ゾラとマネ Émile Zola et Édouard Manet 絵画の生を求める新たな眼差し

1866年、エミール・ゾラは、「レヴァンヌマン(L’Événement)」という日刊紙で、その年に開催された美術サロンの批評を担当し、サロンのあり方や受理された絵画を徹底的に批判した。
その一方で、サロンに落選したエドワード・マネの「笛を吹く少年(Le fifre)」等を激賞し、その結果、サロン評の連載を中断せざるをえなくなった。

その理由を知るために、まず、ゾラが批判したアカデミー派の絵画とマネの絵画を比較してみよう。

続きを読む

ゾラとクールベ Émile Zola et Gustave Courbet 新たな現実の創造 

エミール・ゾラは小説家として知られているが、美術批評も手がけている。

ゾラが最初に試みたのは、社会主義者ピエール・ジョゼフ・プルードンの芸術論を批判し、ギュスターヴ・クールベを取り上げながら、自分の絵画論を展開した「プルードンとクールベ(Proudhon et Courbet)」。
1866年に出版されたもので、ゾラの創作活動の初期の著作。それだけに、彼の芸術論が簡潔にかつ明確に述べられている。

ゾラの主張を一言でまとめれば、絵画にとって重要なのは描かれた対象ではなく、絵画そのもの。絵画とは「線と色彩の芸術(art des lignes et des couleurs)」であり、絵画の目的は、モデルを再現することではなく、一人の芸術家が1枚の絵という新しい現実に生命を与えること。

こうした主張を実現した絵画として、ゾラは1850年前後に描かれたクールベ初期の作品を取り上げる。

Gustave Courbet, Un enterrement à Ornans
続きを読む

ボードレール 午前1時に Charles Baudelaire À une heure du matin 詩人ボードレールの生の声

ボードレールは、いつでも虚勢を張り、人を驚かせるダンディスムを身に纏っている。それほど、彼の詩句はいつでも格好いい。
しかし、時には一人になり、他人の目を意識しない時には、弱音が出ることもある。

外でさんざん虚勢を張った後、小さなアパートの部屋に戻る。疲れ果てて一人でいると、ふと本音が出てしまう。
「午前1時に(À une heure du mation)」からは、そんなボードレールの生の声が聞こえてくる。

 Enfin ! seul ! On n’entend plus que le roulement de quelques fiacres attardés et éreintés. Pendant quelques heures, nous posséderons le silence, sinon le repos. Enfin ! la tyrannie de la face humaine a disparu, et je ne souffrirai plus que par moi-même.

 やっと! 一人だ! 聞こえてくるのは、もう、夜も遅くなり疲れ果てた馬車の走る音だけ。何時間かは静かでいられるだろう。心が安まるわけでないとしても。やっとだ! 人間の顔の横暴が消えた。苦しむとしたら、もう、私自身によるだけ。

続きを読む

エミール・ゾラ クロードの告白 Émile Zola La Confession de Claude ロマン主義を乗り越え、ボードレールとは異なる芸術に向けて

Édouard manet, Émile Zola

『クロードの告白(La Confession de Claude)』は、エミール・ゾラが1865年に出版した書簡体形式の小説。
パリにやってきた20歳のクロードが、プロヴァンスに残った友人二人に宛てて書いた手紙という形式を取り、貧困を生きる若者が体験する出来事が、一人称で語られる。
芸術家小説という側面は、小説の冒頭に出てくる「詩人の聖なる貧困(la sainte pauvreté du poète)」という言葉からもうかがい知ることができる。

小説の基本的な枠組みとなるのは、パリで貧しい生活を送る芸術家たちを描くアンリ・ミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』のような若い芸術家の生活情景。
プッチーニのオペラ「ボエーム」を思い出すと、その雰囲気が理解できる。

続きを読む

村上春樹のインタヴュー La littérature ne suffira pas, la science non plus.

2020年12月21日のFranceinfo : cultureで村上春樹のインタヴュー(1分間)聞くことが出来る。

https://www.francetvinfo.fr/culture/livres/roman/dans-le-monde-d-apres-le-coronavirus-la-litterature-seule-ne-suffira-pas-la-science-seule-non-plus-confie-l-ecrivain-haruki-murakami_4228505.html

文字に起こされた内容は以下の通り。

Dans le monde d’après le coronavirus, la littérature ne suffira pas, la science seuil non plus, confie l’écrivain Haruki Murakami.

franceinfo a rencontré le romancier japonais à succès Haruki Murakami dans les locaux de la radio Tokyo FM où il anime de temps à autre une émission musicale. 

続きを読む

ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 3/5 今はもうユーカリの時代じゃない

Manet, Polichinelle
Théodore de Banville

第3セクションでは、再びテオドール・ド・バンヴィルに対して直接的な呼びかけがあり、彼の芸術がすでに今の芸術ではないと言い放つ。

その際にアルシッド・バヴァが持ち出すのは、バンヴィルを中心とした高踏派詩人たちの詩句の断片とも考えられる。
しかしその一方で、バヴァの詩句は、耳に奇妙に響く音を繋げて遊んでいるだけのようにも聞こえる。

音が意味に先行する詩句。
例えば、Pâtis panique。
子音 [ p ]が反復して弾け、母音[ a ]と[ i ]がそれに続いて繰り返される。
その後で、牧草地が意識され、パニックの意味を考えていくことになる。

続きを読む

ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 2/5 写真的詩の上にクソを垂れる

「花について詩人に伝えること」の第2セクションを構成する九つの4行詩では、前のセクションに続けて、ロマン主義詩人たちの末裔にあたる詩人たちが批判の対象になる。
その中には、高踏派詩人の一人になりたいと望んだ一年前のランボー少年自身も含まれると考えてもいい。

実際、アルシッド・バヴァの詩句には、以前にランボー少年が綴っていた青春の息吹に満ちた若々しい詩句はなく、ほどんど意味不明と言わざるを得ない内容になっている。
そうした詩句の中で、これまでの詩の本質を端的に表す言葉が取り上げられる。
その言葉とは、「写真家(photographe)」。
第2セクションを通して、その意味と意義を解明していきたい。

続きを読む

ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 1/5 ロマン主義を浣腸する

「花について詩人に伝えること(Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs)」は、ランボーが新しい時代の詩はどのようにあるべきかを語った、詩についての詩。

第1詩節は、ロマン主義を代表するラマルティーヌの「湖(Le Lac)」のパロディー。
しかも、ランボーらしく、読者を憤慨させるか、あるいは大喜びさせるような仕掛けが施されている。

Ainsi, toujours, vers l’azur noir
Où tremble la mer des topazes,
Fonctionneront dans ton soir
Les Lys, ces clystères d’extases !

意味を考える前に、「湖」の冒頭を思い出しておこう。

Ainsi, toujours poussés vers de nouveaux rivages,
Dans la nuit éternelle emportés sans retour,
Ne pourrons-nous jamais sur l’océan des âges
Jeter l’ancre un seul jour ?

こんな風に、いつでも、新たな岸辺に押し流され、
永遠の夜の中に運ばれ、戻ることができない。
私たちは、決して、年月という大海に、
錨を降ろすことはできないのか。たった一日でも。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/

「こんな風に、いつでも(Ainsi, toujours)」と始まれば、当時の読者であれば誰もがラマルティーヌのパロディーであると分かったはずである。
ランボーはその後もロマン主義的な語彙を重ねるが、最後は音による言葉遊びをし、とんでもないイメージで詩節を終える。

こんな風に、いつでも、黒い紺碧の方へ、
そこではトパーズの海が震えている。
その方向に向かい、夜の間に機能するのは、
「百合の花」。恍惚感を吐き出させる浣腸。

続きを読む

ネルヴァルの宗教的・哲学的思想 Une pensée religieuse et philosophique de Gérard de Nerval

とても残念なことに、ジェラール・ド・ネルヴァルという作家は日本でもあまり知られていず、紹介される場合があったとしても、狂気と幻想の作家とか神秘主義などというレッテルが貼られてしまう。
そのために、最初から色眼鏡をかけて読まれることになり、現実を描写した美しい文章で綴られた作品でさえも、複雑でわからないとか、意味不明などという感想を持たれたりする。

彼の作家としての実像は、現実に興味を持ち、その時々に話題になっていることを取り上げ、ユーモアと皮肉を交えて機知の利いた話にする名手だった。
しかし、何度か狂気の発作に襲われたことがあり、最晩年にはその時の体験記的な物語を公表し、最後はパリの場末で首を吊って死んでしまったために、夢と狂気の作家に祭り上げられてしまうことになった。

そうしたことのもう一つの理由は、彼の思想が「超自然主義(surnaturalisme)」と呼ばれる傾向のものであり、現実主義的、合理主義的、実証主義的思考から見ると、非理性的だと見なされること。
「超自然主義」自体は、ロマン主義の時代には多くの文学者に共有されたものであり、とりわけ不思議なものではないし、古代ギリシアから連綿と続く伝統に基づいている。
しかし、精神病院に入れられた事実やギュスターブ・ドレの版画に見られる自死の怪しげなイメージといった要素が相まって、夢と狂気の作家というレッテルが形成されていった。

続きを読む

フロベール 『ボヴァリー夫人』 Flaubert Madame Bovary エンマとロマン主義

 『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』は1852年から1856年まで書き継がれたが、この時期は、ロマン主義から写実主義、象徴主義、モデルニテへと向かう転換期にあった。

 そうした芸術観の転換を象徴的に表すのが、1857年の『ボヴァリー夫人』と『悪の華(Les Fleurs du mal)』の裁判。フロベールの小説とボードレールの韻文詩集が、公衆道徳に反するという理由で裁判にかけられ、詩集の方は有罪になった。

 興味深いことに、二人の作家は、出発点では19世紀前半に主流だったロマン主義に深く傾倒していた。その後、ロマン主義を内部から解体することで、新しい芸術観を創造していった。

ボードレールに関しては、美術批評「1846年のサロン」の中で、「ロマン主義とは何か?」という問いかけを行い、そこからモデルニテのコンセプトとなる概念を発展させた。
https://bohemegalante.com/2020/08/29/baudelaire-heroisme-de-la-vie-moderne-salon-1846/

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の中で、エンマの少女時代がロマン主義一色だったことを示し、その中に皮肉な視線を溶け込ませる。そのことによって、ロマン主義文学の概略を素描し、その上でほころびを作り出し、エンマの運命がロマン主義の行き着く先と重なり合う前兆とする。

注意しておきたいのは、フロベールの小説家としての姿勢。
彼は、語り手として物語の中に介入し、登場人物の心の中や様々な状況を説明することをほとんどしない。ただ淡々と出来事を物語っていく。
出来事の意味を読み取るのは読者の役割なのだ。
ただし、時に、こっそりと彼の視点を示し、読者の読み方に対して指針を示すことがある。

続きを読む