2026年7月末に起こった熊本地震に関して、信じがたいほど悪意に満ちたフェイクニュースが溢れている。なぜこれほどまでに、と思わずにはいられないが、こうした状況はもはや現代病ともいえ、対処が極めて難しい。
そのことを私が痛感したのは、次のような経験からだった。
「大谷、20億円寄付」というニュースを取り上げ、裏付けとなる情報源が確認できず、フェイクニュースである可能性が高いことを指摘するとともに、情報源を確認する必要性を訴える記事を書いた。その記事への反応は、私のブログでは異例と言えるもので、わずか5日間で閲覧数が17,000回以上に達した。
その一方で、フェイクを鵜呑みにせず、事実確認の大切さを説く記事、たとえば「なぜ人は『事実』より『理由』を求めてしまうのか――陰謀論の心理学」は、掲載を始めた3月から現在(8月)までの5ヶ月間の累計で46回の閲覧にとどまっている。
5日間で17,000回と約350日で46回という数字の差は、フェイクニュース流通の現状と、フェイクを見分ける情報リテラシーを育てることの難しさを、何より雄弁に物語っているように思えてならない。
今回は、フェイクニュース対策について、情報を受け取る側と、それを発信する側という二つの側面から考えてみたい。
発信する側とは、フェイクを流す発信者だけでなく、その拡散の場となるプラットフォーム、そしてそれを運営する巨大IT企業も含んでいる。
私には、この問題は麻薬の消費者と密売組織の関係に、需要と供給が互いを強化し合うという点で、似た構造があるように見える。麻薬を常習する人間に麻薬をやめさせることは難しく、密売組織を摘発し撲滅することも難しい。
しかし、フェイクニュースには麻薬のような犯罪性がないだけに、その解決は一層難しいといってもいいかもしれない。

(1)受信者
ネット上ではさまざまなフェイクニュース対策が提示されているが、それほど効果を発揮しているようには見えない。その理由は、ニュースを受け取る人々に悪意はなく、むしろ情報を「素直に」信じ、時には自ら進んで拡散していくからだ。
そうした場合、単なるファクトチェックは意味をなさない。それどころか、間違いを指摘されたことに反発し、かえって元の嘘を強く信じ込んでしまう「バックファイア効果」すら生じかねない。
では、なぜ人々はフェイクニュースを素直に受け入れてしまうのだろうか。そこには受容側の複合的な心理メカニズムが作用している。
(a) 自己肯定感の確認
現代社会における情報受容の根底には、「自己肯定感の確認」が存在すると言われる。
受信者は、自分が内心で望んでいるストーリーを受け入れることで、「自分の考えや感情は他者と共有されている」という安心感と満足感を得ることができる。
実際、自分の志向と一致する情報や、自分の所属する集団にとって心地よい情報を受け入れている時には気持ちがいい。その反対に、意見の違うものや都合が悪いと思われるものは、その場で遮断してしまう。ネットはそれが容易に可能な場であり、自分を理解してくれる安全で居心地の良い領域である「界隈」(かいわい)を、たとえ仮想的であったとしても、その場で手軽に作ることができる。
(b) タイパを重視したファスト型情報消費
受信者が求めるのは、問いに対する明快な答えであり、「善か悪か」が即座に理解できる単純化された情報である。 一方で、出来事の背景にある複雑な経緯や入り組んだ事情の解説は「過剰な情報」として煩わしく感じられ、敬遠される。いわゆる「タイパ(タイムパフォーマンス)」を追求した情報消費の姿勢がここにある。
(c) アルゴリズムによる「真実性の錯覚」
プラットフォームのアルゴリズムは、一度関心を示した同種の情報をつぎつぎと画面に送り込んでくる。その結果、最初は半信半疑だった情報であっても、繰り返し目にするうちに「これが真実なのだ」と錯覚するようになる。
知らず知らずのうちに、フェイクが真実にすり替わるシステムの中に組み込まれてしまうのである。
(d) 「正義の味方」を演じる快感
これは「自己肯定感の確認」とも深く結びついているが、受け取った情報によって善悪が明快に色分けされると、人は悪を攻撃することで自らの正義感を充足させようとする。
「悪者を退治し、正義の側に立つ」という体験は単に心地よいだけでなく、手軽に自己肯定感を高めてくれる強力な感情的報酬となる。
これら四つの要因を整理してみるだけでも、たとえ受け取った情報がフェイクであっても、それが自分の感情に都合よく合致するものであれば、素直に受け入れてしまうメンタリティがよく理解できるのではないだろうか。
そこで得られる快感は、不確実性が高くストレスのかかる現代社会において、「自己肯定感」を手軽に補填してくれる。その意味で、この心理的メカニズムは、一種の「麻薬」にも似た中毒性を帯びていると言える。
もちろん、身体的・化学的な依存を形成する違法薬物とは依存のメカニズム自体が異なり、フェイクニュースがもたらすのは「認知的依存」である。
しかし、エコーチェンバーやフィルターバブルの環境下で、「心地よい情報」だけを繰り返し摂取するうちに、情報を疑い検証する「批判的思考の筋肉」が徐々に衰えていくプロセスは、薬物依存が深まっていく過程と酷似しているといってもいいだろう。
さらに厄介なのは、違法薬物とは異なり、フェイクの受容は、直接的な暴力行為などに発展しない限り、法的に処罰されることも、社会的信用を失うこともない点である。
その処方箋として「情報リテラシーの育成」が必要なのだが、リテラシーを発揮することは、心地よい快感を「手放す」作業にほかならない。そのため、受け手側に強い自省意識がない限り、その実践は極めて難しい。
そうした中で、「自分が心地よく消費しているフェイク情報が、実は悪質な発信者や巨大IT企業の懐を潤す道具(収益源)として利用されている」というメカニズムを自覚することは、情報の中毒から抜け出し、フェイクに対抗するための最初の一歩になるかもしれない。淡い期待にすぎないのかもしれないが。
(2)発信側:フェイク制作者とプラットフォーム
ネット上の情報発信は、多くの場合、経済活動に組み込まれている。(このWordPressのブログのように、収益とは無縁のものもあるのだが。)
(a) フェイクニュース発信者
YouTubeやSNSなど多くのプラットフォームでは、閲覧回数(PV、再生回数、リポスト、いいね、保存など)やエンゲージメントに応じて収益を得られる「アテンション・エコノミー」の仕組みが形成されている。
そのため、発信者たちは、真偽や善悪よりも、感情を刺激する情報で閲覧回数を稼ぐことを目的とし、発信を繰り返す。
「炎上」は経済活動の成功を意味する言葉でもある。
(b)プラットフォームを運営する巨大IT企業
プラットフォーム企業(Google、Meta、X、TikTokなど)の主要な収益源はデジタル広告である。
ビジネスモデルの根幹は、「ユーザーの滞在時間を伸ばすことが広告収益の最大化に直結する」という構造的・経済的なメカニズムにある。
そのために、人間の感情的反応を引き出しやすいコンテンツが重視されやすい。「正確だが退屈な事実」よりも、「驚き」「怒り」「恐怖」「正義感の刺激」を伴う情報の方が、ユーザーを長時間引き留めたり、繰り返し視聴させたりしやすい。
その結果、アプリ上の滞在時間が延び、表示される広告(インプレッション)の総数が増えることで、プラットフォーム側の広告収入も増加する。
こうした形での収益性の増加をもたらす装置が、アルゴリズムだといえる。
アルゴリズムは、一般に「真実か嘘か」を評価するのではなく、「ユーザーがどれだけ反応したか」(エンゲージメント:クリック、いいね、コメント、拡散など)を重要な指標としてコンテンツを推薦する傾向がある。
コンテンツの真偽や質そのものよりも、エンゲージメントの量を重視するアルゴリズムこそが、経済活動を活性化させる装置なのだ。
(c)作成者とプラットフォーム、そして受信者の依存構造
発信者とプラットフォームの関係を図式化すると、次のようになる。
発信者:過激なフェイクで再生数・PVを稼ぎ、広告分配金を得る
↓ (トラフィック増・滞在時間延長)
プラットフォーム:ユーザーが画面に釘付けになり、大量の広告が表示される
↓ (広告出稿主から広告費を獲得)
巨大IT企業:膨大な広告収入(プラットフォーム手数料・利潤)を得る
このシステムでは、プラットフォーム企業がフェイクニュースを厳格に監視・削除することは、「二重の不利益」を生む可能性がある。
第一に、数十億件に及ぶ投稿を人間やAIで監視・モデレーションするには、膨大なシステム投資と人件費が必要になる。
第二に、刺激的なコンテンツを大量に削除したり、アカウント停止を広範に実施したりすれば、ユーザーの滞在時間やトラフィックが減少し、表示される広告数も減るため、広告収入の減少につながる可能性がある。
以上のことから見えてくるのは、フェイクニュースは単なる「誤った情報」ではなく、受け手の心理とプラットフォームの経済構造が結びつくことで増殖するシステムだということである。
発信者は感情を刺激する情報で収益を得る。プラットフォームはユーザーの関心と滞在時間を広告収入へと変換する。そしてアルゴリズムは、その循環をさらに加速させる。フェイクニュースは、発信する側とそれを可能にするプラットフォーム、そして情報から心理的な快感を得る受信者という、三者の利害が重なり合うところで大量に生産・拡散されるシステムによるものなのだ。
(3)対策は可能か
(a) 情報流通プラットフォーム対処法
日本でも2025年4月に「情報流通プラットフォーム対処法」が施行され、大規模プラットフォーム事業者に対して削除対応の迅速化や窓口設置、運用状況の透明化が義務付けられた。
しかし、この法律が期待通りの効果を発揮しているようには見えない。その理由は、法律の適用対象が「特定の個人や団体に対する権利侵害」に限定されており、個人や団体への具体的な被害が立証されなければ、削除を求めることができないからだ。
したがって、熊本地震でどんなに悪意があるフェイクが発信されたとしても、直接的な被害が認定されないかぎり、「違法」として削除を求めることができない。
その結果、悪者を作り感情を煽ることで収益を獲得する経済モデルは、そのまま放置されることになる。
(b)プラットフォーム側での自主規制
大規模プラットフォーム(YouTube, X, Metaなど)には、毎日数億件単位の投稿が寄せられる。そのために、AIによる自動検知や監視チームを強化しても、削除スピードよりも生成スピードの方が圧倒的に速いために、削除しても追いつかないとしばしば言われる。
また、検知ワードを避けたり、動画の音声だけで示唆するなど、AIの監視を潜り抜ける表現手法が巧妙化していることも、プラットフォーム側の検閲をすり抜ける要因だという理由も提示される。
しかし、検閲は、「ユーザーの滞在時間を伸ばすことが広告収益の最大化に直結する」というビジネス・モデルとは相反するものであり、実効性がどの程度担保されているのか再考する必要はあるだろう。
また、明らかなフェイクや煽り系の動画や記事の指摘を受けた場合、プラットフォーム側での素早い対応が求められるが、現状ではそうした投稿が放置されている例も見られる。
この点も含めた法律の整備は、早急に行われる必要がある。
(c)「表現の自由」と「規制」
あらゆる分野において、規制は自由を制限するものであると考えられ、インターネット上の悪意のある投稿に対しても、自由の侵害という論が展開される。
実際、強権的な国家では言論の自由、とりわけ反政府的な言論が抑圧されている。
インターネット上でも、国家や大規模プラットフォームに「嘘を自由に削除できる権限」を与えてしまうと、都合の悪い批判や異論まで「フェイクニュース」という名目で排除されるリスクがある。
こうした理由で、「公的権力による検閲」や「表現の自由の不当な侵害」を恐れ、ネット上の規制が進まないという側面があることも確かである。
しかし、その一方で、フェイクニュースや煽り系の動画などが常態化する中で、私たちがそれに麻痺してはならない。
普通に考えても、全ての「自由」が許されるわけではない。ネット社会においても、「自由」の意味と意義を考え直すことで、本当の意味での自由な表現が人間にとって価値のあるものとなるだろう。
(d)できうる対策
フェイクニュースの根本的な問題は、「ユーザーの滞在時間を伸ばすことが広告収益の最大化に直結する」という収益構造にある。
したがって、即効性のある対策は、広告を出稿する企業が、虚偽コンテンツが発覚した場合には、広告の出稿を停止することになる。
同時に、法的にも、虚偽コンテンツを掲載したプラットフォームにも、その都度、罰金を科すなどの処罰をすることで、プラットフォーム側での自主規制を強化することを促すことも、対策の一つになるだろう。
そして、もう一方の側には、フェイクニュースを受容する受信者がいることも忘れてはならない。
アルゴリズムで引き寄せられる受信者たちは、そうと意識することなく、発信者側の経済活動を活性化させる役割を果たしている。
ユーザーはそのことを意識し、受信した情報を読み解く情報リテラシーを身に付けることが、今こそ求められているのだ。
ここで、冒頭で紹介した数字にもう一度戻りたい。
「大谷、20億円寄付」の真偽を問う記事は、5日間で17000回以上閲覧された。一方、「なぜ人は『事実』より『理由』を求めてしまうのか――陰謀論の心理学」は、半年近くかけて46回にとどまっている。
この差そのものが、ここで論じてきた構造の縮図にほかならない。つまり、情報リテラシーを訴える言葉自体が、フェイクニュースほどには人を惹きつけないという事実こそが、この問題の根の深さを何よりも雄弁に物語っている。
こうした数字の前で私は無力さを感じるしかないのだが、それでもフェイクニュース対策について書くのは、地震のような災害の際にさえ、非人道的な投稿が数多くあることをマスコミの報道を通して知り、リテラシーの必要性を痛感するからである。
もう一つの理由は、最初に記したように、私には、この問題が麻薬の中毒者と、それを供給する密売人・密売組織との関係にある程度似ているように思われるからである。
フェイクを消費する側、フェイクを供給する側、そしてそれを利益化するプラットフォームという三極構造が存在する。
しかも、フェイクニュースには麻薬のような明確な犯罪性がない。
そうした中で、社会に軋轢を引き起こすネット上の問題に対して何とか手を打つためには、需要と供給が互いを強化し、その仲介者が利益を得るという、現代の経済活動の構造として捉える必要がある。そして、その構造を見抜くこと自体が、私たち自身の情報リテラシーの一部なのだと考えている。
麻薬依存に即効性のある処方箋がないのと同じように、この問題にも劇的な解決策は存在しない。もちろん、私にできることは本当に限られている。しかし、「46回」系の記事を積み重ねていくことが、いまの私にできる、ささやかな抵抗なのだと思う。