
小林秀雄の「美を求める心」は、小学生や中学生に向けて、「美」を感じる際の心得をやさしく語ったエッセーだと考えられている。
私が驚くのは、子供たちに絵画や和歌、詩を理解することだけでなく、そうした芸術の美を感じる方法についても語っていることだ。しかし、それと同時に、1957年(昭和32年)、つまり今から約70年前には、これほど硬質な文章でも子供たちに向けたものとして通用したという事実にも驚かされる。現在であれば、こうした文章は、高校生や大人の読者を対象としたものと考えられるだろう。それほど、文章を読み解く力の水準が低下しているのではないかと思ってしまう。
他方で、「美を求める心」で展開される小林の勧めが、知識を持たず、素直に芸術作品に向き合うといった、単なる体験主義として理解されてしまうのではないかという懸念も拭えない。「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」という、冒頭に出てくる言葉は、そうした反知性主義や経験第一主義といった誤解を招く余地を残している。
しかし、「何も考えずに」という言葉をそのまま受け取ってしまうとしたら、なぜ小林が「何を措(お)いても、見ることです。聴くことです」と、「見ること」や「聴くこと」をあれほど強調するのかが理解できなくなる。小林がこのエッセーで子供たちに伝えようとしているのは、まさに「見ること、聴くこと」の難しさなのだ。そして、その難しさを通して、「理解する」とはどういうことか、「感じる」とはどういうことかを考え、子供たちを「美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人」へと導こうとする。それが、彼の意図だったと考えられる。
ここでは、「美を求める心」を素読するようなつもりで、小林秀雄の言葉に触れていきたい。
近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖えてきた様子です。その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難かしくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。
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