Victor Hugo « Sara la baigneuse » ヴィクトル・ユゴー「水浴びをするサラ」その3

(日本の大学などでフランス語の詩を読む場合、内容の説明に重点が置かれ、詩のもう一つの側面である言葉の音色の美しさやリズムを実際に味わうことは、あまり行われていないように思われる。
そこでここでは、詩句の音楽性にとりわけ重点を置きながら、ヴィクトル・ユゴーの « Sara la baigneuse »(水浴びをするサラ)を読んでいきたい。)


第五詩節では、7/3/7という基本的なリズムは保たれながらも、7音節の詩句の内部にさらに短い区切れ(césure)が入り、リズムの急速な高まりが感じられる。

Reste ici caché : demeure !    ここに隠れていろ、じっとして!
Dans une heure,          一時間もすれば、
D’un œil ardent / tu verras     熱い眼差しで、お前は見ることになる、
Sortir du bain / l’ingénue,     水浴びから上がってくる無垢な乙女を、
Toute nue,             一糸纏わぬ全裸で、
Croisant ses mains sur ses bras.   両手を胸の前で交差し、腕を抱く姿を。

(朗読は46秒から)

最初の行では、Rest(e) ici caché (5) の後に « : » が置かれ、明確に次の demeur(e) (2) との区切れが示されている。

さらに、三行目と四行目では、それぞれ4/3のリズムが刻まれ、短い詩句が次々と連なっていく。そして、この急速なリズムの変化は、サラが裸身で水から姿を現す瞬間を目にする者の高揚感を、音の運動によって伝えているといってもよいだろう。高鳴る心臓の鼓動そのものが、このリズムになっているのである。

では、サラを見つめているのは誰なのか。別の言い方をすれば、詩人が « Reste ici caché »(ここに隠れていろ)と命じる相手は誰なのか。

その答えは、詩句の中には示されていない。サラ以外に、登場する人物は存在しないからである。
とすれば、そこに立ち会っているのは詩人自身とも考えられる。その場合、詩人は自分自身に対して tu と語りかけていることになる。
あるいは、その光景を目にすることのできる存在、つまり、この詩句を読む読者と考えることも可能である。

そして、この二つの可能性をどちらも排除できないとすれば、この命令文の対象は、詩人自身であると同時に、詩の空間へと招き入れられた読者でもあると考えられる。私たち読者もまた、ユゴーとともに、サラが水浴する場に立ち会っているのである。

そして、裸身をさらして姿を現した乙女が、両手を腕に交差させ、身体の一部を覆い隠そうとする姿を、燃えるような眼差しで見つめる。
ユゴーは、こうした官能的で劇的な視覚体験の中へ、読者を引き込んでいる。その瞬間に生まれる高揚感は、どれほど強烈なものだっただろうか。

また、そうしたドキドキ感と同時に、見る者の素早い視線の動きが、短い音の連なりの連続でしめされているともいえる。
つまり、この箇所では単に「興奮している」のではなく、隠れて待つ(Reste ici caché)、時間を待つ(Dans une heure)、見る(tu verras)、水から出る(Sortir du bain)、裸身を現す(Toute nue)という視線の動きが、短いリズムの連続によって映画のカットのように提示されていると考えることもできるだろう。


第六詩節では、なぜ隠れて彼女が水中から上がる姿を見る価値があるのか、その理由が、Car(なぜなら)に続く説明として示される。

Car c’est un astre qui brille      まさに輝く星ではないか、
Qu’une fille              ひとりの乙女が、
Qui sort d’un bain au flot clair,    澄んだ水の水浴びから出て、
Cherche s’il ne vient personne,    誰も来ないかどうかあたりを見回し、
Et frissonne,             身を震わせる姿は、
Toute mouillée au grand air.     全身濡れたまま、外気に触れて。

C’est A que B という詩的表現の中で、「ひとりの乙女(une fille)とは、まさに輝く星(un astre)なのだ」ということが強調されている。

そして、astre に含まれる [a] が Sara の [a] と共鳴するとすれば、fille の [i] は、qui, brille, qui, s’il, そして frissonne と鋭い音の連なりを形作っていく。

その [i] の反復は、clair と air の [ɛ] という開いた「エ」の音を背景にして、水のきらめきや震え(frissonne)の細かな振動を聴覚的に模倣しているといってもいいだろう。


第7詩節では、水から出てきたサラが、まるで読者の目の前にいるかのように、生き生きと描き出される。

Elle est là, sous la feuillée,      彼女がそこにいる、葉陰に潜み、
Eveillée               目を醒ましている、
Au moindre bruit de malheur ;   災いを予感させるわずかな音にも。
Et rouge, pour une mouche     そして、肌を赤らめる、一匹の蠅、
Qui la touche,            彼女に触れるアブのために、
Comme une grenade en fleur.    花開くザクロのように。

« Elle est là » の後ろで区切れ(césure)が入り、その三音節の短い連なりによって、「彼女がそこにいる」という意味だけでなく、音の上でも強い印象が生み出されている。« Elle est là » と気持ちを込めて読んでみると、その効果が実感できるだろう。

そして、彼女は何か不幸なことが起こるのではないかと警戒している。その一方で、一匹の蠅が彼女に触れるだけで、肌を赤らめるほど敏感な存在として描かれている。
ここでは、[u] の音が mouche と touche の韻を支えるだけでなく、rouge や pour の中でもアソナンス(母音反復)として響き合い、蠅の軽い接触が肌の紅潮へとつながる繊細な感覚を音の上からも支えている。

ちなみに、第6詩節でも第7詩節でも、サラは誰かが近くにいるのではないか、あるいは何か不幸なことが起こるのではないかと、不安げに周囲をうかがっているように見える。もしかすると、第5詩節で「ここに隠れていろ」(Reste ici caché)と命じられた誰かの存在を、サラは気配として感じ取っているのかもしれない。


第8詩節では、同じ音が名詞と動詞として繰り返されることで、サラの裸体を想像させる効果が生み出されている。

On voit tout ce que dérobe     すべてが見える、
Voile ou robe ;            ベールやドレスが隠すものすべてが。
Dans ses yeux d’azur en feu,     青く燃える彼女の目の中で、
Son regard que rien ne voile     何も覆うもののないそのまなざしは、
Est l’étoile              あの星なのだ、
Qui brille au fond d’un ciel bleu.   青空の深みに輝く

問題となる音は « voile » である。
最初は名詞(ベール)として用いられ、次に動詞(覆う)として用いられている。

voile は robe(ドレス)と同様に、顔や身体を覆い隠す(dérobe)ものである。ここでは、それらによって隠されているものがすべて見えている。

動詞 voile が現れる場面では、ne によって「覆う」ことが否定され、乙女のまなざしは何ものにも覆われていない。だからこそ、そのまなざしは天空に輝く(brille)星(l’étoile)となる。

ちなみに、« l’étoile qui brille » という表現は、第6詩節の « c’est un astre qui brille » を下敷きにしている。サラという乙女(fille)の光り輝く姿は、« qui brille » という音の反復によって、読者の記憶に鮮やかに刻み込まれるのである。


第9詩節では、サラの体の上を流れる水(l’eau)に焦点が当てられる。

L’eau sur son corps qu’elle essuie  水は、彼女が拭う肌の上、
Roule en pluie,           雨のように流れていく、
Comme sur un peuplier ;      ポプラの上を流れるように。
Comme si, gouttes à gouttes,     まるで、一滴ずつ、
Tombaient toutes          すべて零れ落ちていくかのよう、
Les perles de son collier.      彼女の首飾りの真珠のすべてが。

サラがすくっと立ち上がった姿はポプラの木を思わせ、彼女の体を滴り落ちる水の雫は首飾りの真珠を思わせる。
この二つの隠喩によって、彼女は大自然の一部でありながら、同時に豪華な装飾を身にまとった美的な存在として描かれていると考えてもいいだろう。

peuplier と collier の [lje] という豊かな韻(rime riche)の響きは、自然と文化との対応を音の上でも明確に示している。

彼女が拭う(essuie)肌の上を雨(pluie)のように流れる水については、[u] の音のアソナンスが roule, gouttes, gouttes, toutes と連なり、雫が滴り落ちていく運動を音によってなぞっている。

そして、冒頭に置かれた l’eau の響きは、最後の collier の中で、[l] のアリテラシオン(子音反復)と [o]/[ɔ] の母音の響きによって呼応し、この詩節全体は、首飾りの真珠が作り出す一つの円環を描くように閉じられる。


もしかすると、ヴィクトル・ユゴーが、ここで分析してきたような詩句の音楽性を一つ一つ計算して詩を書いていたわけではない、と思われるかもしれない。

しかし、ユゴーはフランス文学を代表する詩人であり、少なくとも最も偉大な詩人の一人である。詩句の意味と音の響きを、歌と楽器の伴奏のように調和させながら詩作を行っていたと考えても、決して言い過ぎではないだろう。

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