
桃太郎の話を太宰治が語り直したら、どんな物語になるのだろうか。いつも弱々しく優柔不断な太宰の主人公が、どんな顔をして鬼ヶ島へ鬼退治に出かけるのだろう。たとえ出かけたとしても、そこでいったい何をするのだろう。そんなことを考えると、太宰の語る「桃太郎」を読んでみたくなる。
実は、太宰治は、太平洋戦争が終わりに近づいた昭和20年(1945年)3月から6月末にかけて、いくつかの昔話を自らの視点から語り直している。そして、その年の10月、『お伽草紙』という題名で出版した。

その「前書き」には、戦時中の空襲を背景に、子供を安心させるために絵本を読んで聞かせながら、胸中に独自の物語を思い描く父親の姿が描かれている。
実際、3月10日の東京大空襲のころ、太宰一家は三鷹に住んでいたが、同月末には妻子を甲府へ疎開させていた。その直後の4月2日未明、三鷹を含む武蔵野地域一帯が米軍の空襲を受け、三鷹に一人残っていた太宰も被災した。
「前書き」に描かれたのは、妻子がまだ三鷹に暮らしていたころのことなのだろうか。

「あ、鳴った。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕(ぼうくうごう)にはいる。既に、母は二歳の男の子を脊負って壕の奧にうずくまつている。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈(きゅうくつ)で。」
「そうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらいで、ちょうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危險がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでしょう。」
「うむ、まあ、そうだが、いまは土が凍って固くなっているから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀(したきりすずめ)、瘤取(こぶと)り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服裝もまづしく、容貌(ようぼう)も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間(ま)の拔けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が醞釀(うんじょう)せられているのである。(太宰治『お伽草子』)
そして、「瘤取り」、「浦島さん」、「カチカチ山」、「舌切雀」と四つの物語が、いかにも太宰らしい調子で書かれていく。しかし、「桃太郎」はない。どうしたのだろう?

戦争中、桃太郎はしばしば戦争の英雄として取り上げられてきた。明治時代に、古くから民間で語り継がれてきた昔話を子供向けの物語として整理し、近代児童文学の父と呼ばれる巌谷小波は、桃太郎を富士山と同様、日本が世界に誇るべき存在と捉え、「桃太郎もまた日本一として、理想的なお伽話」であると、『桃太郎主義の教育』(大正4年)の中で述べている。

昭和17年(1942年)に公開されたアニメーション映画「桃太郎の海鷲」も、戦前の桃太郎のイメージを知る上で参考になる。そこでは、鬼ヶ島征伐が、昭和16年(1941年)12月8日に大日本帝国海軍が行った真珠湾への奇襲攻撃と重ね合わされている。桃太郎は航空母艦の艦長として大編隊を率い、鬼ヶ島の軍港を攻撃して大きな戦果を挙げ、自軍に損害を出すことなく帰還する。そこには、製作を委託した海軍省の意向が色濃く反映されていたと考えられる。
このように、明治から昭和初期にかけて、桃太郎は日本男子の模範とされる存在になっていった。
ところで、太宰治には、真珠湾攻撃が行われた日を題材にした「十二月八日」という短編小説がある。ラジオ放送を通じて、「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースを聞いた作家の妻が、その日の出来事を綴る手記という形式をとった作品である。

しかし、そこには、戦意高揚につながるような意識はほとんど感じられない。「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」という意識はあるものの、夫の次のような言葉に象徴されるように、どこかとぼけた調子が漂っている。(参考:太宰治「十二月八日」 昭和16年 真珠湾攻撃当日の日記)
「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
私はがっかりした。主人は、どういうものだか地理の知識は皆無なのである。(・・・)
「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう。」
と私が言うと、
「そうか。」と不機嫌そうに言い、しばらく考えて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」
おっしゃる事みな変である。主人の愛国心は、どうも極端すぎる。先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹(かつお)の塩辛(しおから)ばかりは嘗(な)める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。(太宰治「十二月八日」)
「愛国心」という言葉は出てくるものの、こんな愛国心では、戦争の役に立ちそうもない。それどころか、日本の勝利を目指す軍部や、それを後押しする人々から反感を買いかねないだろう。ここには、真珠湾攻撃によってアメリカ側に大きな損害を与えたことへの高揚感は見られない。

夫よりもしっかりしているように見える妻にも、どこか共通する感覚がある。
夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。(太宰治「十二月八日」)
妻は、宣戦布告のニュースに感激しながら、しかし、それ以上に大切なのは、子供をお風呂に入れることなのだ。もしその子供が成長した時に、竹槍を持って上陸したアメリカ兵と戦うなどと想像したら、どんな反応になることだろう。
こうした戦争に対する姿勢を持つ太宰治の目に、「桃太郎の海鷲」はどのように映ったのだろうか。もし彼が映画館でこの映画を見ていたとしたら、頭の中ではどのような物語を組み立てていっただろうか。

「桃太郎の海鷲」には姉妹編があり、昭和20年(1945年)4月12日に「桃太郎 海の神兵」という題名で公開された。
今度は、南方での日本海軍の奇襲作戦を題材に、鬼のだまし討ちによって征服された「鬼ヶ島」を、桃太郎隊長に率いられた猿、犬、熊などの落下傘部隊が解放するという物語だった。この映画も海軍省の委託によって製作された国策映画であり、日本が欧米の支配下にある東南アジアを解放し、天皇の下に一つの世界を築くという「八紘一宇(はっこう いちう)」の思想を背景としていた。
この映画の公開時期が、『お伽草子』の執筆時期と重なっていることは興味深い。太宰治が思い描いた桃太郎の物語に、何らかの影響を与えたと考えることはできないだろうか。
太宰は「舌切雀」の冒頭で、桃太郎を自分の物語として書き直そうとしながら、最後には断念した理由を述べている。そこで語られる桃太郎像は、戦時下の国策映画に描かれた桃太郎とも、どこかで対応しているように思われる。

桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のやうになつていて、物語というよりは詩や歌の趣(おもむ)きさへ呈している。もちろん私も当初に於いては、この桃太郎をも、私の物語に鋳造(ちゅうぞう)し直すつもりでいた。すなはち私は、あの鬼ヶ島の鬼といふものに、或る種の憎むべき性格を付与してやらうと思つていた。どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであった。それに依(よ)って桃太郎の鬼征伐も大いに読者諸君の共鳴を呼び起し、而(しこう)してその戰鬪も読む者の手に汗を握らせるほどの真に危機一髮のものたらしめようとたくらんでいた。(未だ書かぬ自分の作品の計画を語る場合に於いては、作者はたいていこのやうにあどけない法螺(ほら)を吹くものである。そんなに、うまくは行きませぬて。)(太宰治『お伽草子』)
桃太郎は「日本男児の象徴」、つまり、強くて勇敢な正義の味方として認識されている。それは、日本一の黍団子を携え、日本を代表する主人公でもある。そして、そうしたキャラクターを前提とするなら、敵である鬼も、桃太郎に匹敵するほどの悪の権化でなければ、戦いの物語は面白くならない。太宰は、桃太郎の物語を書き直すに当たって、鬼を極悪非道な存在として描くつもりだったという。

その背景には、よく知られた物語では桃太郎があまりにも強く、鬼ヶ島の鬼たちがあっけなく敗れてしまうため、戦いに迫力がないという思いがあったのだろう。たとえば、髪の毛が無数の蛇で、一目見るだけで誰もが恐怖に凍りついてしまうギリシア神話のメデューサのような存在が鬼だったら、ハラハラドキドキする戦いの物語になるかもしれない。
しかし、太宰の目には、日本の化け物はそれほど凶悪な存在とは映らず、むしろ愛嬌さえ感じられるものだった。そのため、桃太郎が強すぎると、「読者はかへって鬼のほうを気の毒に思ったりなどして、その物語に危機一髮の醍醐味は湧いて出ない」というのである。だからこそ、太宰は鬼を桃太郎に匹敵するほどの強者にして、「戰鬪も読む者の手に汗を握らせるほどの真に危機一髮のものたらしめようとたくらんでいた」のだと言う。

しかし、彼の気質は、強者よりも弱者の側に立って物語を描くことに向いていた。そのことは、体が弱かったこととも関連しているだろう。昭和16年(1941年)11月、太宰は、政府が指定する業務への就業を命じる「徴用」に関する通知を受け、区役所で身体検査を受けた。しかし、肺疾患を理由に不合格となり、徴用を免れた。こうした事情もあったのだろうか。太宰は、自分は弱者であるために強者の心理がわからず、強い桃太郎を描くことはできそうもないと、いささか自虐的に語っている。
弁慶にも泣きどころがあったというし、とにかく、完璧(かんぺき)の絶対の強者は、どうも物語には向かない。それに私は、自身が非力のせいか、弱者の心理にはいささか通じているつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知っていない。殊にも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いま迄いちども逢った事が無いし、また噂にさへ聞いた事が無い。私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。それで、この桃太郎物語を書くに当たっても、そんな見た事も無い絶対不敗の豪傑を登場させるのは何としても不可能なのである。(太宰治『お伽草子』)
では、弱者の心理ならわかるという太宰が桃太郎を語るとしたら、どんな物語になったのだろうか。

やはり、私の桃太郎は、小さい時から泣虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さっぱり駄目な男だったのだが、人の心情を破壊し、永遠の絶望と戦慄(せんりつ)と怨嗟(おんさ)の地獄にたたき込む悪辣(あくらつ)無類にして醜怪の妖鬼(ようき)たちに接して、われ非力なりと雖(いえど)もいまは黙視し得ずと敢然立つて、黍團子(きびだんご)を腰に、かの妖鬼たちの巣窟(そうくつ)に向つて発足する、とでもいうやうな事になりそうである。(太宰治『お伽草子』)
生まれながらの弱虫だった桃太郎が、鬼たちの悪事を見かねて、恐る恐る鬼ヶ島へ向かう。そんな物語であれば、太宰の得意とするところだったのではないだろうか。それまで誰も書いたことのないような、太宰らしい桃太郎が生まれていたに違いない。そう考えると、実際に書かれることのなかった太宰版「桃太郎」が、どんなに面白い物語になっていたことだろうと思わずにはいられない。
しかし、太宰はその試みを断念してしまった。その理由は、次のようなものだった。
いやしくも桃太郎は、日本一といふ旗を持っている男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思ひ浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」の計画を放棄したのである。(太宰治『お伽草子』)
このように、太宰は「日本一」という桃太郎のイメージを前にして、その物語を書き直すことを断念した。しかし、そこにはもう一つの可能性も考えられる。当時は、海軍の委託によって製作された国策映画に象徴されるように、桃太郎が国家的な英雄として描かれていた時代である。そうした時代に、弱々しく優柔不断な桃太郎を主人公にした物語を書けば、国策的な英雄像を損なうものと受け取られ、発禁などの処分を受ける可能性もあった。太宰がそうした事態を予想し、用心したという可能性はないだろうか。
戦時下においても、政府や軍部の方針に必ずしも賛同せず、日常生活の不便さに不満を抱く人々がいたことは確かである。例えば、太宰治が昭和19年(1944年)に刊行した短編集『佳日』の書評には、次のような言葉が見られる。
戦意の昂揚が必ずしも不平不満を絶滅させていないこんな厳しい世相であるだけに、この作者(注:太宰治)の持つ笑ひはいまの大方の読者にすすめたいものがある。苦しみを突き抜けて来た作者の掴み得たユーモアは世の万歳芸とは凡そ撰を異にしたたのしみとなぐさみを与へてくれる。(『日本図書新聞』昭和19年11月)
ここで言及される庶民が日常生活の中で漏らす不平不満が、必ずしも戦争反対につながるわけではない。しかし、戦争の継続が国家の滅亡を招くことを危惧し、これ以上の犠牲を避けるために戦争を中止すべきだと考える人々もいた。

昭和20年(1945年)の初頭には、日本の敗戦を予見し、戦争の継続に疑問を抱いていた人々もいた。その一人が、映画監督の伊丹万作である。伊丹は、「おそらく四月には敵は本土上陸を断行する」という見通しを示し、戦争を終結させるべきだと訴える一文を残している。
こんな見込みの立たない愚劣な戦争は一日も早くやめてもらいたい。我々の忠勇の血をこれ以上無意味に浪費することをやめてもらいたい。我々の血は皇国の繁栄のためにのみ流さるべきである。現在のままでは国民の血が流れれば流れるほど国は滅亡に近づいて行くではないか。そしてもはや流すべき一滴の血もなくなったとき、光栄ある日本は地球上から消えてなくなるだろう。(伊丹万作「戦争中止を望む」)
この文章は、伊丹万作が国の行く末を憂い、戦争の継続は日本そのものの滅亡につながると考えていたことを示している。愛国心を否定するのではなく、むしろ国を守るためにこそ戦争を終結させるべきだと訴えているのである。そこには、戦争に勝利する見込みがない以上、敗北を認めることになったとしても、これ以上の犠牲を避けるべきだという切迫した認識が表れている。
しかし、当時の日本では、戦争批判や終戦を求める主張を公然と表明することは、厳しい検閲や弾圧を招きかねなかった。「戦争中止を望む」も戦時中には公表されず、昭和21年(1946年)9月に伊丹が46歳で亡くなった後、遺稿として残された文章が公表されることになった。

太宰の「桃太郎」もまた、物語として書き上げられ、読者の目に触れることはなかった。もちろん、太宰が検閲を恐れて再話を断念したという証拠はない。しかし、その不在を、太平洋戦争中に桃太郎が担わされた軍国主義的なイメージと結びつけて考えることはできるだろう。太宰は、桃太郎というキャラクターだけでなく、そのイメージに託された時代の思想に対しても、一定の距離を保っていたのではないだろうか。
太宰は自らを「日本男児の象徴」と同一化することができなかったし、そうしたいとも思わなかったのではないだろうか。桃太郎の再話を断念したという事実から、そんな太宰の姿勢を読み取ることができるように思われる。

もしも太宰治が語り直した「桃太郎」を読めたとしたら、どんなに楽しいだろうか。そんな思いで、このお伽噺を読んでみてほしい。
わたしは、子供の頃から、どうも人並みのことができなかった。
木に登れば落ち、川を渡れば流され、犬に吠えられれば泣いた。祖父は、男の子は泣くものではないと言ったが、泣くなと言われて泣かずにいられるほど、わたしは強い子供ではなかった。
それでも、桃から生まれたというだけで、桃太郎と呼ばれた。人々は、桃から生まれた男の子ならば、さぞかし立派な男になるに違いないと思っていたらしい。わたしは、桃というものが、世間でそれほど信用されているとは知らなかった。
鬼ヶ島の鬼たちが、村々を荒らしているという話を聞いたのは、ある雨の日だった。村人たちは口々に鬼の残虐を語り、鬼を退治する者の現れるのを待っていた。その話を聞いて鬼が怖かった。鬼が怖いのは、別に不思議なことではない。しかし、鬼が怖いという自分の気持ちを村人たちに知られることが、鬼そのものよりももっと怖かった。
しかし、とうとう鬼ヶ島へ行くことにした。
なぜ行く気になったのか、今でもよくわからない。ただ、鬼にさらわれたという老人の話を聞いているうちに、その老人が、話の途中で何度も咳をして、最後には何も言わなくなった。その沈黙が、どうにも気になった。鬼を退治しようという勇ましい考えがあったわけではない。ただ、あの老人が黙ってしまったことを、いつまでも忘れられなかった。
犬と猿と雉が、わたしのお供をした。犬は、鬼を噛み殺してやると言った。猿は、鬼の頭を叩き割ってやると言った。雉は、空から鬼どもの様子を見張ると言った。三匹とも、わたしよりもずっと頼もしかった。
わたしは黍団子を分けてやった。すると三匹は、わたしを立派な大将だと思ったらしい。そこで、その誤解を訂正しようとしたが、言い出せなかった。人から立派だと思われることは、立派でない人間にとって、時にはたいへん苦しいものである。
鬼ヶ島へ着くと、鬼たちは、思っていたほど恐ろしい顔をしていなかった。もちろん、角があり、牙があり、身体も大きかったが、顔のつくりというものは、案外、恐ろしさとは関係がないらしい。門のそばにいた鬼は、わたしたちを見ると、うんざりした顔をした。
「また、退治に来たのか。」
鬼はそう言った。
わたしは、返事ができなかった。
鬼は、人間たちが自分たちを恐れていることを知っていた。そして、人間たちが鬼を恐れていることを、鬼たちもまた恐れていた。鬼は、恐れられることによって、自分が恐ろしいものであることを、証明しなければならなかったのだ。
しかし、鬼たちは実際に人間を傷つけていた。牢屋には村人たちが閉じ込められ、奪った品物が山のように積まれていた。鬼の事情がどれほど複雑であろうと、牢屋の中の人たちが苦しんでいることに変わりはない。
わたしは、どうしたらいいのかわからなかった。
しかし、犬は吠え、猿は飛びかかり、雉は鬼の目をつついた。戦いが始まった。わたしも刀を抜いたが、刀を持つ手が震えて、どうにもならなかった。鬼がひとり、わたしの前に立った。とても大きくて、わたしをひと振りで殺すことができそうだった。
「おまえは、何をしに来た」
鬼が尋ねた。
わたしは、鬼を退治しに来たのだ、と答えるべきだった。しかし、そんなことを言うと、自分がこの鬼と同じくらい立派な者になってしまうような気がした。
「ここにいる人たちを、帰してください」
わたしは、やっとそう言った。
鬼は笑わなかった。わたしの言葉を聞いて、しばらく黙っていた。それから、小さな声で、そんなことをしたら、自分たちはどこへ行けばよいのだ、と言った。
わたしは、その問いに答えることができなかった。
戦いは、やがて終わった。鬼たちは降参し、囚われていた人たちは村へ帰った。犬も猿も雉も、わたしを勇者だと言った。村人たちは、わたしを日本一の桃太郎と呼んだ。
そう呼ばれるたびに、わたしは鬼の言ったことを思い出した。恐れられることによって、自分が恐ろしいものであることを証明しなければならない、という言葉だ。
鬼たちがどこへ行ったのか、わたしは知らない。鬼ヶ島に残った者もあれば、どこかへ逃げた者もあったらしい。村人たちは、もう鬼のことを話さなくなった。人々は、恐ろしいものがなくなると、恐ろしいものがあったことまで忘れてしまうのである。
わたしは、今でも犬が怖い。高いところも怖いし、暗いところも怖い。人々がわたしを日本男児の手本と呼ぶたびに、何か大きな間違いをしているのではないかと思う。
こんな「桃太郎」が昭和20年の敗戦直前に公表されていたとしたら、人々はどんな反応を示しただろうか。「日本一といふ旗」を掲げることを疑い、勝利の後にも答えの出ない問いを抱える主人公は、時代が求める英雄像にそぐわないものと見なされたかもしれない。人々は、こんな桃太郎に失望するだけでなく、憤慨したかもしれない。その一方で、密かに納得する少数の人間が存在した可能性もある。
こうした反応を想像することによって、私たちは、太宰が「桃太郎」を再話しなかった時代の空気を読み取ることができるし、その時代を生きた太宰治という作家の思考を辿ることもできるだろう。