言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 2/3

C. 禅の公案 「世尊拈花(せそんねんげ」)」

禅宗ではしばしば「不立文字」という言葉が用いられる。これは、悟りの境地や真理が、文字や言葉による説明に還元しきれないところにあるとする考え方である。言葉によって伝え尽くすことのできないものを、あえて言葉で示そうとするとき、その言葉は必然的に、論理的には把握しにくい、あるいは一見すると意味不明なものとならざるをえない。

そうした禅の言語観を象徴的に表現する説話として知られているのが、『無門関(むもんかん)』に収められている「世尊拈花(せそんねんげ)」である。
これは初期仏典に見られる挿話ではなく、中国禅宗の成立過程において形成された後代の説話であるが、禅が言葉と悟りの関係をどのように理解してきたかを端的に示すものとして、大きな意味をもっている。

昔、お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)で、多くの弟子たちが集まる法会の席におられた。そのとき、お釈迦さまは何も語らず、ただ一輪の花を手に取り、皆に示された。
弟子たちは、だれ一人としてその意味が分からず、黙したままだった。ただ一人、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、すなわち摩訶迦葉(まかかしょう)だけが、にっこりと微笑んだ。
すると、お釈迦さまは言われた。
「私は、言葉に頼らずに真理を見抜く眼である正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、静かで深い悟りの心である涅槃妙心(ねはんみょうしん)、形をもたない真実のあり方である実相無相(じっそうむそう)、きわめて奥深い真理の教えである微妙の法(みみょうのほう)を持っている。これは、文字や言葉によって立てられる教えではなく、不立文字と呼ばれるものであり、教えの外で直接に伝えられる教外別伝である。私はこれを、摩訶迦葉(まかかしょう)に託す。」
(『無門関(むもんかん)』第六則)

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 1/3

現代の日本では、「言葉にしなければ自分の意志を相手に伝えられない」と言われることが多い。コミュニケーションが苦手な人の特徴として、「自分の意見をうまく言語化できない」といったことも挙げられる。

しかし一方で、「言わぬが花」という考え方や、「言わなくても分かる関係」が親密さの一つの指標になると感じられる場合もある。
仏教に由来する「以心伝心」や「阿吽の呼吸」といった言葉が、今も日本文化の中に息づいていることも確かである。

こうした相反する言語観を同時に抱えている現代の日本人には、「言わなくてもこれくらい分かるだろう」と「言わなければ分からない」との間で齟齬が生じることがある。「そこまで言わなくてもいいのに」と思うこともあれば、「もっと言ってほしかった」と感じることもあるだろう。

こうした状況にいるとき、これまでの日本文化の伝統の中で、言葉がどのように考えられ、どのように使われ、何を表現してきたのかを知ることは、現代の私たちが言葉について考えるうえでも有用である。

ここではまず、私たちの文化の根底に流れる仏教や荘子の言語観を考察し、ついで、そうした考え方が日本においては和歌や俳句といった言語芸術によって、いかに具体的に表現されてきたかを見ていくことにしよう。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 4/4

(5)天孫降臨 天照大御神の地上における代理者

天武天皇によって編纂が命じられた『古事記』と『日本書紀』において、「天孫降臨(てんそんこうりん)」が最も重要な神話的挿話であることは、まず異論のないところだろう。
なぜならこの挿話は、高天原(たかまがはら=神々の次元)から葦原中国(あしはらのなかつくに=人間の次元)へと、天照大御神の孫である邇邇芸尊(ににぎのみこと=以下ニニギと記す)が降臨することを語り、さらに初代天皇・神武天皇へと系譜が連なることで、天皇が神の子孫であることを国内外に示す役割を担っているからである。

『万葉集』で言えば、これはまさに「大王(おおきみ)は神にしませば」という表現と対応する思想である。そして、この表現を用いた和歌が、天武天皇の時代(在位:673年〜686年)に数多く見られることは、「天孫降臨」神話が七世紀後半に形成された可能性を示唆しているといってよいだろう。

ここで興味深いのは、和歌においては「大王は神にしませば」と、ほとんど前提となる説明を必要とせずに詠まれ得る思想が、『古事記』では読み物としての物語として語られ、他方、『日本書紀』では「日本」という国家の正当性を国内外に主張する論理を含んだ神話として構成されている点である。

その違いを知ることは、現代の私たちが日本神話をより深く理解する手がかりとなると同時に、現在の日本のあり方を、先入観にとらわれずに捉えることにもつながるだろう。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 3/4

(4)天の岩戸(あめのいわと)

天岩戸(あめのいわと)の挿話は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日の神であり、高天原(たかまがはら)を太陽の光で照らす主神であることを、国内外に宣言する役割を果たしている。

天照大御神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が数々の乱暴を働いたことに怒り、岩でできた洞窟、すなわち天岩戸の中に身を隠してしまう。その結果、世界全体は闇に包まれ、永遠の暗闇が続くことになる。
そこで、多くの神々が工夫を凝らし、後の時代の宗教儀礼の起源を思わせるような行為を行うことで、天照大御神を天岩戸の外へと誘い出し、世界は再び光を取り戻す。

この大まかな挿話の流れは『古事記』と『日本書紀』に共通しており、天照大御神の存在と不在を対照的に描き分けることで、日の神が世界において果たす役割を明確に伝えている。

他方で、両書の間には明確な違いも認められる。一方が神々の世界の物語として語られるのに対し、他方では、天皇および豪族の祭祀を連想させる語り方がなされているのである。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 2/4

(3)『古事記』と『日本書記』における
日の神・天照大御神の主神化の過程

『日本書記』には、壬申の乱の過程において、大海人皇子の一行が「天照大神を仰ぎ見て拝した」とされる一節があり、その祈りが聞き入れられて勝利がもたらされた、という意図を読み取ることができる。
この記述は、神武天皇以来の天皇の権力基盤が固まり、政権が安定するにつれて、天照大御神を国家の主神として祭り上げていく一つの流れを形成したと考えられる。

A. 『日本書記』本文 天下を治める日の神

『日本書記』の本文において、天照大御神の誕生を語る部分では、イザナギとイザナミが国生みを終えた後、自然界のさまざまな事物を生み、その創造の最後に「日の神」を生んだとされる。その神の名前の一つが天照大御神である。

まず海が生まれ、次に川が生まれ、さらに山が生まれた。その後、木の祖神である句句廼馳(くくのち=樹木の根源神)が生まれ、草の祖神である草野姫が生まれる。草野姫は、野槌(のづち)とも呼ばれている。
こうして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は相談し、言った。
「私たちはすでに大八洲国をはじめ、山や川、草や木まで生み出した。ならば、天下を治める主を生まないわけにはいかない。」
そこで二柱の神は日の神を生み、大日孁貴と名づけた。「大日孁貴」は「おおひるめのむち」と読み、「孁」は“ひるめ”と読む。ある書には天照大御神と記され、また別の書には天照大日孁尊(あまてらす おおひるめのみこと)とも記されている。
この神は光り輝く霊妙な神で、その光は天と地、さらに東西南北の四方すべてに行き渡り、世界の隅々を照らしていた。そのため二柱の神は喜び、言った。
「私たちの子は多いが、これほど霊しく不思議な子はかつてなかった。この国に留めておくべきではない。早く天へ送り、天上の政を司らせるべきである。」
当時は天と地の隔たりがまだ大きくなかったため、天の柱を立て、それを押し上げて天上へ送ったという。
(『日本書記』神代上、本文)

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 1/4

天照大御神(あまてらすおおみかみ)について、一般の日本人はどのようなことを知り、どのようなイメージを抱いているのだろうか。

岩戸隠れのエピソードで知られる太陽の女神であり、伊勢神宮に祀られ、皇室の祖先神で、日本神話の中で最も尊い神である。多くの人は、おおよそこのような、やや漠然とした理解を抱いているのではないだろうか。

もしそうだとすれば、その背景には、日本神話が語られている『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)を、私たちが実際にはほとんど読むことがないという事情がある。その点において、日本の状況は、ヨーロッパでギリシア・ローマ神話が比較的広く読まれている状況とは、かなり異なっていると言えるだろう。

さらに、日本の神話を体系的に語った最初の書物である『古事記』や『日本書紀』についても、それらが誰によって、いかなる意図のもとに編纂されたのかは、十分に知られているとは言いがたい。『古事記』が日本語を漢字によって書き写した書物であるのに対し、『日本書紀』は漢文によって記された歴史書であるという基本的な違いでさえ、必ずしも広く共有されているわけではない。

その結果、日本神話の中心的存在とも言える天照大御神についても、どのような経緯で主神と見なされるようになったのか、また神話の中でどのような役割を担っているのかといった点が、深く考えられることのないまま、半ば自明のものとして受け入れられているように思われる。

もちろん、そのような理解の仕方であっても、知らないままで差し支えが生じるわけではない。しかし、知らないということに気づいてしまうと、つい知りたくなるのも人情である。そうした思いに導かれて、ここでは少しだけ、天照大御神について掘り下げて考えてみたい。

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芭蕉 『笈の小文』 荘子の思想を生きる俳人 2/2

『笈の小文(おいのこぶみ)』は、1687年から1688年にかけて、松尾芭蕉が江戸から京都まで旅した際の記録をもとに、芭蕉の死後、1709年に弟子によって刊行された俳諧紀行である。

その冒頭において芭蕉は、荘子に由来する言葉をあえて選び取り、自らが荘子思想を生きる者であることを、ほとんど宣言するかのように語り始める。
その言葉は「百骸(ひゃくがい)九竅(きゅうこつ)」。つまり、人間の身体とは、百の骨と九つの穴から成り立つものにすぎない、という認識である。

芭蕉はこの身体観を起点として、さらに荘子の「造化(ぞうか)」という考えを参照しながら、自らの俳諧の本質である「風雅(ふうが)」へと話を展開していく。

そこでまず、芭蕉が自らを「風羅坊(ふうらぼう)」と名乗る冒頭の一節を読んでみたい。
「風羅坊」とは、芭蕉の葉のように、風に吹かれてたやすく破れてしまう羅(うすもの)を意味し、芭蕉が俳号として用いた語でもある。

百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物有(ものあり)。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝ、かぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
             (松尾芭蕉『笈の小文』)

(現代語)
人の身体、すなわち百の骨と九つの穴から成るこの身の内に、あるものが宿っている。仮にそれを「風羅坊」と名づける。まことにこれは薄いものが風に破れやすいように、はかなく壊れやすい性質を言っているのだろう。

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芭蕉 「野ざらしを心に風のしむ身かな」 荘子の思想を生きる俳人 1/2

松尾芭蕉が若い頃から荘子の寓話に親しみ、その思想を愛好していたことは、よく知られている。その受容は、単なる書物上の知識にとどまらず、芭蕉の生き方そのものに強い影響を与え、彼の俳句の核心を貫いている。

ここでは、芭蕉の二つの紀行文集である『野ざらし紀行』と『笈の小文(おいのこぶみ)』を手がかりとして、「旅を栖(すみか)」(『奥の細道』)とした芭蕉が、荘子をどのように受容し、それを俳句の根底に据えたのかを、簡単にではあるが考察していく。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 3/3 

雄略朝と舒明朝の二重化作業

雄略天皇に象徴される古代の王権と、舒明・斉明天皇の御代との重ね合わせは、『万葉集』に収録された一つの和歌の存在によって、当時の人々に強く意識されていたことが示唆される。

『万葉集』巻九は、「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天の下知らしめしし大泊瀬幼武(おおはつせのわかたける)天皇の御製歌一首」(9-1664)として、雄略天皇の歌を冒頭に掲げて始められている。

この歌では、今夜は鹿が鳴かず、眠っていると詠まれている。一般に、鳴く鹿は愛する人を求める心を象徴するものと考えられるため、鳴かない鹿が静かに眠る姿は、愛がすでに満たされている状態を示すと解釈できる。したがって、ここに描かれる雄略天皇は、武勇に秀でた君主としてではなく、愛を詠う歌人としての姿で捉えられていることになる。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 2/3 

(3)大泊瀬稚武天皇と雄略天皇

「籠もよ み籠持ち」の長歌には、「雜歌/泊瀬朝倉宮 御宇 天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕/天皇御製歌」という題詞が付けられている。

御宇(ぎょう)の「御(ご)」は尊敬を表す接頭語であり、「宇(う)」は本来「覆うもの」を意味する語で、そこから転じて「天下を覆い治める」、すなわち「統治する」という意味を持つようになった。したがって、御宇(ぎょう)とはここでは、天皇が天下を治めることを意味し、この長歌が大泊瀬稚武天皇の御代の歌として位置づけられていることを示している。

その天皇名「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)」のうち、「泊瀬」は、現在の奈良県桜井市周辺に比定される地名であると考えられている。これを前提とすれば、「大泊瀬稚武」という名は、「大泊瀬」と「稚武(わかたける)」という二つの要素に分けて理解することも可能であろう。その場合、この名称は、泊瀬を拠点とする稚武(わかたける)という人物像を示すものと解釈することができる。

ただし、「大」という語が具体的に何を意味するのかについては明確ではなく、宮殿の規模を直接示すものと断定することはできない。地名的修飾、尊称、あるいは他の王との区別を意図した表現である可能性も考慮する必要がある。

そして、「稚武(わかたける)」という名称は、その音形が「ワカタケル」であること、また「武」という漢字が用いられていることの両面において、五世紀に活動した人物との関係を強く想起させる。この点は、金石文資料に見える「ワカタケル大王」との比定が有力視されていることとも関わっており、記紀における大泊瀬稚武天皇像を考えるうえで重要な手がかりとなっている。

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