マラルメ 現れ Mallarmé Apparition 悲しみの香りから香り豊かな星々の白いブーケへ

ステファン・マラルメは、フランス語の詩句の可能性を極限にまで広げた詩人と言われている。
「現れ(Apparition)」は1863年頃に書かれたと推測される初期の詩だが、すでに彼の試みをはっきりと見て取ることができる。

「現れ」で使われる詩句は、12音節(アレクサンドラン)で平韻(AABB)。フランス語の詩句として典型的なもの。
伝統的な枠組みをあえて使うのは、フランス詩に親しんだ読者には、6/6のリズムが体に染みついているからだろう。
日本語であれば、5/7のリズムに匹敵する。

フランス詩では、リズムと意味は対応するのが基本。リズムから逸脱した要素は、意味的に強調される。
マラルメはありふれた型を設定し、その内部で様々な詩的技法を駆使することで、多様なリズム感を持つ美しい詩を作り上げた。
「現れ」は、そうした詩人の試みを体感させてくれる。

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ボードレール 月の悲しみ Baudelaire « Tristesses de la lune » 新しいロマン主義?

1857年、『悪の華(Les Fleurs du mal)』を贈られたフロベールはボードレールに礼状を書き、「あなたはロマン主義を若返らせる(rajeunier le romantisme)方法を見つけたのです。」と詩集全体の総括をした。
さらに続けて、好きな詩の題名を幾つか列挙し、その中で、「月の悲しみ(Tristesses de la lune)」を挙げる。そして、そのソネの第1カトラン(四行詩)の3行目と4行目を引用した。

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の中で、エンマのロマン主義的な傾向を揶揄しているように見え、ロマン主義の批判者とも受け取れる。しかし、別の視点から見れば、彼もまた「ロマン主義を若返らせる」方法を模索したと考えることもできる。

では、詩人と小説家が同じ方向に歩みを進めていたとしたら、新しいロマン主義とはどのようなものなのだろうか。

同じ礼状の中で、フロベールはボードレールに、螺鈿(damasquinage)にも似た「言語の繊細さ(délicatesses de langage)」が、『悪の華』の「辛辣さ(apreté)」に価値を与えていて、その辛辣さが好きだと伝える。

エンマのロマン主義で批判の対象になるのは、センチメンタリスム。
それに対比されるのは、夢が消えた後の虚しさ、苦々しい想い、不快さ。一言で言えば、「辛辣さ(apreté)」。
とすれば、若返ったロマン主義は、「螺鈿の言葉を彫琢し、辛辣さから美を生み出す」ものと言えるのではないだろうか。

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モンテーニュ 子供の教育について Montaigne De l’Institution des enfants 判断力を養う

モンテーニュ(Montaigne)は『エセー(Essais)』の中で、「子供の教育について(De l’Institution des enfants)」という章を設け、教育の目的が、「判断力(jugement)」を養うことであると述べる。
子供に悪いものを見せないのではなく、いいものと悪いものを前にした時、いいものを選択する判断ができる能力を養うこと。

教師は、子供を導く者(conducteur)であり、「一杯につまった頭より、よく出来た頭(plutôt la tête bien faite que bien pleine)」の人間である必要がある。
では、よく出来た頭とは、どんな頭なのか?
モンテーニュの語る「蜜蜂の比喩」はその回答を教えてくれる。

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ヴォルテール 想像力の二つの側面 Voltaire imagination passive et imagination active

啓蒙の世紀(siècle des Lumières)と呼ばれる18世紀において、理性の光で無知を照らす道具の一つが、ディドロが中心となって編集された『百科全書(l’Encyclopoédie)』だった。
その中で、想像力(imagination)の項目を担当したのが、ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)。

17世紀にデカルトやパスカルによって誤謬の源とされた想像力に関して、ヴォルテールは二つの側面を区別する。一つは、受動的想像力。もう一つは、能動的想像力。

Il y a deux sortes d’imagination : l’une, qui consiste à retenir une simple impression des objets ; l’autre, qui arrange ces images reçues et les combine en mille manières. La première a été appelée imagination passive ; la seconde, active. 

二種類の想像力がある。一つは、対象に関する単純な印象を留めるもの。他方は、受け取った映像をアレンジし、様々な風に結び付ける。最初のものは、受動的想像力と呼ばれ、二つ目は能動的想像力と呼ばれた。

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ジャン・ジャック・ルソー 『告白』 Jean-Jacques Rousseau Confessions 誰とも違う自己を語る

18世紀後半を代表する文学者ジャン・ジャック・ルソーは、『告白(Confessions)』の中で、これまで誰もしたことがない新しい試みをすると宣言する。
その試みとは、自己を語ること。

もちろん、それまでに回想録は数多くあったし、私的な自己を語るというのであれば、モンテーニュの『エセー』も同じだった。
では、ルソーは何をもって、新しい試みと言うのだろうか。

ルソーは、彼の自己(moi)は、誰とも違っていると言う。
現代では、「私」は他の人とは違う唯一の存在と考えるのが普通だが、彼以前には他者と同じであることが「私」の価値であり、違う私に価値を見出すことはなかった。

そして、ルソーの言う「人とは違う私」の中心は「私の内面」。
彼は、個人の価値を、社会的な役割ではなく、心が感じる感情に置いた。

現代の私たちの価値観ではごく当たり前になっていることの始まりが、ルソーの『告白』にあるといっても過言ではない。

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モンテーニュ 「読者へ」 Michel de Montaigne Au lecteur 自己を語る試み

1580年、モンテーニュは、『エセー(Essais)』の最初に「読者へ(Au lecteur)」と題した前書きを付け、自分について語ることが16世紀にどのような意味を持っていたのか、私たちに垣間見させてくれる。

現在であれば、自己を語ることはごく当たり前であり、日本には私小説というジャンルさえある。
それに対して、モンテーニュは、自己を語ることの無意味さを強調する。
そして、彼が書いたことは彼自身のことなので、他人が読んでも時間の無駄だと、読者に向かって語り掛ける。

出だしから、読むなと言われれば、読者は当然読みたくなる。
次の時代のパスカルも、18世紀のルソーもモンテーニュの熱心な読者だし、現代のフランスでも読者の数は多い。

16世紀のフランス語は現在のフランス語とはかなり異なっているので、多少綴り字などを現代的にしたテクストで、「読者へ」を読んで見よう。

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ラ・フォンテーヌ 影のために獲物を逃す犬 La Fontaine « Le Chien qui lâche sa proie pour l’ombre » 想像力について

17世紀のフランスにおいて、想像力(imagination)は、人を欺く悪いものだと考えられていた。
例えば、ブレーズ・パスカルは『パンセ(Pensées)』の中で、「人間の中にあり、人を欺く部分。間違いと偽りを生み出す。(C’est cette partie décevante dans l’homme, cette maîtresse d’erreur et de fausseté […]. B82)」とまで書いている。

ラ・フォンテーヌは、わかりやすい寓話の形で、その理由を教えてくれる。
その寓話とは「影のために獲物を逃す犬(Le Chien qui lâche sa proie pour l’ombre)」。
獲物(proie)が実体(être)、影(ombre)が実体の映像=イメージ(image)と考えると、イメージを作り出す力である想像力(imagination)が、人を実体から遠ざけるものと考えられていた理由を理解できる。

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ラ・フォンテーヌ 「女に姿を変えた雌猫」 La Fontaine « La Chatte métamorphosée en femme » 自然なままで

猫は人間にとってとても近い動物なので、様々な文学作品に出てくる。
ラ・フォンテーヌの寓話の中にも、「女に姿を変えた雌猫(La Chatte métamorphosée en femme)」がある。

この寓話は、イソップの「猫とヴィーナス」が下敷きになっている。

  猫が若い素敵な男性に恋をした。そこで、ヴィーナスに自分を人間の女に変えてくれるようにとお願いした。ヴィーナスはその願いを承知すると、彼女を美しい娘に変えてやった。
  こうして若者は、娘に一目惚れすると、彼女を家に連れ帰ってお嫁さんにした。ヴィーナスは姿を変えたネコが、性質も変わったかどうか知ろうとして、二人が寝室で横になっているところにネズミを放した。今の自分をすっかり忘れてしまったネコは、ネズミを食べようと寝椅子から跳ね起きネズミを追い掛けた。ヴィーナスはこの様子に大変失望して、ネコをもとの姿に戻した。
  悲しいことだが、生まれ持ったものは変えられない。

この話をラ・フォンテーヌはどのように変形し、17世紀のサロンや宮廷のエスプリに溢れたものにしたのだろうか。

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猫の詩人 シャルル・ボードレール Charles Baudelaire, poète des chats その4 散文詩「時計」 « L’Horloge »

散文詩集『パリの憂鬱』に収められている「時計(L’Horloge)」は、猫の目を見つめて時間を知るというエピソードから、愛する女性の瞳の中で発見される不思議な時間へと展開する詩。
最後に詩人自身によって、それが恋愛詩であると告げられる。

詩人が愛する猫(女性)の中に見つける時間がどのようなもので、その詩がなぜ愛の告白になるのだろうか。

        L’HORLOGE

  Les Chinois voient l’heure dans l’œil des chats.
  Un jour un missionnaire, se promenant dans la banlieue de Nankin, s’aperçut qu’il avait oublié sa montre, et demanda à un petit garçon quelle heure il était.
  Le gamin du céleste Empire hésita d’abord ; puis, se ravisant, il répondit : « Je vais vous le dire ». Peu d’instants après, il reparut, tenant dans ses bras un fort gros chat, et le regardant, comme on dit, dans le blanc des yeux, il affirma sans hésiter : « Il n’est pas encore tout à fait midi. » Ce qui était vrai.

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 5/5

『イリュストラシオン』誌1852年11月11日に発表された「10月の夜」の連載5回目の記事。(最終回)

モーでメリノの髪の女性の出し物を見、その影響で変な夢を見た後、語り手は再びその出し物について語る。
その過程で、彼が語ることが実際にあったのか、それともなかったのかといったこと等、言葉と現実の関係について考察しながら、面白可笑しく体験談を綴っていく。

ネルヴァルの想定していた読者は、同じ話題を共有し、ツーカーで話が通じる人々。そのために、21世紀の日本の読者には馴染みのないことも多く出てくる。従って、たくさんの注をつける必要が出てくるが、ネルヴァルの語りの面白さ(ユーモアと皮肉)を感じるためには、知らないことは知らないこととして、彼の語りについていくのが一番。

イタリアの芸人の言葉に対するチェックは、音に対するネルヴァルの繊細さを示す。
監獄の牢番と彼の妻、モーからクレピ・アン・ヴァロワへ向かう時に彼を連行する警官たち、クレピの市長。彼等と語り手の言葉のやり取りは、エスプリに飛んでいる。
最後に、レアリズムに関する批判的な言葉が付け加えられる。

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