「曇りなき目」のリテラシー  —  熊本地震のフェイクニュースから考える

地震など自然災害が起きると、救助や支援の情報が必要になる。ところが、2026年7月の熊本地震でも、それとは正反対の現象が起きたことが知られている。SNSには、被災者を助ける情報ではなく、フェイクニュースや陰謀論があふれたのである。

これは現代病ともいえるものだが、SNS上のフェイクニュースや陰謀論は、炎上することで金銭的な利益が得られることもあり、収束する気配を見せない。

しかし、問題の本質はデマそのものだけではない。デマを見抜く力を弱め、私たちを長時間SNSに留め置く仕組みである。逆に言えば、その仕組みに足を取られることなく、「おかしい」と直感できる情報リテラシーを養うことこそ、現代社会で最も重要な能力の一つなのである。

ここで、熊本地震に関して実際に拡散されたフェイクニュースや陰謀論の例を見てみよう。

— 実在しない住所での救助要請。
— 「母が店舗の倒壊で亡くなった」など、嘘の被害を騙った送金要求。
— 「電磁波」「震源の深さ」「地震雲」を持ち出し、人為的に起こされたものだとする人工地震説。
— イオンモール熊本の爆発は核兵器、ミサイル攻撃、外国人工作員のテロによるものだとする。
— イオンモール熊本には、ガスを燃料として発電し、廃熱も回収して給湯や冷暖房などに利用するガスコージェネレーションが設置してあった。
— 地震の予測的中アピール:「事前に場所を正確に的中させた」と主張。
— 震源は阿蘇山、阿蘇山が噴火した。
— 豪華寝台列車「ななつ星in九州」が脱線した。
— 「ライオンが放たれた」(2016年の熊本地震のデマを模倣)
— ボランティアのふりをした外国人窃盗グループが被災地に向かった。
— 「イオン爆発の瞬間」と称した動画を流し、「TikTok Lite」などの招待リンクを踏ませ、報酬を得ようとする投稿。etc.

一つひとつを見ると、ほとんどのものは荒唐無稽に思える。しかし、これらは実際にSNSで大量に拡散された情報なのだ。

こうしたフェイク投稿や陰謀論に対して、普段からそうした情報に接していない人であれば、違和感を覚えるはずである。そのままは信じないか、あるいは情報を確認するという対応を取るだろう。

ところが、SNSのリール動画などを見続けていると、「いいね」を押す。保存する。リツイートする。近くの人に話す。たったそれだけで、自分が情報を拡散する側に回ってしまう。エコーチェンバーだ。
想像してみて欲しい。黄色いメガホンを持って、信じ込んだ真偽不明の情報を、歩きながら大声で触れ回る姿。目立つか目立たないかの差だけで、声が大きいか小さいかの差だけで、実はこれほど滑稽なことを実行しているのである。

もちろん、フェイクニュースに対する対策も提案されている。情報源を確認する。強い感情が動いたときにはいったん立ち止まる。動画の不自然さに気づく。静止画像であれば画像検索機能で類似画像を探して真偽を確認する。

しかし、効果は限定的だろう。なぜなら、そのような認知機能を麻痺させ、人々をネット空間に長時間留まらせる仕組みそのものが、SNSの最大の特徴だからである。


その点について、SNS的メンタリティについて少しだけ触れておきたい。

(1) アルゴリズムと「フィルターバブル」

検索エンジンやSNSの推薦アルゴリズムは、ユーザーが「見たいもの」「信じたいもの」を優先的に表示しやすい仕組みになっている。

アルゴリズムとは、インターネット上の「関心予測システム」と考えればわかりやすい。閲覧者の過去の検索履歴、閲覧履歴、「いいね」の傾向などを分析し、興味を持ちそうな動画やニュース、広告を自動的に優先表示する。

その結果、「見たい情報」ばかりが意図せず集まり、自分では気づかないうちに情報の「泡(バブル)」の中に閉じ込められてしまう。

その「泡」の中では、他の意見や情報が見えにくくなるだけではない。「みんなが言っている」「多数の人が支持している」という印象が強まり、自分の考えが繰り返し肯定される環境が生まれる。

(2)ネット空間が求めるのは「客観」ではなく「感情の興奮」

ネット上でPV(アクセス数)を爆発的に伸ばす最大の原動力は、「怒り」「優越感」「敵意」「正義感」といった強い感情である。

SNSのエンゲージメント最適化は、ある情報に賛成する場合でも反対する場合でも、「強い感情反応」を引き起こすコンテンツを優先的に拡散しやすい。そのため、賛同者からの「いいね」と反対者からの怒りのコメントの両方を集めやすい投稿ほど、結果としてアルゴリズムに評価されやすくなる。

とりわけ「正義感」は自己肯定感と結びつきやすい。特定の立場や個人、あるいは国を攻撃したり礼賛したりする記事は、閲覧者が自分を「正義の側」に位置づけ、その満足感を得るためのコンテンツとして消費されやすい。

(3)「わかりやすい物語」

こうした感情を引き起こすためには、複雑な現実を丁寧に考察する議論よりも、わかりやすい「答え」の方が有効に働く。

人間には、自分の既存の世界観を補強してくれる物語を好んで受け入れる傾向がある。陰謀論やフェイクニュースが広がりやすいのも、その多くが「敵がいる」「真実を知っているのは自分たちだ」という単純で理解しやすい物語を提供するからである。

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このようにSNS的メンタリティを整理してみると、刺激的で感情を煽り、正義感を満足させてくれる情報を前にしたとき、人間が思わず引き込まれてしまう理由が見えてくる。

フェイクニュースへの対策が数多く提案されているにもかかわらず、効果が限定的になりやすいのは、SNSの側が人間の注意や感情を引きつける強力な仕組みを備えているからなのである。


では、フェイクニュースや陰謀論に対する対策は何もないのだろうか。

私がもっとも期待したい最初のものは、学校教育である。

もちろん、国語教育だけでフェイクニュースや陰謀論をなくすことはできない。しかし、情報を読み、根拠を吟味し、複数の解釈を比較する訓練は、間違いなくすべての出発点になる。

大人になる前の段階で、SNS的メンタリティに動かされやすい人間の心理的習性を自覚させること。
そして、情報源を探り、複数の視点を対比させながら判断する習慣を養うこと。
そうした思考習慣を育むのに最も適した教科は「国語」だろう。母語で書かれた文章を読み、時代背景を探り、言葉の根拠を知る。作者の意図だけでなく、その文章が読者にどのような意味をもたらすのかまで深く思考する。この「豊かな読解力」こそ、現代のSNS時代に最も求められているリテラシーに他ならない。

その必要性は、文部科学省も十分に理解していると思われる。
2026年の学力調査の結果の分析として、現代の小学生や中学生は、根拠を持って自分の考えを記すなど、思考力や表現力に課題があることが指摘されている。
そして、「生成AIの時代だからこそ思考力は大切で、指導充実を図りたい」という展望が述べられている。

だが、その方針に賛同する一方で、不安も残る。高校で2032年度以降に導入予定の次期学習指導要領において、国語の一部科目で論説文や評論に加え、「新聞記事」や「広告のキャッチコピー」が中心的な教材として使われる見通しとなったことだ。こうした時事性の強い素材は、古典のように時代を超えて読み継がれてきた作品とは異なり、教材として扱う際にはより一層慎重なファクトチェックや文脈理解が求められる。

また、「AI時代だからこそアナログに戻る授業も大切」といった二元論的な議論も散見される。しかし、問題の本質は伝達手段(デジタルかアナログか)にあるのではなく、情報を「受容する人間の側」にあることを常に意識しておかなければならない。

SNS的メンタリティとは、人間がもともと持っている「同意を求め、正しくありたいと望み、明確な正解を求める」心理的傾向が増幅されたものだ。だからこそ、国語教育を通じて言葉の根拠を探り、意味が一元的なものではなく複数存在し得ることを知る体験が重要となる。自分なりの判断を下すときには根拠を持ち、即断できない場合は「多様な視点が共存していること」を意識して判断を保留する。

だからこそ、母語である国語の教育を通して、言葉の根拠を探り、意味は必ずしも一元的なものではなく複数存在する可能性があることを知る体験をすることが重要となるのだ。そして、その中から、自分なりの判断を下す場合には下す。下さない場合には、多数の視点が共存していることを意識しておく。

先入観を持って初めから意味を決めつけてしまうことは「わかりやすい物語」を作り出すことにつながる。そうするのではなく、私の好きなジブリ作品「もののけ姫」のアシタカの言葉でいえば、「曇りなき目で見定め、決める」ことを学ぶことが、「フィルターバブル」を破裂させるために必要な姿勢に他ならない。
(参考:もののけ姫 怒りに曇る目と生きる自然

この「曇りなき目」は、子供たちだけでなく、情報リテラシーの訓練を受けてこなかった大人たちの心にも強く響くはずだ。
感情を揺さぶる情報に対して警戒の視線を向け、一度立ち止まって見返す習慣がつけば、自然とデマや陰謀論に違和感を抱くようになる。そして、自らが情報の「拡散者(共鳴者)」となることを自覚し、自らの手でシェアをストップできるようになるだろう。それこそが、炎上で利益を得るネット上の不健全な経済システムを断ち切る強力なブレーキとなる。

私は、SNS時代に必要な批判的思考力を育てるためには、文学や美術など、時代の試練に耐えて読み継がれてきた芸術作品を深く「読む」体験こそが真の対策になると考えている。
自身の偏見というフィルターを外し、「曇りなき目」で作品や背景にある多様な要素を紐解いていくこと。その地道な訓練こそが、本物のリテラシーを育て、私たちをフィルターバブルの外へと連れ出してくれるのではないだろうか。

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