小林秀雄 「美を求める心」 1/3

黒白のポートレートで、スーツを着た男性が座っている。後ろには本棚があり、商談中のように見える。

小林秀雄の「美を求める心」は、小学生や中学生に向けて、「美」を感じる際の心得をやさしく語ったエッセーだと考えられている。

私が驚くのは、子供たちに絵画や和歌、詩を理解することだけでなく、そうした芸術の美を感じる方法についても語っていることだ。しかし、それと同時に、1957年(昭和32年)、つまり今から約70年前には、これほど硬質な文章でも子供たちに向けたものとして通用したという事実にも驚かされる。現在であれば、こうした文章は、高校生や大人の読者を対象としたものと考えられるだろう。それほど、文章を読み解く力の水準が低下しているのではないかと思ってしまう。

他方で、「美を求める心」で展開される小林の勧めが、知識を持たず、素直に芸術作品に向き合うといった、単なる体験主義として理解されてしまうのではないかという懸念も拭えない。「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」という、冒頭に出てくる言葉は、そうした反知性主義や経験第一主義といった誤解を招く余地を残している。

しかし、「何も考えずに」という言葉をそのまま受け取ってしまうとしたら、なぜ小林が「何を措(お)いても、見ることです。聴くことです」と、「見ること」や「聴くこと」をあれほど強調するのかが理解できなくなる。小林がこのエッセーで子供たちに伝えようとしているのは、まさに「見ること、聴くこと」の難しさなのだ。そして、その難しさを通して、「理解する」とはどういうことか、「感じる」とはどういうことかを考え、子供たちを「美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人」へと導こうとする。それが、彼の意図だったと考えられる。

ここでは、「美を求める心」を素読するようなつもりで、小林秀雄の言葉に触れていきたい。

近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖えてきた様子です。その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難かしくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。

極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何を措(お)いても、見ることです。聴くことです。そういうと、そんな事は解り切った話だ、と諸君は言うでしよう。処(ところ)が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、諸君は、恐らく、その事を、よくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。

次にピカソの絵の例が出てくる。そこでまずピカソの絵を何点か見ておこう。(参考:ピカソ 常に新しい絵画を求めた画家)

昔の絵は、見ればよく解るが、近頃の絵は、例えば、ビカソの絵を見ても、何が何やらさっぱり解らない、と諸君は、やはり言いたいでしょう。それなら私は、こう言います。諸君が、昔ふうの絵を見て解るというのは、そういう絵を、諸君の眼が見慣れているということでしょう。ピカソの絵が解らないというのは、それが見慣れぬ形をしているからでしょう。見慣れて来れば、諸君は、もう解らないなどとは言わなくなるでしょう。だから、眼を慣らすことが第一だというのです。頭を働かすより、眼を働かすことが大事だと言うのです。

見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そういうのは病気で、健康な眼や耳を持ってきえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易(やさ)しい事だ。頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。

野球選手がバットを持って座っているモノクロの写真。背景には他の選手が見える体育館のような環境。

次の一節では、プロ野球の往年の名選手、川上哲治(かわかみ・てつはる)が例に挙げられる。川上は現役時代、バッティングの調子がよいときには「ボールが止まって見える」と語ったことで知られ、「打撃の神様」と呼ばれていた。

小林は、当時であれば誰もが知っていた川上を例にとり、誰でも「見る」ことはできるが、川上のように「よく見る」ためには、人並みはずれた努力と技術が必要であることを、わかりやすく説明している。

例えば、野球の選手の眼には、諸君より、遥かによく球が見えているでしょう。或る人に聞いたが、川上選手は打撃の調子のいい時は、球が眼の前で止って見える、と人に語ったそうだ。私は、誇張ではないと思う。そんなふうに、球が見えて来るためには、眼を働かせる努力と練習とがどれほど必要であったかを考えてみるべきです。画家でも音楽家でも同じ事で、彼等は、色を見、音を聴く訓練と努力の結果、普通の人には殆(ほとん)ど信じられないほどの、色の微妙な調子を見分け、細かな音を聴き分けているに違いないのです。優れた絵や音楽は、そういう眼や耳を持った人の、色や音の組合せなのですから、ただぼんやりとしていれば、絵は自(おのずか)ら眼に写って来る、音楽は耳に聞えて来るというようなことはあり得ないのです。

続く一節では、私たちは何かを見るとき、たいてい何らかの目的を持っていることに気づかされる。例えば、時計を見るのは時間を知るためであって、時計そのものの形や色を見るためではない。ごく当たり前のことだが、言われてみなければ、なかなか気づかない。

私達が、普通、私達の生活の中で、どんな具合に眼を働かせているかを考えてみるとよい。特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、請(い)わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少いかにすぐ気が附くでしょう。例えば、時計を見るのは時間を知るためです。だから時計を見ても針だけしか見ない。林檎(りんご)は食べるもので、椅子は腰掛けるものだ。だから、林檎が、どんなに美しい色合いをしているか、つくづく眺めた事のある人は少い。毎日坐っている椅子が、どんな形をしているか、はっきりと見定めている人など殆どないでしょう。

金属製の洗練されたデザインのライター。

話は私事になるが、私は、ロンドンのダンヒルの店で、なんの特徴もないが、古風な、が何にも美しい形をしたライターを見附けて買って来た。書斎の机の上に置てあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける原でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もない。成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。詰らぬ話をするなどと言わないで下さい。諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程沢山なものが眼に見えて来るかに驚くでしょう。そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。

紫色の花が咲いている草の群れ

見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入(はい)って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言で置き換えて了(しま)うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗(かつ)て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上った花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名前が知りたくて見るのです。何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見駅きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません。

「諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする」から「花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう」までの一節は、「美を求める心」の中でも最も有名な箇所であり、しばしば引用される。他方で、その後に出てくる「花への愛情」という言葉は、あまり話題にされることがないように思われる。

しかし、小林にとって「美」と「愛情」は結びついている。愛するからこそ美が生まれる。そのことはぜひ意識しておきたい。

(2/3に続く)

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