シャルル・ペロー 「赤ずきんちゃん」 Charles Perrault « Le Petit chaperon rouge » 子ども用の昔話 2/3

Le Nain, Christ enfant méditant sur la croix de Rouillac

赤ずきんちゃんは狼と話をするのが危険だとは知らず、素直な受け答えをする。

La pauvre enfant, qui ne savait pas qu’il était dangereux de s’arrêter à écouter un Loup, lui dit :
« Je vais voir ma mère-grand, et lui porter une galette avec un petit pot de beurre, que ma mère lui envoie.

可哀想な子供は、足を止めて狼の言葉に耳を傾けるのが危険だと知らなかったので、こう答えた。
「おばあちゃんに会いに行くの。ガレットをバターの小さな壺と一緒に届けるの。母さんが持っていけって。」

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シャルル・ペロー 「赤ずきんちゃん」 Charles Perrault « Le Petit chaperon rouge » 子ども用の昔話 1/3

赤ずきんちゃんの物語は誰でも知っている。
しかし、その話が世界で最初に活字になったのはルイ14世の時代のフランスだった、ということはあまり知られていない。

フランスに古くから伝わる民話を、パリのサロンやヴェルサイユ宮殿の貴族の娘たち向けに語り直したのは、シャルル・ペロー(Charles Perrault)。

ペローの「赤ずきんちゃん(Le Petit chaperon rouge)」では、物語は、狼が赤ずきんを食べたところで終わる。
狩人が現れ、狼のお腹の中から赤ずきんちゃんを助け出される結末は、19世紀前半にドイツのグリム兄弟が付け足したもの。

結末の違いは、物語が伝えるメッセージに関係する。
ペローでは、最後に教訓(moralité)が付けられ、読者として対象にするのは誰か、物語から何を学ぶできかが、明らかにされている。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 4/5

「10月の夜」の第4回目の記事。
「イリュストラシオン」誌の1852年11月6日に掲載された。

語り手は、場末のパリを離れ、郊外の町モー(Meaux)に向かう。そして、その夜、奇妙な出し物を見たおかげで、とても変な夢を見る。
回廊を歩き回ったり、モーの市長が出てきたり、ドイツ風の土の精霊達が彼の頭蓋骨をハンマーで叩いて、分解したり・・・。つじつまが合わない夢が続く。
翌朝5時に目を覚まし、ホテルを出て、マルヌ川沿いの景色を眺めながら、前夜のことを考えたりする。

「10月の夜」は、レアリスムを標榜し、目に入るものをそのまま描くだけで、結末のある物語を語らないというのが、最初の原則だった。
ネルヴァルは、ユーモアと皮肉を込めながら、その実践をしていく。

夢はもともと脈絡がなく、何が起こってもいいし、意味がわからない。
実は、現実も本来は夢と同じようにただ出来事が続いていくだけなのだが、私たちは無意識のうちに脈絡や整合性を作り挙げて、何となく理解している。
ネルヴァルの実験は、そうした現実や夢を、あるがままに記述していくことにあった。
従って、読んでいて、何を意味しているのかわからなくなることがある。しかし、それがネルヴァルの「10月の夜」における戦略。
読者は、彼の言葉遊びやユーモアを持った語りに、にやっと笑ったり、多少困惑しながら、ついていくしかない。

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ラシーヌ 『フェードル』 Racine Phèdre 理性と情念の間で 2/3

第2幕、第5場は、フェードルがイポリットに自分の愛を明かす場面。
義理の親子の関係にあるために、直接愛を告げることはできない。そこで、フェードルは、夫テーセウス(thésée)に対する愛を語りながら、そこにイポリットへの想いを重ね合わせていく。

幸い、パロリック・シェロー演出の上演がyoutubeにアップされている。
そこでは、フェードルの苦しみが激しく、しかも美しく描かれている。
素晴らしい芝居なので、何度見ても飽きることがない。

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ネルヴァル 「監獄の中庭」 Gérard de Nerval « Cour de prison » 監禁の中で自然を感じる感受性

ジェラール・ド・ネルヴァルは19世紀前半のパリの詩人だが、豊かな自然に満ちたヴァロワ地方を愛し、都会の喧噪で疲れた心を田舎の自然で癒すこともあった。

そんな詩人の若い頃の詩に、「監獄の中庭(Cour de prison)」がある。
1830年の7月革命のすぐ後、サント・ペラジー(Sainte-Pélagie)という監獄の中に閉じ込められた時のことを歌った詩。
ネルヴァルという詩人の繊細な感受性がとてもよく感じられる。

現実世界の政治に対しては皮肉な眼差しを投げかける。肉体は閉鎖空間に閉じこもることを強いられることもある。
そんな中でも、精神は自由に動き、僅かな自然の気配を心で感じる。
それがネルヴァルなのだ。

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ラシーヌ 『フェードル』 Racine Phèdre 理性と情念の間で 1/3

ジャン・ラシーヌ(Jean Racine)の『フェードル(Phèdre)』は、17世紀フランス演劇の最高傑作の一つ。
この上もなく美しいフランス語の詩句によって、理性と情念の葛藤が描き出される。

そこで、『フェードル』を読む場合には、2つの軸からアプローチしたい。
1)17世紀のおける理性(raison)vs 情念(passion)のドラマ。
2)ラシーヌの韻文詩の美。

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ラ・フォンテーヌ 狼と小羊 La Fontaine  Le Loup et l’Agneau 長いものには巻かれろ?

ラ・フォンテーヌの「狼と小羊」の冒頭の一句 « La raison du plus fort est toujours la meilleure.»(最も強いものの理屈が常に最もいいもの。)は、フランス語の諺として定着している。

日本の諺では、「長いものには巻かれろ」と言われることが多いが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」、「弱肉強食」等とも対応する。
相撲界であれば、「無理へんにげんこつ」。
会社などでは、上司に「黒いものを白」と言われたら、「白」と言わないといけない等々。
間違っていることでも、自分よりも強かったり、上の立場にいる人間の言うことには従わないといけないということは、誰もが経験する。

17世紀であれば、狼はルイ14世で、子羊は宮廷人と考えると、私たちにはわかりやすいかもしれない。(ただし、ラ・フォンテーヌは、すぐに王に対する批判だとわかる寓話を書くようなそれほど単純な作家ではない。)

そうした状況の中で、ラ・フォンテーヌは、とても面白い試みをする。
一般的に寓話の教訓は、物語の最後に置かれる。
それに対して、「狼と小羊」では、寓話の最初に教訓を明記した。

Le Loup et l’Agneau

La raison du plus fort est toujours la meilleure :
            Nous l’allons montrer tout à l’heure.

狼と子羊

最も強いものの理屈が、常に最もいいものだ。
これからそのことを証明することにする。

それほど、この教訓は絶対的なものという意味だろうか。
それとも、何か繊細な仕組みがほどこされているだろうか。

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ラ・フォンテーヌ 「狼と犬」 La Fontaine « Le Loup et le Chien » 自由からありのまま(naturel)へ

イソップ寓話の「狼と犬」は日本でも比較的よく知られている。
犬は、束縛されてはいるが、安逸な生活を送る。
狼は、自由だが、いつも飢えている。
そして、イソップ寓話では、狼が体現する自由に価値が置かれる。

17世紀のフランスのサロンや宮廷は、「外見の文化」の時代。
貴族たちは、社会の規範に自分を合わせないといけないという、強い束縛の中で生きていた。服装や振る舞いが決められ、逸脱したら社会から脱落することになる。
そうした束縛が支配する場で、「狼と犬」の寓話を語るとしたら、どんな話になるだろうか。

言葉遣いの名手ラ・フォンテーヌの「狼と犬」では、教訓は付けられていず、「狼は今でも走っている。」という結末。
そこで、読者は、自分で教訓を考える(penser)ように促されることになる。

束縛ではなく自由を選ぶと言うことはたやすい。
しかし、実際に自由に生きることは簡単ではない。そのことは、ルイ14世の宮廷社会に生きる貴族たちも、21世紀の日本を生きる私たちも、よくわかっている。

ラ・フォンテーヌの寓話は、最初から決まった結論に読者を導くよりも、「考える(penser)」ことを促す。その意味では、デカルトやパスカルと同じ17世紀フランスの「考える」文化に属している。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 3/5

1852年10月30日発行の『イリュストラシオン』誌に掲載された『10月の夜』の第3回。

19世紀半ばのパリ中央市場付近の様子が具体的に描かれ、当時の民衆言葉も再現されているために、歴史的資料としても興味深い。

他方で、あまりにもローカルな事柄がローカルな言葉で書かれている部分もあり、現代の読者にはわかり難い部分もある。

10.焼き鳥屋

おお、真珠のように麗しい声の少女よ、――お前は、音楽院で教えられるみたいな‘楽句の区切り方’を知らない。――‘歌い方を知らない’と、音楽評論家なら言うだろう・・・。でも、ぼくはうっとりする。若々しい声の響きと、祖母たちの素朴な歌と同じように震える語尾に! お前が作った歌詞は韻を踏まないし、メロディーは‘教会音楽の4本の譜線’には書けない。―― あの小さな集いの中でだけ理解され、大喝采を浴びる。お前のお母さんに向かって、歌の先生のところに通わせろという人が出てくるだろう。―― そこに行くようになったらすぐに、お前は失われる・・・。私たちにとっては失われてしまう!―― お前は今、深淵の淵で歌っている、北欧神話の『エッダ』に出てくる白鳥みたいに。学識に染まっていない純粋なお前の声を、思い出として持ち続けることができますように! 歌劇場でも、コンサートでも、―― 歌声喫茶でさえも、お前が歌うのを聞きませんように!

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ラ・ロシュフコー 『箴言集』 全ては自己愛? La Rochefoucauld Meximes De l’amour-propre

ラ・ロシュフコーの『箴言集』のエピグラフには、こんな言葉が上げられている。

Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.

我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装された悪徳にすぎない。

ラ・ロシュフコーの箴言は、こんな風に、物事を斜に構えて眺める皮肉な態度につらぬかれている。

この17世紀のモラリストに対して、太宰治は、「ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。」と書き、物事には裏表があることなどわかっていると毒づいたことがある。
https://bohemegalante.com/2019/06/27/datai-la-rochefoucauld/

太宰が言う「人生裏面觀」は現在でも通用するが、17世紀のフランスにおいては、とりわけ必要とされるものだった。

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