
「美しいもの」というとき、私たちは、目に見えるものや耳に聞こえてくるものを思い浮かべるのではないだろうか。花を見て美しいと思う。あるいは、好きな音楽でなくても、楽器の音を聞いただけで美しいと感じることがある。そうしたとき、大切なのは、その美しさを説明することではなく、まず美を感じることだと、小林秀雄は強調する。
美しい自然を眺め、或(あるい)は、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝え度(た)いと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味(あじわ)う事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。解るという言葉にも、いろいろな意味がある。人間は、いろいろな解り方をするものだからです。絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです。
絵画や音楽の場合には、感じることが大切だと言われれば、その通りだと思う。しかし、言葉によって成り立つ文学の場合はどうだろう。言葉を理解することなしに、文学の美を感じることができるのだろうか。小林は、次に、こうした疑問に答えていく。
諸君は言うかも知れない。成る程、絵や音楽の現す美しさは、言うに言われぬものかも知れない。これを味うのには、言葉なぞ、かえって邪魔かも知れない。しかし、それなら詩というものはどうなのか、詩は、言葉で出来ているではないか、と。だが、詩人とても同じ事なのです。成る程、詩人は言葉で詩を作る。しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言うのです。

小林が例として取り上げるのは、山辺赤人(やまべのあかひと)が富士山を詠んだ和歌。
赤人は8世紀の歌人なのですでに1200年以上前に作られたものだが、私たちは今でも「富士の高嶺に雪はふりける」という句を読み、そこに美を感じる。
(富士山を歌う和歌については、富士山を通して見る日本人の心情 1/3 神さびて高く貴き富士 を参照。)
田児(たご)の浦ゆ 打出(うちい)でて見れば 真白(ましろ)にぞ 富士の高嶺(たかね)に 雪はふりける
これは、山辺赤人(やまべのあかひと)の有名な歌で、誰でも知っている。歌の意味も、読んで字の通り、誰にでもわかる。現代使われていない言葉は、「田児の浦ゆ」の「ゆ」という言葉だけだ。「ゆ」というのは、例えば東京から神戸へ、の「から」という現代の言葉に当ります。もし諸君が、この歌を読んで、美しい歌だと思うなら、諸君に美しいと思わせるものは、この歌の文字通りの意味ではないでしょう。やはり、富士を見た時の言うに言われぬ赤人の感動が、諸君の心を打つからではありませんか。歌人は、言い現し難い感動を、絵かきが色を、音楽家が音を使うのと同じ意味合いで、言葉を使って現そうと工夫するのです。成る程、詩人の使う言葉る、諸君が日常使っている言葉も同じ言葉だ。言葉というるのは、勝手に一人で発明できるものではない。歌人でも、皆が使って、よく知っている言葉を取り上げるより他はない。ただ、歌人は、そういう言葉を、綿密に選択して、これを様々に組合せて、はっきりした歌の姿を、詩の形を、作り上げるのです。すると、日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかった力を得て来るのです。赤人の歌が、見たところ、どんなに楽々と自然に、まるで、赤人の感動が、そのまま言葉となっているように思われようとも、実は、大変な苦心が払われているのです。苦心など表に現さぬところが、大人の苦心なのです。

赤人の和歌が絵画と同じような工夫によって作られていることを明らかにした後、小林は、次に言葉そのものについて説明する。その際、時計を見るのは時間を知るためであって、時計そのものを見るためではないという例と同じように、普段、私たちが言葉を使うとき、言葉は単なる道具にすぎないという点に注意を向けることから始める。
拠(さ)て、前に、諸君が目常生活で、どんな風に、眼を働かせているかについて述べたが、此処(ここ)でも、では、どんな風に言葉を使っているかを反省してみて下さい。例えば、「煙草を下さい」と誰かに言って、煙草が手に入ったら、「煙草を下さい」という言葉は、もう用はない。その言葉は捨てられて了います。いや、「煙草を下さい」という言葉が、相手に通じたら、もう、その言葉には用はないでしょう。相手も言われた言葉が理解出来たら、もうその言葉に用はないでしょう。日常生活では、言葉は用事が足りたら、みな消えてなくなる。そういう風に使われていることに、諸君は気が附かれるでしょう。言葉は、人間の行動と理解との為の道具なのです。
ところで、歌や詩は、諸君に、何かをしろと命じますか。私の気持ちが理解できたかと言っていますか。諸君は、歌に接して、何をするのでもない、何を理解するのでもない。その美しさを感ずるだけです。何の為に感ずるのか。何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。歌や詩は、解って了えば、それでお了いというものではないでしょう。では、歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。この事をよく考えてみて下さい。ある言葉が、かくかくの意味であるとわかるには、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aという言葉の代りにBという言葉を置き代えてみてもよい。置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさにわからぬものなのです。歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というるのもある、ということをよく心に留めて下さい。
「言葉の姿」という表現は、すぐには理解しにくいかもしれない。小林もそのことを意識していたのだろう。そこで、もう少し説明を加えていく。

言葉の姿と言っても、眼に見える活字の格好(かっこう)ではない。諸君の心に直(じ)かに映ずる姿です。この歌の姿という事は、古くから日本の歌人が、歌には一番大切なものと考えて来たものです。西洋では詩のフォームと言い、このフォームという言葉は、今日、形式と訳されて使われておりますが、フォームという西洋でも古い言葉は、日本にも古くからある姿という言葉で訳す方が、よほどいい訳なのです。それはともかく、姿のいい人がある様に、姿のいい歌がある。歌人の歌の言葉は、真白な雪の降った富士の山のような美しい姿をしているのです。だから、赤人は、富士を見た時の感動を、言葉に現した、或は言葉にした、と言うよりも、そういう感動に、言葉によって、姿を与えたと言った方がいいのです。感動というものは、読んで字の如く、感情が動いている状態です。動いているが、やがて静まり、消えて了うものです。そういう強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。
「感動に、言葉によって、姿を与えた」という表現について、「感情が動く」ことが、先に出てきた「花への愛情」と対応することを付け加えておきたい。
(3/3に続く)