
私たちは様々なものに心を動かされる。感動する経験は、誰にでもある。小林秀雄は、そうした生(なま)の感情の動きが、そのまま芸術になるわけではないことを、読者である小・中学生にもわかりやすく説いていく。
私達の感動というものは、自(おのずか)ら外に現れるものだ。顔の表情となって現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。そういう時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽(こっけい)に見えるかる知れない。そういう時の叫び声にしても、決して美しいるのではありますまい。例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺(おぼ)れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
次に、詩人についてもう一歩踏み込み、詩を読むという体験がどのようなものかを説明していく。詩人が自らの悲しみを詠った詩を読み、読者がそこに悲しみを感じるとする。しかし、その悲しみは、自分が直接感じる悲しみと同じものではなく、悲しみの「静かな姿」なのだという。そして、そうした読書体験が、読者にとって悲しみを乗り越える糧となることを示し、読書の果たす役割を明らかにしていく。
詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。



以下は、「美を求める心」のまとめにあたる部分である。ここでは、これまでにも何度か述べてきた「姿」というキーワードを取り上げ、「姿」を感じ取る「心」が大切であることを説いていく。
「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う物の形とか、恰好とかいうことではない。あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体附をしているとかいう意味ではないでしょう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょう。絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。
そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。ただ、この能力が、私たちにとって、どんなに貴重な能力であるか、又、この能力は、養い育てようとしなければ衰弱して了うことを、知っている人は、少いのです。今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず議らずのうちに、疎(おそろ)かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊(おしべ)、雌蕊(めしば)はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。

最後に、小さな読者たちが「美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人」になってほしいという願いを込め、芸術がその導きとなることを示して、小林秀雄は「美を求める心」というエセーを終える。
一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難かしい事だ。だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。そして、優しい感情を持つ人とは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。
小林秀雄の文章は、鋭い洞察力に富み、独特の切れ味とテンポで読者を引き込む力がある。しかし他方では、客観的な根拠が乏しく、論理的な整合性を欠いていると非難されることもある。
こうした評価は、小林の批評の両面性を言い当てているのだろうが、「美を求める心」を通してみると、どちらも「小林の姿」を感じ取っているとは言えないのではないだろうか。というのも、小林秀雄の「姿」は、何よりも「感じる」ことで掴むことができるからだ。

そのことを知るためには、彼が中原中也について綴った「死んだ中原」と「中原中也の思い出」を読むのが、最も早道だと思われる。