
アラン(Alain)は、20世紀前半のフランスで、ヴァレリーやベルクソンとともに思想家として高く評価され、「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ」「遠くの火事より、靴の中の小石が痛い」といった言葉で知られる『幸福論』は、かつて日本でも広く読まれていた。

1914年、第一次世界大戦が勃発したとき、パリのアンリ4世校で哲学教師を務めていた46歳のアランは、兵役義務を免除される立場にいた。しかし、彼は自ら志願して従軍した。
ドイツとの和平を望んでいたアランだったが、自国の領土が侵略された以上、平和を求める一方で、侵略に対しては抵抗すべきだという立場から、自ら参戦を選んだのだと考えられている。そして、エリートとしてではなく、一人の普通の市民として前線での戦闘に加わった。1916年にはヴェルダンで砲撃を受けて片足を負傷し、翌1917年に除隊した。

1921年に出版された『マルス 裁かれた戦争(Mars ou la Guerre jugée)』は、こうした戦場での体験に基づく考察である。実際に戦場を経験した思想家による著作であるだけに、机上の空論にとどまる戦争論とは異なる、非常に興味深い内容となっている。
ここでは、第88章「ノーと言う(Dire Non)」を読んでみよう。
Dire non, ce n’est point facile. Il est plus facile de punir les pouvoirs par la violence ; mais c’est encore guerre ; chacun l’aperçoit aussitôt ; ainsi la gueule du monstre est ouverte partout, d’où vient cette résignation passive. Mais l’Esprit mène une autre guerre.
ノーと言う、それは決して簡単なことではない。暴力によって権力者たちを罰する方が簡単だ。しかし、それもまた戦争である。誰もがそのことにすぐに気づいている。こうして、怪物の口はいたるところで開かれているのだ。そこから生じるのが、この受け身の諦めである。しかし、「精神」はもう一つの戦争を遂行する。
冒頭のこの一節を見るだけでも、知的エリートのフランス語であることがはっきりと感じられる。それは、選ばれている語彙が抽象的で、具体的に何を指しているのかがわかりにくい点にある。
例えば、le pouvoirは「権力」という意味だが、les pouvoirsと複数形で定冠詞がつけられている。ここで実際に意味しているのは、抽象的な「諸権力」や「権力機構」だけではなく、より具体的には「権力を行使する者たち」を指しているとも考えられる。そして、彼らをla violence(暴力)によってpunir(罰する)とすれば、そこにもまたguerre(戦争)が生まれてしまう。
そのguerreが無冠詞で置かれているのは、個別の戦争、つまり具体的な戦争を指すのではなく、戦争という状態や、戦争に固有の性質・論理を表す抽象的な概念として用いられているからだと考えられる。
また、フランス語では、同じ単語を反復せず、別の表現に置き換える傾向がある。それは、言葉を置き換えることによって、意味に広がりを持たせることにつながるためだといえる。怪物の口(la gueule du monstre)も、その一例であり、ここでは戦争(la guerre)という言葉を別のイメージで言い換えている。しかし、怪物の口がいたるところで開かれているというイメージは、戦争だけを指すのではなく、暴力や戦争を生み出す脅威が、社会のいたるところに存在していることを表しているといえる。
さらに、la résignation passive(受動的な諦め)も、非常に抽象的な表現である。人々、あるいは私たち自身が、戦争が起こることを受動的に受け入れ、諦めてしまっているという状況が、すぐには見えてこない。
こうした抽象的な表現の極めつけが、l’Esprit(精神)である。精神が主語となって、もう一つの戦争をするという表現は、日本語のように具体的な表現を好む言語に親しんでいる読者には、非常に理解しにくい。
ここでは、精神が肉体と対になる概念であることを踏まえる必要がある。肉体が遂行する戦争は物理的・物質的な次元にある。もし暴力によって権力に対抗するとすれば、それは暴力の連鎖に終わってしまう。アランが、精神を主語に立て、もう一つの戦争(une autre guerre)を遂行すると言うのは、物理的な次元とは異なる次元での戦いを暗示しているのだといえる。つまり、精神のレベルでの戦いのことである。
フランスの思想家たちの文章には、しばしばこのように抽象性の高い表現が見られる。その特徴を理解しておくことが、アランの思想を読み解いていく第一歩になる。
Une grève est déjà puissante ; la grève de l’esprit est souveraine si tout le monde s’y met ; mais si vous attendez les autres, personne ne s’y mettra ; commencez donc. Guerre à vos passions guerrières, si enivrantes dans le spectacle et la parade, dans la victoire surtout. À toutes ces ivresses, dire non.
ストライキは、それだけですでに力を持っている。精神のストライキは、すべての人がそれに参加するならば、絶大な力を持つ。しかし、他の人々を待っているなら、誰もそれに参加しないだろう。だから、まず始めなさい。あなた自身の戦争好きな情熱に対する戦争だ。戦争好きな情熱は、見世物やパレードの中で、とりわけ勝利の中で、人々をひどく酔わせるものだ。こうしたあらゆる陶酔に対して、ノーと言うのだ。
「精神のストライキ(la grève de l’esprit)」という表現も、物理的な破壊に対して反対する精神というだけでなく、戦争を支える熱狂や価値観に加わることを拒む、という具体的な意味で読み取る必要がある。
私たちは、派手な見世物(le spectacle)や軍隊のパレード(la parade)などを見て、知らず知らずのうちに熱狂し、その熱に引きずられて、戦争を支持する方向へと向かってしまうことがある。また、勝利の場面では、その熱狂はいっそう強くなる。
そうした戦争好きな情熱(les passions guerrières)に対抗するためには、精神のストライキに自ら参加する(s’y mettre)という能動的な態度が重要である。他の人々を待つ(vous attendez les autres)という姿勢では、誰も参加しない。だからこそ、まず自分から始めなければならない(commencez donc)。
このことはまた、「あなた自身の戦争好きな情熱に戦争を仕掛けよ」(Guerre à vos passions guerrières)という表現につながる。つまり、アランは、戦争に対して心(精神)の中で反対するというだけではなく、自分の内部にある戦争への陶酔とも闘うことを求めているのだといえる。そして、それが「ノーと言うこと」(dire non)にほかならない。
Chacun cherche sa liberté, mais mal, voulant violence contre violence, et tombant aussitôt dans un autre esclavage. Laissez le corps obéir, cela n’ira pas loin. Ceux qui préparent la guerre le savent bien ; c’est votre esprit qu’ils veulent ; j’entends ces jugements confus que l’imitation soutient, que le spectacle et l’éloquence ravivent. Ne buvez point ce vin-là. Nul ne peut vous forcer ; l’enthousiasme ne peut être obligatoire. En ces temps où j’écris, la fête de la Victoire est proche ; je m’étonne d’avoir entendu beaucoup d’hommes et de femmes qui, d’ordinaire, n’osent pas beaucoup, dire froidement : « Nous n’irons point là. » Une autre disait, entendant des clairons : « Cela serre le cœur. » Il n’y a point de loi qui puisse ordonner que vous soyez hors de vous-même.
誰もが自らの自由を求めている。しかし、その探し方が悪いために、暴力には暴力をもって対抗しようとし、すぐに別の隷属状態に陥ってしまう。身体は従わせておけばいい。それだけでは大したことにはならない。戦争を準備する人々には、それがよくわかっている。私が意味しているのは、混乱した判断の数々であり、それらは模倣によって支えられ、見世物や雄弁によって再び活気づけられている。その酒を飲んではならない。誰もあなたを強制することはできない。熱狂を強制することなどできない。私がこれを書いているこの時期、「勝利」の祝祭が間近にある。私が驚いているのは、普段はそれほど大胆ではない多くの男や女たちが、冷静にこう言うのを耳にしたことだ、「私たちはあそこには行きません」と。別の一人の女性は、ラッパの音を耳にして、こう言った、「胸が締め付けられる」と。どんな法律も、あなたが我を忘れるように命じることなどできない。
アランによれば、肉体的な拘束よりも、精神を強制されることの方が重大な結果をもたらすことになる。
そして、混乱した判断、つまり理性的に考えるのではなく、感情に流されるような判断は、まず最初に、人まね(imitation)、つまり周囲の言葉や雰囲気をそのまま受け入れて反復することで維持され、派手な見世物や演説によってさらに活発なものとなる。
ちなにみ、この模倣(imitation)という言葉も、最初に指摘したように、非常に抽象的な使われ方をしていて、具体的になりを意味するのかわかりにくい。フランスの思想家たちの文章を読む場合には、こうした表現に慣れていくことが不可欠だといえる。
ここでアランは、見世物や雄弁だけではなく、周りのみんなに引きずられて、多くの人々が戦争へと向かっていく状況に対して警鐘を鳴らし、そうした酒を飲んではいけないと言う。しかし、実際には、多くの人々が、「勝利(Victoire)」を告げるラッパの音を耳にすれば、酔いしれて、我を忘れてしまう(hors de vous-même)。
強制されなくても、法律で縛られなくても、その場にいれば、そうなってしまう。アランの驚きは、そうした人々を目の当たりにすることにあったといえる。
Ainsi, devant toute déclamation guerrière, le silence ; et si c’est un vieillard qui se réchauffe à imaginer le massacre des jeunes, un froid mépris. Devant la cérémonie guerrière, s’en aller. Si l’on est tenu de rester, penser aux morts, compter les morts. Penser aux aveugles de guerre, cela rafraîchit les passions. Et pour ceux qui portent un deuil, au lieu de s’enivrer et de s’étourdir de gloire, avoir le courage d’être malheureux.
このようにして、あらゆる戦争賛美の大演説を前にして、沈黙すること。そして、もし一人の老人が、若者たちの虐殺を想像して胸を熱くしているのなら、冷ややかな軽蔑を向けること。戦争の儀式を前にして、立ち去ること。そこに留まらなければならないとしたら、死者たちのことを考え、死者たちの数を数えること。戦争で失明した人々のことを考えること、それは情念を冷ます。喪に服している人々に対しては、栄光に陶酔し、我を忘れる代わりに、不幸であることを引き受ける勇気を持つこと。
戦争で命令を下す側と、実際に戦い、命を失う側との間には、大きな隔たりがある。46歳で志願して出兵したアランは、あえて一兵卒であることを望み、戦いの現場で多くの若者たちが命を落とすのを目にしたに違いない。一人の老人(un vieillard)と若者たち(les jeunes)の対比には、そうした体験が反映されているのだろう。
だからこそ、彼は、戦場から遠く離れた場所で熱狂する人々の側ではなく、実際に戦い、失明した人々(aveugles de guerre)や、身近な人を失って喪に服す人々(ceux qui portent un deuil)の側に立って、戦争の現実を見つめるように求めているのだといえる。不幸であることの勇気(courage d’être malheureux)とは、戦争を栄光として眺めるのではなく、その犠牲を受ける側に身を置いて考えることでもある。
Savoir, comprendre, affirmer que le sacrifice du pauvre homme est beau ; mais se dire aussi, selon une inflexible rigueur, que le sacrifice n’est point libre ; que l’arrière pique l’avant de ses baïonnettes, comme au temps de l’inhumain Frédéric ; et encore avec moins de risque ; et que ce métier de serre-file à vingt kilomètres est laid. Songez à celui qui ordonne l’attaque et qui n’y va point le premier ; mais retenez la colère, qui est guerre encore ; dites seulement que cela ne peut pas être admiré. Soyez mesureur d’héroïsme.
一人の哀れな人間の犠牲は美しいことだと知り、理解し、肯定すること。しかし同時に、一切の妥協を許さない厳密さで、犠牲が自由意志によってなされるわけではないと、自分に言い聞かせること。後方にいる人間が、前方にいる人間を銃剣で突いて前進させるのだ。それは、非人道的なフリードリヒ大王の時代と同じであり、しかも、後方にいる者たちが負う危険はさらに少ない。そして、前線から20キロも離れたところで、隊列の最後尾を守るという仕事は醜い。攻撃を命じながら、自分は先頭に立ってそこへ行かない人間のことを考えてみてほしい。しかし、怒りをこらえてくれ。その怒りもまた戦争なのだ。ただ、そんなことは賞賛に値しない、と言うだけでよい。英雄主義を測る者であれ。
この一節で最も重要な点は、哀れな人間(pauvre homme)の犠牲(sacrifice)は美しいものだと認めるとしても、それが本人の自由意志によって選ばれたものではない、ということである。前の文章では、老人と若者との対比によって示されたことが、ここでは、前線(l’avant)で戦う者たちと後方(l’arrière)で命令する人間たちとの対比によって示される。後方にいる者たちが負う危険は皆無ではないにしても、前線で戦う者たちと比較すれば、はるかに少ない。
フランス語の表現に戻れば、後方(l’arrière)と前方(l’avant)という言葉は、ここではそれぞれの位置にいる人間たちを指している。つまり、抽象的な位置を表す言葉を通して、後方にいる者たちが、前方にいる者たちを銃剣で突いて前進させるという、具体的な光景が描かれているのである。
この節の最後では、前線と後方の不平等に対して怒りをぶつけることも、また戦争になってしまうという指摘がなされる。大切なのは、怒りを抑え、ただ「それは賞賛に値しない」と言うことである。つまり、アランが求めているのは、戦争を英雄的な行為だと称賛するのではなく、その実質を正しく測ることなのだ。
ここでアランは、一方では、戦争における兵士の犠牲を美しいものと認め、国のために命を落とすことの尊さを否定していない。しかし、他方では、その犠牲が本人の自由意志によって選ばれたものではないことを忘れたり、さらには、英雄主義の名のもとに利用したりすることを拒んでいる。つまり、単に戦争反対を掲げるのではなく、兵士たちの犠牲に敬意を払いながらも、それを美化することによって戦争を推進する姿勢に反対しているのである。
Et pour ceux qui se jettent en avant, ayant choisi d’être chefs, et payant de leur sang, soyez inflexibles encore en votre jugement. Dites qu’être chef absolu à vingt ans, servi à vingt ans comme un roi n’est pas servi, qu’être dieu à vingt ans pour une cinquantaine d’hommes, cela vaut bien que l’ambitieux accepte le risque. Que ce pouvoir asiatique a ses profits et ses triomphes tout de suite, bien avant l’épreuve mortelle ; et que l’espérance croît avec le grade ; ce qui fait que ceux qui choisissent cela, et s’en vantent souvent sans pudeur, ne se sacrifient point en cela, mais au contraire, à leurs passions ambitieuses sacrifient la foule des modestes qui ne veulent que vivre. Ici vous êtes spectateur ; et ces acteurs emphatiques dépendent de vous. Il n’est même pas nécessaire de siffler ; il suffit de ne pas applaudir. Dire Non.
そして、指導者になることを選択して、前線に身を投じ、自らの血を代償としている人々に対しても、あなたの判断を揺るぎないものにしなさい。次のように言うのです。20歳にして絶対的な指導者であり、20歳にして、王でさえ受けることのないような奉仕を受け、20歳にして、50人の男たちにとっての神であること。そうしたことがあれば、野心を抱く者が危険を受け入れるのも当然だろう、と。このアジア的な権力は、命を懸けた試練を受けるずっと前から、利益や勝利を次々に手にする。そして、希望は階級が上がるにつれて大きくなる。その結果、こうしたことを選択し、しばしばそれを何らの恥じらいもなく誇る人々は、そのために自らを犠牲にしているのではない。その反対に、自分たちの野心に満ちた情念のために、ただ生きることしか望まない多くの慎ましい人々を犠牲にするのだ。ここで、あなたは見物人である。そして、こうした大仰な演技をする者たちは、あなたに依存している。ブーイングする必要さえない。拍手をしないだけで十分なのだ。ノーと言うことだ。
この最後の節でアランは、20歳という年齢にとりわけこだわっている。その理由は、46歳の彼が入隊した部隊に20歳の上官がいたからなのかもしれないし、あるいは、単に若い士官を想定しているだけなのかもしれない。ただ、若くして絶対的な権力を持ち、軍隊での階級が上がるにつれて、野心や名誉欲も大きくなっていく軍人を思い描いていることは確かである。
そうした軍人は、自分たちの手柄を誇る。しかし、彼らは自らを犠牲にしているのではなく、自分たちの野心的な情念のために、指揮下で戦う兵士たちを犠牲にしているにすぎない。アランは、こうした権力を「アジア的な権力」と表現し、専制的な権力のあり方を批判している。
その際、犠牲になる人々について、あえて「ただ生きることだけを望んでいる慎ましい人々」(les modestes qui ne veulent que vivre)と強調している。これは、彼らの犠牲が決して自ら進んで選んだものではない(le sacrifice n’est point libre)という、前の節での指摘を思い起こさせる。
そして、こうした犠牲の上に立って自らの武勲を誇る人間たちを助長させているのは、それを賞賛する人々がいるからだという。だからこそ、ブーイングする(siffler)必要さえなく、拍手をしない(ne pas applaudir)だけでよいとする。

そして最後に、再び「ノーと言うこと」(dire non)と付け加え、冒頭の言葉に戻る。この循環構造により、読者は再び「Dire non, ce n’est point facile.」という言葉を目にし、「ノーと言うこと」が簡単ではないことを自覚する。そして、戦争の熱狂に巻き込まれることの危険を悟り、安易に見世物や雄弁に引きずられることなく、戦争を英雄的に描く報道を賞賛することも控えるようになる。
そして、熱狂する人々を模倣しないこと、沈黙すること、立ち去ること、拍手をしないこと。そうした態度を身につけることができたなら、アランの言葉を理解したことになる。