石川淳 「マルスの歌」 2/2 一人一人の心に向けた反戦思想

「わたし」は、マルスの歌を耳にするたびに拒否反応を示す。それは戦時中に反戦を主張することであり、平和な時代から見れば、それこそが正当な抗議あるいは抵抗であり、勇気ある正義の行為であるとみなされて当然だろう。

しかし、冬には冬用の服を着るのが普通であり、季節が変わっても夏服を着ていたら、寒さで命を落としてしまうとしたらどうだろうか。冬に夏服を着ている人間は、周囲から奇異の目で見られ、相手にされないだろう。同じように、戦争という季節の中で、国を守るためであれば多くのものを犠牲にし、最終的には命をかけても仕方がないと考える人々が数多くいたとしても、驚くことではない。

石川淳も、そのことは十分に意識していたはずである。実際、「わたし」以外の登場人物には、反戦の思想を持っていると思われる人間は誰もいない。街頭や食堂に集う人々はマルスの歌に声を合わせ、心の中でも戦争という季節にふさわしい服を着ている。ごっこ遊びの末に死ぬ冬子の思想は不明だが、帯子は「ばんざい」を叫び、三治は軍に召集されることを当然のこととして受け入れる。彼らが国家の方針に反発を示す様子は見られない。

しかし、「マルスの歌」という小説の本当の狙いは、「わたし」に身近な人間たち、つまり、戦争という季節にふさわしい服を着ている普通の人々の中に、本人たちにも意識されていないであろう戦争に対する拒絶を浮かび上がらせることにあったのではないだろうか。それは、言論統制が行われ、自由な意思を表明することが困難な時代に、石川淳という作家が、多数派の勢いに流されるのではなく、静かに反対の意思を表現する、非常に巧みな仕掛けにほかならない。

その仕掛けの中心に置かれるのは、「死」である。戦争は死に直結する。非常に大まかな数字ではあるが、第二次世界大戦中の日本では、軍人約230万人、民間人約80万人が死亡したという推計もある。太平洋戦争末期の沖縄戦では、県民の約4分の1が死亡したといわれている。冬子の死は、戦争における死とは異なる。だからこそ、冬子の死を通して、戦争における死とは何かという問いが浮かび上がってくることになる。


冬子の死が密かに告げる反戦

帯子の場合

まず最初に、冬子の死について語る帯子の言葉から、戦争における死の現実を理解しておこう。

その死の原因は明確にはわからないのだが、冬子は以前から夫とたびたびごっこ遊びをしており、ガス自殺もその遊びの一環だったのではないかと考えられている。その死について、帯子は「わたし」にこう言う。

今みたいに、遠くで死にたくないひとが毎日だくさん死んでいるときに、なんとなく自分勝手に死んじゃうなんて・・・(石川淳「マルスの歌」)

この言葉は、帯子の素直な気持ちから出てくるもので、嘘偽りはない。そして、そこからふと漏れ出てくるのは、戦場で命を落とす人々も、実は「遠くで死にたくないひと」なのだという思いである。

もしかすると、この言葉は、石川淳が読んでいたかもしれないアランの『マルス 裁かれた戦争』に通じるものかもしれない。「ノーと言うこと」と題された章には、戦争で犠牲になるのは、「ただ生きることしか望まない多くの慎ましい人々」であるという一文が見られる。

実際、こうした表現は、戦場の兵士を英雄や犠牲者という抽象的な存在としてではなく、具体的な一人一人の人間として感じることを可能にする。召集令状を受け取った若者たちは、死を覚悟して戦場に赴き、敵と戦い、見ず知らずの人々を敵とみなして殺害し、そして、自らもいつ命を落とすかわからない状況に置かれる。彼らを送り出す側も、涙を流しながら「ばんざい」と叫んで励ますことで自分たちを納得させる一方、戦地での安否を心配しながら日々を過ごし、死の知らせを受け取れば、ただ涙を流して悲しむしかない。そして、そうしたすべてが「お国のため」という理由で正当化され、人々もそのように思わざるをえなくなる。そう思うことで無理にでも納得しなければ、すべての苦しみや悲しみが無駄だったということになり、とても受け入れられないからだ。

そうした現実を前にして、冬子は何の理由もなく、死を遊びのように扱い、ガス自殺をしてしまう。その意味のない死が、逆に、戦場で命を落とす人々は決して自ら望んで死ぬわけではないという現実を浮かび上がらせる。そして、「死にたくない」という気持ちこそが本心であり、その本心を白日の下にさらすことは、「わたし」がマルスの歌を拒否することよりも、はるかに有効な反戦の表現になりうる。冬服を着ている人々も、心の中では夏服を着ていることを明らかにすることで、季節そのものを夏に変えてしまうかもしれないのだ。

実は、冬子の死には、もう一つの仕掛けも施されている。帯子が冬子の家を訪れたとき、玄関も裏の戸口も閉まっていて、中に入ることができなかった。女中も家の前でうろうろしている。そこで台所の窓の隙間から中を覗こうとすると、ガスの匂いがする。そのとき、ガラス窓を割って中に入っていれば、姉を助けることができたかもしれない。しかし、帯子はガスの匂いをネギの匂いだと自分に言い聞かせ、女中にも心配しなくていいと言って家に帰らせるなどして、その場を立ち去ってしまう。そして、「わたし」のアパートに飛び込んできて、姉が死んだと告げたのだった。

その際のやり取りの中で、「わたし」は当然、ガスの匂いがしたときに、硝子戸を割って助けようとしなかったのかと問いかける。

たちまち帯子はばっとわたしの膝の上に突っ伏し、爪を立ててわたしの腿をつかんで、からだを波打たせてすすり泣きはじめた。「なんて根性まがりな、罰あたりな帯子。あのときすぐなら、きっと間に合ったわ、きっと助けられたわ。あたしどんなことしても、ねえさんを助けなけりゃならなかったんだわ。それを、それを…..」と泣きじゃくって、「判らない、どうして逃げ出したんだか判らない。」(石川淳「マルスの歌」)

この言葉もごく自然なもので、本心から出てきている。彼女の行動は、理性的に考えれば納得のいかないものだろう。しかし実際、帯子は窓ガラスを割って姉を助けようとはしなかった。後になって「なぜ?」と自分を責めるのは、自分がすべきことをしなかった経験があれば、誰にでも理解できることだろう。

では、冬子の死を「遠くで死にたくないひと」の死に置き換えると、どうなるだろうか。三治の場合で考えてみよう。

妻の葬儀の日に召集令状を受け取った三治は、本人としては「かねて用意はしていました」と述べる。それに対して、人々は「色ありげな文句を口の中で噛みながら、しばらくは何もいえないでいた」。つまり、三治の死の可能性を前にして、そこにいる人々は、姉の死を前にした帯子と同じように、動員に反対し、彼の命を危険から遠ざけるような行動を取ることはない。

もちろん、国家の体制が徴兵制である以上、個人の意思でどうにかできる問題ではない。「あのときすぐなら、きっと間に合ったわ、きっと助けられたわ」という帯子の状況とは異なる。帯子が姉を助けなかったことへの悔恨は、彼女自身の行動に対するものだが、三治を送り出す人々の責任は、徴兵制という制度のもとで、個人の力ではどうにもならない。したがって、両者の責任のあり方が同じというわけではない。しかし、親しい人々が集まる場面においても、誰一人として兵役を拒否する可能性を口にする者はいない。その点で、人々は心の中で、死の危険という現実から目を背けていると言ってもいいだろう。

その意味では、姉の死を前にした帯子と、三治の出征を知った人々の行動は重なり合っている。そして、その同調を暗示する行動を、帯子自身も取っていた。「わたし」のアパートで姉の家のガス漏れについて語っているとき、窓の外からマルスの歌が聞こえてくる。そのとき、帯子は街頭に集う群衆の歓声に合わせ、右手を高く上げて「ばんざい!」と叫ぶ。それは、冬子の死と、出征する兵士たちの死の可能性とを重ね合わせる振る舞いである。つまり、助けることのできない人々に向かって「ばんざい」という言葉を投げかけることで、本心では受け入れがたい現実を納得しようとする行為だといえる。

そして、この重ね合わせもまた、非常に微妙な形で反戦を訴えることになる。「遠くで死にたくないひと」を「ばんざい」という言葉で送り出す。そのことを自覚すれば、姉の死に対して帯子が負い目を感じるように、人々もまた、送り出した人々の死に対して言い訳ができなくなるのではないだろうか。そうなれば、安易に若者を戦場に送り出すことなどできなくなるだろう。

三治の場合

三治は、妻のごっこ遊びに快く付き合っていたことについて、冬子の死に責任を感じている。最初は、芝居の本に書いてあった「聾(ろう)の真似をするのもいいが、度を越すといのちにかかわる」という言葉の意味を問いかけるところから始まり、聾の真似をし、盲(もう)、跛(びっこ)、そして自殺の演技へと続いていった。そうした遊びをしているときの妻は、三治には非常に美しく、健康に見えていたのだという。その結果、冬子はガス中毒で命を落とすことになった。

ごっこ遊びの話を聞いて、葬儀の列席者たちは思い思いのことを言うのだが、その最後に発せられた言葉は、戦争の季節に生きる人々の状況を暗示するものでもある。

一般に、ある状態に置かれたとき、個人の意志とか感情とかがもののいえなくなる場合がある。その状態に置かれた各人がこれはいかんと思ったにしても、どうにもならんことがある。流行歌が巷を風靡しているときなども、そういう状態を現出するね。流行の中で、みんながつなぎ合わさっているからな。たとえば目下大流行の、あの『マルスの歌』にしても・・・・・・(石川淳「マルスの歌」)

この言葉は、個人の意識がどのようにして集団の意識に染め上げられていくのかを、非常にわかりやすく説明している。流行歌や、ここでは話題になっていない映画なども、多くの人々を一つの方向に向かわせる強力なメディアなのだ。そこに描かれているのは、石川淳が「マルスの歌」を執筆した時代の空気そのものにほかならない。

そして、その代表として『マルスの歌』の名前が出される。すると列席者たちは一気に気持ちが高揚したらしく、興奮して、戦争に関して思いつくことを一斉に話し始める。その場面は、まさに一つのメディアが人々を熱狂の渦に巻き込んでいく様子を再現している。

その状況を前にして、三治は激しい拒絶の意を示す。

「あぁ」とうめきながら三治は前に突っ伏していた。「ぼくがわるかったんだ。」そして、うろたえた不審の声が頭の上に舞い落ちるのを振り払って、むっくり起き直り、元の正しい姿勢にもどって「ぼくの愛がたりなかったんです。」「え。」「ぼくは今あなた方のおしゃべりを聞きながら、率直にいうと、あなた方を憎みはじめました。あなた方はただ冬子の死を、死因を、おもしろがっているだけなんだ。冬子の宿命とぼくの苦痛の上で、はなしの花を咲かせているだけなんだ。しかし、ぼくも ….. ぼくもやっぱりあのかわいそうな冬子の物真似をおもしろがっていたんだ。一分の隙もなく生活が何かでいっぱいになっていれば、だれが壟の真似なんぞするもんか。たしかにこの家のどこかに見えない隙間があって、ぼくがそれを満たすことができず、それに気がつきもしなかったんだ。ああ、かわいそうな冬子 …… ぼくの愛がたりなかったんです。」(石川淳「マルスの歌」)

ここには、二つの事柄に対する怒りが込められている。一つは、列席者たちが『マルスの歌』をきっかけにして語る戦争について、無責任な発言を繰り返すことに対する憎しみである。「話の花を咲かせているだけ」という言葉には、戦争責任を微塵も感じることなく、戦争をおしゃべりのきっかけにしている人々への非難が込められている。

その一方で、夫としての責任を感じる三治が「ぼくの愛がたりなかった」と繰り返す言葉には、ごっこ遊びを続けながら、現実の生活に何か欠けたものがあることに気づかなかった自分への反省がある。ここでは、現実の生活の中で何が欠けていたのかは明示されていない。しかし、冬子の死の原因が現実の生活の中にあったことを暗示している。そして、その原因を自らの愛の不足に求めることで、三治は妻の死に対する責任を自ら引き受けようとしている。

この二つの視点を通して、戦争における死に対してまったく責任を感じることなく、戦争の話に花を咲かせる人々と、近親者の死を自分の責任として受け止める一人の人間との違いが明確になる。ここには、戦争における死は国家の責任であり、自分たちはあくまでもそれを容認しているだけで、直接の責任はないとする立場もある。それは、それなりに一理ある考え方だといえるだろう。

しかし、石川淳は、そうした人々の姿勢を見過ごさない言葉を、帯子の口から発せさせた。彼女は三治に「そんなこといっちゃいけない。そんなことは外に出すと壊れちゃう」といたわる一方、口をつぐむように促す列席者の一人に対して、激しい調子で反論する。

ここで、あなた方は何をいうことがあるんです。勝手に愉しく『マルスの歌』のおしゃべりをしていらっしゃい。それがどんなものだか考えてみもしないで。そんなに好きな歌なら、本気になって歌ってごらんなさい。さぁ、みんなで『マルスの歌』を合唱してごらんなさい・・・・・(石川淳「マルスの歌」)

『マルスの歌』を「そんなに好きな歌なら、本気になって歌ってごらんなさい」というこの言葉は、街頭に流れるその流行歌を聞くと自然に心を躍らせる人々に対する強烈な非難になっている。また、「わたし」のアパートで姉のガス自殺の様子を語った際、外から聞こえてきたその歌に向かって「ばんざい」と叫んだ、帯子自身に対する非難でもある。

季節に合わせて、それと意識することなく冬の服を身にまとうこと。それはごく普通のことに思われる。しかし、そのことによって死への扉が開かれるとしたら、たとえ個人の力では変えることのできない状況であっても、冬服を着る人々に拍手を送るべきではない。もし拍手するのであれば、自分の行為に責任を持たねばならない。それが、帯子の言葉に込めた石川淳の思想だといってもいいだろう。

こうした責任を問う姿勢は、マルスの歌に心を躍らせる人々に対する痛烈な批判であり、直接的に反戦を訴えるよりもずっと重く、反戦の感情を人々に伝えるものではないだろうか。


マルスの歌ではない季節の中で

伊豆半島北部を示す地図上の赤い位置ピン

「マルスの歌」の後半では、三治と帯子が伊豆へと向かい、「わたし」が親戚から依頼されて二人の様子を見に行く場面に費やされている。

伊豆半島の西側の付け根にある三津(みと)までたどり着いた「わたし」は、船で沖に出た二人を待ちながら、駿河湾の海を眺める。そこには、雲一つなく晴れ渡った空の下、太陽の光を受けて輝く海面や、岬から鮮やかな緑の葉を茂らせる大木など、自然の美しい光景が広がっている。

わたしは縁台にかけてぼんやり煙草をすいながら、先刻から何かを感じているような気がしていたが、きわめて簡単なものが見つからぬもどかしさで、その何かの前に戸惑いしているかたちであった。そして、それが秋だとさとるのにちょっと間があった。あぁ、季節。たしかに、今わたしが浸っている季節は『マルスの歌』のそれではないのだ….(石川淳「マルスの歌」)

青い海と空を背景に、緑に覆われた島と遠くの雪山を望む海岸風景

「わたし」は、東京で感じていたものとは違う何かを感じているのだが、最初はそれが何なのかわからない。しかし、しばらくして、美しい光景の中に身を置いている自分が、秋という季節に浸っていることに気づく。そう、この季節は秋なのだ、と。そして、その秋は、日本全体を覆っているマルスの歌の季節ではないと感じる。

さらに付け加えれば、三津の美しい自然が秋を感じさせるものだとすれば、それとは異なるマルスの歌の季節は、自然とは異質なものだという推論も可能かもしれない。東京の街路は人工的で、人や物であふれている。自然の中に身を置くことで感じられる秋と、人工的な都市空間を覆うマルスの歌の季節。その二つの対比が、ここで明確にされているのである。

三治と帯子の場合

三治と帯子が伊豆に向かったのは、赤紙を受け取った三治が、召集先の宇都宮に行くまでに五日の猶予があり、その間の二、三日を「うんと遊んで」過ごすためだった。二人は船を仕立てて対岸の辺りまで一周したり、豪華な外車を乗り回したり、豪華なホテルに泊まったりと、海や山を満喫しながら時を過ごす。

三治の入隊を目前にしてのこうした行動は、冬子の死と関係していると考えることができる。葬儀の席で、三治は、「この家のどこかに見えない隙間があって、ぼくがそれを満たすことができず、それに気がつきもしなかったんだ」という言葉を口にしていた。今、冬子の妹である帯子と連れ立ってしていることは、冬子にはしてあげられなかった、生活を愛で満たすことによって隙間を埋めること、といってもいいだろう。

二人がそうした時間を過ごすことができるのは、出征までの空白期間であり、その間はマルスの歌の季節ではないからだ。

三治は、「ひとりだったら、もっとこわいような気がするだろうな。いそがしくなりかけたところで、気持ちがひやりとしそうで、やっぱりだめだろうな。オビイがいっしょに来てくれて、よかった」と言う。これは、秋の季節であっても、どんなに忙しく過ごそうとしても、一人でいたら、マルスの歌が頭の中に聞こえてくるかもしれないという恐れから出た言葉だろう。それに対して、帯子も、「全然競争なの。おたがいに抜きっこしているみたい」などと語り、二人で競うようにして隙間を埋めようとしていることを明かしている。

そして、三治の最後の言葉が、戦争とは何かを逆説的に伝える。

もう危険が危険でなくなって来た。ここでは、宇都宮まで、何をしたって安全でしかないという気がする。(石川淳「マルスの歌」)

何気なく発せられた言葉だが、三治の意識の中では、宇都宮以降の生活は安全とはほど遠く、常に死の危険を伴うものだという認識があることがわかる。

こうした三治と帯子の言葉は、明確に反戦を訴えるのではなく、むしろ無意識のうちに人々が戦争に対して抱いている恐怖を明らかにする。そして、その恐怖をあえて意識化することが、言論統制下において可能な反戦表現となる。

「わたし」の場合

「わたし」は常にマルスの歌に反発し、明確に、そして露骨に、反戦思想を表明している。そのことが、一般に「マルスの歌」が反戦小説だとみなされる要因になっている。しかし、石川淳が昭和12年当時であっても「これくらいはいける」と考えていたとすれば、「わたし」の態度が周囲から受け入れられないものであることも描いているからではないかと考えられる。

冬に夏服を着ているような、季節感のわからない人間など、誰からも受け入れられない。そのことは、「わたし」を周囲から受け入れられない人物として描くことで、反戦を表明することの困難さも示している、という解釈にもつながいうる。

ただし、秋に心を動かされる「わたし」の場合には、根底に流れる反戦の意識は同じでも、その表現の仕方は違ってくる。その意味では、むしろ三治や帯子の表現に近いものになる。

三津の海岸の美しい景色の中で、沖合に浮かぶ三治と帯子の乗った船を望遠鏡で探す場面は、その一つの例だといえる。望遠鏡を上空に向けると、彼方に富士山が見える。

ふと北のほうの空を見上げると、どうしてもっと早く気がつかなかったのかと思われるほど大きく、高く、空いちめんを領して、非常にはっきりフジが浮き立っていた。しかし、頭脳にたたかいを挑むべき何ものもあたぬこの山の形容を元来わたしは好まないたちなので、いかにそれが秀麗らしく見えようとも、なおさら感心するわけにはゆかなかった。ほとんど視野からそれを追いのけるために、わたしは望遠鏡で沖を眺めはじめた。(石川淳「マルスの歌」)

ここではあえて「富士」と書くことなく、カタカナで「フジ」と記され、印象を弱めようとする操作が行われているとも考えられる。しかし、富士山に対する一見いわれのない反発は、唐突の感を免れない。

地球儀と「GUERRA」の文字、映画会社のロゴが並ぶモノクロのタイトル画面

ところが、戦争の時代、富士山は日の丸とともに日本の象徴として用いられていた。例えば、昭和12年(1937年)に公開された日独合作映画「新しき土」でも、タイトルの背景に富士山が使われている。こうしたことを踏まえれば、「頭脳にたたかいを挑むべき何ものもあたぬ」という表現が、マルスの歌に高揚する人々を暗に指しているということも推測できるだろう。戦争に対する責任感を持たないだけではなく、頭脳を働かせることもないという、激しい批判なのだ。

「フジ」がいかに美しい形をしていても、「わたし」が心を動かすのは、海辺の「澄み透った水のちょろちょろするせまい汀(みぎわ)」であり、そこでこそ秋の季節が感じられる。ここには、そうした秘められた形での反戦の意識が込められている。

。。。。。

三津の水族館で目にする見世物は、メジマグロを釣り上げる練習とイルカの曲芸の二つだが、「わたし」はそのどちらにも批判的な視線を向ける。

生け簀の中のメジマグロは、光を反射させながら、美しく泳いでいる。一人の男がそこに竿を投げ込み、見物人たちに釣りの仕方を見せた上で、実際にやってみるように促すと、二、三人がそれを試みる。しかし、なかなかうまくいかず、周囲の観客たちは笑い声を上げている。

こうした光景をぼんやりと眺めている「わたし」は、見物人たちについて、「知恵の足りない自分を見失い、平常のおかしな身振りを忘れて、しばらくうっとりするのだろう」といった非難を浴びせる。

しかし、「わたし」がなぜそのような非難をするのか、ここでは理由がわからない。うまくいかない釣りの場面を見て笑う観客たちに対して、「知恵の足りない」などと悪口を投げかけるとしたら、「わたし」の方が嫌な奴にすぎないようにも思われる。そうならないためには、その悪口の理由が明らかにされる必要がある。

それを説明するのが、イルカの曲芸の場面だといえる。人気者のイルカのショーには人だかりができている。イルカは、餌が投げ込まれると、水に潜ってその場所まで泳ぎ、巧みに餌を捕らえる。その姿を見て、「わたし」は「軍用犬の訓練」を連想する。つまり、イルカの曲芸が軍用犬の訓練を思わせることで、水族館の見世物が軍隊の訓練を連想させるのである。だからこそ、無邪気に見物している人々に対して、「わたし」は、何も考えていないという非難の言葉を投げかけたのだった。

そのように考えると、水族館での二つの見世物は、秋であるにもかかわらず、マルスの歌の季節であることを疑うことなく、マルスの繰り出す芸当を笑いながら見ている人々への皮肉、あるいは非難を込めた場面だといってもいいだろう。

マルスの歌を歌う側だけではなく、それを聞いて歓声を上げる側にも、それなりの責任はある。そのことに無自覚であることへの警告も、反戦の声の一つとなる。


変なはなし

戦後になって、なぜ戦争中に軍国主義に反対しなかったのかと問われ、心の中では反対していたけれど、声に出すことはできなかった、と答えるのはごく自然なことだし、それを嘘だと言うこともできない。内心の問題について、その正誤を他者が決めることはできないからだ。

しかし、例えば、第二次世界大戦の最終盤になると、日本国内では「一億玉砕」といったスローガンが掲げられ、アメリカ軍が本土に上陸したら、死を覚悟して戦うのだといったことが言われていた。それは、今から考えればあまりにも馬鹿げたことなのだが、当時、そのスローガンが当たり前のこととして受け入れられていたのも歴史的な事実である。それを証明するかのように、戦後すぐには「一億総懺悔」といった言葉も用いられた。主張は正反対なのだが、「一億」という数はそのままであり、国民全員が一致して一つの方向に向かうという意味では、まったく変わりがない。(ちなみに、戦中の日本の人口は約7000万人であり、後の3000万人は、朝鮮半島や台湾の植民地、東南アジアの占領地の人々を含めた数だった。)

こうした状態が起こりうるのは、戦後になって「だまされていた」と発言する人々がいたとしたら、彼らは意識しないまでも、「だまされたいとみずから望んでいたから」ではないかと、加藤周一は「戦争と知識人」の中で推測している。

昭和12年、日中戦争が始まった後に発表された「マルスの歌」は、当時の日本で流通していた、戦争へと向かう国家の高揚感に対して、いかに「ノー!」と言えるかを試みた作品だといえる。そして、ここまで見てきたように、「わたし」だけではなく、一見反戦的ではない帯子や三治を通しても、戦争に対する拒否感を読者に伝えようとしたのだと考えられる。

その中心にあるのは、多くの人々は、時代の季節に合わせた服を着るのが当たり前であり、その理由や意味を自らに問いかけることはない、ということだといえる。このテーマが明確にされるのは、三治の口を通してである。彼は、冬子の葬儀の際に、二人で続けてきたごっこ遊びについて、次のように語っている。

変なはなしだと思われるかも知れません。まったく変なはなしです。しかし、それを変だと思わないほど、ぼくは日常そのことに慣れっこになっていたんです。いや、そうじゃない。今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです。(石川淳「マルスの歌」)

ごっこ遊びなど「変なはなし」だとしても、それをしている間は「慣れっこ」になっているために、変だとは感じられない。それを変だと思うのは、後になってからなのだ。

昭和12年(1937年)の時点で、石川淳は、昭和20年(1945年)の終戦後の日本人の反応をすでに予感していたと言えるほど、三治のこの言葉は的を射ている。「今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです」。これこそ、マルスの歌に心を躍らせていた人々が、敗戦後につぶやいた心の声だと言ってもいいのではないだろうか。

他方、マルスの歌に拒否反応を示す「わたし」も、三津の水族館でメジマグロ釣りを見ている観客を見て、「知恵の足りない自分を見失い」などと思った後、彼らだけではなく、自分も含めたすべての人々を変だと思い始める。

まったく三治といい、帯子といい、プラットフォームのカーキ服といい、列車の乗客といい、このわたし自身といい、おかしいと思い出すと際限なくおかしく見えて来た。しかも、たれひとりとくにこれといって風変りな、怪奇な、不可思議な真似をしているわけでもないのに、平凡でしかないめいめいの姿が異様に映し出されるということはさらに異様であった。(石川淳「マルスの歌」)

三治は、冬子の死という現実に直面したとき、それまでのごっこ遊びがおかしかったことに気づく。他方、「わたし」はマルスの歌の季節に常に違和感を抱いているために、その時代を生きるすべての人々が「際限なくおかしく見え」るのだといえる。もっと言えば、ここにいる人間たちだけでなく、その季節自体がおかしいと思われるのである。

『マルスの歌」の季節に置かれては、ひとびとの影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか。この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう。ひとびとを清澄にし、明確にし、強烈にし、美しくさせるために、今何が欠けているのか。ここでも先刻茶店で秋を探りあてたときのように、何か非常に判然としたものの前でわたしは惑い、焦れ、平静をうしなっているようであったが、やがてその何かが遅く来て、しみじみと、根強く、隙間なくわたしのうちに満ちひろがったとき、そんなにも判りすぎているもののまわりに足踏みしなければならなかった自分が迂闊に鈍物に見え、わたしはたいへん恥かしく、ひとりでに顔が赤くなった。思想、あぁ、思想……はげしくのどが乾いて来た。(石川淳「マルスの歌」)

「在るべき位置」とは平和であり、戦いではない。その戦争と平和の対比は、「光線がぼやけ、曇り、濁り」と「清澄にし、明確にし、強烈にし、美しくさせる」という、美的な表現によって示される。そして、誰もが平和を望みながら、マルスの歌の季節には、そうとは意識しないままに、光から闇へとずれていってしまう。

二つの対比は、三津の海岸でも体験したことだった。その美しい風景を目にして、「わたし」は何かを感じているような気がするのだが、それが何なのか、最初はわからないでいた。そして、しばらくして、自然が伝えているのが「秋」だと気づくことで、「今わたしが浸っている季節は『マルスの歌』のそれではない」と悟る。

季節の例を挙げながら、ここでは、「そんなにも判りすぎているもの」として、「秋」に代わって「思想」という言葉が提示される。

石川淳は、この小説の中で、それ以上に「思想」という言葉の意味を説明してはいないのだが、それは「わたし」という一人の人間が抱く「内心の思い」と言い換えてもいいだろう。

マルスの歌の流れる街頭では「国家」の方針が大々的に伝えられ、「国民精神総動員運動」の中で、「挙国一致」「減私奉公」「欲しがりません勝つまでは」「聖戦だ 己れ殺して国生かせ」といった言葉が人々の心の中にまで入り込んでいった。そうした「国民精神」ではなく、「わたし」自身の精神の根源となるものが、ここでいう「思想」なのだといえる。最後の標語をもじって言えば、「己を生かして国を生かせ」ということになる。

戦争が終わってから、三治が冬子の死の後で口にしたように、「今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです」と言っても、後の祭りになってしまう。そうならないためには、マルスの歌の季節にあっても、一人一人の人間が「思想」に飢えることが必要なのだ。そして、「NO!」と言うこと。


プロパガンダ映画の反戦

私たちはしばしば、後から振り返ると変だと思うことを、そのときには変だと思わずに通り過ぎてしまうことがある。石川淳はその点を浮き彫りにするのだが、そのことを最も強烈に伝えているのは、小説を書こうとしてなかなか筆が進まない「わたし」が、居眠りをするために入った映画館で見た映画である。

その映画は、軍国主義のプロパガンダともいえるものであり、巨大な軍艦から砲撃がなされ、攻撃された土地からは煙が吹き上がっている。次に場面が変わり、村落の平和そうな光景が映し出される。

すると、場面が変って、そこに水辺に楊柳(ようりゅう)のある村落のけしきで、なかば壊された農家の前に笑い顔をした壮丁(そうてい)のむれがつどい、真中に一人年長と見えるのが椅子にかけて、これはとくにゆたかに影をそよがせて笑いながら両手を前に突き出していたが、その逞ましい手の下に小さいあたまを圧しつけられて、まさしく壮丁らとは国籍を異にするところの二人の子供が立っていた。それはまさに平和的な光景らしかった。だが、郷土の山河と他国人の笑のうちにあって、この二人の子供の顔には、涙とか憂鬱とか虚無感とか、絵に写せば写せるような御愛嬌な表情はなかった。かれらは切羽つまった沈黙の中で率直にNO!とさけんでいた。あぁ、かれらのNO!を前にして、わたしのNO!の微弱低調なひびきなどなにものだろう。(石川淳「マルスの歌」)

もし反戦を語るのならば、この映画の場面ほどそれにふさわしいものはない。砲撃をしているのは日本軍であり、平和に見える光景は、その攻撃の結果にほかならない。そして、勝った側では、徴兵されて軍役を果たす男たちや、彼らの中で年長者として振る舞う男のように、悠然と平和を享受する気分に浸っているのかもしれない。

しかし、占領された側では、二人の子供の頭に置かれた手が象徴するように、支配する側は子供たちを可愛がっているつもりなのかもしれないが、子供たちにとっては、それは抑圧そのものである。自分たちの土地を武力で支配する者たちは、拒絶する対象でしかない。だからこそ、二人の子供は「NO!」と叫ぶ。

これが「変なはなし」であるのは、こうした映像と音声が、何の矛盾もないかのように堂々と映画館で流されていることだ。それは日本軍の勝利を描いた光景であり、国策映画の一つだったのだろう。ここでは観客たちの反応は書かれていないのだが、人々もこの映画を見て、日本軍の活躍に心を躍らせ、映画館を後にしたことだろう。そうした中で、子供たちの「NO!」の叫びに心を動かされた人は、ほんの少数にとどまったのではないだろうか。マルスの歌の季節には、人々はその「変なはなし」を「何とも思っていなかった」に違いない。

石川淳の「マルスの歌」は、まさにその「変なはなし」に「慣れっこ」になることなく、おかしいと思うことに気づかせようとする。その意味で、言論統制の時代に、国家の政策に対して真正面から「ノー」を突きつけて弾圧されるのではなく、むしろ読者一人一人の心の中に、映画の中の子供たちの「NO!」に反応する感受性をひそかに生み出そうとする小説だということができるだろう。

「わたしのNO!の微弱低調なひびきなどなにものだろう」と述べる「わたし」は、自らの「NO!」を謙遜しているように見える。しかし、「マルスの歌」は現在でも優れた反戦小説であり続け、また、時代の同調圧力に対する抵抗力を養うことを可能にする作品だといえる。だからこそ、今こそ読むべき作品だと、私は言ってみたい。

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