圧倒的な博識に圧倒される読書体験 — シャルル・ノディエ 『ボヘミアの王と7つの城の物語』 Charles Nodier Histoire du roi de Bohême et de ses sept châteaux

この項目は独り言のようになってしまうのだが……。

これまで何年も、もっと正直に言えば何十年もの間、いつかじっくりと読み通したいと思いながら実現できずにいた本がある。それは、シャルル・ノディエの『ボヘミアの王と7つの城の物語』という風変わりな小説。

Charles Nodier, Histoire du roi de Bohême et de ses sept châteaux, Paris, Delangle, 1830.

なぜ読みたかったのかといえば、まず第1に、ノディエは私が生まれて初めてフランス語で読み通した本『パン屑の妖精』(La Fée aux miettes)の作者であること、そしてボヘミア王の話は彼の代表作の一つだからだ。

では、読みたいと思いながら、なぜ読まなかったのか。あるいは読むことができなかったのか。
その理由はただ一つ。フランス語自体がそれほど難しいわけではないのだが、読み始めても何が書かれているのかよくわからない。。。

話が前に進まないというか、物語があるのかすらわからない。脱線だらけで、読んでも読んでも何も頭に残らない。先に進んでも、たどった道がすぐに消えてしまうような印象を受け、楽しく本に向き合うことができなかった。その難しさは、ランボーやマラルメの難解さとは全く異質のものだ。

そこで今回は、前に進むのではなく、一つ一つの文の上に腰を下ろして、じっくりと読み解こうと試みてみた。そして、少しだけわかったことがある。

それは、ノディエが圧倒的な博識の持ち主であり、私の知識などでは到底追いつかないこと。彼は、その博識を論理的に組み立てるのではなく、むしろ軽い冗談のように「博識を博識で揶揄し」、読者を面白がらせようとしている、ということだった。

本を読むためにはそれなりの知識が必要であることは十分に理解しているし、知識を身につけることを楽しんできたつもりだったのだが、『ボヘミアの王と7つの城の物語』に関しては全く歯が立たない。ノディエの圧倒的な博識に、私は圧倒された。

そんなわけなので、いつの日か最後まで読み通せる日を夢見ながら、その「圧倒された例」を二つだけ紹介してみたい。

Et je dois rassurer mes jolies lectrices – je n’écris point ceci dans le simple appareil… dans le costume négatif d’Archimède. J’ai un habit bleu barbeau qui ne m’a servi que trois fois.

私は可愛らしい女性読者の皆様を安心させておかなければなりません――私は、質素な装いで……、アルキメデスの「陰性の衣装」をまとって、これを書いているのではありません。私はヤグルマギク色の服を持っています。まだ三度しか着ていない服です。

字面だけを追っていくと、女性の読者を安心させるために、どんな服を着てこの文章を書いているのかを説明しているらしいということはわかる。しかし、何を言いたいのかは、さっぱりわからない。

その一番の原因は、« le simple appareil » と « le costume négatif d’Archimède » が何を意味しているのかわからないことにある。単語の意味を並べても、文の意味がつかめないのだ。

言い換えると、この文章を理解するためには、それなりの知識が必要だということになる。

« le simple appareil » について調べていくと、« dans le plus simple appareil » で「全裸」という意味になることがわかる。

この表現は、17世紀の劇作家ラシーヌの『ブリタニキュス』(1669)に由来するらしい。ジュニー姫について、« Belle, sans ornement, dans le simple appareil »(美しい、飾りもつけず、裸体で)という詩句がある。

この場合の « appareil » は、単なる「装置」ではなく、「整然と配置されたものの集まり」、つまり衣服や身なりを整えるための「装い一式」「身仕度」を意味する。「最もシンプルな装い」という表現によって、「裸体」が婉曲に暗示されているのである。いかにもルイ14世の宮廷にふさわしい貴族的な言い回しであり、それが現在では慣用句として定着している。

一方、« le costume négatif d’Archimède » は慣用句ではないらしく、さらに理解が難しい。

アルキメデスは日本では、「アルキメデスの原理」や、お風呂に入っているときに浮力を発見し、「エウレカ(わかった!)」と叫んで裸で飛び出したという逸話で知られている。

そのアルキメデスの « costume négatif » とは何か。
ここで négatif は「否定的」という意味ではなく、「マイナス」の意味で使われている。服がマイナスである状態、つまり「裸」のこと。

こうして、ノディエが「裸で執筆しているわけではない」と言っていることがわかるのだが、次の « bleu barbeau » が何かわからないと、どんな服を着ているのかがイメージできない。

そこで辞書を引くと、bleu barbeau がヤグルマギクの花のような青色であることがわかる。さらに Wikipedia などでその花の色を確認して、ようやく服のイメージを思い描くことができる。

このように、さまざまな知識を総動員して、ようやくこの文の理解にたどり着くことができる。

要するに、ノディエは、「女性の読者の皆さん、安心してください。私はアルキメデスのように裸でこの文章を書いているわけではありません。まだ三回しか着ていない、素敵な青い服を着てこれを書いている」と、執筆の現場を読者に想像させながら、冗談交じりに語っているのである。

作家が自分の執筆の現場を描くことは珍しいし、「裸ではなく、おしゃれな服を着ている」というジョークも、意味がわかれば面白く、機知に富んでいると納得できる。

しかし、そこまで理解するためには、少なくとも私の持っている知識だけでは力不足であり、ノディエの博識を恨めしく思ってしまう。


もう一つだけ、「数え上げるのが不可能なほど不毛で膨大な作業」という、私にとっては『ボエミアの王と7つの城の物語』を読む際の作業について、ノディエからあらかじめ「からかわれている」ような一文を読んでみよう。

この世に独創的なものは何もなく、すべては前にあるものを模倣したものであり、その数は限りない。そうした数を数えるくらいなら、というのが以下の文の前提になっている。

J’aurais plus tôt fait de compter les chèvres de la Toralva, calcul qui épouvanta l’infaillible judiciaire de don Quichotte, et que les mathématiciens infinitésimaux les plus perspicaces, depuis le marquis de l’Hospital jusqu’au rédacteur du dernier Almanach des Muses, ont sagement laissé à part.

私は、「トラルバの山羊」を数える方が、まだ早く終わったことでしょう。その計算は、ドン・キホーテのあの決して間違えることのない判断力を恐れさせたものであり、最も洞察力に優れた無限小数学者たちも、ロピタル侯爵から最新の『ミューズ年鑑』の編集者に至るまで、賢明にも手をつけなかったものなのです。

私が知っているのは、ドン・キホーテくらいなのだが、しかし、残念ながら、彼を驚かせた計算のエピソードは知らない。

調べて見ると、その話は、『ドン・キホーテ』第1部20章にあった。

従者サンチョ・パンサが、主人ドン・キホーテの退屈しのぎのために一つの話を語る。それは、羊飼いロペ・ルイスが、愛人トラルバの300頭の山羊を小舟で一頭ずつ川の対岸へ渡すというエピソード。
その際、サンチョ・パンサはドン・キホーテに、「何頭渡ったか一頭残らず正確に覚えておいてください。一頭でも数え間違えたら物語はそこで終わります」と念を押す。そこで、ドン・キホーテは真剣に数えようとするのだが、途中で数が分からなくなり、サンチョはその時点で話を終わりにする。

この挿話を知っていれば、「トラルバの山羊」が、最後まで数え切れないものの例として挙げられていることがわかる。そして、ノディエは、現実と妄想を混同し、純粋であればあるほど滑稽なドン・キホーテに対して、「決して誤ることのない判断力」という皮肉な賛辞を与えることで、計算の滑稽さをいっそう際立たせようとしたのだろう。

その上、計算について、ノディエはさらに博識を積み重ねる。
その際に、「無限小数学者」(les mathématiciens infinitésimaux)という専門的な用語を持ち出し、その後で、ロピタル侯爵(le marquis de l’Hospital)という名前を付け加える。

私は数学のことはよく知らないので、その侯爵についても調べることになる。
ギヨーム・ド・ロピタルは、17世紀のフランスの数学者で、「ロピタルの定理」というものがあるらしい。それは、微分積分学において、不定形の極限を微分を用いて求めるための定理だという。
あまりよくわからないのだが、とにかく、数学の権威であり、計算に強い学者だったに違いない。
そして、「無限小数学者」の代表として、ロピタル侯爵の名前が挙げられているのだろう。

では、『ミューズ年鑑』(Almanach des Muses)の編集者は、何を表すのか。

『ミューズ年鑑』というのは、1765年から1833年までの間パリで発行されていた詩のアンソロジーで、著名な詩人から、無名の書き手まで幅広い詩が収録されいた。
その編集者なのだから、詩の知識は豊富だったろうが、文学者はおうおうにして数学には弱い傾向がある。

そこで、「ロピタル侯爵から『ミューズ年鑑』の編集者まで」という表現は、計算に最も強い人から最も弱そうな人まで、という意味だと考えていいだろう。

つまり、誰も成し遂げなかった「トラルバの山羊」の計算をした方が、模倣する人々の数を数えるよりも早く終わる。それほど模倣する人々の数は多い、というのがこの一文の意味なのである。

ちなみに、ノディエは、模倣を批判しているのではない。創作とは、必ず先行する何かを受け継ぎ、それを変形する営みであり、その意味で模倣こそが創作の出発点なのだと考えていた。繰り返しになるが、そのことは記しておきたい。


このように、二つの箇所を見るだけでもノディエの博識ぶりが実感できるし、その博識がユーモアと皮肉、そしてエスプリに富んだ文章の土台になっていることもわかるだろう。

しかし、そのことは、知識不足を思い知らされることにもつながる。『ボエミアの王と七つの城の物語』を本当に楽しんで読むには、今の私の知識ではまったく歯が立たない。

フランス語で言うと、こんな感じだろうか。
Lire l’Histoire du roi de Bohême et de ses sept châteaux de Charles Nodier est une expérience de lecture étourdissante, où je me retrouve complètement subjugué par son érudition époustouflante.

ただし、この圧倒されるような経験は、もう一つ大切なことを教えてくれる。

文章を理解することとは、単に言葉の意味を追うことではない。その言葉に底通する文化や歴史を知ることこそが、理解のための不可欠な条件なのだ。知識という土壌なしには読み解けない世界が、これほどまでに広がっている。

そんな思いを抱きながら、『ボヘミアの王と七つの城の物語』を手にする。
今は46ページ。
本の最後を見ると398ページ。
私がここまでたどり着く日は、本当に来るのだろうか。

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