桃太郎と軍国主義 巌谷小波「桃太郎主義の教育」

猿、犬、そして鳥と一緒に旗を持つ少年のイラスト。旗には「日本一」と書かれている。

童話や昔話、童謡について、私たちはふつう、とくに何かを考えることなく、そのまま受け入れている。例えば、「桃太郎」であれば、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」「どんぶらこっこ」といったフレーズが自然に頭に浮かぶ。また、記憶を探らなくても、「桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた 黍団子 一つわたしに 下さいな」といった歌詞を口ずさむことができる。いつ、誰に教えられたのかは覚えていないけれど、いつの間にか身についていて、物語や歌詞の意味を改めて考えることもない。

だからこそ、戦前には「桃太郎」が軍国主義を推進するために利用されていたと聞くと、驚いてしまう。その驚きの理由は、改めて唱歌を聴いてみると、歌詞の後半から受ける印象を通して理解できるに違いない。

とりわけ4番と5番の歌詞は、現在の感覚からすると、暴力的だと感じられるかもしれない。

4. そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島
5. おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物を えんやらや

しかし、明治44年(1911年)に「尋常小学唱歌」の一つとして歌われ始めたということは、少なくとも当時、こうした歌詞が、子供たちに教えることのできるものとして受け入れられていたことを意味する。また、私たちが小さい頃にこの歌を歌ったときにも、桃太郎の鬼ヶ島征伐を悪いことだと考えることはなかったに違いない。

「桃太郎」だけではなく、日本五大昔話に数えられる「かちかち山」「猿蟹合戦」「舌切り雀」「花咲か爺」にしても、残酷な場面を含んでいる。それでも、子供向けの無邪気で罪のない話として、今でもごく普通に語り継がれている。また、鬼ヶ島で鬼を退治する桃太郎が、とりわけ暴力的な主人公だと考えられているわけでもない。こうした物語では、主人公は最初から「いい者」と決まっていて、最後には「悪者」をやっつける。その展開が痛快に感じられるだけなのだ。

桃太郎の場合、鬼を退治して手に入れた宝物は、故郷で待っているお爺さんやお婆さんへのお土産になるし、家来である犬、猿、雉にも分け与えられる。しかも、一般的に、鬼は角や牙のある恐ろしい姿をしており、人間に害を及ぼす悪として描かれてきた。だからこそ、鬼退治は初めから善いことだという前提が成り立つ。子供たちが、鬼たちを攻め、分捕物を運ぶ様子を、「おもしろい、おもしろい」とはやして、大喜びする場面として受け止めるのも無理はない。そして、そうした受け止め方がごく自然な感覚になっていたとしても、不思議ではない。


小学校教科用書の表紙。明治20年5月、文部省編纂局の印刷。ピンクの背景に黒い文字。

そのことを示す一例として、明治20年(1887年)に発行された『尋常小学校読本』に「桃太郎」が採用されていることが挙げられる。

この読本は、明治5年(1872年)に、すべての国民に教育を行き渡らせることを目指す「国民皆学」の方針が打ち出され、その後、明治19年(1886年)に教科書の検定制度が定められた時代に出版されたものである。

「桃太郎」が学校教育の教材として採用されたことは、この物語が公教育の場で認められ、子供たちに教えられるものとなっていたことを示している。今から約140年前の小学校で、どのような日本語が使われていたのかを知ることも、大変興味深い。そこで、実際に全文を読んでみることにしよう。

池のほとりで作業をしている農民のイラスト。その横には、収穫した作物を運ぶための草履を履いた人物の円形のイラストが描かれている。

第二十六課
 むかし、ぢゞ と ばゞ と が 有りました。ぢゞ  は、山 へ くさかり に、ばゞは、川 へ せんたく に 行きまし~た。
 川上 から、大き な 桃 が 一つ、ながれて 來ました。それ を 取りて見ます と、大さう うまさう な 桃でありました  故、ぢゞ  と ふたりで、たべやう とて、家 に 持ちかへりました。
 ぢゞ  が、山 から かへります と、ばゞは、直に 桃 を 出しました。そしてふたり が たべやうと 思ふて 居る と、桃 は、二つ にわれて、中 から、かはらしい をとこの 子 が うまれました。
 二 人 は 喜んで、其子 を 取りあげ、ゆ を つかはせます と、其子 は、たらひ を たかく さしあげて、投げ出した 力 に、二 人 は おどろきました。
 此 子 は、桃 の 中 から うまれた故 に、桃太郎 と 名 を 付けました。

座っている人物と2匹の犬が描かれた昔のイラスト。

第二十七課
 桃太郎 は、だん~ 大きく なりて、まこと に つよく なりました。ある日、ぢゞ ばゞ に 向(むこ)うて、「私 は、鬼がしま へ、たから物 を 取り に行きたい」 と いひました。
 二 人 は 喜んで、朝 早く 起き、べんたう に、きびだんご を こしらへてやりました。
 桃太郎 は、其だんど を こしにつけて、家 を 出立し、山 をこえて ゆきました。
 少し行く と、川の むかふ から、犬 が 來て、「あなたは、どこ へ お出なさります か。又おこしに 付けた の は、何 でござります。」
「われ は、鬼がしま へ 行く ので、こしに 付けた 物 は、日本 一 のきびだんご だ」
「一つ 下され、お供 いたしませう。」
 桃太郎 は、だんご を やり、犬 を供 に つれましした。次 に 猿 がまゐり、其 次 に 雉 が 來て、犬と おなじ やう に、供 を ねがひ、だんご を もらひました。

戦闘シーンを描いた古い版画。中央には戦う武士と倒れた鬼が描かれている。背景には他の戦士たちが見える。

第二十八課
 桃太郎 は、犬 猿 雉 を 供 に つれ、鬼がしま へ わたりて 見る と、鬼は、門 を 閉ぢて 入れませぬ。それ故、雉 は、一ばんさき に、門 のやね を とびこえ、次 に 猿 は、へい を のりこえて、内 から 門を 開きました。
 そこで、桃太郎 は、犬 と 一しょに、門 の 内 に おし入り、多くの 鬼 と たたかひ、つひ に おくまで 攻めこみました。其 時、大しよう の あかんどうじ は、太いてつのぼう を持ちて、桃太郎に 打ちかかるを、桃太郎 は、受けながして、くみうち を はじめ、つひ に あかんどうじ を しばりあげて しまひました。
 鬼ども は おそれて、かうさん をねがひ、かくれみの、かくれがさ、打出 の 小づち、さんごしゆ (注:珊瑚と真珠)などの、たから物 を 出しました。桃太郎は、それ を 車 に つませ、「これは、たれの 手車、桃太郎 どの の 手車」 と はやさせ ながら、ぢゞばゞへ の みやげ に 持ちかへり、犬 猿 雉 に も 分けて やりました。             

日本で最初の本格的な言文一致体小説とされる二葉亭四迷の『浮雲』が刊行されたのも、この『尋常小学校読本』と同じ明治20年(1887年)だった。そのことを考えると、小学校の教科書で上のような日本語が使われていたことにも納得がいく。しかし、それにしても、現代の私たちの視点から見ると、小学生向けの教材に、ずいぶんと難しい言葉が使われていたことに驚かされる。

物語自体は、現在私たちが知っているものと、展開にほとんど違いがない。実は、江戸時代までは、さまざまな展開があり、例えば、お爺さんとお婆さんが桃を食べて若返り、その結果、二人の間に子供が生まれるという「回春型」のエピソードもあった。そうした違いを考えると、学校教育で広く用いられる読本に採用されたことが、物語の標準化を促したと考えることもできる。読本版の「桃太郎」は、文部省の認めた教材として、広く子供たちに教えられることになったのである。

そして、最初に触れたように、この物語について、とりわけ問題にする必要はないようにも思われる。ただし、福沢諭吉のように、「宝は鬼の大事にして、しまいおきしものにて、宝の主は鬼なり。主ある宝をわけもなく取りにゆくとは、桃太郎は盗人とも言うべき悪ものなり」(『ひゞのをしへ』明治4年)と考える人もいた。しかし、彼のような見方をする人は、ごく少数だったのではないだろうか。大多数の人々にとって、桃太郎は悪者を征伐する正義の味方なのだ。


明治20年代の日本では、江戸時代後期に欧米列強によって結ばされた不平等条約の改正が失敗するなど、明治維新以来の文明開化運動、つまり西洋化の動きに対する反発が起こり、日本本来の伝統を見直そうという気運が高まりつつあった。

日本の伝説を描いた浮世絵スタイルのイラストで、登場人物たちが衣装を着ている。

そうした中で立ち上がった一人が、巌谷小波(いわや さざなみ)だった。彼は、古くから日本に伝わる物語を取り上げ、一定の様式で書き直すことで、標準的な形にまとめ、記録することを試みた。その成果が、明治27年(1894年)に刊行が始まった「日本昔噺」と題する全24巻の叢書であり、その最初の巻に収められたのが「桃太郎」だった。

巌谷版「桃太郎」の大筋は、『尋常小学校読本』に従っており、物語の標準化が文部省の方針に沿うものであったことがうかがえる。その一方で、明治27年という時代背景を色濃く反映した作品にもなっている。つまり、その年に日清戦争が始まり、日本がその後の日露戦争、日中戦争、太平洋戦争へと突入していく時代が始まったのである。

桃太郎が桃から生まれてくる場面を読むと、桃太郎は、日本神話でアマテラスの命を受けて地上に降りたニニギのようにも感じられる。

嬰児(あかんぼ)はしづかに出て来て、「イヤ驚くまい〜〜、私は決して怪しい者ではない。実は天の神様から、御命(おほせ)を蒙(こうむ)って降(くだ)ったもので、其方(そなた)衆二人が此年頃 子供が無いと嘆いて居(い)るのを、神様にも不憫に思召し、則(すなは)ち私を授けるから、我が子にして育てろとおっしゃるのだ。」と陳(の)べました。(巌谷小波『桃太郎』)

鬼ヶ島征伐の理由については、桃太郎は次のように正当化する。

日本の東北(うしとら)の方(かた)を遥(はる)かに隔てたところに、鬼の住む島が御座(ござ)います。其(その)鬼共(ども)此のの日本(につぽん)の国に寇(あだ)を為し、人を捕り喰(くら)い、宝物を奪い取る、世にも憎くき奴で御座(ござ)りますから、私、只今から出陣致(いた)し、彼奴等(きやつら)を一挫(ひとひしぎ)に取って抑え、寶(たから)を残らず奪い取って帰って来ようと思ひます。」と云いました。(巌谷小波『桃太郎』)

家来にする犬と出会う場面では、日本が天皇を戴く神の国であるという意識が全面的に表現されている。桃太郎は、自分に襲いかかろうとした犬に対して、こんな言葉を投げかけるのだ。

桃太郎は冷笑(あざわら)ひ、「何をぬかす野良犬奴(め)!  吾こそは此度(このたび)皇国(みくに)の為(た)めに、鬼が島を征伐に参る、桃太郎と申す者だ。邪魔立て致さば用捨はない、己(おのれ)こそ頭から真二つに切り捨ててるぞ。」と反対(あべこべ)に叱りつけました。(巌谷小波『桃太郎』)

鬼鬼ヶ島に乗り込み、攻撃を開始する際には、まずキジが名乗りを上げる。

雉子は大将の命を受けて、急いで飛んで参りましたが、やがて鬼が島の真ん中の、城の屋根に降り立ちまして、羽ばたきを一ツしながら「やアやア此(この)島のうちに住居(すまい)する鬼共(ども)確かに承(うけたま)はれ、只今此処(このところ)へ天(あま)つ神の御使(みつかい)、大日本の桃太郎将軍、征伐の為(た)めにお出向(でむか)ひに成ったぞ。命が惜しくば速(すみや)かに角を折り、寶(かたら)を捧げて降参しろ。(・・・)」(巌谷小波『桃太郎』)

このような文章が、子供向けとされた「日本昔噺」叢書に用いられていた文体だったことにも、時代の隔たりを感じる。それと同時に、桃太郎を神の使いであり、大日本の将軍とみなし、鬼ヶ島征伐を「皇国のため」とする内容には、どうしても、朝鮮半島の権益をめぐる争いだった日清戦争の影を読み取らざるをえない。

そして、ここでとりわけ強調したいのは、時代の違いということである。

現在の私たちの感覚からすれば、こうした内容は明らかに軍国主義的であり、唱歌「桃太郎」の4番や5番の歌詞で感じたのと同じ暴力性を、大人である私たちは感じ取るだろう。しかし、当時の読者たちにとって、この文章はあくまで子供向けの物語だった。「日本昔噺」叢書はベストセラーとなり、巌谷小波が近代児童文学の生みの親という評価を受けてきたことも、間違いのない事実である。

巌谷版「桃太郎」を現在の視点から判断するのは、時代錯誤的な考察にすぎない。そうした読み方をするのではなく、この物語がごく自然に受け入れられていた時代のあり方を理解することが大切なのだ。その意味で、ここで問い直したいのは、巌谷小波自身に、桃太郎と軍国主義を結びつける意識があったのか、という問題である。


この問題を考えるにあたっても、時代錯誤を避けなければならない。というのも、現在の私たちの考え方では、戦争反対を主張することが正義であり、軍事力に訴えることに賛同する思想は糾弾すべきものだと、何の疑いもなく見なされるからである。しかし、日清戦争から日露戦争、そして日中戦争へと向かう時代にあっては、戦争反対を主張することが必ずしも正義と見なされたわけではなく、また、それを主張することも容易ではなかった。

群衆が集まり、スピーチを聞いている場面

そのことは、明治38年(1905年)に終結した日露戦争の直後に起こった「日比谷焼打事件」を思い起こせばよい。政府は戦争を終結させるためにポーツマス条約を結ぼうとしたが、講和条約への反対と戦争継続を唱える集会が各地で開かれた。そして、9月5日には、東京の日比谷公園でも講和条約に反対する民衆と警官隊との衝突が起こり、警察署やロシア関係の施設であるニコライ堂、駐日アメリカ公使館などが襲撃される事件へと発展した。

この暴動は、一般の民衆は戦争に反対していたとか、軍部が流す偽りの情報によって欺かれていたといった説明が、後世の視点からなされたものであることを考えさせる。戦時下にあっては、政府や軍部、新聞と同様に、一般の民衆のなかにも、より多くの利権や賠償金を獲得できるのであれば、戦争の継続に前向きな人々が多数存在しても不思議ではない。戦時において誰もが戦争反対を主張するわけではないし、むしろ多数派は戦争推進に傾いている可能性もある。

このような前提に立てば、たとえ巌谷版「桃太郎」が軍国主義的な内容を含んでいたとしても、当時、それが必ずしも非難すべきものと見なされていたわけではないことが理解できるだろう。

では、戦争の時代にあって、巌谷小波は、桃太郎を神の子であり、軍隊の将軍であると描くことで、軍国主義的な役割を担わせようとする意図を持っていたのだろうか。

桃太郎の教育に関する書籍の表紙デザイン。背景は緑色で、白い植物のイラストが描かれ、左側には赤い文字でタイトルが書かれている。

彼は、大正4年(1915年)に出版した『桃太郎主義の教育』の中で、「僕は何も桃太郎の様に、何でも外国を征伐しろと、冒険的思想を奨励したいのではない」と明言している。

日本の伝統的な絵画スタイルの梨のイラストと書かれた文字が描かれた古いページ

また、昭和6年(1931年)に同書に手を加え、『桃太郎主義教育新論』として出版した際には、「この最良の童話を、軍国主義の嫌いがあるの、侵掠主義の傾きがあるの、はなはだしきに至っては、資本主義の臭いがあるのと、国民教育上異端視するものがある。これわが桃太郎を誣(し)いるもはなはだしい」という一節を加筆した。

この二つの記述は、桃太郎主義と軍国主義を直接的に結びつけることが、巌谷小波の意図ではなかったことを示している。つまり、彼自身の意識の中では、桃太郎を語り直すことは、戦意高揚のためのプロパガンダではなかったのである。

では、彼はどのような理由から、「富士が日本一として理想的な山容を備えている如く、桃太郎も亦(また)日本一として、理想的なお伽噺」(『桃太郎主義の教育』)と考えたのだろうか。

スーツを着てメダルをつけた男性のポートレート

その理由も、彼の著作を読むと明らかになる。巌谷によれば、日本の昔話は、慈悲、正直、孝行などを説く一方、「する」よりも「してはいけない」という消極的な教えが多い。つまり、抑制的であることを美徳として伝え、一人ひとりの能力を顧みず、画一的な方向へと導く傾向がある。

それに対して、「桃太郎」は外向きで発展的であり、積極的に前に進むことを教える。そして、彼はその原動力を、登場人物たちすべてに共通する「正直さ」に見いだした。

見たまえ!あの婆さんが桃を見て、すぐに之(これ)を拾おうとした。これ自分の欲望を、正直に発露されたものだ。まだ主(ぬし)の有無も知れないものを、ただちに自分の有(いう)にするなぞとは、はなはだ不正直な事だと云う様な、尻(けつ)の穴の狭い議論は、僕は頭から相手にせぬ。(・・・)
桃太郎は大きくなった。そして鬼ヶ島征伐を思ひ立った。思い立つとすぐ許(ゆるし)を求めた。若(も)しや止められやしないかとか、後で心配をかけるだろうかなぞと、少しも逡巡(ためら)うところはない。思ったらすぐ云い出した。これ等も正直者でなくては決してできる事ではない。蓋(けだ)しこうした正直は、爺さん婆さんの感化でもある。
やがて桃太郎は出陣した。すると犬、猿、雉子の三者が、代わる代わる来て、黍団子を所望した。図々しいと云えば云うものの、欲しいと思ったから所望(しょもう)した、其処(そこ)が無邪気な正直さである。(・・・)   かくて桃太郎は、首尾よく鬼ヶ島を切り従え、その宝物を取って凱旋したが、こうして初めての目的を貫徹し、最後の勝利を得ると云うのも、皆意思を有りの儘に発表した、その正直の賜物ではないか。 (巌谷小波『桃太郎主義の教育』)

明治維新以降、新生日本が欧米列強の一角を占め、それらの国々と対等に渡り合っていくためには、控えめで謙虚な姿勢だけではやっていけないと考えることは、当時として自然なことだったに違いない。

この時代、日本は第一次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わり、1915年には、中国の袁世凱政府に対して「二十一カ条の要求」を突きつけた。その中には、日本が中国におけるドイツの権益を継承することや、満州・内モンゴルにおける日本人の土地租借権や土地所有権を認めることなどが含まれていた。

そうした時代だからこそ、巌谷小波は、本来の日本的精神とは、遠慮や慎みではなく、自分の欲望を率直に認め、それを実現する「発展性」にあると主張したのではないだろうか。

元来(がんらい)日本の国民性は、発展性のものであった。進取的のものであった。それが儒教仏教を経(注;たていと)とし、封建制度と武士道とを緯(注:よこいと)とした、姑息(こそく)な古布に包まれ、その本来の活力を束縛されたのが、ここ五十年前(ぜん)までの有様であった。然(しか)し今はその上包みは、全く除かれた時代である。若(も)し幾分でも残って居(い)るなら、速(すみや)かに破り去るべき時代である。そして真の国民性を遺憾なく発揮した、活力ある新日本を造らねばならぬ。そしてその未来の国民を教育するには、この桃太郎なるお伽噺(とぎばなし)が、最も適当な教材である事を、僕は幾度も繰り返して憚(はばか)らず、そして家庭にも、学校にも、飽(あ)くまで之(これ)を推薦したい。(巌谷小波『桃太郎主義の教育』)

この一節が主張しているのは、軍事力によって敵を制圧することそのものではなく、「活力ある新日本」を築くために、桃太郎たちのような「正直さ」を通じて日本人本来の活力を引き出し、困難な時代に立ち向かい、勝ち抜く必要があるという思想にほかならない。受け身の姿勢でいたら、日本は列強に取り残され、いつか支配されてしまう危険がある。だからこそ、自分たちから前に進み、最後の勝利を得る必要がある。そうした考え方は、当時の国民の間でも広く受け入れられたに違いない。

ここで私が注目したいのは、巌谷小波自身の意識の中に軍国主義や侵略主義がなかったとしても、「真の国民性を遺憾なく発揮した、活力ある新日本を造らねばならぬ」という思想が、戦争の時代にあって列強と伍していくためには、軍事力を伴うものとなり、政府や軍部が推進する政策と合致し得たということである。それは巌谷自身が意識していたものではなく、むしろ「時代の空気」だったと言ってもよいだろう。

その空気は、その時代には無色透明であるかのように見え、ほとんどの人はその色に気づかない。しかし、時代が変わり、別の色の時代になると、以前の時代の空気の色がはっきりと感じられるようになる。現在の私たちから見ると、巌谷版「桃太郎」は軍事色の強い作品に感じられる。しかし、当時、その中に軍事的なプロパガンダを読み取る人々は少数派だったに違いない。だからこそ、子供向けのお伽話として人気を博したのだった。


巌谷小波とは異なり、意図的に桃太郎を戦争のプロパガンダに利用することもあった。

昭和18年(1943年)に公開されたアニメーション『桃太郎の海鷲』は、政府の命令によって制作された国策映画であり、真珠湾攻撃と鬼ヶ島での鬼征伐を重ね合わせ、桃太郎を隊長とする機動部隊が鬼ヶ島を空襲し、多大な戦果を挙げるという内容だった。そのポスターには、「ハワイこそ! 悪鬼 米英の根拠地 鬼ヶ島ではないか!」といった文字が並んでいる。

このアニメーションでは、桃太郎は完全に軍人として描かれ、戦争の加担者にされている。つまり、知らず知らずのうちに戦争のプロパガンダに取り込まれていた桃太郎が、ここでは意識的に人々の戦意を高揚させる英雄へと作り変えられたのである。


こうした桃太郎の役割が、決して桃太郎自身のせいではないことを、最後に付け加えておきたい。

伝統的な和服を着ている男性が、帽子をかぶり、手にバッグを持っている姿

昭和8年(1933年)に柳田国男が出版した『桃太郎の誕生』では、鬼ヶ島征伐は桃太郎の物語にとって本質的な要素ではなかったという考え方が示されている。柳田によれば、「桃太郎」の物語の根源にあるのは、桃から生まれた小さな子どもが成長し、誰にもできないような大きなことを成し遂げるという展開だった。

桃太郎も、一寸法師やかぐや姫のような「小(ちい)さ子(ご)」たちの一つの姿である。彼らを主人公として各地でさまざまな形で語られてきた物語は、古代の日本人に広く信じられていた「神が一時的に小さな子供の姿を借りて人間界に現れる」という観念を背景に持つ。柳田は、こうした展開を持つ「霊童譚」あるいは「小さ子神」信仰が、時代を経て様々な民話として語り継がれたと考えたのだった。

今からちゃうど十年前の、春のある日の明るい午前(ひるまえ)に、私はフィレンツェの画廊を行き廻って、あの有名なボティチェリの、海の姫神の絵の前に立つていた。そうしていずれの時かわが日(ひ)の本(もと)の故国におても、「桃太郎の誕生」が新たなる一つの問題として回顧せられるであろうことを考へて、ひとり快い真昼の夢を見たのであつた。(柳田国男『桃太郎の誕生』)

ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』。貝殻の上に立つヴィーナス、美しい天使たちが彼女を取り巻いている。背景には緑の木々と水辺。

「自序」の冒頭に置かれたこの一節は、川を流れてきた桃から生まれた桃太郎と、イタリア・ルネサンスを代表するボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」とを響き合わせるものであり、私たちを戦いとはまったく関係のない世界へと導いてくれる。柳田の関心は、どんぶりこっこと桃の実が流れてきて、その桃が割れて赤ん坊が飛び出してくるという場面に向けられている。そして、その背後にある、人間の古来の信仰がさまざまな形で表現されてきたことが、考察の対象となる。

こうした柳田の桃太郎論は、戦前においても、桃太郎の物語が軍国主義的に読まれるだけではなく、異なる解釈も可能であり、実際になされていたことを示している。したがって、戦時中、桃太郎が軍国主義的な主張を担う存在とみなされたとしても、それは桃太郎自身のせいではない。そうした役割を与えたのは、時代の空気であり、物語を語り直す人々の意思だったのである。

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