
「ボエム・ギャラント(La Bohême galante)」が目指した文学のあり方は、次の一文によって暗示される。
それは、ネルヴァルたちの若き日の詩(rimes)がgalantesと形容されていることからも推測できる。
Le vieux salon du doyen, restauré par les soins de tant de peintres, nos amis, qui sont depuis devenus célèbres, retentissait de nos rimes galantes, traversées souvent par les rires joyeux ou les folles chansons des Cydalises.
主席司祭の古いサロンは、たくさんの画家たち、ぼくたちの友人であり、その後有名になった連中の修復の手が加えられ、そこには、ぼくたちの優雅な詩が響き渡り、その響きはたびたびシダリーズたち(女優などをしている若い娘たち)の楽しげな笑い声や、羽目をはずした歌が交差していた。
アンリ・ミュルジェールの『ボヘミアンの生活情景(Scènes de la vie de bohème)』からもわかるように、ボエミアンとは、自由と芸術を愛して気ままに暮らす若くて貧しい芸術家たちのことだった。
ネルヴァルが描くのも、若い芸術家と、シダリーズたちとあだ名される娘たちの集団だが、そこで歌われるのは、単なる恋の歌ではない。それは、17世紀のギャラントリー(galanterie)や18世紀のフェット・ギャラント(fête galante)に連なる世界である。
そのことは、彼らの集う場所が「主席司祭の古いサロン(Le vieux salon du doyen)」とされていることによって暗示されていると考えられる。
(1)17世紀のサロン文化 — ギャラントリー

Le doyen(主席司祭)が所属していたのは、彼らのアパルトマンに隣接するルーブル聖トマ教会(l’église de Saint-Thomas-du-Louvre)であり、その近くには、すでに出てきたランブイエ館が存在していた。そこでは、17世紀の文学の発生地ともいえるサロンが、ランブイエ公爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌによって開かれていた。
そのサロンでは、洗練された話し方や振舞いなどが徹底され、男性であれば、女性を不快にすることなく、女性に気に入られるような礼儀正しい身のこなしや言葉遣いが規範として成立していた。
そして、そうした振る舞いがギャラントリー(galanterie)と呼ばれたのだった。
(2)18世紀の貴族文化 — フェット・ギャラント(艶なる宴)
「Fête galante(艶なる宴)」は、18世紀の初頭に、アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)がアカデミーに提出した「シテール島の巡礼(Le Pèlerinage à l’île de Cythère)」に由来する絵画のジャンルで、貴族的な男女が庭園で戯れる、優美に演出された牧歌的情景を指す。
この絵画によって、18世紀のロココ絵画の方向性が決定付けられたといってもいいだろう。

ヴァトーについては、1834年に出版されたLe Magasin pittorque(『挿絵入り雑誌』)に紹介文が掲載されているが、それによると、当時ルーブル美術館に収蔵されていた作品は、「「シテール島の巡礼(L’embarquement pour l’île de Cythère)」ただ一点だけだと記されている。



(3)1834-35年のドワイヤネ街のサロン
チュイルリー宮とルーブル宮の改築工事のために取り壊しの予定だった地区は、かなり荒れ果て、家賃の安いアパルトマンにはそれほど豊かとはいえない人々が暮らしていた。
しかし、そこには17世紀以来の「主席司祭の古いサロン」がなお残っていて、その壁に描かれた絵画を若い画家たちが修復するとしたら、それは過去の伝統との繋がりを示す行為だといえる。

その上で、若い女の子たちの楽しげな笑い声(les rires joyeux)や、さらには気が違ったような羽目を外した歌(les folles chansons)が響いている。彼女たちの存在は、当時のボヘミアンたちの自由で陽気な空気を伝えているといえるだろう。
そうした中で歌われる、ネルヴァルを含めた若い詩人たちの詩(rimes)がgalantesだということは、17世紀以来の芸術の伝統を受け継ぎながら、それをロマン主義の時代の若々しい生命力によって新たによみがえらせようとする試みを示しているのだろう。そこには、新しい文学や絵画の美が生まれる創造の場があったのである。
そして、「ボエム・ギャラント」という題名もまた、「ボヘミアンの貧しい現実」と「雅やかな詩的記憶」という、一見相反する二つの世界を結び付けるオクシモロン(撞着語法)として理解することができる。
次に、画家や詩人、そして若い娘たちの姿が描かれ、ドワイヤネ街に集った仲間たちの雰囲気が素描される。
Le bon Rogier souriait dans sa barbé, du haut d’une échelle, où il peignait sur un des quatre dessus de glace un Neptune, — qui lui ressemblait ! Puis, les deux battants d’une porte s’ouvraient avec fracas : c’était Théophile. Il cassait, en s’asseyant, un vieux fauteuil Louis XIII. On s’empressait de lui offrir un escabeau gothique, et il lisait, à son tour, ses premiers vers, — pendant que Cydalise 1re, ou Lorry, ou Victorine, se balançaient nonchalamment dans le hamac de Sarah la blonde, tendu à travers l’immense salon.
お人好しのロジェは、はしごの上から、ひげの中でにやりと微笑みながら、鏡の上にある四つの装飾パネルの一つにネプチューンを描いていた。なんと、そのネプチューンは彼にそっくりだった!— なんと彼そっくりだったことか! やがて、両開きの扉が大きな音を立てて開いた。テオフィルだった。彼は座るなり、古いルイ13世様式の椅子を壊してしまった。みんなは急いでゴシック風の腰掛けを差し出した。すると、今度は彼が自作の初期の詩を朗読したのだった。— その間に、シダリーズ1号や、ロリー、ヴィクトリーヌは、広いサロンを横切って張られた金髪のサラのハンモックの中で、ゆらゆらと無頓着に身を揺らしていた。
(1)カミーユ・ロジェ(Camille Rogier :1810-1896)
最初に出てくるのは画家のカミーユ・ロジェで、ドワイヤネ袋小路(l’impasse du Doyenné)のアパルトマンを借りているのは彼だった。したがって、ネルヴァルとアルセーヌ・ウッセーは同居人だったということになる。
ロジェが描いているローマ神話の海の神ネプチューンが彼にそっくりだったというのは、何か象徴的な意味があるというよりも、仲間内でそう語り合っていた思い出を、そのまま書き留めているのではないだろうか。



この箇所がそうした想定をさせるのは、ネルヴァルがまず第一に読者として想定しているのは、お互いによく知っている仲間たちだと、私には強く感じられるからである。彼は、そこでしか通じない話を面白がりながら語っているのかもしれない。
そして、そこで醸し出される親密さが、第一の読者を超えて、雑誌で連載記事を読む読者に伝わり、さらには、時代や国を超えて、私たちのような読者にも伝わってくる。そうした輪の中に入ることで、私たちもドワイヤネ街の集いに参加する気分になってくるのだ。
ただし、そのためには、時代や国の違いがもたらすわかりにくさを乗り越えなければならないこともでてくる。ここでは、« un des quatre dessus de glace »(鏡の上にある4つの装飾パネルの1つ)がそれにあたる。

普通だと、« de glace »は「ガラスでできた」という意味になる。しかしここでは、« dessus de porte »(扉の上部の装飾部分)という用語が前提になっていて、「鏡の上部の装飾部分」という18世紀の装飾美術の用語であることを知らなければならない。
カミーユ・ロジェは、はしごの上に立ち、鏡の上の装飾用の部分に海の神の絵を描いているのだ。

(2)テオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier : 1811-1872)


テオフィル・ゴーティエは、1829年にリセ・シャルルマーニュでネルヴァルと出会って以来の友人だった。
当時、ネルヴァルは19歳だった1827年にゲーテの戯曲『ファウスト』第一部の翻訳を出版して名声を得ており、当初はゴーティエにとって憧れの存在だったようだ。しかし、二人はすぐに親しくなり、ゴーティエも1831年には最初の詩集や小説を出版していた。
1834年頃には、ゴーティエはドワイヤネ通り(rue du Doyenné)に小さなアパルトマンを借り、隣接するドワイヤネ袋小路(impasse du Doyenné)のサロンに入り浸っていた。
彼らが「通り」と「袋小路」を区別せずに思い出を語るのは、彼らにとってはどちらに住んでいても同じことだったからだろう。


「ボエム・ギャラント」の少し後の箇所に書かれているように、ゴーティエはお腹こそ出ていなかったものの、ふくよかな体つきだったという。椅子を壊したというエピソードも、仲間たちの笑い話だったのかもしれない。
それと同時に、「古いルイ13世様式の椅子」(un vieux fauteuil Louis XIII)を壊したので、「ゴシック風の腰掛け」(un escabeau gothique)を差し出したという椅子のやり取りには、ドワイヤネ街がルイ13世時代のサロン文化の中心だったランブイエ館と同じ地区にあることを考えると、ネルヴァルが美学的な意味を込めたと考えることもできるだろう。

つまり、17世紀の古典主義の美学の跡をたどりながらも、それを壊し、ノートルダム大聖堂に象徴されるゴシックへと回帰することで、19世紀に新たな美を作り上げるという意図が込められているのではないか。
実際、ゴーティエはネルヴァルの紹介でヴィクトル・ユゴーと知り合い、1830年2月25日にコメディ・フランセーズで行われたユゴーの戯曲『エルナニ』の初演をめぐって、革新的なロマン派と保守的な古典派との間で起きた劇場での争いにおいて、赤いチョッキをまとい、先頭に立って戦ったことが知られている。

ネルヴァルも、ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』が1831年に出版されると、「ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)」という詩を発表し、当時は見捨てられていた大聖堂を、これからは人々がユゴーの本を手にしながら訪れるようになるだろうと歌っている。
ゴシック建築を代表するノートルダム寺院を視野に入れると、「ゴシック」という言葉は、ヴィクトル・ユゴーとのつながりをネルヴァルが暗示したものとも考えられる。そして、そのことは、若い娘たちに関する部分で、よりはっきりと示されることになる。
(3)シダリーズたち
シダリーズたちは、詩人たちが詩を朗読する間に、陽気に笑い声を立てたり、羽目を外したような歌を歌ったりしていたのだが、ここではシダリーズ1号、ロリー、ヴィクトリーヌと名前を挙げられ、ハンモックでぶらぶらと揺られる姿で描かれている。

そのハンモックが「金髪のサラ(Sarah la blonde)」のハンモックと呼ばれていることは、ヴィクトル・ユゴーの「水浴びをするサラ(Ssara la baigneuse)」を踏まえていると考えられる。そのことは、サロンの仲間だけではなく、『ラルティスト』誌の読者であれば、誰もが思い浮かべたはずの連想だろう。
というのも、ユゴーが1828年に出版した『東方詩集(Les Orientales)』の中でも、「水浴びをするサラ」はとりわけよく知られた詩だったからだ。
その第一詩節を読んでみよう。そこには、ハンモックの中で揺れるサラの姿が描かれている。
Sara, belle d’indolence,
Se balance
Dans un hamac, au-dessus
Du bassin d’une fontaine
Toute pleine
D’eau puisée à l’Ilyssus ;
サラは、物憂げで美しく、
揺れている、
ハンモックの中、
泉の水盤の上で、
いっぱいに満たされた、
イリッソスで汲まれた水で。
ベルリオーズはこの詩を使い、四重唱と管弦楽のために作曲し、1834年にパリのコンセルヴァトワールで初演したが、その際に、ベルリオーズ自身がバスのパートを歌った可能性があるといわれている。
また、ユゴーの親しい友人であるルイ・ブランジェが挿絵を付けただけではなく、ポール・ドラロッシュやギュスターブ・クールベも、この詩からインスピレーションを得た作品を描いている。



興味深いことに、ユゴーの詩の中でサラの髪の色には触れられないが、ポール・ドラロッシュの作品「金髪の少女」(中央)では、少女は金髪になっている。(ちなみに、クールベの題名は「ハンモック」)
ネルヴァルが「水浴びするサラ(Sara la baigneuse)」ではなく、「金髪のサラ(Sara la blonde)」としたのは、そうした絵画からの連想かもしれない。
しかし、いずれにせよ、ハンモックの中で「ゆらゆらと気だるげに(nonchalamment)」身を揺らすシダリーズたちは、当時の読者に、「物憂げな美しさ(belle d’indolence)」をもつユゴーのサラを思い起こさせたに違いない。そして、その連想を通して、ドワイヤネ街のサロンの雰囲気が読者の心に立ち上がってきたのだろう。

固有名が挙げられていることで、もう一つ考えられるのは、シダリーズ1号、ロリー、ヴィクトリーヌが誰なのかという問題である。
シダリーズ1号と呼ばれる女性は、カミーユ・ロジェの恋人だったと考えられていて、彼の手による肖像画も残されている。
後の二人に関しては、仲間の間ではあだ名で呼べば誰のことだかすぐにわかったに違いない。ヴィクトリーヌはゴーティエの恋人だったとか、ロリーはルイーズ・ガブリエル・ロリーという1888年に亡くなった女優だといった推察が提示されることもある。
しかし、「ラルティスト」誌の読者はもちろん、私たち現代の読者にとっては、個人は特定できないし、特定できたとしても大きな意味はないといっていいかもしれない。
むしろ、シダリーズたちの様子から、ドワイヤネ街のサロンの雰囲気を感じ取ることができれば、それで十分ではないだろうか。

彼女たちの何人かは、ネルヴァルが愛したと言われるジェニー・コロン(Jenny Colon)を含め、若い女優だったと思われる。
そうした女優たちの姿を思い描くことで、ドワイヤネ街にどんな女性たちがいたのかわかってくるだろう。
実は、ネルヴァルは、伯父さんの遺産を受け継ぎ、この時代にはけっこうな資金があったおかげで、1835年に自ら企画・編集した雑誌『演劇世界(Le Monde dramatique)』を出版できたのだった。
そして、その中には、若い女優たちが舞台衣裳を身につけた版画が何枚も掲載されていた。
彼女たちの中には、ドワイヤネ街のシダリーズたちが含まれていたのではないかと想像してみたくなる。







こうした若い女優たちが、舞台衣裳ではなく、日常の服を着ている様子を想像してみると、当時のネルヴァルたちの気分が少しだけでも味わえるかもしれない。
1845年に出版された『パリの悪魔(Diable à Paris)』のページをめくり、当時のパリに住む女性たちが描かれた版画を見て、その様子を像像してみよう。


また、当時の社交界のサロンを描いた版画と、社会の周辺に生きる人びとの食事風景を描いた版画を見比べると、ドワイヤネ街のサロンの現実が見えてくるだろう。


こうしてシダリーズたちの姿を思い描くことで、私たちは1830年代のパリの一角に入り込み、当時の若い詩人や画家たちとともに楽しい集い(fête)を過ごしている気分を味わうことができる。
そして、彼女たちが、ヴィクトル・ユゴーが描いたサラのように官能的な魅力をまとっているとしたら、その集いは、貧しいながらも、「艶なる宴」(fête galante)となるといってもいいだろう。
カミーユ・ロジェがサロンの壁に描いたとされる絵画は、すでに見てきたヴァトーの「艶なる宴(fête galante)」の世界を思わせる。

こんな風に考えると、シダリーズたちの存在が、詩人や画家たちの集いにギャラント(galante)な色合いを与えていることがわかってくる。
ネルヴァルが1852年の連載記事に「ボエム・ギャラント(La Bohême galante)」という題名を思いついたのは、庶民の日常をありのままに描きながら、それが同時に「艶なる宴(La Fête galante)」へとつながるような新しい美を生み出すことを意識したからではないだろうか。
貧しい生活の中でも、詩人たちのギャラントな詩(rimes galantes)がみんなの前で声を出して読まれ、シダリーズたちが陽気に笑い声(les rires joyeux)を立て、意味不明の歌(les folles chansons )を歌い、ハンモックの中で艶やかなサラのように体を揺らしている間に、楽しい宴(fête)の時間が過ぎていく。
最終的には、その宴が失恋の辛い失望に変わったとしても、ドワイヤネ街の青春時代は、美の源泉として生き続けていく。

そして、1834-35年頃のネルヴァルの生き生きとした活力を示すのが、先に触れた『演劇世界(Le Monde dramatique)』の企画・編集だった。
その「趣意書」には、他の演劇雑誌や版画入りの雑誌の現状を打破しようという意図が明確に示されている。
扱う作品は、フランスだけでなく、イギリス、イタリア、ドイツはもちろん、インドや中国にまで及ぶものとするという。また、翻訳作品については、全文を掲載することも、特徴の一つとしている。
演劇批評に関しては、専門的でありながら、読者の注意を引くように、物語的なものとする。俳優や作家については、彼らの才能やそれまでのキャリアの評価を中心にする。
さらに注目に値するのは、版画の質で、すでに出版された『マガザン・ピトレスク(Magasin pittoresque)』などのように費用を抑えて質を落としたものではなく、芸術としての価値を持つ版画を掲載するのだという。
実際に、『演劇世界』では、厚い紙の上に印刷された繊細な版画が挿入され、それらは『マガザン・ピトレスク』の版画とは質がことなることがわかる。


これらの版画と比較すると、『演劇世界』に掲載された版画は、芸術作品としての価値を与えられたものだと考えられる。そのいくつかには、カミーユ・ロジェの版画が使われている。


女優の版画でも、高画質のものが幾つかある。これらは、シダリーズたちのところで見た女優たちの版画と比べても精緻さが違っている。


結局、『演劇世界』は経済的に破綻し、ネルヴァルはおじから受け継いだ遺産を使い果たすという状態に追い込まれてしまう。

しかし、たとえこの試みがうまくいかなかったとしても、ドワイヤネ時代のネルヴァルが、いかに青春時代(primavera)の若々しい息吹に満ち、、文学や芸術の世界へ乗り出そうとしていたかを、はっきりと感じ取ることができる。
そして、その時代のことを二十年以上を経て思い出すことで、過去へ後退するのではなく、新しい芸術の萌芽として捉え直し、さらなる一歩を踏み出そうとした。それが『ボエム・ギャラント』の構想だったと考えてもいいだろう。