
古代の日本には、どのくらいの数の人々が住んでいたのだろうか。日本の歴史について自分が何も知らないことを自覚し、いろいろと調べているうちに、そんな疑問がふと湧いてきた。そこで調べてみると、時代ごとの推計人口はおおよそ次のように考えられていることがわかった。
- 旧石器時代(約3万8,000年前〜約1万6,000年前):約2,000〜3,000人(ナイフ形石器期)
- 縄文時代(約1万6,000年前〜紀元前10世紀/紀元前5世紀頃):約2万〜26万人(※ピーク時)
- 弥生時代(紀元前10世紀/紀元前5世紀頃〜3世紀):約10万〜100万人
- 古墳時代(4世紀前後〜6世紀末):約100万〜500万人
こうした数字は遺跡や住居跡などの調査をもとに算定されたもので、確定的なものではない。しかし、日本列島全域にどの程度の人々が暮らしていたのかを把握するうえで、ある程度の目安にはなるだろう。
では、始まりにあたる旧石器時代、ホモ・サピエンスはどのようにして日本列島へ渡り、住むようになったのだろうか。
(1)旧石器時代
ホモ・サピエンスが日本列島にやってきた約3万8,000年前は、後期旧石器時代にあたる。当時は最終氷期の最中で、現在よりも寒冷な気候だった。海面は現在よりも約80メートル低かったと推定されており、陸地が大きく広がっていた。ただし、海面の低下によって海峡が狭くなったとしても、すべての海峡が陸続きになったわけではない。
そうした地形と気候のもとで、私たちの祖先は、いくつかのルートを通って日本列島にやってきたと考えられている。主な候補として、次の三つが挙げられる。
① 西(対馬)ルート:朝鮮半島から対馬海峡を越え、北部九州へ渡るルート。約3万8,000年前には、すでにこのルートを通じて人々が日本列島に到達していたと考えられている。
② 南(沖縄)ルート:台湾から琉球列島の島々を経由して北上するルート。約3万5,000~3万年前には、琉球列島の島々に人々が暮らしていたことが、遺跡などから明らかになっている。島々の間には広い海峡があり、強い海流も流れていたため、渡海には舟と高度な航海技術が必要だったと考えられる。
③ 北(北海道)ルート:シベリアからサハリン(樺太)を経て、北海道へ至るルート。氷期の海面低下によって陸地が広がり、移動しやすくなったと考えられる。


こうした三つのルートを通ってホモ・サピエンスが日本列島にやってきた。その後、縄文時代が始まるまでの約2万年にわたって後期旧石器時代が続いたが、この時期の人口は、列島全体でも数千人程度だったとする推計がある。
では、こうしてやってきた人々は、どのような暮らしをしていたのだろうか。
先にも記したように、当時は現在よりも寒冷な気候だった。人々は、利用できる植物資源が限られるなか、大型哺乳類などの動物を狩り、植物を採集しながら、広い範囲を移動して暮らしていたと考えられる。
遺跡の規模や出土品などから、当時の人々は小規模な集団をつくり、協力して狩猟や植物の採集を行い、食料を分け合っていたと推定されている。集団の規模を正確に知ることは難しいが、数家族からなる10~30人程度の集団を想定する見方もある。また、それぞれの集団が孤立していたわけではなく、婚姻や石材の交換などを通じて、複数の小集団がゆるやかなネットワークを形成していた可能性がある。
そうした遊動生活のなかで、人々は河川近くの台地や丘陵などに一時的な拠点を設け、しばらくの間、そこで暮らしていた。木の枝や動物の皮などを利用した簡易的な住居が使われていた可能性があるほか、洞窟や岩陰も雨風をしのぐ場所として活用された。

(2)縄文時代
旧石器時代から縄文時代への移行をもたらした大きな要因の一つは、気候の変化だと考えられる。約1万5,000年前頃から気候が温暖化し、やがて現在につながる温暖な気候の時代に入った。それに伴い、東日本を中心に、ドングリやクリなどの木の実をつける落葉広葉樹林が広がり、魚介類などの水産資源も利用できるようになった。こうした食料資源の変化が、人々の生活様式を大きく変え、人口の増加につながったと考えられる。
しかし、その後、縄文時代の後期から晩期にかけて、人口は再び減少した。その原因の一つとして、気候の寒冷化に伴い、食料資源の確保が難しくなったことが指摘されている。ただし、人口減少の原因については、気候変動だけで説明できるかどうか、議論が続いている。
縄文時代の日本列島の人口については、歴史人口学の分野でも参照される研究で、次のような推定値が示されている。
- 縄文早期(約1万年前~):約2万1,000人
- 縄文前期(約6,000年前~):約10万6,000人
- 縄文中期(約4,000年前~):約26万1,000人(人口のピーク)
- 縄文後期(約4,000~3,000年前):約16万人
- 縄文晩期(約3,000~2,400年前):約7万6,000人
気候の温暖化は、東日本を中心に、クリ、クルミ、ドングリ、トチなどの実をつける落葉広葉樹林の拡大を促した。一方、西日本では、カシやシイなどの照葉樹林が広がった。また、ナウマンゾウなどの大型哺乳類が姿を消す一方、シカやイノシシなどの中・小型動物が、人々にとって重要な食料資源となった。
人々は、こうした自然環境の変化に応じて、狩猟・採集・漁労を組み合わせ、竪穴住居を構えて定住するようになった。世界の他の地域では、新石器時代に農耕や牧畜が発達し、食料を生産することで定住生活を支える社会が広がった。それに対して、縄文人は、主に狩猟・採集・漁労によって食料を得ながら、自然の恵みを利用して暮らしていた。こうした生活様式が長く続いたことは、縄文文化の大きな特徴の一つといえる。



ただし、後期旧石器時代に南方から人々が渡ってきたと考えられる琉球列島では、森林資源だけでなく、魚や貝、ウミガメなどの海洋資源も重要な食料となっていた。こうした地域では、本州などとは異なる食料獲得のあり方が発達した。

縄文時代に定住生活を支えた重要な発明の一つが、「土器」である。人々は土器に食材と水を入れて煮炊きし、ドングリなどの木の実のアク抜きにも利用した。また、土器は食料の加工や保存などにも役立ったと考えられる。こうした調理法は、食料として利用できる植物の種類を広げ、栄養を摂取する方法にも変化をもたらした。そのことが、人口の増加を支える要因の一つになったと考えられる。

もう一つ、縄文時代に特徴的なものとして、「土偶」がある。土偶の用途は明確にはわかっていないが、実用的な道具というよりも、祭祀や儀礼などに関わるものだったと考えられている。豊穣や安産、厄払いなどとの関係を指摘する見解もある。土偶の存在は、縄文人が食料を得て生活するだけでなく、さまざまな象徴的・精神的な営みを行っていたことを示している。
(参照;縄文土器・土偶 古代日本人の生命感)
(3)弥生時代
縄文時代の晩期に約8万人にまで減少したと推定される人口は、弥生時代を通じて増加し、60万~100万人近くに達したとする推計もある。こうした人口増加は、日本列島における「最初の人口爆発期」と呼んでもいいだろう。

人口増加の大きな要因の一つは、「水田稲作」だった。稲は日本列島に自生していた植物ではなく、栽培技術とともにもたらされた。当時、大陸や朝鮮半島では政治的な変動や戦乱が続いていた。そうした時代背景のなかで、水田稲作や金属器(青銅器・鉄器)の技術を持つ人々が北部九州へと渡来したのだった。その後も渡来は波状的に続き、在来の縄文人との交流や混血を伴いながら、稲作は北部九州から東へと広がり、東北地方南部にまで及んだ。
- 弥生時代前期(紀元前10~前5世紀ごろ):約10万~20万人
- 弥生時代中期(紀元前4~前1世紀ごろ):約30万~40万人
- 弥生時代後期(紀元前1世紀ごろ~3世紀):約60万~100万人
※ただし人口と年代はいずれも推計・区分の一例であり、研究によって異なる。

現在でも米は日本人の主食の一つである。稲作の導入は、日本列島の人々の暮らしを大きく変えた技術革新だった。狩猟・採集・漁労を中心とした生活に加え、米を生産し、貯蔵して計画的に消費できるようになったことは、食料の供給を支える重要な基盤となった。こうした食料生産の拡大が、人口の増加を可能にした要因の一つと考えられる。
人口が増え、稲作を営む人々の集落が発達すると、集団の規模や社会のあり方も変化した。周囲に堀をめぐらせた環濠集落が形成され、集落内では有力者が現れ、社会的な格差も生じ始めたと考えられている。地位や富が世代を超えて受け継がれるようになったことも、こうした社会の変化と関係していたのだろう。


また、稲作によって食料を蓄えることが可能になると、土地や水、収穫物などをめぐる争いが生じた可能性がある。弥生時代の遺跡からは、武器や防御施設、戦闘によるものと考えられる人骨などが見つかっており、集団間の争いがあったことをうかがわせる。さらに、集団同士の連合や対立が進むなかで、地域を率いる首長も現れた。

『後漢書』東夷伝には、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)、倭の奴国からの使者に印綬を授けたという記述がある。この記録は、福岡県の志賀島で発見された「漢委奴国王印」に対応するものと一般に考えられている。これが示すのは、少なくとも1世紀には、奴国が中国王朝に使者を送り、外交関係を結んでいたということだ。
中国の史書に残されたこうした記述から、日本列島全体の社会を一様に推定することはできない。しかし、弥生時代の後半には、倭の各地に複数の政治的な集団が形成され、相互に争ったり連合したりしていたことがうかがえる。稲作の普及に伴う人口や集落の変化は、単に食料を得る方法を変えただけではなく、社会の構造や政治的な関係にも大きな変化をもたらしたのである。
弥生時代における社会構造の変化について、一つ注意しておきたいことがある。稲作が広がりにくかった地域、具体的には北海道や東北地方北部、そして南の琉球列島では、縄文時代以来の文化や生活様式が比較的長く維持されたことである。
縄文時代には、木の実や海洋資源などに恵まれた東日本に人口の過半数が集中していたとする推計がある。それに対して、弥生時代には、水田稲作が広がった西日本の人口が増加し、人口分布にも変化が生じたと考えられている。特に北部九州や近畿地方などは、政治的なまとまり(クニ)が形成される重要な地域となった。
一方、東北地方北部や北海道では、水田稲作の普及が西日本に比べて遅く、地域によっては縄文時代以来の生活様式が長く続いた。こうした違いには、気候条件だけでなく、自然環境や地域ごとの文化的な伝統も関係していたと考えられる。
また、琉球列島でも、縄文時代以来、魚介類などの海洋資源を重要な食料として利用する生活が営まれていた。本州などで水田稲作が広がる一方、琉球列島では異なる生業や文化が維持され、地域独自の歴史が展開した。
2世紀後半には、倭国で大きな内乱が起きたと『後漢書』倭伝は伝えている。同書には、倭にはおよそ百余国があったとも記されている。

その後、『三国志』魏書東夷伝のいわゆる『魏志倭人伝』によれば、かつては百余りあった国が三十国あまりとなり、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼が、それらの国々の長として立った。そして、239年、魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」の称号などを授かったという記述がある。
こうした記録は、当時の倭に、中国の皇帝との外交関係を結ぶほどの政治的なまとまりが形成されていたことを示している。
中国の史書に残されたこうした記述から、日本列島全体の社会を一様に推定することはできない。しかし、弥生時代の後半には、倭の各地に複数の政治的な集団が形成され、相互に争ったり連合したりしていたことがうかがえる。稲作の普及に伴う人口や集落の変化は、単に食料を得る方法を変えただけではなく、社会の構造や政治的な関係にも大きな変化をもたらしたのである。
(4)古墳時代
弥生時代後期にあたる紀元前1世紀頃から紀元後数世紀にかけて、気候や環境の変化が各地の社会に影響を及ぼしたと考えられている。降水量や気温の変化は、地域によっては洪水などを引き起こし、水田や集落に被害をもたらした可能性がある。こうした環境の変化に加え、稲作の展開や社会の再編なども、人々の移動や集落の変化に関係したと考えられる。
一方、縄文時代後期から晩期にかけて見られた人口の減少とは異なり、弥生時代から古墳時代にかけては、人口が大幅に増加したと推計されている。稲作の普及による食料生産力の向上や、大陸からの渡来人の移住などが、その背景にあったと考えられる。
- 古墳時代前期~中期(4世紀前後):約100万~200万人(推計)
- 古墳時代後期~終末期(6世紀~7世紀):約500万人(推計)
※ 歴史学では、一般に推古天皇の即位(592年)を飛鳥時代の始まりとする。一方、考古学では、7世紀後半頃までを古墳時代(終末期古墳の時代)に含めることが多い。
人口がこれほど増加した背景には、農業生産力の向上に加え、広域にわたる人々の移動と交易の活発化、さらに中国や朝鮮半島の情勢が不安定になる中で、集団での移住が進んだことも関係しているのではないかと考えられる。

この時代、中国では漢帝国が滅亡し、三国時代、西晋による統一を経て、南北朝時代に至るまで、政権の分裂や交替が続いた。そして、6世紀末に隋が中国を再統一するまで、各地で政治的な動乱が繰り返された。また、朝鮮半島でも、高句麗、百済、新羅、加耶諸国などが競い合っていた。倭国もこうした国際関係に深く関わり、鉄資源や交易ルートをめぐる利害などを背景に、朝鮮半島南部の諸勢力と軍事・外交関係を結んでいた。
そうした中で、朝鮮半島や中国大陸から渡来した人々は、製鉄・金属加工や馬の飼育などの技術とともに、漢字文化や儒教的な知識をもたらした。『論語』や『千字文』などの漢籍も、こうした大陸文化の受容を象徴するものといえる。また、6世紀には百済から仏教が伝えられ、その後の日本列島の文化や政治に大きな影響を及ぼした。
一方、秦氏(はたうじ)などの渡来系氏族は、養蚕・機織りや生産活動などに関わり、水利・土木技術を含む大陸の知識や技術も、各地の開発に活用されたと考えられる。
こうした技術や知識の伝来に加え、農業生産の発展や政治的な統合が進む中で、日本列島では大規模な土木事業や農地開拓が進展した。平野部などでは農地が広がり、食料生産力が向上することで、人口を支える生活基盤も強化されたと考えられる。また、巨大な前方後円墳を建設できるほどの労働力を動員する仕組みも形成されていった。


さらに、集落の規模や機能が拡大し、ムラを超えた「都市」的な集落も形成されるようになった。大規模な集落の中には、街路や倉庫、住居、工房などが配置されたものもあった。また、各地の特徴を持つ土器が出土していることから、地域間の交流も活発に行われていたことがうかがえる。

こうした集落の発展を背景に、各地の豪族が勢力を広げる中で、4世紀頃には大和地方を中心とする豪族連合政権が、次第に中心的な地位を占めるようになったと考えられる。『宋書』倭国伝によれば、5世紀には倭国の五人の王が相次いで南朝の宋に使者を送った。その中でも、最後の王である武が478年に順帝に送った上表文には、東方の「毛人」、西方の「衆夷」、そして海を渡った先の諸国に対する軍事的な活動が記されている。こうした記述は、当時の倭国の支配者が自らの勢力や軍事的な功績をどのように主張していたかを知るうえで重要な史料である。

また、592年に推古天皇が即位し、翌年には厩戸王(聖徳太子)が摂政になったと伝えられる。この時代には、遣隋使の派遣などを通じて大陸の制度や文化が積極的に取り入れられ、政治体制の整備が進められた。ただし、律令体制が本格的に整備されるのは、その後の時代である。こうした国家形成の背景には、古墳時代を通じた人口の増加や農業生産力の向上、地域間の交流の発展などもあったと考えられる。

ちなみに、近年のゲノム研究では、現代の本土日本人の遺伝的構成は、主に三つの祖先系譜、すなわち、(1)縄文人に関連する系譜、(2)弥生時代に渡来した北東アジア系の人々に関連する系譜、(3)古墳時代に流入した東アジア系の人々に関連する系譜によって形成されたとする説が提唱されている。このモデルによれば、本土日本人に占める縄文人由来の祖先系譜は約10~15%と推定される。ただし、その割合には地域差があり、沖縄の人々やアイヌ民族では、より高い縄文人由来の系譜が認められる。こうした研究は、弥生時代から古墳時代にかけて大陸から人々が渡来し、列島の人々の遺伝的構成に大きな影響を及ぼしたことを示している。

最後に付け加えておきたいのは、東アジアにおける倭国、そして後の日本の位置づけである。
1世紀の「漢委奴国王」金印、3世紀の卑弥呼の朝貢、そして5世紀の倭国の五王が宋に送った文書などからもわかるように、弥生時代後期から古墳時代にかけて、列島の有力な支配者たちは中国王朝との関係を築き、その権威や地位を対外的に示そうとしてきた。中国王朝から授けられる称号や印綬は、列島内で自らの地位を高めるうえでも、重要な意味を持っていたと考えられる。

その際に忘れてはならないのは、中国王朝と倭国の間に朝鮮半島の諸国が位置していたことである。朝鮮半島の諸国は中国大陸と直接に接し、外交や交易、時には戦争を通じて、大陸の政治や文化と深く関わっていた。
それに対して、日本列島は朝鮮半島を介して大陸とつながる位置にあり、柄谷行人の用語の従えば、「周辺」に対する「亜周辺」と呼ぶことができる。
ここでいう「周辺」と「亜周辺」は、中心との関係における位置の違いを示す概念である。「周辺」に位置する地域は、中心の政治的・軍事的な圧力を直接受ける一方、その文明や制度を受け入れながら、自らの社会を維持していくことを求められる。それに対して「亜周辺」では、中心との間に別の地域が介在するため、中心の文明を受け入れる際にも、比較的大きな選択の余地が生まれる。
日本列島では、中国や朝鮮半島から伝わる文字、思想、宗教、技術などが積極的に取り入れられた。しかし、それらがそのまま受け入れられたわけではない。列島の社会や政治の状況に応じて選択され、独自の形に変えられていった。こうした「亜周辺」としての位置が、外来の文化を受け入れながら独自の文化を形成していくうえで、重要な役割を果たしたと考えられる。