
内田百閒が昭和9年(1934年)に出版した『王様の背中』に収録されている「桃太郎」は、私たちの知っている桃太郎の話とはずいぶん、というか、まったく違っている。
おばあさんが川で拾った桃から桃太郎が生まれるところは同じなのだが、犬、猿、雉を家来にして鬼退治をする部分はごっそりと抜けている。その代わり、猪が出てきて、桃太郎が生まれた桃を食べてしまうという話が続き、それで終わってしまう。文字数も950字程度で、非常に短い。

実は、『王様の背中』の「序文」で、内田百閒は、「この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んで下さい」と予告している。
そして、内田百閒版「桃太郎」の最大の特徴と言っていいのは、悪者が出てくることも、戦いの場面もなく、あっけないほど何も起こらず、すべてが平和で幸福感に満ちていることだ。
その言葉は、明治から昭和にかけて、「桃太郎」に強い教訓が込められていたことに対する反論だと考えられる。つまり、学校の教科書も含め、桃太郎は勧善懲悪の主人公として物語られ、鬼退治は悪を懲らしめる正義の行動とみなされていた。百閒の思いには、そうした物語に対するアンチテーゼがあったのだろう。
もう一つのアンチテーゼは、彼と同じように夏目漱石の弟子を自認し、友人でもあった芥川龍之介が再話した「桃太郎」に対するものだったとも考えられる。芥川は鬼ヶ島を楽園として、桃太郎を侵略者として描いたのだった。そこでは鬼退治の意義が完全に逆転しているのだが、その一方で、鬼征伐と鬼ヶ島からの帰還という物語全体の構造は保たれている。内田百閒は、芥川版「桃太郎」にも賛同せず、憎しみも争いもなく、桃が主役ともいえる物語を作り出したといえるだろう。
(1)誰もが幸せな物語

内田百閒版「桃太郎」も、同じ時代の「桃太郎」と同じように、おばあさんが川へ洗濯に行き、桃を拾うところから始まる。
むかし、むかし、そのまた昔の大昔、ある所に、お爺さんとお婆さんとがありました。お爺さんは山へ柴(しば)刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
するとお婆さんが洗濯している川の上手の方から、大きな大きな、おいしそうな桃が一つ流れて來ました。
お婆さんはさっそくその桃を拾つて、おうちに持って帰って、山から帰ったお爺さんと二人で一緒にたべようとしますと、桃がひとりでにわれて、中から桃太郎が生れました。
お爺さんとお婆さんは、びっくりしたはずみに、桃太郎が生れた後の桃の実をたべる事など、すっかり忘れてしまいました。 (内田百閒「桃太郎」)
物語はこのように、ごく普通の始まり方をする。しかし、最後の一節で、いかにも内田百閒らしい、肩透かしを食らわせるような展開が付け加えられる。お爺さんとお婆さんが、桃太郎が生まれた後の桃の実を食べるのを忘れたというのだ。
「桃のその後」に意識を向ける語り手も、また、そこに注目する読者も、百閒以前にも以後にも、ほとんどいなかったのではないだろうか。それほど意外な展開だといっていいだろう。
そして、ここからは、もはや桃太郎の物語ではなく、主役の座はお爺さんとお婆さんに、ついで猪へと移っていく。

そうしてお爺さんとお婆さんが、あんまりうれしくて、二人で大きな声を出したものですから、裏の森の中でひるねをしていた猪(いのしし)が目をさましました。
猪は、大きな欠伸(あくび)をしながら、起(た)ち上がりました。いつも靜かなお婆さんとお爺さんのおうちが、大へん騷がしいので、不思議に思って、裏口からそっと覗(のぞ)いて見ますと、おうちの中には、可愛らしい赤ん坊が、元気な顏をして、手をぴんぴんはねておりました。お爺さんとお婆さんは二人で交りばんこに赤ん坊をだっこしては、よろこんでばかりをります。その傍に、それはそれはおいしそうな桃の実が、真中から二つに割れたまま、ころがっているのを、二人ともすっかり忘れている様子でありました。
猪はその桃を見て、長い鼻をひくひく動かしながら、お爺さんとお婆さんが赤ん坊に気を取られている隙(すき)に、先(ま)づその半分の方を大急ぎで食べてしまいました。後の半分は口にくわえたまま、どんどん森の中に逃げて帰りました。
お爺さんもお婆さんもそんな事にはまるで気がつきませんでした。後になってからも、もうそれっきり、桃太郎の生れた桃の実の事など、思い出した事はありませんでした。 (内田百閒「桃太郎」)
桃太郎の誕生を喜ぶお爺さんとお婆さんについては、しばしば語られる。しかし、その喜びの声が森の中まで届き、昼寝をしていた猪が目を覚ますという展開は、内田百閒ならではの発想だろう。
この展開から、二つの方向へと物語が広がっていく。一つは、二人の喜びの大きさが、素直な感情として描かれることだ。ただただ赤ん坊が可愛くてしかたがなく、子供に夢中になっている。そして、そのために、桃のことなどすっかり忘れている。それほど嬉しいのだ。
他方で、猪はその隙をついて、家の中にこっそりと忍び込み、二つに割れた桃を我が物にする。一方を食べてしまい、もう一方をくわえて森へと逃げ込んでしまう。
教訓を含むタイプの子供向け童話であれば、この泥棒の猪は罰を受けることになるだろう。例えば、桃太郎が森へ向かい、猪を退治するといった展開も考えられる。しかし、「この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んで下さい」という言葉の通り、内田百閒は猪を悪者に仕立て、勧善懲悪の物語を語ろうとはしない。
では、その後はどうなるのだろう。

さて、森の中の猪は、くはえて帰った半分の桃の実を、森の樹(き)の根もとにおいて暫(しば)らく眺(なが)めておりました。
あんまり大きな桃なので、さっきたべた半分だけで、おなかがいっぱいになって、後の半分は今すぐにたべたくありませんでした。そのうちに猪はまた眠くなって、長い鼻の奧でぐうぐうと、きたない音をさせながら鼾(いびき)をかいて寝入(ねい)つてしまひました。
暫(しば)らくして、猪が目をさまして見ますと、さっき枕もとにおいて寝た桃の実に、小さな蟻がいっぱいたかっておりました。
猪は、その桃の実の残りを、蟻ごと食べてしまいました。めでたし、めでたし。 (内田百閒「桃太郎」)
桃太郎も、お爺さんとお婆さんも、もう出てこない。主役は猪であり、しかも、結末は「めでたし、めでたし」で、桃を森に持ってきてしまったことに対する批判はない。
内田百閒が猪を多少なりとも非難しているとすれば、猪が眠る場面で、鼾(いびき)について「きたない音」と言っているくらいにすぎない。
そして、もう一つ、予想外の展開が用意されている。おなかがいっぱいだったために、桃の半分を食べずに残しておいたのだが、そこに蟻がいっぱいたかっている。そのために食べられなくなるのであれば、盗みの罰ということになる。
しかし、百閒は反教訓的な姿勢を貫く。猪は蟻ごと桃を食べてしまうのだ。もしかしたら、猪にとって蟻はご馳走であり、「果報は寝て待て」を地でいく展開だったとさえいえる。実際、猪は、基本的には植物質のものを多く食べるが、昆虫などの動物質の食べ物も摂取する。蟻も、貴重なタンパク質源の一つなのだ。だからこそ、「めでたし、めでたし」という言葉で、物語は終わることになる。
誰も不幸にならず、誰も悪くなく、みんなが幸福な桃太郎物語! お爺さんとお婆さんにとっては、桃などなくても、桃太郎がいてくれればそれで十分だ。猪は桃を丸ごと一個食べただけでなく、蟻まで食べることができた。内田百閒版「桃太郎」は、これほど幸福感にあふれた物語なのだ。
(2)反教訓の物語
a. 巌谷小波と小学校の読本・唱歌

内田百閒が、こうした教訓を含まない物語を昭和9年に構想した理由を推察してみると、明治時代から桃太郎が勧善懲悪の英雄として描かれ、鬼退治のエピソードが単に悪人の退治というだけではなく、当時の軍国主義的な思想を広めるためにも利用されていたことが考えられる。
その中心的な役割を果たした人物の一人が、巌谷小波(いわや さざなみ)だといえる。彼は、明治時代中期に児童文学の発展に努め、民話などを児童向けに書き直しただけでなく、文部省図書課の嘱託として、国定国語教科書の編纂にも深く関わった。

「桃太郎」は、明治20年に発行された『尋常小学読本』に収録されていたが、巌谷小波はそこにさらに大幅に手を加え、明治27年(1894年)に『日本昔噺』シリーズの第1編として発表した。(下記のPDF参照)
その再話では、桃太郎は「天の神様から御命(おおせ)を蒙(かふむ)って降ってきたもの」とされ、鬼ヶ島に向かう際には、育ての親に向かい、鬼ヶ島に「出陣」する許しを乞う。また、犬と出会った際には、「吾(われ)こそはこの度皇国(こうこく)のために、鬼ヶ島を征伐に参る桃太郎と申す者だ」と啖呵を切り、犬を最初の家来とする。さらに、鬼ヶ島に到着した際には、雉が鬼の軍勢に向かい、桃太郎のことを「神の御使、大日本の桃太郎将軍、征伐のためにお出向かいになったぞ」と紹介する。まさに桃太郎は、軍隊の大将として描かれている。
こうした軍国主義的な桃太郎像は、同じ明治27年(1894年)の『尋常小学読書教本』に採用された「桃太郎」にも見られ、明治27年から明治28年にかけて朝鮮半島の支配権や権益をめぐって日本と清国が戦った日清戦争という時代背景をも感じさせる。(下記のPDF参照)
明治44年(1911年)に『尋常小学唱歌』に掲載された「桃太郎」の歌詞にも、同じ傾向が見られる。
1. 桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた 黍団子 一つわたしに 下さいな
2. やりましょう やりましょう これから鬼の 征伐に ついて行くなら やりましょう
3. 行きましょう 行きましょう あなたについて 何処までも 家来になって 行きましょう
4. そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島
5. おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物を えんやらや
6. ばんばんざい ばんばんざい お伴の犬や 猿 雉は 勇んで車を えんやらや
現在の私たちでも、ごく何気なく口にするかもしれない1番の歌詞に続くのは、「征伐」「家来」「一度に攻めて攻めやぶり」「分捕物」など、意識して読むと驚くほど勇ましい内容になっている。
こうした桃太郎像に基づき、巌谷小波は、大正4年(1915年)に出版した『桃太郎主義の教育』の冒頭で、「富士が日本一として、理想の山容を備へて居る如く、桃太郎も日本一として、理想お伽噺」であると述べている。
そして、新しい時代の国民教育の理念として、「桃太郎主義」を提唱した。
桃太郎は、「積極に進取に、放胆に、而も楽天」、「無邪気と無造作」であり、子供たちを、桃太郎に象徴される腕白さ、無邪気さ、大胆さ、慈悲、公平などの「徳目」を備えた人間に育てることを主張したのだった。
b. 芥川龍之介

芥川龍之介が大正13年(1924年)に発表した「桃太郎」は、軍国主義的な色付けを逆転させ、鬼の視点から鬼征伐を描くことで、桃太郎たちを侵略者として位置づけるものだった。(参考:芥川龍之介 「桃太郎」 読解の3つのレベル 1/3 鬼征伐は侵略)
芥川の「桃太郎」では、鬼ヶ島は椰子の木が繁り、極楽鳥が囀る楽園であり、鬼たちは平和を愛する存在だとされている。そして、桃太郎は、「お爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだった」という理由で、鬼征伐を思い立つ。育ての親も、そんな桃太郎に愛想を尽かしていたので、欲しいと言うものはすぐに与え、急いで送り出す。
この親子関係が、約10年後に内田百閒が描く親子関係と正反対であることに注目したい。というのも、百閒が芥川の「桃太郎」を意識していたことを示す手がかりが、ここにあるかもしれないからだ。
もう一つの明確な対比は、芥川が、桃太郎と三匹の家来が鬼ヶ島で行った残虐な殺戮を、はっきりと「罪悪」と名指し、侵略者たちを悪として断罪していることである。「犬はただ一噛(ひとかみ)に鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴(くちばし)に鬼の子供を突き殺した。猿も ― 猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱(りょうじょく)を恣(ほし)いままにした。」こうした具体的な行為が、その「罪悪」を証明している。
巌谷小波に代表される一般的な理解では、桃太郎たちが善で、鬼たちが悪とされる。それに対して芥川は、鬼たちを善、桃太郎たちを悪として、両者の立場を逆転させた。しかし、内田百閒は、そうした二元論を避け、悪もなく、戦いもない、平和で幸福な世界を描いたのだった。
c. 「半分」
内田百閒が巌谷小波と芥川龍之介の作品を参照し、それらに対抗するものとして自らの作品を構想したと証明する確かな証拠を提示することは、私にはできない。そのため、以下は推測にすぎないのだが、一つだけ仮説を提示してみたい。それは、「半分」という言葉が、三人の物語に共通して現れるということだ。

巌谷の桃太郎は、犬、猿、雉を家来とする際、腰につけた黍団子を与えるのだが、一個全部ではなく、半分しか与えない。ここでは、最初に登場する斑(ぶち)の犬とのやり取りを見ておこう。
「是(これ)は日本一の黍団子(きびだんご)、一個(ひとつ)は遣(や)れぬが半分やろう。」「それは有難う御座ります。」と、斑(ぶち)は此処(ここ)で黍団子を半分貰い、それから桃太郎の供を致して、尚(なお)も路(みち)を急ぎました。(巌谷小波「桃太郎」)

芥川の桃太郎が黍団子を半分しか与えないのは、巌谷の桃太郎を下敷きにしているからだと考えてもよいだろう。というのも、巌谷以外の桃太郎では、黍団子の数や大きさが問題にされることはほとんどないからだ。
桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一の黍団子だ。」
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪あやしかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴ともしましょう。」
桃太郎は咄嗟(とっさ)に算盤(そろばん)を取った。「一つはやられぬ。半分やろう。」犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮(しょせん)持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息(たんそく)しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴(とも)をすることになった。(芥川龍之介「桃太郎」)
黍団子には、「日本一」という形容がしばしば付けられる。芥川がその表現に皮肉を込めているのは、よく知られた桃太郎が勧善懲悪の英雄と見なされていることへの反論とも考えられる。
それに対して、黍団子を半分しか与えない場面で、算盤を取り出して損得を計算するという振る舞いや、「持たぬものは持ったものの意志に服従するばかり」という説明は、社会における上下関係の現実を示すものとも読める。しかし、それ以上に、ここでは巌谷小波的な桃太郎観に対する皮肉として読むこともできるだろう。

この二つの対照的な桃太郎に対して、内田百閒の桃太郎は、鬼ヶ島に行くこともないため、黍団子のエピソードも登場しない。それに代わって物語の中心に置かれるのは、桃太郎がそこから生まれた桃そのものである。
桃太郎が生まれる場面では、桃は「ひとりでにわれて」と描写されるだけで、真っ二つに割れたとは明記されていない。しかし、次の場面では、お爺さんとお婆さんが桃太郎を代わる代わる抱っこして大喜びしている横で、「おいしそうな桃の実が、真中から二つに割れたまま、ころがっている」と描かれている。

そして、猪がその桃を見つける場面になると、「半分」に焦点が当てられる。
猪はその桃を見て、長い鼻をひくひく動かしながら、お爺さんとお婆さんが赤ん坊に気を取られている隙(すき)に、先(ま)づその半分の方を大急ぎで食べてしまいました。後の半分は口にくわえたまま、どんどん森の中に逃げて帰りました。(内田百閒「桃太郎」)
猪は、その場で桃を丸ごと一個食べてもよかったはずなのに、「半分」しか食べない。だからこそ、物語は次の展開へと進むのだが、それにしても、百閒が「半分」という言葉にこだわっていることは、次の場面でも明らかだ。「森の中の猪は、くはえて帰った半分の桃の実」「さっきたべた半分だけで、おなかがいっぱいになって、後の半分は」と、「半分」という言葉が繰り返されるのである。
このことは、内田百閒が黍団子を桃に置き換え、巌谷小波と芥川龍之介の二つの桃太郎を意識していたことを示していると考えられないだろうか。
黍団子の半分をもらった動物たちは桃太郎の家来になるが、半分の桃を食べた猪は、残りの半分もちゃっかりいただき、人間のもとから逃げ出して森の中へ入り込んでしまう。その間、お爺さんもお婆さんも、おそらく桃太郎も、誰一人として桃のことなど気にしていない。猪を含め、全員にとって「めでたし、めでたし」なのだ。
このように考えると、内田百閒は、あえて桃太郎の物語を取り上げ、巌谷にも芥川とも違う、独自の桃太郎を作り上げたのではないだろうか。そしてその物語は、いかにも百閒らしい、肩の力の抜けたものになっている。
巌谷小波「桃太郎」
『尋常小学読書教本』「桃太郎」(明治27年)