
ヴィクトル・ユゴーの « Sara la baigneuse »(水浴びをするサラ)は、その題名を耳にしただけで、心地よい音楽性を感じさせる。
その秘密は、口を大きく開いて発声される開放的な音 [a] が三度繰り返されることにある。「サララ」という軽やかな響きと、[a] の反復が生み出すリズムが、その心地よさを支えている。
そして、題名が予告する音楽性は、114行から成る詩全体を通して少しも裏切られることがない。[a] を中心とする音の反復と、7音節と3音節から成る詩句の構成とが、見事な音の織物を織り上げているのだ。
そのことは、7/3/7 // 7/3/7 のリズムに乗せて第一詩節を声に出して読むだけで、すぐに感じ取ることができるだろう。
Sara, belle d’indolence, サラは、物憂げで美しく、
Se balance 揺れている、
Dans un hamac, au-dessus ハンモックの中、
Du bassin d’une fontaine 泉の水盤の上で、
Toute pleine いっぱいに満たされた、
D’eau puisée à l’Ilyssus ; イリッソスで汲まれた水で。
この短い詩節の中に、フランス詩法のテクニックがぎっしりと詰まっているので、少し細かく見ていこう。
(参考:フランス語の詩を読むために)
音色
(1)アソナンス(assonace) — 母音反復
Saraという名前の中には、すでに指摘したように、[a] の音が二つ用いられている。こうした同じ母音の反復は、アソナンス(assonance)と呼ばれる。
そして、[a] の響きをたどっていくと、balance、hamac、bassin、à と、同じ母音が次々に現れる。
さらに、より明るく開放的な鼻母音 [ɑ̃] は、indolence と balance の韻を響かせるだけではなく、Dans ともアソナンスを形成している。
それ以外にもいくつかのアソナンスが見られるが、とくに注目したいのは、ギリシア神話の小川の名 Ilyssusに含まれる [i] の音である。
[i] は、唇を横に強く引き、舌を前方に寄せて発音される鋭い音であり、緊張感のある響きをもつ。その鋭い響きは、それ以前に何度も反復されてきた [a] や [ɑ̃] と鮮やかな対照をなし、この詩節を締めくくる効果を生み出している。
(2)アリテラシオン(allitération) — 子音反復
Sara の [s] の音は、Se、indolence、balance、dessus、bassin、Ilyssus と何度も反復される。また、belle の [b] の音も、balance、dessus、bassin と繰り返される。
この二つの子音のアリテラシオンによって、Sara belle(美しいサラ)という響きが第一詩節全体に織り込まれているような印象を与えている。
また、小川の名 Ilyssus には定冠詞が付いて l’Ilyssus となるため、[l] のアリテラシオンと [i] のアソナンスが結び付き、音響的にもひときわ印象的な名称となっている。
(3)韻(rime)
韻とは、二つの詩行の終わりで最後の母音の音が一致することを指す。そして、フランス語の韻文詩においては、韻を踏んでいなければ詩とは見なされない。
フランス語を母語としない私たちには、韻の響きはすぐには感じ取りにくいこともある。しかし、« Sara la baigneuse » では、韻が私たちにもはっきりと聞こえてくる箇所が多い。その最も印象的な例が、最初の二行である。
Sara, belle d’indolence,
Se balance
ここでは、隣り合う二行で韻を踏む平韻(rime plate)であるだけではなく、一行の音節数が短いために、韻の響きが非常に明瞭に聞こえてくる。
しかも、母音の [ɑ̃] だけではなく、その前後の [l] と [s] も一致しており、rime riche(豊かな韻)と呼ばれる韻になっている。そのため、二つの [lɑ̃s] の響きが私たちの耳をより強く打つのである。
さらにこの二行では、すでに見てきたアソナンスとアリテラシオンも重なり、ものうげで美しいサラが体を揺らす様子が、音によって私たちの記憶にはっきりと刻み込まれるといってもいいだろう。
Du bassin d’une fontaine
Toute pleine
ここでは、母音の [ɛ] とそれに続く子音 [n] が一致しているため、rime suffisante(十分な韻)と呼ばれる韻になっている。
もちろん、それでも十分に美しい韻なのだが、Sara で始まる最初の二行と比べると、その印象はやや穏やかである。
Dans un hamac, au-dessus
(…)
D’eau puisée à l’Ilyssus ;
三行目と六行目は、四行目と五行目を包み込むように韻を踏んでいるため、抱擁韻(rime embrassée)と呼ばれる。
ここでも、母音 [y] だけではなく、それに続く子音 [s] も一致しているため、rime suffisante となっている。
さらに、この二行では二つのアソナンスが用いられている。hamac と à は [a] の音で、au と d’eau は [o] の音で、それぞれ響き合っている。
音節数と「無音のe」
ここであえて音節数について確認しておきたいのは、私たちにとってとりわけ理解が難しい「無音のe」がいくつか出てくるためである。
« Sara la baigneuse » は、詩法における音節数の数え方によれば五音節になる。/ の区切れで示せば、« Sa/ra/la/bai/gneu/se » と六つに区切られそうなのに、なぜ五音節になるのか。そんな疑問が湧いて当然だろう。
ここで問題となるのが、「無音のe」と呼ばれる e の扱いなのである。
(1)行末
フランス詩法では、詩行の最後にある無音の e は一音節として数えないことが原則とされている。そのため、baigneuse は bai/gneu/se と三つに区切られるように見えても、行末では最後の無音の e を数えず、二音節と見なされる。
このことは、韻が男性韻と女性韻に区別されることとも関係している。
女性韻(rime féminine)とは、発音されない「無音の e(e muet)」で終わる行末のことをいう。男性韻(rime masculine)とは、それ以外のすべての音で終わる行末である。
古典的なフランス詩法では、男性韻と女性韻を交互に配置することが原則とされていた(たとえば、女性韻 A-A、男性韻 B-B)。
« Sara la baigneuse » でも、d’indolence–balance(女性韻)、dessus–l’Ilyssus(男性韻)、fontaine–pleine(女性韻)というように、女性韻と男性韻が交互に配置されていることが確認できる。
一応確認しておくくと、d’indolence–balance と fontaine–pleine は、いずれも綴りの最後に無音の e をもつため、女性韻に分類される。
(2)行中
行の中では、「無音の e 」の後ろに母音が来る場合と、子音が来る場合とで、音節の数え方が異なる。
まず、無音の e の後ろに子音が来る場合を見てみよう。
Sara, belle d’indolence,
Se balance
belle の最後の e の後ろには d が来る。そのため、belle は bel-le と二音節として数えられる。
したがって、一行目は « Sa / ra / bel / le / d’in / do / lence »となり、合計七音節である(lence の語末の無音の e は数えない)。
二行目の se も、後ろに b が来るため一音節として数えられる。« Se / ba / lance »で三音節となる(balance の語末の無音の e は数えない)。
これに対して、無音の e の後ろに母音が来る場合には、その e は発音されず、音節として数えられない。
その例は、第2詩節に見られる。
Et la frêle escarpolette そのか弱いブランコ
frêle の語末の e の後ろには、母音で始まる escarpolette が続くため、frêle は一音節として数えられる。したがって、この詩行は« Et / la / frêle / es / car / po / lette »となり、七音節になる(escarpolette の語末の無音の e は数えない)。
最後にクイズを出そう。無音の e が二つ含まれる次の詩行は何音節だろうか。
Toute pleine
« tou / te / pleine »となり、三音節というのが正解である。
このように、無音の e は音節数の数え方だけではなく、女性韻と男性韻という韻の理解にも関わる重要な要素なのである。
このように音色と音節数の面から詩句を見てきたが、« Sara la baigneuse » がどれほど音楽性に富んでいるかを実感するために、ヴィクトル・ユゴーがこの詩のエピグラフとして引用しているアルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred de Vigny)の「La Dryade(木の精霊)」の詩句を参考に読んでみよう。
Le soleil et les vents, // dans ces bocages sombres, 太陽と風が、暗い木立の中で、
Des feuilles / sur son front // faisaient flotter les ombres. 彼女の額の上に、葉の陰を揺らしていた。
ここでは、韻は母音の [ɔ̃] だけではなく、b と r という二つの子音も一致しているため、rime riche(豊かな韻)になっている。
しかも、sombres の中には ombres がそのまま含まれている。こうした、ある単語の中にもう一方の単語がそっくり包み込まれているような韻は、聴覚的にも視覚的にも非常に濃密な響きを生み出す。そのため、この韻の効果は私たちにも十分に伝わってくる。
その一方で、この詩句は十二音節から成り、韻の間に間隔があるため、ユゴーの七音節・三音節詩句における rime riche の反復と比べると、印象はやや弱まるように思われる。
また、どちらの詩行も十二音節の切れ目(césure)が六音節目の後に置かれ、非常に規則正しいリズムを生み出している。それはそれで美しいが、七音節・三音節の軽快さに比べると、スピード感という点ではやや劣るように聞こえる。
もちろん、単純に比較することはできないし、詩としての優劣が問題なのではなく、それぞれの詩がもつ異なる音楽性を味わうことが大切なのである。
ヴィニーのアレクサンドラン(12音節の詩句)が均衡と荘重さを生み出すのに対し、ユゴーの七音節・三音節の詩句は、より短い呼吸の中で、揺れや軽快さを感じさせる。その違いこそが、それぞれの詩の魅力なのである。
ユゴーがヴィニーの詩句をエピグラフとして引用したことも、こうした異なる音楽性を読者に意識させる一つの仕掛けとして読むことができるだろう。
そして、そうしたことを前提にすると、とくにフランス詩の韻律にまだ十分慣れていない読者にとっては、短い詩句の反復によって構成された« Sara la baigneuse »の方が、音色とリズムの効果をより直接的に味わいやすいのではないだろうか。
そのような視点から、これからユゴーが1829年に『東方詩集(Les Orientales)』の中に挿入したこの詩を読んでいくことにしよう。