ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その4

「ボエム・ギャラント」の本文となる最初の一文は、とても短い。しかし、その短い一文の中に、ネルヴァルが込めた思いは驚くほど凝縮されている。そして、その一文を読み解いていくうちに、読者はいつの間にかネルヴァルの世界へと引き込まれていく。

C’était dans notre logement commun de la rue du Doyenné que nous nous étions reconnus frères — Arcades ambo —, bien près de l’endroit où exista l’ancien hôtel de Rambouillet. 

ぼくたちが共同で住んでいたドワイヤネ通りの家で、ぼくたちは互いを兄弟だと認め合った。― アルカデス・アムボ(二人ともアルカディアの住人)。そこは、かつてランブイエ館があった場所のすぐ近くだった。

この短い一節の中には、古代、17世紀、そしてネルヴァルたちが生きた19世紀という、文学の中心となる三つの場所が示されている。そして、それらは、ネルヴァルがこれから青春時代の思い出を語ろうとする意図と深く結びついている。

その場所を古い順に並べると、次の様になる。
(1)Arcades ambo (二人ともアルカディアの住人):古代の理想郷アルカディア
(2)l’ancien hôtel de Rambouillet:かつてのランブイエ館
(3)notre logement commun de la rue du Doyenné:ぼくたちが共同で住んでいたドワイヤネ通りの家

(1)アルカディア=古代の詩の理想郷

古代ローマの詩人ウェルギリウスが紀元前40年頃に著した『牧歌』は、その後のヨーロッパ文学における田園詩の伝統を築いた代表的な作品である。

その第七歌の冒頭部分では,山羊飼いコリュドンと羊飼いティルシスが登場し、次のように歌われる。

Forte sub arguta consederat ilice Daphnis, 
compulerantque greges Corydon et Thyrsis in unum,
Thyrsis ouis, Corydon distentas lacte capellas,
ambo florentes aetatibus, Arcades ambo,
et cantare pares et respondere parati.
                              (Bucolica, 7. 1-5)

日本語訳

たまたま,さやさやと鳴る樫の木の下に、ダブニスが座っていた,
コリュドンとティルシスが、家畜の群れをひとっにまとめていた,
ティルシスは羊を,コリュドンは乳ではちきれんばかりの雌山羊を,
二人とも花盛りの年頃、二人ともアルカディア人
歌の技量は同等,応え合う準備もできている。

ネルヴァルがラテン語で、« Arcades ambo  »と書き、出典もフランス語の訳も付けていないのは、『ラルティスト』誌の読者であれば当然ラテン語は習得していたし、この一句を容易に理解できる読者層を想定していたと考えられる。

ちなみに、Arcadesは「アルカディア人」、amboは「両方」を意味する。
アルカディアとは、古代ギリシャのペロポネソス半島にある山岳地帯の地名で、古代ローマの時代にウェルギリウスが理想化された牧人たちの世界として描いたことで、それ以降、古代の黄金時代、さらには理想郷の代名詞になった。

ティツィアーノの「田園の奏楽」や、ニコラ・プッサンの「我アルカディアにもあり」を見ると、アルカディアという理想郷のイメージが、ヨーロッパ文化の中でいかに受け継がれてきたか、わかるだろう。

ネルヴァルは、アルセーヌ・ウッセーに向けて、かつてお互いに兄弟だったと認め合っていたと言った後、« Arcades ambo  »という言葉を挿入することで、自分たち二人をコリュドンとティルシスになぞらえ、詩人同士が互いに切磋琢磨していた姿を読者に思い起こさせようとしたのだと考えられる。

さらに、この引用は、ドワイヤネ通りの共同生活が、若き詩人たちの創作の場であったことを示すだけではない。ネルヴァルが、その青春の日々をアルカディアとして回想していることも暗示している。

(2)ランブイエ館=17世紀フランス文学のサロン

ランブイエ館は、17世紀フランス文学を代表するサロンとして知られる。

17世紀の初頭、ルイ13世の時代になり、宮廷の貴族たちの中にも無骨な騎士風の振る舞いよりも礼節ある洗練された物腰が好まれるようになり始めていた。そのような時代に、ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ=ド=ヴィヴォンヌが、外交官の娘として経験したイタリア宮廷文化をパリに持ち込み、現在のルーブル美術館のある敷地にあった館で、サロンを開設した。

そして、このサロンには、コルネイユをはじめ、多くの作家や貴族が集まり、その伝統は後に、書簡で有名なセビニェ夫人や『クレーブの奥方』で知られるラファイエット夫人、『箴言集』の著者ラ・ロシュフコーらへと受け継がれていった。

ネルヴァルは、17世紀の文学サロンであった館に「ancien」という形容詞を添え、さらに「存在した(exista)」を単純過去で記すことで、すでに失われた場所であることを印象づけている。そして、そのことによって、かつてランブイエ館が担った文学の中心という役割が、自分たちの暮らしたドワイヤネ通りへと受け継がれていることを暗示しているようにも読める。

実際、地図で位置を確認すると、ランブイエ館と彼が暮らしたドワイヤネ街はすぐ近くにある。

まず17世紀初頭のパリの地図を見ていこう。

初めて知ると驚くのだが、当時パリは城壁で囲まれていた。そして、シテ島を中心にして、現在とは比べものにならないほど小さな範囲の街でしかなかった。

この地図の中で、現在ルーブル美術館のあるあたりは、シテ島の先端にかかる橋を越えて、手前の左側に位置する。

次に地図を拡大し、ランブイエ館の位置を確認してみよう。さらに別の地図を用いて、そのすぐ近くにドワイヤネ通りがあったことを見ていきたい。

ランブイエ館とドワイヤネ通りがすぐ近くにあることに触れることで、ネルヴァルは、自分たちの青春の日々を、17世紀の文学サロンに続く、新たな文学の揺籃の地として描こうとしているように思われる。

(3)1834-35年のドワイヤネ通り=若き芸術家たちの青春の舞台

昔のランブイエ館やドワイヤネ通り(la rue du Doyenné)の地区は、1830年の七月革命の頃には廃墟のような状態にあり、かなり荒れ果てた場所だった。しかし、その荒廃した建物こそが、家賃の安さから若い芸術家たちを引き寄せ、新しい芸術が育まれる舞台となった。

まず、ネルヴァルたちがドワイヤネ界隈で暮らした1830年代のパリ全体の様子を見ておこう。

17世紀のパリと比べると、市街地は街を取り囲んでいた城壁を越え、とりわけ北のモンマルトルの方へ向かって大きく広がっていることがわかるだろう。
18世紀末には60万人程度だったパリの人口は、フランス革命を経て急増し、ネルヴァルたちがドワイヤネ通りで暮らした1830年代半ばには約90万人に達していた。それに伴い、市街地はさらに城壁の外へ広がり、貧しい人々が暮らす地区も拡大していった。

その一方で、ランブイエ館など17世紀以来の建物が残る一帯は、ルーヴル宮殿とチュイルリー宮殿を結ぶ再開発計画のため取り壊される予定だったが、工事はまだ着手されず、廃墟のような景観を呈していた。

1838年に描かれたパノラマを見ると、整然とした建物が建ち並んでいるように見える。しかし、その内部に目を向けると、実情はかなり荒れ果てていたことがわかる。

このパノラマの右手前にはランブイエ館やドワイヤネ界隈があり、その隣に建つルーヴル聖トマ教会(l’église de Saint-Thomas-du-Louvre)は廃墟となり、草が生い茂った状態だった。

このような状態だったため、建物の維持管理はほとんど行われず、家賃も非常に安かった。その結果、ネルヴァルやウッセーら若い芸術家たちが集まり、新しい芸術を育む拠点となったのだった。


ここで、またごく些細な点にふれておきたい。
ネルヴァルは「ドワイヤネ通り(rue)」と書いているが、厳密にいえば、彼らが暮らしていたのは、そこから続く「ドワイヤネ袋小路(impasse)」だったことが知られている。

1836年に作成された土地台帳を見ると、「ドワイヤネ通り」と「ドワイヤネ袋小路」の両方の名称が記されている。

Rue du Doyennéはこの図では水平に延び、それと交わるようにImpasse du Doyennéはルーヴル聖トマ教会の方向へ延び、そこで行き止まりになっている。

では、なぜネルヴァルはドワイヤネ「袋小路」ではなく、ドワイヤネ「通り」と書いたのだろうか。

当時の仲間だったテオフィル・ゴーティエが1868年に記した証言を読むと、その理由をうかがわせる興味深い事実がわかる。

Nous habitions alors impasse du Doyenné. Camille Rogier avait un appartement assez vaste, dans une vieille maison tout près d’une église en ruine, dont un reste de voûte faisait un assez bel effet au clair de lune, et dont les fenêtres donnaient sur des terrains vagues encombrés de pierres de taille entre lesquelles verdissaient les orties, et que la galerie du Louvre baignait de son ombre froide. Arsène Houssaye et Gérard demeuraient avec Camille et faisaient ménage commun. Nous occupions tout seul, dans la même rue , un petit logement où nous ne rentrions guère que la nuit; car nous passions les journées avec les camarades dans le grand salon de Rogier, (…). (Préface, Œuvres complètes de Gérard de Nerval. 1868)

私たちは当時、ドワイヤネ袋小路に住んでいた。カミーユ・ロジェは、廃墟となった教会のすぐ近くにある古い建物に、比較的広いアパルトマンを借りていた。その教会は、残されたヴォールト(丸天井)の一部が月明かりに映えてなかなか美しい眺めだった。いっぽうアパルトマンの窓は、散乱する切石のあいまにイラクサが青々と生い茂り、ルーヴル宮の回廊が冷たい影を落とす空き地に面していた。アルセーヌ・ウッセーとジェラールはカミーユと同居し、生活を共にしていた。私は一人で、同じ通りにある小さな部屋を借りていたが、そこへ戻るのは、ほとんど夜寝るときだけだった。というのも、昼間は仲間たちとロジェの大きなサロンで過ごしていたからだ。
(『ネルヴァル全集』序文、1868年)

この証言からは、ドワイヤネ袋小路のアパルトマンを借りていたのは画家のカミーユ・ロジェで、そこにネルヴァルやアルセーヌ・ウッセーが一緒に暮らし、ゴーティエだけは別のアパルトマンに暮らしていたことがわかる。

そして、ゴーティエ自身はドワイヤネ袋小路ではなく、その先につながる「ドワイヤネ通り」に部屋を借りていた。それにもかかわらず、「私は一人で、同じ通り(la même rue)にある小さな部屋を借りていた」と記している。

要するに、少なくとも彼らの日常的な感覚では、「袋小路」と「通り」は厳密に区別されていなかったのだろう。みんながロジェのアパルトマンの大きなサロンで大部分の時間を過ごしていたことも、その背景にあったと考えられる。そのため、ネルヴァルも1852年、青春時代の思い出を語る中で、何気なく「ぼくたちが共同で住んでいたドワイヤネ通りの家(notre logement commun de la rue du Doyenné)」と書いたのだと考えられる。


1852年のパリ — 「ボエム・ギャラント」連載

『ボエム・ギャラント』は、1852年7月1日から12月15日にかけて『ラルティスト(L’Artiste)』誌に連載された作品である。では、なぜネルヴァルはこの時期に青春時代の思い出を語ろうとしたのだろうか。

その理由としては、二つの要因が考えられる。

一つは文学的な背景である。
アンリ・ミュルジェール(Henri Murger)の『ボヘミアン生活の情景』が人気を博していたこと。

もう一つは、パリという都市の変貌である。
1850年頃からルーヴル地区の再開発がようやく始まり、青春時代を過ごした場所が失われつつあった。そのこともまた、ネルヴァルが思い出の地を文章として書き留めようとした動機の一つだったのではないだろうか。

(1)アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』

アンリ・ミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』(Scènes de la vie de bohème)は、現在では、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』(La Bohème:1896年)の原作としてよく知られている。

ミュルジェールは、1845年から雑誌に、パリのカルティエ・ラタン地区で暮らす貧しい作家や画家、音楽家、そして彼らの恋人たちの生活の実情を伝える雑誌記事の連載を始めた。

1849年になり、それらの記事を素材にし、恋人のミミの死を中心にしたドラマチックな演劇作品『ボエミアンの生活(La Vie de la bohème)』が、パリの劇場で上演され、大ヒットした。

ミュルジェールはそのブームを受けて、1851年に、それまで雑誌に発表してきた作品を再構成し、演劇版の成果も取り入れながら、一冊の小説として出版した。

では、ここで使われている« bohème »とはどのような意味だろうか。

1835年に出版されたアカデミー・フランセーズの辞書を見ると、以下のような定義がなされている。

Il se disait autrefois d’Une sorte de vagabonds que l’on croyait originaires de la Bohême, et qui couraient le pays, disant la bonne aventure, et dérobant avec adresse. Une troupe de bohémiens. On les nommait aussi Égyptiens.
(…)
Prov. et fig., Mener une vie de bohème, vivre comme un bohème, N’avoir ni feu ni lieu, vivre dans le vagabondage. Foi de bohème, La foi que les voleurs, les fripons, etc., se gardent entre eux.

(Dictionnaire de l’Académie française, 6e édition, 1835)

かつては、ボヘミア(la Bohême)の出身と信じられていた、一種の放浪者を指して言った。彼らは国中を渡り歩き、運勢を占い、巧みに盗みを働いた。「ボヘミアンの一団」(une troupe de bohémiens)のように用いる。彼らはまた「エジプト人」(Égyptiens)とも呼ばれた。
(中略)
諺的・比喩的に、「ボヘミアン(bohème)の生活を送る」「ボヘミアンのように暮らす」とは、定まった住まいを持たず、放浪のうちに暮らすことをいう。「ボヘームの信義(foi de bohème)」とは、盗人・詐欺師などが互いのあいだで守り合う、その仲間内だけの信義をいう。
                       (アカデミー・フランセーズの辞書、第6版、1835年)

この定義を見ると、ボヘミアンとは、定まった住所を持たず、怪しげな生活を送る人々、という意味でつかわれていたことがわかる。

そして、彼らは、かつてボエミア(la Bohême)と呼ばれ、現代のチェコを中心にした中央ヨーロッパの地域を起源とした人々だと見なされていた。定義の中で「エジプト人(Égyptiens)」とも呼ばれたと説明されていることは、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に登場するエスメラルダのような、当時「ジプシー」と見なされた放浪民を指していることを示している。

ここでまだ小さなことに目をやることになるのだが、地域名ではBohêmeとアクサン・シルコンフレクスが用いられているのに対して、放浪生活を送る者にはbohèmeとアクサン・グラーヴが用いられている。
そして、ミュルジェールは、Bohèmeとアクサン・グラーブを常に使っているのだが、ネルヴァルはあえて地域名を示すアクサン・シルコンフレックスを使い、« La Bohême galante »としている。

しかも、原稿上で、アルセーヌ・ウッセーがアクサン・グラーヴを使って書いていたのを、ネルヴァルがあえてアクサン・シルコンフレクスに変更している跡が確認されている。ネルヴァルのそのこだわりが何を意味しているのか、ぜひとも知りたいところだが、私には、まだこれといえる答えが見つかっていない。

ちなみに、1840年に、バルザックが「ボヘミアンの王子(Un prince de la Bohème)」という中編小説を雑誌に掲載しているのだが、そこではアクサン・グラーブが使われている。

。。。。。

ちなみに、シャルル・アズナブールが1965年に発表し、モンマルトルで暮らす貧しい画家の生活を歌った「ラ・ボエーム(La Bohème)」でも、綴りにはアクサン・グラーヴが用いられている。

Charles Aznavour «La Bohème» シャルル・アズナヴール 「ラ・ボエーム」

ネルヴァルは、生前から広く読まれる人気作家というよりは、限られた読者とのつながりを大切にした作家だったように思われる。
そして、それは彼自身の文学的な選択でもあったのではないだろうか。こうした綴り字へのこだわりからも、その姿勢がうかがえるような気がする。

彼が語りかけたのは、不特定多数の読者ではなく、お互いをよく知る仲間たちだった。彼らの間で話題になっていることを少しひねって語り、相手がその機知に気づいてくれることを楽しむ。その洒脱な感覚こそが、ネルヴァルの魅力の一つなのだ。

村上春樹は、まだそれほど売れていなかった頃、まず妻一人に向けて書くようなつもりで小説を書く、といった趣旨のことを語っている。親しい一人に語りかけるように書けば、その親密さは活字を通して多くの読者にも伝わるという考え方である。

ネルヴァルもまた、そのように考えていたのではないか。私には、そんなふうに思えてならない。


(2)パリの変貌

ネルヴァルたちがドワイヤネ界隈で暮らした1830年代半ばには、パリ改造の計画はすでに存在していたものの、工事はまだ始まっていなかった。そのため、この地区は荒れ果て、アパルトマンの家賃も非常に安かったことは、すでに見てきた。

その改造計画が、1848年の2月革命を経て、1850年に至り、着手されることになった。それは、のちにセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによる大改造へとつながっていく時期でもあり、パリの街が大きく変わろうとする時代が始まりつつあった。

そうした時代、街を近代化するということは、一方では、古い建物を取り壊すということであり、そこで暮らす人々に大きな負担を強いることでもあった。

15年ほど前にドワイヤネ界隈に住んでいたネルヴァルは、1850年には、そのすぐ近くにあるルーブル聖トマ教会通り(la rue Saint-Thomas-du-Louvre)で暮らしていた。そこはまさに取り壊し予定地であり、彼も立ち退きを要求される住人たちの一人だった。

そして、立ち退きを命じる行政文書の冷酷さを皮肉るかのように、政治には関わらないと断りながら、その文書を1850年11月21日掲載の『塩密売人(Les Faux-Saulniers)』にそのまま引用した。

ネルヴァルは、この文書について、中世のままの文体で、そうした行政の古い体質が個人の感情をひどく傷つけるものだという。

せっかくなので、1850年、ルーブル地区に住み、立ち退きを余儀なくされた人間の気持ちになって、その文書を読んでみよう。

 Le requérant ès-noms (le préfet de la Seine), poursuivant l’expropriation pour cause d’utilité publique, des immeubles nécessaires à la formation des abords du Louvre et au prolongement de la rue de Rivoli, parmi lesquels se trouve compris celui qu’habite le susnommé, entend lui donner, comme de fait il lui donne par ces présentes congé de toutes les localités qu’il occupe dans ladite maison, et ce pour le premier janvier mil huit cent cinquante-un, entendant qu’à ladite époque il quitte les lieux et fasse place nette en satisfaisant à toutes les charges imposées à un locataire sortant ;
 Que cependant, ne voulant pas que les trais occasionnés par cette éviction pour cause d’utilité publique restent à la charge du locataire susnommé, mondit requérant lui tait offres par ces présentes d’une somme de vingt francs qui lui sera payée à la caisse municipale de Paris, sur le vu de son acceptation, qui devra être donnée dans la quinzaine de ce jour.
 Lui déclarant qu’en cas de non-acceptation d’ic1 à cette époque, le requérant entend retirer, comme de fait par ces présentes, il retire positivement lesdites offres par lui faites, pour s’en tenir purement et simplement au congé précédemment donné, qui devra recevoir son exécution dans les termes de droit. 
 A ce que le susnommé n’en ignore je lui en ai, en parlant comme dessus, laissé la presente copie. 
 Coût, trois francs.
     BRIZARD.

 申し立て人(セーヌ県知事)は、ルーヴル宮周辺の整備およびリヴォリ通りの延長に必要な物件(あなたが居住する物件を含みます)の公共事業に伴う収用手続きを進めております。つきましては本通知をもって、あなたが当該建物内で占有・使用しているすべての区画について、1851年1月1日付での賃貸借契約の解除(退去要求)を通知いたします。同日までに本物件から退去し、明渡し手続きを完了させるとともに、退去する借主として課されるすべての義務を履行してください。  
 なお、公共事業に伴う退去費用を借主に負担させないよう、申し立て人より金20フランの補償金を提示いたします。本提示額は、本日より15日以内に受諾の意思を示していただくことで、パリ市会計金庫にて支払われるものとします。  
 上記期間内に受諾されない場合、申し立て人は本提示を取り消し、先に出された退去通知のみを有効として、法令の定めに従い法的措置を執ることをあらかじめ通知いたします。  
 本件について受領者が了知しないことのないよう、上述のとおり言い渡しのうえ、本通知書の謄本(写し)1通を交付いたします。
 手続費用 3フラン
               ブリザール

立ち退き料として20フランを受け取ることはできるものの、手続費用の3フランは自己負担であり、受諾しなければ法的措置を執るという文言も、きわめて事務的で冷たい印象を与える。

この通知を受け取ったネルヴァルが、不満や憤りを抱いたとしても不思議ではない。しかも、その建物は、彼にとって青春時代を仲間たちと過ごした思い出の場所でもあったのである。

では、ネルヴァルが「ボエム・ギャラント」を書いている時期、この地区はどのような状態にあったのだろうか。それがわかる版画が残されている。

これは、1852年に出版されたエドモンド・テクシエの『パリ情景(Tableau de Paris)』に掲載されたもので、パリ市から退去要求が出されてから2年足らずのうちに、解体工事がここまで進んでいたことがよくわかる。

また、整備計画図も掲載されているのだが、それを見ると、今後、ドワイヤネ界隈やルーブル聖トマ教会、そしてランブイエ館があったあたりは、すべての建物が取り壊され、中庭(cour)になる予定であることを見て取ることができる。

せっかくなので、チュイルリー宮とルーブル宮を含む全体像と一緒に、その計画図も見てみよう。

『パリ情景』の初めには、パリ全体をサン・ルイ島の塔から眺めた鳥瞰図も掲載され、私たちを1850年代のパリにつれて行ってくれる。

こうした書物や版画を通して、タイムマシンに乗ったようにして、ネルヴァルたちが生きていた時代のパリを訪れることができるのだ。

そして、ネルヴァルのことを思うと、彼がなぜ1852年になってドワイヤネ界隈の思い出を語ろうとしたのか、その思いに少し近づけるような気がしてくる。
それは一つには、ノスタルジーであり、若い時代を懐かしみ、思い出として残しておきたいという気持ちからだっただろう。

しかし、『ボエム・ギャラント』は、単なる青春時代の回想ではない。
ネルヴァルは、そこにあえてウェルギリウスの詩句を掲げ、さらに旧ランブイエ館にも言及することで、ボエーム的な生活を、新しい詩や散文が生まれる源泉として位置づけようとしているように思われる。

そのことに気づくと、ネルヴァルはこの時期から新たな出発点として、「ボエム・ギャラント」は、新たな出発点として構想された作品だったのかもしれない。
そして、その試みがどのように展開していくのかを見るためには、『ラルティスト』誌の連載をさらに読み進めることが必要になる。

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