
平和な時代に戦争に反対することは易しい。しかし、戦争の只中にあるとき、多くの人々は戦争に反対するのだろうか。たとえ平和を願うとしても、それは戦争に勝利した上での平和ではないだろうか。もしそうだとすれば、戦争の時代には、軍事作戦が正当化され、それに賛同し、応援することが、ごく自然で当たり前の行動とみなされるはずだ。そこでは、軍国主義に反対したとしても、それは少数者による弱々しい抵抗でしかなく、場合によっては、その抵抗さえ許されないこともある。


石川淳の「マルスの歌」は、昭和13年(1938年)の『文学界』新年特別号(発売は昭和12年12月)に掲載されたが、反軍国主義的であるという理由で発禁処分となり、翌年8月には、著者の石川淳と、雑誌の編集を担当した河上徹太郎が罰金刑に処せられた。当時は、昭和12年7月に始まった日中戦争(「支那事変」)の只中にあり、言論統制も強化されつつあった時代である。
こうした処分は、当時の社会状況を反映したものと考えられる。しかし他方で、『文学界』が「マルスの歌」を掲載したことは、編集者たちがそのような処分を予想していなかったことを示している。もし処分を予想していたのであれば、同時に掲載された青野季吉の政治評論「デモクラシイは死滅するか」の方が、むしろ危険だっただろう。実際、青野は翌年、反ファシズム統一戦線に参加したことなどを理由に検挙されている。
石川淳自身も、昭和47年(1972年)に行われた対談の中で、「まだ書いているときは、これくらいはいけるのじゃないかという気持ちがどこかにあったし、また『文学界』でもおそらくこれくらいはいいじゃないかというような気持ちもあったのじゃないかと思う。まだ楽観的気分があったのです」(「無意識の選択」)と述べている。
「マルスの歌」の内容を見ると、軍神マルスに象徴される軍歌が街に流れる時代に、「NO !」と声を上げる小説家の「わたし」は、確かに戦争に反対する姿勢を明らかにしているように見える。しかし、小説全体としては、明確に反戦を訴えているとは言い切れないようにも思われる。
「わたし」以外の主な登場人物は三人いる。二人は「わたし」の従妹で、姉の冬子と妹の帯子。もう一人は、冬子の夫である三治。物語は、冬子がガス自殺をすること、そして彼女の葬儀の日に三治が召集令状(赤紙)を受け取り、その翌日に帯子と三治が伊豆へ旅行に出かけること、この二つの出来事を中心に構成されている。しかし、この三人がとりたてて反戦的な態度を示すことはない。帯子は家の外から聞こえてくるマルスの歌声を聞いて「ばんざい!」と叫び、三治は赤紙を受け取ることをすでに予期しており、戦場に向かうことを素直に受け入れる。こうした展開の中で、戦争に直接言及する場面はほとんどなく、反戦を想起させるものは、ほぼマルスの歌だけに限られている。
石川淳だけでなく、雑誌を編集した河上徹太郎も、このような内容であれば検閲にかからないのではないかと考えていたのだろう。それはまた、石川淳のいう「楽観的気分」とは別の角度から、戦争を真正面から扱っていない小説だとする小林秀雄の評価とも重なっている。
小林秀雄は『文学界』のもう一人の編集者だったが、たまたま問題の号の編集担当ではなかった。当時、『東京朝日新聞』で文芸批評を連載していた小林は、昭和13年(1938)1月に「マルスの歌」に言及している。小林の目には、この作品は「多少は事変の影がチラチラする」ものであり、「事変は言わば刺身のつまの様な格好をしている」にすぎなかった。つまり、戦争を真正面から扱い、軍国主義を声高に批判する小説とは見ていなかったのである。
その作品が実際には発禁処分になったということは、彼らが時代の空気や権力の判断基準を読み切れていなかったということでもある。そして、そのことは、戦時下において政府や軍部の動きを予測することの難しさを如実に物語っている。真正面からの反戦の主張は、初めから不可能に近く、そうした思想を持つ者たちは沈黙を強いられていた。
そのような状況の中で、どこまで軍国主義に対する嫌悪感を表現できるのか。石川淳は、そのぎりぎりのラインを模索した。そして、『文学界』の編集者たちも含めて、そのラインを読み誤った。「マルスの歌」を今の時点で読む面白さは、まさにそのぎりぎりのラインを探ることにあるといえる。
戦時中の人々の意識
平和な時代に戦争を思い描くと、どうしても、一般の民衆も知識人たちも戦争には反対だったが、声を上げることができなかった、あるいは情報統制によって政府や軍部に騙されていた、と考えがちである。しかし、戦時中の現実を知ると、必ずしもそうではなかったことがわかってくる。
敗戦後、戦争中に軍国主義のプロパガンダを行った人々の責任を追及しようとする動きが盛んになった。その一方で、戦争に協力した側の知識人の中には、例えば武者小路実篤のように、「私は騙されていた」と主張する人々もいた。一般大衆の場合、新聞やラジオを通した情報にしか接していなかったのだから、自分たちは政府や軍部に騙されていたと感じる人が多かったとしても不思議ではない。
では、戦後に「騙されていた」と感じた人々は、戦時中、実際にはどのように振る舞っていたのだろうか。

この問題を考える上で、非常に興味深い文章がある。映画監督の伊丹万作が昭和21年に発表した「戦争責任者の問題」である。これは、映画関係者たちが戦争責任者を映画界から追放しようと立ち上げた集まりに関連して書かれた文章だった。伊丹は、戦争中に国民がどのような役割を果たしていたのかについて、次のように述べている。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。(・・・)/すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに確然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。/このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。/たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。(伊丹万作「戦争責任者の問題」『映画春秋』創刊号・昭和21年8月)
戦争中には、国民全体が団結して勝利を目指すことが義務であるかのように受け止められていたのだろう。そして、その義務に背くことは非難に値すると見なされ、周囲の人々から「憎悪の眼」で見られることになった。伊丹が実感していたのは、まさに「親愛なる同胞諸君」こそが、「熱心にかつ自発的にだます側に協力していた」という現実だったのである。
しかし、ここでさらに考えておきたいことがある。伊丹が指摘する「協力」という問題は、彼自身が考えていた範囲よりも広く捉えることができるのではないだろうか。

伊丹自身は、戦争中に「ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつた」と認識している。しかし、彼が関わった映画制作を振り返ると、必ずしも戦争との関係を切り離すことはできない。例えば、昭和12年(1937年)2月に公開された映画「新しき土」は日独合作映画であり、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスも関係していた。日本とドイツが政治的・軍事的な結びつきを強めていく中で、この映画も両国の関係を強化する文化的な役割を担っていた。
制作においては、ドイツ側のアーノルト・ファンク監督と伊丹との間で、日本文化の表現の仕方について最後まで合意に至らず、ドイツ版「Die Tochter des Samurai(侍の娘)」と伊丹が監督した日本版「新しき土」という二つの作品が作られることになった。それでも、作品の制作が当時の日独関係を背景とするものであった以上、広い意味で戦争に向かう時代への協力と見なされても不思議ではない。
ところが、伊丹自身の意識では、そのようには捉えられていなかった。ここに、戦争責任という問題の難しさがある。本人がどのような意図を持っていたかということと、その活動や作品が社会の中でどのような役割を果たしたかということは、必ずしも一致しないからである。
では、こうした人々の意識や行動は、どのような社会的背景の中で形成されていったのだろうか。
この時代の日本は、昭和6年(1931年)の満州事変を起点に、昭和7年(1932年)の満州国建国、昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)の日独防共協定の締結といった過程で、ドイツやイタリアとの結びつきを強めていった。そして、昭和12年(1937年)には日中戦争(支那事変)が始まる。

翌昭和13年(1938年)3月に国家総動員法が議会で承認されたことは、国民生活のあらゆる領域が国家の戦争遂行体制に組み込まれていくことを象徴していた。さらに、その年の8月には、ナチス・ドイツの青少年組織「ヒトラーユーゲント」の派遣団が来日し、11月まで各地を巡って熱狂的な歓迎を受けた。
こうして日本では、ナチス・ドイツやムッソリーニのイタリアと連携し、主として中国をめぐる利権や東アジアでの勢力を争って、アメリカやイギリスと対立していく方向へと、社会全体が次第に傾いていった。そこには、政府や軍部による上からの動員だけでなく、人々自身がその動きを受け入れ、支えていくという側面もあったのである。
いわゆる文化人たちも、こうした時代の流れに乗り遅れることなく、積極的に協力していった。例えば、昭和12年(1937年)7月には「新日本文化の会」が発足し、「日本精神の発揚」や「国策協力」を掲げて、戦時下の文化統制に積極的に協力した。そのメンバーには、提唱者である佐藤春夫のほか、林房雄、萩原朔太郎、倉田百三、斎藤茂吉、保田與重郎、与謝野晶子、梅原龍三郎など、文壇・画壇・文化界の有力者たちが名を連ねていた。その後、亀井勝一郎なども会に加わった。

与謝野晶子は、日露戦争時には、弟が出征することを嘆き、「君死にたまふことなかれ」という反戦歌を発表して、「国賊的」と非難されたこともあった。しかし、日中戦争時には、愛国者として戦争を賛美する歌を発表するようになる。彼女の変化は、一人の人間の心のあり方を考える上で、大変興味深い例だといえる。

一方、「文学界」の編集者の一人だった小林秀雄は、「新日本文化の会」には参加しなかったものの、その設立趣旨には賛同し、「そういう会が出来ないより出来た方がいいに決まっている」(「事変下と知識」『読売新聞』昭和12年12月)と肯定的な評価を下している。そして、昭和13年には、自ら進んで従軍記者となるなど、戦争という現実を「宿命」として受け止める姿勢を示した。
小林の心情の根本にあったのは、「日本に生れたという事は、僕等の運命だ」という認識であり、その日本を守るためには、「戦争の渦中にあっては、たった一つの態度しかとる事は出来ない。戦いは勝たねばならぬ」という考えだった。
僕はただ今度の戦争が、日本の資本主義の受ける試練であるとともに、日本国民全体の受ける試練である事を率直に認め、認めた以上遅疑(ちぎ)なく試煉を身に受けるのが正しいと考えるのだ。この試煉を回避しようとする所謂(いわゆる)敗戦主義思想を僕は信じない。(・・・)/偏見なく世界を見渡して、今日国籍を代えたい程羨(うらや)ましい国家が何処にあるか。しかも一階級の国際的団結の萌(きざ)しなぞが何処にあるか。そういう時に、敗戦主義なぞを真面目に信じている人は恐らくあるまいと思いたい。(小林秀雄「戦争について」『改造』昭和12年11月)
戦争を試練として甘受し、戦争を回避しようと望むことを「敗戦主義」と呼ぶ。こうした思想を表明していた小林秀雄は、日本という国が難局にあるときには、個人の自由よりも国家の団結が優先されるべきであり、そのためには思想統制もやむを得ないという立場だった。
今や発禁問題は、編集者達の頭痛の種となっている。編集者ばかりではない、執筆者等も、昨年末の検挙以来、急速に延びた言論取締りの手を眺めて茫然(ぼうぜん)としている。/今日国民は、思想統制の必要を是認(ぜにん)している。又この大過渡期に発動する政府の政策が、勢い大過渡期的性格を帯びざるを得ない事を認めている。言論統制に関する政策だけが例外にはなり得ない。あわただしい思想弾圧に対して国民が沈黙しているのも、言ったって始まらぬという様なケチな了簡(りょうけん)からではないのである。/不意を喰らって文筆家達茫然ともするだろうが、心底では、これも已(や)むを得ないという良識の声を信じているのだ。この団結した国民の良識に添わないで、政府はこの非常時を乗り切る事は出来ないのである。この良識を信じない様な者が、政府首脳部に一人もいない事を僕等は信ずる。(小林秀雄「思想統制とデマ」『東京朝日新聞』昭和13年二月)

ここで触れられている「発禁問題」は、まさに小林自身が編集に関わっていた『文学界』に掲載された石川淳の「マルスの歌」が発禁処分を受けた問題を指している。また、「昨年末の検挙」とは、共産主義者に対する弾圧を指し、宮本百合子や中野重治らも執筆活動を制限され、マルクス主義者たちの原稿も掲載禁止とされていた。
小林秀雄にとって、こうした政府の政策は、「大過渡期」あるいは「非常時」においてはやむを得ないものであり、むしろ「良識」にかなうものだった。つまり、国民は思想統制を必要なものとして認めており、言論弾圧を受けた作家たちも、心の底ではそれをやむを得ないと受け止めているはずだ、というのである。
こうした発言は、戦後の平和な時代から振り返れば、きわめて反動的なものと映る。戦争への加担者の一人とみなされても仕方がないだろう。実際、戦後にはそのような批判も行われた。それに対して小林は、「反省するやつは反省しろ。僕は反省しない」とか、「利口な人々は、後出しのジャンケンのやうな事をする」といった、開き直ったような言葉で反応した。
しかし、ここで忘れてはならないのは、戦前には小林や「新日本文化の会」に象徴される考え方の方が主流であり、一般的に受け入れられていたということである。

他方で、石川淳は作品を発表する機会が減り、彼自身の表現によれば「江戸時代に留学する」ことで、検閲を避けようとした。
宮本百合子ら共産主義者は、常に弾圧の対象だった。彼女の夫である宮本顕治は、昭和9年(1934年)に投獄されてから、昭和20年(1945年)の敗戦まで、獄中生活を送った。この例が示すように、反戦や国民主権を掲げる共産主義者たちは「赤(アカ)」という蔑称で呼ばれ、さらに、身内に共産党員がいるというだけでも、人々から後ろ指をさされ、村八分や就職差別などの冷たい目にさらされていた。


実際に当時は「国家への忠誠」が良識であり、正義とされていた。そのような空気の中で国を批判することは、国家への反逆とみなされた。昭和12年(1937年)に東京帝国大学を追われたキリスト教徒の矢内原忠雄や、マルクス経済学者の大内兵衛、フランス文学者の渡辺一夫、そして作家の永井荷風といった少数の例外はあった。
しかし、多くの場合、人々は戦争を「聖戦」とみなして積極的に支持するか、あるいは積極的な賛同を示さないまでも、国家の方針を受け入れるという選択をしたのだった。それが時代の空気だったのであり、後の時代からそれを批判することは、小林の言う「後出しのジャンケン」にすぎないのだろう。
伊丹万作が「あの醜い戦闘帽」と書いた文章を公表できたのは、敗戦後だったからである。もし戦時中に発表していれば、その言葉だけでも掲載した雑誌は発禁処分を受け、伊丹自身も処罰され、周囲の人々から「非国民」と非難されたことだろう。彼は終戦直前に「戦争中止を望む」という意見書を書いていたが、発表は控えている。彼が恐れていたのは、アメリカ軍による日本本土への上陸だった。一方、多くの国民は「一億玉砕」というスローガンを受け入れ、最後まで戦い抜くという主張に同意していたように見える。
何度も繰り返すことになるが、どのような主張が正当と認められるのかは、時代の空気に大きく左右される。戦時中には、国家への忠誠や戦争への協力が「良識」とされ、反対することが非難の対象となった。まずはその事実を認識することが、その時代に発表された作品を読み解く前提となる。
軍神マルスに「ノー」と言う
「マルスの歌」の語り手は、その歌声が町中の至る所で流れている中で、なんとか小説を書こうと努めている。しかし、歌が聞こえてくるたびに苛立ち、書いたばかりの原稿を破り捨て、ついには「街頭の流行歌に向かいNO!」と叫ぶ。

この冒頭の場面で、石川淳は「流行歌『マルス』」と書いている。マルスは、ローマ神話において戦争や軍事を司る神であり、ローマの建国者であるロムルスとレムスの父親でもある。したがって、たとえ「マルス」という題名の軍歌が実際には存在しなかったとしても、この歌が国家を讃え、人々の戦意を高揚させる軍歌を連想させるものであったことは、戦時下の日本であればごく自然なことだっただろう。
そして、その歌に対して「NO!」と言うことは、明らかに反戦を主張していると受け取られても仕方がない。だからこそ、「マルスの歌」を掲載した雑誌『文学界』は発行禁止の措置を受けたのだし、後の時代にこの作品に言及した人々も、例外なく「反軍国主義の作品」という評価を下してきたのだといえる。
しかし、すでに見てきたように、作者の石川淳自身は楽観的な見通しを持っており、「あれくらい通るくらいの見通しでいた」と述べている。この食い違いの原因は、もしかすると、「NO」という言葉に隠されているのかもしれない。

石川淳はフランス文学の専門家でもあり、アナトール・フランスの『赤い百合』、アンドレ・ジイドの『背徳者』や『法王庁の抜穴』、モリエールの『ドン・ジュアン』『人間ぎらひ』『タルテュフ』など、かなりの数の翻訳を手がけていた。また、当時の日本でも人気のあったポール・ヴァレリー、アンリ・ベルクソン、アランといった思想家の著作にも親しんでいた。
そうした読書歴を考えれば、アランの『マルス 裁かれた戦争(Mars ou la guerre jugée)』(1921)に目を通していたと推測してもいいだろう。というのも、書名に「マルス」という言葉が含まれているだけでなく、一つの章には「ノーと言うこと(dire non)」という題名が付けられているからである。その中でアランは、戦争という暴力に対して、暴力によって対抗することへの反対を表明していた。(参考:Alain, Mars ou la guerre jugée アラン 『マルス 裁かれた戦争』 ノーと言う思想)
ノーと言う、それは決して簡単なことではない。暴力によって権力者たちを罰する方が簡単だ。しかし、それもまた戦争である。(・・・)/ 一人の哀れな人間の犠牲は美しいことだと知り、理解し、肯定すること。しかし同時に、一切の妥協を許さない厳密さで、犠牲が自由意志によってなされるわけではないと、自分に言い聞かせること。(・・・)/ このアジア的な権力は、命を懸けた試練を受けるずっと前から、利益や勝利を次々に手にする。そして、希望は階級が上がるにつれて大きくなる。その結果、こうしたことを選択し、しばしばそれを何らの恥じらいもなく誇る人々は、そのために自らを犠牲にしているのではない。その反対に、自分たちの野心に満ちた情念のために、ただ生きることしか望まない多くの慎ましい人々を犠牲にするのだ。ここで、あなたは見物人である。そして、こうした大仰な演技をする者たちは、あなたに依存している。ブーイングする必要さえない。拍手をしないだけで十分なのだ。ノーと言うことだ。(アラン『マルス 裁かれた戦争』)

アランは、1914年に第一次世界大戦が勃発したとき46歳だったが、自ら志願して従軍し、戦場の現実を体験した。その中でとりわけ彼が問題にしたのは、命令する側と命令される側の対比だった。命令する側は最前線から遠いところにいて、自らの命を危険にさらすことなく、戦果をあげることで名誉を求める。その一方で、命令される側は死と隣り合わせの状態に置かれる。アランが問題にしたのは、そうした状況において、人々の犠牲が必ずしも自由意志によってなされるわけではないということだった。
「ノーと言うこと」の章で強調されるのは、まさにその点である。ただし、「一人の哀れな人間の犠牲は美しいことだ」という言葉からも推測できるように、アランは祖国のために戦うことそのものを否定しているわけではない。この点も見逃せない。彼が「ノー」と言うのは、「自分たちの野心に満ちた情念のために、ただ生きることしか望まない多くの慎ましい人々を犠牲にする」ことなのだ。

石川淳は、アランの主張に盛り込まれたこの二つの側面を理解した上で、「マルスの歌」に向かって「NO!」と叫ぶ人物を、小説の語り手として配置したのではないだろうか。そして、そこから「このくらいならいけるかもしれない」という楽観的な気持ちが生まれたのではないだろうか。
さらに、語り手の「わたし」と社会全体の雰囲気を対峙させた上で、「正気」はどちらの側にあるのか、という問いを発することも忘れてはいなかった。
銀座の裏町にあるアパートの一室にこもり、なんとか小説を書こうとする「わたし」は、外から聞こえてくる「マルスの歌」の歌声に耳を打たれながら、「わたしの正気をペン先に突きとめるために」、必死にペンを動かそうとする。この時点で、「正気」は「わたし」の側にあるという認識に疑いはない。

しかし、伊豆に向かう途中で立ち寄った東京駅では、出征する兵士たちを送る「ばんざい」の声と「マルスの歌」を耳にし、列車が出発してからも、車内には「街頭の季節」が充満している。そこで「わたし」は、江戸時代の狂歌師・太田南畝の「狂詩の本」を開き、さらに酒の力を借りて自分の世界に閉じこもりながら、次のような考えに陥る。
たしかにこの車内の季節では『マルスの歌』に声を合わせるのが正気の渉汰なのだろう。わたしの正気とは狂気のことであったのか。窓の日ざしが急に強くなり、ひとの飛ばす唾がほこりに浮き立った。カーキ色がちらちらする。たれかが網棚の上からゲートルを落した。向うで子供がおもちゃの軍刀を抜いている。それにしても、ああ、益二御風流(注:ますますご風流なこと)・・・いよいよ、きちがいじみて来た。(石川淳「マルスの歌」)
すでに見てきたように、戦争という非常時においては、「国家への忠誠」が良識とされ、正義とされていた。マルスの歌に声を合わせることこそが正気だという「わたし」の思いは、終戦後の読者であれば皮肉として受け取っただろう。しかし、同時代の読者には、どのように読まれたのだろうか。
「わたしの正気とは狂気のことであったのか」という自問が、そのまま受け取られる可能性もあったはずである。石川淳は、そのような読み方を可能にする仕掛けも施している。つまり、「わたし」が手にする本をあえて「狂詩」とし、「わたし」を正気とは反対の側に置いている。さらに、自ら「きちがいじみてきた」と独白させる。こうした言葉から、語り手もようやく正気に戻ったのだという理解がなされたとしても、それはそれで一つの解釈として成り立つ。そうした二重の読み方が可能になるように、仕掛けが施されていたと考えてもおかしくはない。ただし、その程度の仕掛けでは、石川淳の見通しは「楽観的」にすぎたのだが。。。。

小説の結末に至り、伊豆のある食堂に入った「わたし」は、マルスの歌のレコードをかけようとする男に向かって、「やめろ」と叫ぶ。そのとき、人々はどのような反応を示したのだろうか。
わたしは後へもどって、食堂にはいり、ビールをもって来させた。そこへ、どやどやと四五人づれではいって来たのが、向うの席を占めると、すぐ大きい声でしゃべり出した。あぁ、何をしゃべるのだ。ここでもまた、あのはなしか。片隅に、喇叭(らっぱ)の付いた古物の蓄音器が据えてある。番人がレコードを掛けようとしている。ああ、何を掛けるのだ。ここでもまた、あのレコード・・・・・ 「やめろ。」思わず、わたしは声に出していた。声はにくにくしくひびいたようであった。ひとびとはけげんな顔でわたしのほうへふりむいた。そして、たちまち叱責の眼がわたしを突き刺した。その叱責の中に威武(いぶ)を恃(たの)むものの得意さが露骨にあらわれていて、わたしはいらいらして来た。残りのビールを飲みほして、外に出て、門のほうへ歩き出した。うしろで、ざわめきが聞えるように思った。たれかがわたしの背中にむかって何かいったのだろう。(石川淳「マルスの歌」)
食堂にいた男たちから叱責を受けるのは、「わたし」の方である。しかも、彼らは「威武を恃む」、つまり、自分たちこそが正しいと信じ、相手を力で威圧する態度を見せている。としたら、正気はどちらの側にあるのか。石川淳は、この問いを読者に投げかけていたとも考えられる。
「わたし」は明らかに反戦的であり、マルスの歌が聞こえるたびに拒否反応を示す。その一方で、多くの人々は歌が聞こえれば熱狂的に声を合わせる。社会全体を覆う「季節」は、「わたし」に冷たい。とすれば、いくら「わたし」が「正気をペン先に突きとめる」ことを試みても、その季節の中では、むしろ狂気の沙汰としか見えないだろう。
アランの言葉を借りれば、「ノーと言う、それは決して簡単なことではない」。石川淳は、そのことを十分に理解した上で、マルスの歌に「NO!」あるいは「やめろ」と声を上げる「わたし」を語り手にしたのだと考えられる。そして、その言葉を発することは、単に反戦を主張するだけではなく、周囲の人々が当然のこととして受け入れている価値観そのものに対して、一人の人間が異議を唱える行為にほかならない。
「マルスの歌」の中で、「わたし」だけに焦点を当てれば、確かに反戦を明確に主張しているように思われる。しかし、物語には他にも三人の登場人物がいる。冬子はごっこ遊びの末に死に、妹の帯子と夫の三治が葬儀を行う。そして、まさにその日に三治は召集令状を受け取り、数日後には兵士として戦争に向かうことになる。その間を利用して、帯子と三治は伊豆への小旅行をする。
こうした物語の展開の中でも、マルスの歌は聞こえてくる。しかし、それに対して三人が強い反応を示すことはない。彼らが反戦の思想を明確に表明することは、まったくないといっていい。つまり、彼らは他の人々と同じように、「季節」に順応しているかのようにさえ見える。例えば、三治が兵役に対して「NO!」と言うことはない。
では、彼らを通して、反戦の声がひそかに告げられることはないのだろうか。石川淳の試みは、実は、こうした声なき人々を通して、本人たちも意識しないままに表れる戦争への拒絶を浮かび上がらせることだったのではないかと考えてみたい。反戦を声に出すことのできない「季節」の中で、その声を響かせることがいかに困難であるか。それは、むしろ彼らを通してこそ見えてくるはずだ。