
『方丈記』の最後になり、鴨長明は、出家後に隠者として暮らす生活に愛着を持つことが、仏教の教えからすると「過ち」ではないか、と自問する。
実際、方丈(極小の家)での生活は、最初は「旅人の一夜の宿」のようなものだったが、5年の月日が経つ間に、「仮の庵(いおり)、もはや故郷なり」と感じ、「ひと間の庵、みずからこれを愛す」というようになっていた。
しかし、俗世から身を遠ざけ、山中の暮らしの中で物にも人にも執着せず、仏の教えを守って暮らす出家者としては、そうした愛着もこの世に対する執着なのではないのか?
その自問に対して、現在の私たちであれば、自分が満足であればその生活を愛するのが当たり前だし、その方が人間らしい、と答えるだろう。
というのも、日本的な感性は、死後にあの世で魂が救われるよりも、この世で目の前にある小さな幸せを求める傾向にあり、その点では、古代も中世も現代も変わることがないからである。
加藤周一の言葉を借りれば、日本の土着的世界観は、「普遍的な原理よりは個別的な事実を、超越的な観念よりは日常的な経験を尊重してやまない。」(『日本文学史序説』)
そうした視点から『方丈記』の最後の一節を読むと、「一期(いちご=一生)」が月のように傾き、「余算(よさん=余命)」も山の端に近づいてきたという意識の中で、鴨長明が、仏教の教えを再確認して死後に極楽浄土に行けることを望むのか、それとも、今の生活への愛着を受け入れるのか、自問するらしい様子が見えてくる。
長明は、頭の中では仏の教えに従うべきだと考えている。しかし、彼の心は、日本的な感性に従い、日々の生活の満足に傾いているらしい。
「そもそも、一期の月影かたぶきて、余算、山の端に近し」から始まる文の美しさが、そのことを明かしている。















