
『ボエム・ギャラント』は、題名の後に「アルセーヌ・ウッセーに(À Arsène Houssaye)」、『忠実な羊飼い』からのイタリア語の引用、「我が友よ(Mon ami)」で始まりウッセーの詩「二十歳(Vingt ans)」からの8行の引用で終わる「まえがき」が置かれ、その後やっと第1章が始まる。
ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その1
ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その2
その際にも、「二十歳」からの引用が最初に置かれ、次に本文がやっと始まる。ここではまず引用された3行の詩句について見ていこう。

I
PREMIER CHÂTEAU
Rebâtissons, ami, ce château périssable
Que le souffle du monde a jeté sur le sable.
Replaçons le sopha sous les tableaux flamands…
第1章
第一の城
もう1度建てよう、友よ、あの儚い城を、
現実世界の風が、砂の上に吹き倒してしまったあの城を。
もう1度置こう、あのソファーを、フランドル派の絵の下に。。。
献辞の最初は、ネルヴァルからウッセーへの「我が友よ」という呼びかけで始まっていた。
Mon ami, vous me demandez si je pourrais retrouver quelques-uns de mes anciens vers,
我が友よ、君はぼくに、ぼくの昔の詩をいくつか探し出せないかと言う。
この呼びかけに対応するように、ウッセーの詩句 « Rebâtissons, ami, ce château périssable » にも、「友よ」という呼びかけがあり、二人の友が互いを呼び合っているかのような印象を作り出しているように思われる。
また内容の上でも、両者は対応している。
つまり、« re -» を語頭に持つ動詞が続けて用いられ、« retrouver »(再び見つける)に対して、« rebâtissons »(再び建てる)と « replaçons »(再び置く)が呼応し、失われたものをもう一度取り戻そうという呼びかけが行われているのである。
失われたものは、「献辞」では「ぼくの昔の詩句(mes anciens vers)」だった。それがここでは、「あの儚い、あるいは壊れやすい城(ce château périssable)」になる。
その城は、現実世界の冷酷な風(le souffle du monde)に吹きさらされ、砂の上でばらばらに砕け散ってしまったのだった。
三行目の詩句に出てくる「フランドル派の絵画(les tableaux flamands)」は、「ボエム・ギャラント」の美学が向かう方向性を決定づける絵画の流れなので、特に注目すべきである。
フランドル派の絵画について
フランドル派の絵画あるいはフランドル美術とは、15世紀から17世紀にかけて、現在のベルギー、オランダ南部、フランス北部一帯にあたる「フランドル地方」で勃興した絵画の様式を指す。
イタリア・ルネサンスとの違いとして特に重要なのは、イタリア・ルネサンスの絵画が古代ギリシア・ローマから続く美の伝統に則り、神話や聖書の題材を用いて理想的な美を追究したのに対して、北方ルネサンスと呼ばれるフランドル派では、現実的な人物や風景、日常の事物を取り上げ、たとえ宗教画であっても、身近な事物の細部までを正確に描写する写実性を追求した。
フランス美術界では、アカデミズムを背景とする古典的な美意識がなお大きな影響力を持っていた。そうした中で、アルセーヌ・ウッセーは、1846年に『フランドルおよびオランダ絵画史』(Histoire de la peinture flamande et hollandaise)を出版し、ファン・エイク、ハンス・メムリンク、ブリューゲルからルーベンスやレンブラントまで、北方の画家たちをフランスに早くから紹介した一人だった。



ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》 ハンス・メムリンク《マールテン・ファン・ニューウェンホーフの二連祭壇画》 ピーテル・ブリューゲル(父)《農民の婚宴》



ダヴィッド・テニールス(子)《喫煙者たち》 ルーベンス《愛の庭》 レンブラント《織物組合の見本調査官たち》
この本の準備のために、ウッセーは1844年、ネルヴァルと一緒に、ベルギーとオランダに1ヶ月ほど旅行もしていた。
一方、ネルヴァルは、絵画ではなく、アムステルダムの劇場の様子や、「オランダのデリス(Les Délices de la Hollande)」と題する雑談風旅行記のような記事を雑誌に掲載したりしている。
ところが、面白いことに、二人のフランドル派絵画に対する姿勢はかなり異なっているように思われる。
アルセーヌ・ウッセーは、絵画史を書くほど熱心に北方絵画を紹介したが、その本質的な絵画観はなお古典主義的なものだったと考えられる。彼は、ベルギーやオランダの絵画は、美の探究という点では古代ギリシア・ローマやイタリア・ルネサンスの絵画には及ばないと見ていた。その理由は、北方の絵画が理想美よりも現実の忠実な描写を重視したからである。
それに対してネルヴァルは、日常の現実をありのままに描くことに価値を見いだす。つまり、レアリスムの美学への共感を示しているのである。
そのことがはっきりとわかるのは、1844年の旅行の際ではなく、1852年のベルギー・オランダ旅行、とりわけアムステルダムでレンブラント像の除幕式に立ち会った際の様子を記した紀行文の中である。
その旅行についてネルヴァルは、ブリュッセルでウッセーと落ち合い、アムステルダムまで一緒に旅をする予定だと、ある美術評論家宛ての1852年5月8日または9日付の手紙に書いている。ただし、ただし、実際にアムステルダムまで同行したかどうかは確認できない。
レンブラント祭りを取材した記事の中で、ネルヴァルは、まず除幕式で行われた祝辞の内容を紹介している。そこでは、レンブラントは民衆の中に入り、彼らをモデルとして描いたために、かつては守銭奴や強欲な人物と非難されてきたが、そのような批判は誤りであると力強く弁護されていた。
ネルヴァルは、その紹介に続けて、自らの考えを述べている。
Nous possédons à la Bibliothèque nationale une collection de gravures qu’il eût été difficile à l’artiste de réaliser sans se mêler un peu à la basse société. Le beau monde était très-beau sans doute du temps de Rembrandt, mais les gens en guenilles n’étaient pas à dédaigner pour un peintre. Ne cherchons pas à faire des poëtes et des artistes des gentlemen accomplis et méticuleux. La main qui tient la plume ou le pinceau ne s’accommode des gants paille que quand il le faut absolument, pour toucher parfois d’autres mains ornées de gants paille, — et des esprits de la force de Rembrandt sont ceux qui, comme les dieux, épurent l’air où ils ont passé.
(« Les Fêtes de Hollande », Revue des Deux Mondes, 15 juin 1852.)
フランス国立図書館には(レンブラントの)版画コレクションが収蔵されているが、それらは、この芸術家が多少なりとも下層社会に身を投じなければ制作しえなかったものだろう。レンブラントの時代、確かに、上流社会は華やかだったに違いない。しかし、一人の画家にとって、ぼろをまとった人々はまた侮るべきものではなかった。詩人や芸術家たちを、完璧で几帳面な「紳士」にするのはやめよう。ペンや絵筆を握る手が、(当時の上流階級の身だしなみを象徴する)淡黄色の手袋を身につけるのは、必要に迫られて、時には淡黄色の手袋をした他の手に触れねばならない時だけだ。——そしてレンブラントほどの精神の持ち主たちは、神々と同じように、自分たちが通り過ぎた後の空気を浄化する者たちなのだ。
(「オランダの祭典」『両世界評論』誌、1852年6月15日)
上流社会や紳士という言葉は、絵画においては、古典派と関係する。美しい世界を理想的な美に仕上げるのが、古典派の美学だといえる。それに対して、レンブラントは、あえて民衆の中に入り、民衆の生活を描いた。そのことに対して、古典主義的な美術批評では、画家がケチだったとか、強欲だったとかいった批難が浴びせられてきていた。
それに対して、祭りで行われた祝辞では、そうした批判は完全に間違っているという反論がなされ、ネルヴァルはそうした状況を紹介しながら、たとえ悲惨な社会の現状を描いたとしても、レンブラントのような芸術家の手にかかれば、空気は浄化されると付け加えたのだった。
そして、「夜警」と「テュルプ博士の解剖学講義」に言及した後で、レンブラントを「レアリスト(写実主義者)」と名付けている。


Ne pouvant attaquer son talent, on l’a traité d’avare : on a raconté que ses élèves peignaient, sur des fragments de cartes découpées, des ducats et des florins qu’ils semaient dans son atelier, afin qu’il les fît rire en les ramassant. Ce qui est vrai, c’est que Rembrandt le réaliste employait toutes ses économies à acquérir des armes, des costumes et des curiosités qui lui servaient pour ses tableaux.
彼(レンブラント)の才能を攻撃できないために、人々は彼を守銭奴として扱った。次のような話まで語られていた。彼の弟子たちが、切り刻まれたカードの断片の上にダカット金貨やフローリン金貨を描き、それをアトリエに撒き散らしたのだが、それは、彼が金貨をかき集めて、弟子たちを笑わせるためだった、という話だ。確かなことは、写実主義者レンブラントは、蓄えのすべてを費やして武具、衣裳、骨董品を買い集め、それらを絵画のために役立てていたということである。(同上)
この記事は、「ボエム・ギャラント」の連載が始まる1852年7月1日のわずか二週間ほど前に掲載されたものであり、当時のネルヴァルの芸術観を私たちにはっきりと教えてくれるものになっている。
この文章からは、ネルヴァルがレンブラントのレアリスムを自らの芸術観と重ね合わせていたことがうかがえる。彼は、当時の上流階級の身だしなみを象徴する淡黄色の手袋を身に付けた紳士ではなかった。つまり、金銭や社会的な上昇を目指して活動するのではなく、レンブラントと同様に、民衆の生活をそのまま描き出すことを自らの美学としていた。そのことが、オランダの紀行文を通して私たちに伝わってくるのだ。
そして、その流れは、「ボエム・ギャラント」を通して、またその後に続く「Les Nuits d’Octobre(10月の夜)」という作品を通して、明確に方向付けられいく。その作品の第1章は、「リアリスム」と題されている。
(ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 1/5)
このように見てくると、アルセーヌ・ウッセーの詩句«Replaçons le sopha sous les tableaux flamands…»は、「ボエム・ギャラント」の美意識を暗示する非常に重要なサインとなっていることがよく理解できる。
こうした本当に小さなメッセージを見逃さないことも、ネルヴァルを読む楽しみの一つなのだ。
ネルヴァルの美学は、当時のフランスの美術界の動きと対応していたことも、指摘しておこう。
レアリスムを代表する画家ギュスターブ・クールベが、サロンに「オルナンの埋葬」を出品し、多くの批評家や観客の間で大スキャンダルとなったのは、1850年のことだった。

1850年前後には、必ずしもレアリストとは分類されないものの、オクターヴ・タサエールやオノレ・ドーミエもまた、貧しい人々や社会の底辺に生きる人々を、写実的あるいは風刺的に描いていた。


少し後の時代になるが、1862年頃の作とされるドーミエの「三等列車」には、民衆の日常をありのままに見つめようとするまなざしが示されている。その意味では、この作品はネルヴァルが目指した芸術の方向と響き合うものだといえる。

アルセーヌ・ウッセーの「二十歳(Vingt ans)」からの3行の詩句の引用について、もう少しだけ細かいことをたどっておこう。
「ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その2」で紹介したように、ウッセーはこの詩を様々な媒体に掲載してきたが、その度に少しずつ詩句に変更を加えていた。
« Rebâtissons, ami, ce château périssable »は、1840年と1841年の版では、« Rebâtissons encor ce château périssable »だった。それが1850年と1852年のPoésies complètes(『アルセーヌ・ウッセー詩全集』)では、« encor»から« ami »に変更されている。
(ちなみに、encorのつづり字の最後にeがないのは、音節数のためである。次にceという子音で始める単語が来ているので、もしencoreと書いてしまうと、3音節と数えられる。それを避けるために、encorと書くのは、フランス詩では普通のことである。)
« ami »という呼びかけは、アルセーヌ・ウッセーからネルヴァルへの呼びかけのように読めるし、ここではそう読むべきだろう。
ただし、面白いことに、ここにもちょっとした仕掛けが潜んでいる。
1840年と1841年の版では、この詩は、« ami, te souviens-tu de ces vertes saisons »(友よ、君はあの緑色の季節を覚えているかい)という詩句から始まっていた。
それに対して、1850年と1852年の版になると、« ami »が« Théo »に変更され、テオフィル・ゴーティエが明らかに名指されているのだ。
1841年に「ラルティスト」誌に掲載された「詩人たちの素晴らしい時代(Le beau temps des poètes)」と1852年の『全詩集』の「二十歳」の関係箇所を見てみよう。
1841年には題名の後に、« À T. G. »という献辞が置かれ、詩全体がT. G. つまりテオフィル・ゴーティエに捧げられていた。それが1850年に至ると、献辞がなくなり、その代わりとして、« ami »という呼びかけではなく、テオへの呼びかけが詩の中に組み込まれるという変更が加えられている。


「ボエム・ギャラント」の引用では、この前後関係が明示されないために、« Rebâtissons, ami, ce château périssable »は、ウッセーがネルヴァルに呼びかけているように読めることになる。
つまり、「ボエム・ギャラント」の中では、「友」がゴーティエからネルヴァルへと、暗黙のうちに移動していることになる。そして、私は、この移動に何らかの象徴的な意味を読み取りたいと思ってしまう。。。
実は、現存している手書きの原稿には、この3行の詩句の引用はないということが、ベルトラン・マルシャルという研究者によって明らかにされている。そして、彼は、これ以前の8行の引用もウッセーの筆蹟によるものだと見なし、この3行もウッセーが付け加えたのではないかという仮説を提出している。
しかし、私は、ウッセーが『ラルティスト』誌の編集長という立場を利用して、自分の詩をできるだけ多くネルヴァルの記事に押し込んだと考えるよりも、むしろ、ネルヴァルがウッセーと相談しながら、二人で編集作業を進めていったと考えたい。その方が、二人の若い時代の思い出を語るには、よりふさわしいように思えるからである。
そんなふうにあれこれと想像していると、ネルヴァルがそこに生きていて、その息遣いに触れているような気持ちになる。ただ単に目の前の活字を読むのではなく、ネルヴァルが真剣に、しかも楽しそうに編集作業に向かう姿が心の中に浮かんでくる。すると、何とも言えない親しみが湧いてくるのである。
フランドル派の絵画を愛好したリアリスト・ネルヴァル。その姿をリアルに思い浮かべることも、作品を読む楽しみの一つなのだ。