
毎年8月になると、6日は広島への原爆投下、9日は長崎への原爆投下、そして15日には終戦がニュースとして取り上げられ、「不戦の誓い」が繰り返され、戦争の惨禍が語られる。
ただし、そこに至るまでの過程については、断片的に語られることはあっても、歴史の流れの中に位置づけて理解されることは少ないのではないかと思われる。
ここでは、1945年に限定し、日本がどのような状況にあり、何が起こり、どのような判断を経て降伏が決断されたのかを、政治的な思想に左右されることなく、事実に沿ってたどってみたい。そうすることで、戦争の現実がよりはっきりと見えてくるだろう。

日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ枢軸国として、イギリス・アメリカ・フランス・中国・ソ連などの連合国と戦っていた。
しかし、1943年9月にはムッソリーニ政権下のイタリアが無条件降伏しており、1945年5月にはヒトラー政権下のナチス・ドイツが無条件降伏する。

日本でも、1945年2月、東京の南約1250キロの洋上に浮かぶ硫黄島がアメリカ軍の攻撃を受け、約2万人の守備隊はほぼ全滅した。その結果を受けて、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」
当時の日本国内では、軍部や政府だけでなく、議会やマスコミ、さらには国民の多くも、アメリカ軍との戦いを前にして、「徹底抗戦」「本土決戦」「一億玉砕」といったスローガンを叫ぶ雰囲気に包まれていた。硫黄島守備隊の玉砕は、一億国民の「模範」とされたのである。
ちなみに、当時の日本列島の人口は約7000万人であり、「一億」という数字は、日本の植民地だった満洲、朝鮮半島、台湾、内南洋など、日本本土以外の地域の居住者(その多くが朝鮮人や台湾人だった)を含めた人口を指していた。
ここから、1945年2月以降の出来事を、年表風に見ていくことにしよう。
(空爆による死者数については、統計により差があるために、未来に残す戦争の記憶というサイト(https://wararchive.yahoo.co.jp/history/)の数字を記すことにする。
また、確実な日付を跡づけできないためにリストに記すことができないのだが、京都府各地に50回以上の空爆があり、400人以上(諸説あり)が犠牲になったという。「京都は空襲を受けなかった」という俗説は、戦後に流れた偽りの情報だということがわかる。
2月
4日—11日 ヤルタ会談

参加国はアメリカ、イギリス、ソ連の三か国だった。
会談の最大の焦点はポーランド問題であり、アメリカ・イギリスとソ連の綱引きの結果、ポーランド問題では、「自由で妨害のない選挙」の実施が表明されるとともに、ポーランドの東部国境を約200キロ西へ移動させる方向で三首脳の合意が形成された。
日本に関しては、日露戦争でロシアが失った権益の回復、千島列島のソ連への引き渡しなどを条件として、ドイツ降伏後2〜3か月以内にソ連が対日参戦するという秘密協定が、アメリカ大統領ルーズベルトとソ連のスターリンとの間で結ばれた。
ちなみに、日本とソ連は1941年に「日ソ中立条約」を締結しており、その有効期限は1946年4月までだった。そのため、日本政府は、アメリカ・イギリスとの和平交渉の仲介役としてソ連を期待していた。
ルーズベルトとスターリンの秘密協定は、そのような日本側の外交工作が成功する可能性を事実上失わせるものだった。
3月

本土空襲

10日 東京大空襲 死者約100,000人
米軍のB29爆撃機約300機が、現在の墨田区・江東区・台東区など東京東部を中心に、大量の焼夷弾による大規模な爆撃を行った。死者は約10万人、負傷者は約15万人に上り、約27万戸の家屋が焼失したとされる。
東京はこれ以降も4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日から26日など数多くの爆撃を受け、3月~5月にかけての大空襲での死者数は約9万4800人と推定されている。(東京大空襲・戦災資料センター)
12日および19日 名古屋、死者1,300人以上
13日 大阪、死者3967人
17日 神戸、死者2,500人以上
19日 広島・呉軍港
4月
地上戦 :沖縄戦
1日 沖縄本島での組織的な戦闘開始 — 6月23日 組織的戦闘終結
3か月に及ぶ沖縄戦では、日本軍約9万4千人が戦死し、沖縄の一般住民も約9万4千人が犠牲になった。戦闘当時、約59万人だった沖縄県の人口から約8万4千人が疎開していたことを考えると、県内に残っていた住民の5人に1人近くが命を失ったことになる。



本土空襲
12日 福島・郡山:勤労動員の若者など死者400人以上
15日 神奈川・川崎、死者約1000人
5月
本土空襲
5日 広島・呉、死者数32人
ドイツ 無条件降伏 (7日、8日)
4月末、ソ連軍によるベルリン包囲が進み、ヒトラーが自殺。
7日: フランスのランスで、ドイツ軍最高司令部代表のヨードルが連合国軍への無条件降伏文書に署名した。
8日: ドイツのベルリンで、ソ連などを含む連合国に対して降伏文書の批准が行われ、戦闘行為が停止された。
ドイツ国内の中央政府は消滅し、米・英・仏・ソの4カ国が最高権力を掌握し分割占領を行う。
本土空襲
29日 横浜、死者8,000から10,000人
6月
本土空爆

10日 茨城・日立、死者およそ1,200人
17日 鹿児島、死者3,300人以上
18日 浜松、死者1,717人
19日 福岡、死者3,300人以上
19日 静岡、死者1952人
22日 広島・呉 死者およそ1,600人
29日 長崎・佐世保 死者およそ1,300人
29日 岡山、死者1,737人
7月
本土空爆

1日 熊本、死者およそ500人
1日 広島・呉、死者およそ3,700人
4日 高松、死者、1,359人
4日 徳島、死者およそ1,000人
7日 千葉、死者1,679人
7日 甲府、死者1,027人
9日 和歌山、死者およそ1,101人
10日 大阪・堺、死者1,860人
10日 仙台、死者1,000人以上
12日 宇都宮、死者628人
14日 岩手・釜石艦砲射撃、死者436人
14日・15日 青森・北海道、関門連絡船8艘沈没
15日 北海道・室蘭砲射撃、死者436人
15日 茨城・日立砲射撃、死者395人
19日 福井 死者1,576人
19日 千葉・銚子、死者1,181人
25日 大分・保戸島 (小学校に爆弾が投下され、児童と教員など127人が死亡)
26日 松山、死者およそ300人
26日 山口・徳山、死者482人

26日 ポツダム宣言
ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日にかけて、アメリカ、イギリス、ソ連は、ドイツ・ベルリン郊外のポツダムで、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談を行った。

この会談が始まる前日の7月16日、アメリカは原子爆弾実験(トリニティ実験)に成功しており、日本への対応もより強硬な方向に傾いたと考えられている。
対日降伏勧告については、7月26日、アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、中華民国総統・蔣介石の連名で、日本に対して全13か条からなる「ポツダム宣言」が発表された。
その宣言には、次のような項目が列挙されている。
六 日本国民を騙して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者たちの権力および勢力は、永久に除去されなければならない。
七 (平和と安全および正義の)新秩序が建設され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたことについて確証を持つことができるまでは、連合国が指定する日本国領域内の諸地点は、占領されなければならない。
八 日本の主権は、本州、北海道、九州および四国、ならびに我々の決定する諸小島に限定されなければならない。
十 我々の捕虜に対して虐待を行った者を含む一切の戦争犯罪人には、厳格な処罰が下されなければならない。
十一 日本国軍隊は、武装を完全に解除された後、各自の家庭に復帰して平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられなければならない。
十三 我々は、日本政府に対して、直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言することを要求し、その行動における同政府の誠意について、適切かつ充分な保証を提供するよう要求する。
この対日声明において、アメリカ側が最も重視した論点の一つが、天皇制の存続を保証するかどうかだったと言われている。というのも、日本側にとって絶対に譲ることのできない最後の一線が「国体護持」であることを理解していたからである。そこで、日本の早期降伏を促すために天皇制の存続を条件に盛り込むべきだという主張と、それに反対する意見との間で対立があった。第十三条を、その妥協の産物とみなす見方もある。
イタリアやドイツに対して無条件降伏が要求されたように、第十三条でも「無条件降伏(the unconditional surrender)」という言葉が用いられている。
ただし、日本側の最終的な要求が「国体護持」、すなわち天皇制の存続にあることは連合国側も理解していたため、あえて「全日本軍隊の(all the Japanese armed forces)」という言葉を付し、天皇制については解釈の余地を残したのだという見方が、現在では一般的に認められている。
日本政府は7月27日、ポツダム宣言を論評なしで公表した。
しかし、28日の新聞報道では、「笑止、対日降伏條件」(読売報知)、「笑止! 米英蔣共同宣言 自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」(毎日新聞)、「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明 三国協同の謀略放送」(朝日新聞)といった見出しが並んだ。
同じ28日午後4時、鈴木貫太郎首相は記者会見で、「政府としては何ら重大な価値あるものとは考えない。ただ黙殺するだけである」と発言した。
このように、7月28日のポツダム宣言への対応を見ると、日本では軍部だけでなく、政府も、新聞各紙も、これを断固として拒否する姿勢を示していた。
本土空爆
28日 愛知・一宮、死者727人
28日 青森、死者およそ1,000人
。。。。。
31日 昭和天皇は、三種の神器の避難について内大臣と話し合い、岐阜県高山の水無神社に移す計画が検討されていたといわれている。この計画は、アメリカ軍の日本本土上陸が間近に迫っているという強い危機感を抱いていたことを物語っている。
8月
本土空襲
1日 新潟・長岡、死者1,488人
1日から2日 富山、死者2,275人 (富山市の資料によれば、50万発以上の焼夷弾が投下され、市街地の99.5%が焼失した。)
5日 群馬・前橋・高崎、死者1,323人

6日 広島への原爆投下
「ポツダム宣言」の第三項には、以下の文言があった。
我々の軍事力は我々の決意のもとで最大限に行使され、それは日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅と、同じく不可避的な日本国本土の完全な荒廃を意味することになる。
「日本国本土の完全な荒廃(the utter devastation of the Japanese homeland)」という表現は、実験に成功したばかりの原子爆弾の使用を日本側に暗示し、それによって戦意喪失を促そうとしたものだという解釈もある。
しかし、日本国内のポツダム宣言に対する反応は、「黙殺」であり、「笑止」であり、「謀略」だった。
そして、7月28日以降も、一宮、青森、長岡、富山、前橋、高崎など地方都市への空襲が続き、8月6日の広島への原爆投下へと至る。
この原爆投下の詳細についてはここでは記さないが、投下した当事者であるアメリカでは、大きく二つの立場が存在する。
(a)正統派の立場では、戦争終結を早めるためには原爆投下は必要だったと考える。
原爆によって日本本土への上陸作戦を回避できたため、アメリカ兵の犠牲を抑えただけでなく、日本人の命も結果的に救われたという見解である。
(b) 修正主義派の立場では、原爆投下以前に日本はすでに実質的に敗北しており、投下は必要ではなかったと考える。その主たる目的は、ソ連のアジア進出を牽制し、抑制することにあったという見解である。
このように、同じ出来事を前にして異なる解釈が生まれることは、歴史においてしばしば見られる。私にはその論争に加わる資格も能力もない。ただ、原爆の開発と投下に直接たずさわった人々の証言に耳を傾けてみたい。
原爆開発の現場責任者だったレスリー・グローヴズ将軍の言葉は、新型兵器の開発に携わる人間の現実を示すものとして記しておきたい。
グローヴズは1944年のクリスマス・イヴに、「もしこの兵器にしくじれば、君たちは種々の議会調査会の前で一生証言し続けることになる」と語った。
そして投下後には、「一つだけ確かなことは、われわれが史上最大の議会証言を受けることは決してない」という趣旨の言葉を漏らしたとされる。
原爆開発を統括したヘンリー・スティムソン陸軍長官は、原爆実験の成功を知った際、「原爆の冒険に二十億ドルも使った責任を負ってきた。しかし、これが成功したので、フォート・レヴンワースの営倉に送られることはなくなった」と側近に語ったという。
原爆投下の最終決定を下したトルーマン大統領は、原爆を使用せずに日本本土への上陸作戦を実行し、多数のアメリカ兵が死亡するような事態になれば、自ら激しい非難を受けたであろうと回想している。そして原爆投下後、アメリカ国民に向けた声明の中で、「われわれは歴史上最大の科学の賭けに二十億ドルを使い、勝利したのです」と述べた。
これらの発言は、アメリカにとって二十億ドルを投じて開発した新型兵器を使用するかどうかが、政治的・軍事的判断であると同時に、巨額の国家投資に関わる問題でもあったことをうかがわせる。
それと同時に、広島で被曝した数多くの犠牲者への視線が、彼らの発言には存在しないことも示している。
これが戦争の現実の大きな一面なのである。
本土空襲
7日 愛知・豊川、死者2,477人
8日 福岡・八幡、死者2,952人
8日 9日 ソ連、対日宣戦布告、満州侵攻

8日、ソ連は日本に対して宣戦を布告し、9日未明、約160万のソ連軍が満州への侵攻を開始した。
。。。。。
7月17日から8月2日にかけて開かれたポツダム会談で、スターリンはトルーマン大統領に対し、日本からソ連に和平仲介の依頼があったことを伝え、「日本を安心させて眠りに誘っておく」という趣旨の発言をしたといわれている。
このことは、日本側が、「日ソ中立条約」を結んでいたソ連の仲介による戦争終結に望みをかけていたことを示している。8月6日の広島への原爆投下に続くソ連参戦は、その期待を完全に打ち砕く出来事となった。
この時、関東軍の主力は本土決戦に備えて日本国内へ転用されており、満州に残された部隊の戦力は著しく低下していた。そのため、ソ連軍との本格的な戦闘が始まれば、長期にわたる持久戦は困難であり、数か月以内に壊滅する可能性が高いという認識が軍部内部にあったとされている。
そのため、日本がポツダム宣言を受諾した決定的要因については、広島・長崎への原爆投下を重視する説と、ソ連参戦を重視する説が現在も併存している。
本土空襲
9日 岩手・釜石艦砲射撃 2回目、死者300人以上
9日 福岡・八幡 死者1878人

9日 長崎への原爆投下
8月9日、アメリカ軍は2回目の原爆投下のため、原爆を搭載したB-29を出撃させた。第1目標は小倉、第2目標は長崎とされていた。
しかし、小倉上空は天候不良に加え、前日に行われた八幡への空爆による煙が視界を遮った可能性もあり、目視による照準が困難だった。そのため、機体は第2目標である長崎へ向かった。
長崎上空も雲に覆われていたが、一瞬だけ雲の切れ間から市街地が見えたため、原爆が投下された。
10日 第一回御前会議
10日午前0時3分から、天皇と6名の大臣、軍首脳によって構成された御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾について条件が話し合われた。
議論は、次の二つに分かれた。
(a)4条件を付して受諾する――3名が支持
- 国体の護持
- 自主的な武装解除
- 自主的な戦犯処罰
- 保障占領を拒否すること
(b)1条件のみを付して受諾する――3名が支持
- 国体の護持
この対立の中で、意見を求められた天皇は、国体の護持という一条件のみを付して受諾する案に賛同した。そのうえで、本土決戦の準備状況について、次のように述べたとされている。
陸海統帥部の計画は常に錯誤し時機を失す。本土決戦と言うが九十九里浜の防御陣地は遅れ、8月末にあらざれば出来ずと言う。増設部隊も装備未だに整わずと言う。之れで米軍を如何にして遊撃し得るや。
この会議の直後、10日未明、日本政府は、「天皇の国家統治の大権(the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler)」を変更しないことを条件として、ポツダム宣言を受諾する意思を連合国側に伝えた。
これに対して、12日午前、連合国側からの回答がサンフランシスコ放送を通じて公表された。その内容は、おおむね次のようなものだった。
(a) 降伏後、天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下(subject to)に置かれる。
(b) 最終的な日本国の政府の形態(the ultimate form of Government of Japan)は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明された意思によって決定される。
この回答に対して、陸海軍の統帥部首脳は、ポツダム宣言の受諾に反対する意見を天皇に伝えた。連合国は日本を属国化し、さらに「国民の自由な意思」という名目によって国体の変更を意図している、という主張からだった。
そして陸軍では、「国体」を護持するため、クーデターの計画も進められていた。一方、皇居では、長野県松代への疎開を予定していた荷物を運び出すため、トラックが派遣されるなど、本土決戦を想定した動きも実際に進行していた。

本土空襲
14日 山口・岩国
14日 第2回御前会議

14日午前11時2分、天皇の発案によって、第二回御前会議が開かれた。天皇は、連合国側からの回答について、次のように述べたといわれている。
敵側の回答に付いては、総長及び陸軍大臣の反対があり、国体に動揺を来すと言うたが、朕はかく考えぬ。保障占領後危険ありと言うが、敵が悪意あるとはあの文面からは考えられぬ。朕も多少の不安はあるも、然しこのまま戦いを継続しては国土も民族も国体も破滅し、ただ単に玉砕に終わるのみ。
こうして第二回御前会議において、ポツダム宣言を受諾することが最終的に決定された。
日本国家としてのポツダム宣言受諾は8月10日の御前会議で決定していたのだが、、8月14日に御前会議を経て「終戦の詔勅」に天皇が署名したことで正式に決定することになった。
本土空襲
14日・15日 埼玉・熊谷、群馬・伊勢崎 死者300人以上
14日・15日 秋田・土崎、死者300人以上

15日 玉音放送 戦争終結とポツダム宣言受諾

15日正午、昭和天皇は、戦争の終結とポツダム宣言の受諾を国民に伝えるラジオ放送を行った。
その冒頭は、次のような言葉で始められている。

朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして、米英支蘇四国(アメリカ、イギリス、中国、ソ連)に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
(中略)
然れども、朕は時運の赴く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す。
この玉音放送は、現在の日本では、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉とともに広く知られており、この放送をもって日本の戦争が終わったと捉えられることが多い。日本で終戦記念日が8月15日とされているのは、そのためである。

一方、玉音放送で言及された四カ国では、戦争終結の日についての扱いが異なっている。
イギリスでは、日本と同じく8月15日を「対日勝利の日(VJ Day)」としている。
アメリカでは、9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号で日本が降伏文書に調印した日を、日本の正式な降伏の日としている。
中国とソ連では、9月3日を対日戦争の勝利・終結を記念する日としている。
このようにして、1945年(昭和20年)に戦争に関して起こった出来事を、できるだけ主観を交えずにリストアップしてみた。こうした試みは、戦争に関する現在のさまざまな意見が、まずは事実に基づいて形成されることを期待してのことである。
確認できる事実については、筒井清忠編『昭和史講義』シリーズ(ちくま新書)を中心に参照した。その序文で筒井は、次のように記している。
2000年代に入る前後から歴史認識をめぐる問題がかまびすしくなり、昭和史に対する関心が非常に高まるのに相前後して不正確な一般向けの昭和史本が横行し始めたのである。
それらでは新しい研究の成果など全く追っていないので、過去の間違いがそのまま踏襲されていたり、俗説や伝承の類がチェックもなく横行したりしている。自分らに都合のいい心地よい昭和史を実証的根拠もなくそれらはもっともらしく語っているのである。
私自身の無知の一つを告白すれば、長崎への原爆投下に際して、最初の目標が小倉だったことなど、まったく知らなかった。また、ソ連の参戦についても、スターリン独自の判断だけではなく、ヤルタ会談での秘密協定が大きな背景にあったということを、まったく知らなかった。ポツダム宣言を受諾する際に最も大きな問題となった「国体護持」も、私にはなじみのない言葉だった。
東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下以外にも、日本全土で焼夷弾による爆撃が行われていたことは知っていた。しかし、実際にその詳細をリストアップしてみると、その数の多さと被害の甚大さに驚かされる。長崎への原爆投下後も、地方都市への攻撃は続いていたのだ。そのことが視覚的にもわかるよう、本土への爆撃は赤い四角で示してある。
では、戦争を終結させる決断を、いつすべきだったのか。
それを考えようとすると、そもそも戦争を始めるべきだったのか、あるいは明治維新以降の日本のあり方をどう評価するのか、といった、主観の入りやすい判断になりがちである。
だからこそ、まずは確認できる事実を知ることから始めることが大切なのではないだろうか。
その上で過去の歴史を振り返り、現在を見つめる。それが、再び戦争への道を歩まないために、私たちができることの一つであると、私には思われる。
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チャップリン「一人の殺人は犯罪者を生み、戦争での百万の殺人は英雄を生む。」 この論理が現在の日本で受け入れられない理由をAIに聞いてみた