わっている。それは、「生きものを殺してはならない」という教えだが、生きるためには殺すしかない。そこでこの戒めは、「すべての生命を尊重し、無意味に生命を奪わないこと」と理解されている。ポイントは、「無意味に」という言葉である。

その教えをよだかも知っていて、弟のかわせみと別れる時には、「そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ」といったりする。

この問題に関して、宮沢賢治に大きな影響を与えた島地大等も、次のような考えを抱いていたという。つまり、物の命は尊いが、もし更に大なる生命のために要求される時があるならば、わたしたち自身が進んで自己の全部を提供する覚悟が必要とされる、という「自己犠牲」の思想である。

この考えは、後に『グスコーブドリの伝記』において、自らの死と引き換えに冷害から農民を救うブドリの姿にはっきりと反映されることになる。

しかし、その視点から「よだかの星」を捉え直してみると、一つの謎が浮かび上がる。よだかが飢え死にしたところで、犠牲になる虫の数は減るかもしれないが、それがブドリの死のように社会や地上の「おおいなるしあわせ」に直接貢献するわけではない。よだかの死は、誰かを物理的に救うための機能的な自己犠牲ではないのである。

よだかは、自分は何も悪いことをしていないという無自覚な状態から、生きるために殺生をしてきたという不条理な事実に気づき、深く苦悩した。しかし、彼が死んだところで世界が大きく変わるわけではないとしたら、よだかがそれでも天空を目指し、最後には天の川で輝く星となり、燃え続けることを、私たちはどのように理解すればいいのだろうか。

その答えは、彼が「他者に救いを求める受身の姿勢」を捨て、自力すらも手放した先にある「無我」の境地に隠されている。

(3)無我

弟のかわせみと別れ、天空へと向かうよだかは、まず太陽に、次に夜の星々に、自分を受け入れてくれるよう願いを訴える。そのとき、よだかが繰り返すのは、次の言葉である。

どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。(や)けて死んでもかまいません。

この切ない願いは、なぜ受け入れてもらえないのだろうか。
「僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。」という言葉と同じように、それは苦しいときに誰もが口にする切実な訴えにすぎない。それにもかかわらず、なぜ完全に拒絶されてしまうのだろうか。

よだかは、自らの力で空へ舞い上がっている。しかし、その目的は、太陽や星に受け入れられることによって、地上での孤独やいじめから逃れたいという願いを実現することにあった。つまり、自ら飛びながらも、その根底には「他者によって救われたい」という願いがある。その意味で、この飛翔は主体的な行為であると同時に、救いを外部へ求める依存的な側面を併せ持っている。

しかし、「連れて行ってください」という願いのままでは、救いは訪れない。そのことは、最初に太陽へ願いを伝えた場面で、すでに示されていた。

行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした。かえってだんだん小さく遠くなりながらお日さまが云いました。

よだかは矢のように飛び続ける。それにもかかわらず、お日さまは「近くなりませんでした」。

もちろん、現実には、飛んだ分だけ、たとえわずかであっても距離は縮まっているはずである。しかし、賢治がここで問題にしているのは、そのような物理的な距離ではない。よだかにとって重要なのは、「どれほど努力しても救いに近づくことができない」という精神的な距離だと考えられる。

しかも、仮に物理的な距離を問題にしたとしても、地球と太陽との距離を考えれば、鳥が飛んで到達できるものではない。また、大犬座の星が語るように、鳥が星へたどり着くには「億年兆年億兆年」もの歳月が必要になる。どれほど羽ばたき続けても、星へ到達することはできないだろう。

つまり、よだかがどれほど願い、どれほど主体的に行動したとしても、「連れて行ってください」という願いがかなえられることはない。

では、なぜ最後によだかは星となり、燃え続ける存在になり得たのだろうか。。

 よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄(にわ)かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲(おそ)うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
 それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻(すいがら)のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
 寒さにいきはむねに白く凍こおりました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。

これまでも、拒絶された後によだかは墜落しながら、再び自らの意志で飛び上がってきた。しかし、東西南北すべての星から拒絶された今、もはや向かうべき星はどこにもない。

そのとき、「よだかは俄(にわ)かにのろしのようにそらへとびあが」る。

ここには、もはや「連れて行ってください」という願いは見られない。どこかへ到達しようという目的への執着も薄れている。救いを求めて飛ぶのではなく、ただ空へ向かって飛翔する。
この飛翔は、これまでのように願望に突き動かされたものではなく、自己への執着を離れた、「無我」を思わせる境地へと近づいた姿と読むことができるだろう。

そして、この変化に伴って、よだか自身も変容していく。それまで小さなおしゃべり鳥たちに見下されていたよだかは、まるで鷲のような姿となり、「キシキシキシキシキシッ」という鷹のような鋭い叫び声を発する。その声に驚いた鳥たちは、ぶるぶる震えながら夜空を見上げる。

さらに上空へ昇るにつれ、山焼けの火は「たばこの吸殻のくらい」にまで小さく見えるようになる。これは、よだかが実際に地上から遠く離れた高度まで到達したことを示している。一方で、空気はますます薄くなり、「はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりません」という描写は、その飛翔が極限に達していることを物語っている。

よだかはもはや、「焼けて死んでもかまいませんから、どうか連れて行ってください」と星に願う存在ではない。ただ飛ぶことそのものに身を委ね、ひたすら上昇を続ける存在へと変わっている。そこには、地上で救いを求めていた頃のよだかとは、まったく異なる姿がある。

しかし、それでもなお、よだかが星へと変容するには、まだ一つの過程が残されている。そのことは、次の一文によって示される。

 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜(しも)がまるで剣のようによだかを刺さしました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。

地上を見れば、「山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見え」ないほど遠くまで昇っている。しかし、空を見上げても、「ほしの大きさは、さっきと少しも変りません」という。この距離感は、先に引用した「行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした」という場面と対応している。

つまり、どれほど高く昇っても、羽を動かし続け、自らの力で星へ到達しようとするかぎり、その距離は決して縮まらないのである。

もしこの変化を二つの段階に分けて考えるなら、第一段階は、「無我」を思わせる境地で飛翔を始めたことである。そして第二段階では、息は「ふいご」のように激しくなり、寒さのために体は動かなくなり、ついには羽ばたくことさえできなくなる。物理的に考えれば、あとは墜落するしかない。

そして、「なみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました」。
この場面では、もはや努力することも、願うこともできない。自らの意志による働きは極限まで静まり、「無」を思わせる状態へ至っていると読むこともできる。

そして、次にまなこを開いたとき、よだかはもはや鳥ではなかった。

それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。

よだかの体は燃えている。しかし、それは「灼けて死んでもかまいません」と願ったときに思い描いていた焼身とはまったく異なる。体は焼けて消え去るのではなく、「燐の火のような青い美しい光」となって、静かに燃え続けているのである。

しかも、よだかは「よだかの星」となり、カシオピア座の隣に位置し、天の川のすぐそばにいる。星へ近づいたのではない。自らが光そのものとなったのである。いつまでも燃え続けるその姿は、醜いと嘲られ続けた一羽の鳥が、宇宙の営みの一部となり、「青い美しい光」として永遠に存在し続けることを示している。

こうした変容は、不殺生への目覚めともいえる自覚を得て、自らの力で必死に太陽や星を目指し、さらに救いを求める執着を手放して飛び続けた、その一つ一つの過程があったからこそ可能になったと考えられる。そう考えるなら、よだかの歩みは決して無駄ではなかった。そのすべてが積み重なった先に、この美しい変容が訪れたのである。

そして、そのような視点からこの童話を読み直すなら、「よだかは、実にみにくい鳥です」から、「よだかの星は燃えつづけました。……今でもまだ燃えています。」までを読み終えたとき、最初に感じたかもしれない「もやもや感」は、自然に消えているのではないだろうか。


最初に「よだかの星」を読み終えたとき、なんとなくすっきりしない気持ちになる人は少なくないかもしれない。醜いと嫌われ、鷹に脅され、誰からも受け入れてもらえないまま死んでいく。そう聞けば、救いのない悲しい物語にしか思えない。

しかし、よだかの飛翔をあらためてたどってみると、そこには一つの道筋が見えてくる。よだかは初め、「僕は何も悪いことをしていない」と信じていた。しかし夜空を飛ぶうちに、自分が生きるために小さな虫たちを殺し続けてきたことに気づかされる。そして太陽に、星々に、「連れて行ってください」と必死に願うが、どれだけ飛んでも近づくことはできない。それは、「誰かに救ってほしい」という願いだけでは、決してたどり着けない世界があることを示しているように思われる。

すべての星から拒まれ、地に落ちかけたそのとき、よだかは初めて無心に、ただ上へ上へと羽ばたき始める。そして気づいたときには、自分自身が青い美しい光になっていた。誰かに連れて行ってもらったのではない。願いがかなえられたのでもない。あがくことをやめたその先に、いつのまにか訪れていた変化だった。

ただし、よだかは、誰からも見放されたわけではなかったことも思い出しておきたい。太陽は同情を示し、かわせみは最後まで引き止めた。よだかが手放したのは、他者への信頼そのものではなく、「誰かがすべてを解決してくれるはずだ」という願いの形だったのかもしれない。

この物語が今もなお多くの人の心に残るのは、現代社会にも、よだかと同じような孤独を抱えて生きている人が少なくないからではないだろうか。SNSでいつでも誰かとつながっているように見えながら、本音を語れる相手は少なく、「嫌われたくない」という思いに縛られ、心の奥ではひとり取り残されたように感じる。そんなとき、私たちはつい、誰かに認めてほしい、誰かに救ってほしいと願ってしまう。しかし、よだかの物語が教えてくれるのは、『誰かがすべてを解決してくれるはずだ』という期待の先には、実は答えはないのかもしれないということである。

よだかが最後にたどり着いたのは、誰かに救われることではなく、そうした期待を手放した先にある静かな光だった。「よだかの星」は、その美しい光へ至る道を、百年近く前から、今を生きる私たちにもそっと照らし続けているのである。


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