Victor Hugo « Sara la baigneuse » ヴィクトル・ユゴー「水浴びをするサラ」5/5

(日本の大学などでフランス語の詩を読む場合、内容の説明に重点が置かれ、詩のもう一つの側面である言葉の音色の美しさやリズムを実際に味わうことは、あまり行われていないように思われる。
そこでここでは、詩句の音楽性にとりわけ重点を置きながら、ヴィクトル・ユゴーの « Sara la baigneuse »(水浴びをするサラ)を読んでいきたい。)


第16詩節の最初の詩句を読むと、何度も耳を打つ音があることに気づくだろう。

Ainsi se parle en princesse,    こんな風に、まるで女王のように独り言を言い、
Et sans cesse            そして、そして絶え間なく
Se balance avec amour,      体を揺らす、うっとりと 、
La jeune fille rieuse,        その乙女は、微笑みながら、
Oublieuse             忘れて
Des promptes ailes du jour.    日中の素早い翼を。

(朗読は4分43秒から)

Ainsi se と声に出して読んでみると、[s] の音が連続し、それが princesse で再び響くことに気づくはずだ。7音節のうち実に4音が [s] なのである。

続く行に進むと、再び sans cesse と [s] が連続し、さらに次の行の Se balance へと引き継がれていく。最初の3行の中で [s] 音を含まないのは avec amour のみであり、そのことで、この語句が音響的に鮮やかに浮かび上がる。

後半の3行はどうか。
ここでは澄んだ [s] 音は姿を消すが、代わりに濁った [z] 音が rieuse、oublieuse、そして promptes ailes(リエゾンによる [z])と、すべての行で鳴り響く。
その意味で、[s] 系列の音律の連続性は保たれているといえる。

その一方で、amour の [u] 音は oublieuse へと受け継がれ(アソナンス)、さらに最後の単語である jour と韻を踏む。
この [u] 音の連鎖は、影の中で se balance avec amour と身体をゆっくり揺らすサラのまどろむような時間と、陽光のもとで飛ぶように過ぎ去る時間という、二つの対照的な時間を鮮明に浮かび上がらせている。

Sara は、「日の素早い翼(Des promptes ailes du jour)」と呼ばれる太陽の下での時間の流れを完全に忘れ、彼女の象徴ともいえる、身体を揺らす(se balance)運動そのものに浸っている。
しかも avec amour、つまり、ゆっくりと揺れる自らの身体の滑らかな運動を味わうような、どこか官能的な自己陶酔を伴いながら。


第17詩節では、サラは揺れるハンモックから出て、水浴びをする姿が描かれる。

L’eau, du pied de la baigneuse   水が、水浴びをする乙女の足元から、
Peu soigneuse,           気にもとめない彼女の足元から、
Rejaillit sur le gazon,        跳ね上がる、芝生の上に、
Sur sa chemise plissée,       彼女の皺のよった肌着の上に、
Balancée              (その肌着は)揺れていた
Aux branches d’un vert buisson.  緑の茂みの枝にかかって。

最初のL’eauは、次にヴィルギュールが置かれ、続く6音節の詩句から単独しているかのように聞こえる。そのことで、この詩節の中心が「水」だと示される、と考えてもいいだろう。

その水は、ハンモックから出て水浴びをする乙女(la baigneuse)であるサラが、水辺で足を蹴り上げる(du pied)ことで、芝生の上まで跳ね上がる。さらに、皺のよった下着にまでかかる。
水しぶきが芝生から下着へと及んでいく流れは、rejaillit、chemise、plissée に響く [i] のアソナンスによって、音響的にも結びつけられている。

その時のサラの様子が peu soigneuse とされるのだが、彼女が気にもとめないのは、芝生の上の木の枝に掛けた彼女の肌着(chemise)に水がかかることだけだろうか。

その肌着は木の枝に掛けられ、揺れている(balancée)。
何度も見てきたように、balance はハンモックの上のサラを象徴する動きだった。すると、この肌着はサラの分身とも考えられる。

そして、その chemise には皺がよっている(plissée)。
その皺は、サラが無造作に枝に掛けたことでできたクシャッとした皺かもしれないし、風が吹いたために折り目やひだが生まれたものかもしれない。いずれにしても、その皺によって、脱いだばかりの肌着の生々しさや、脱ぐ直前までのサラの体温までも感じさせるものになっている。

水がかかることで、その肌着に読者の視線が向けられる。しかし、その肌着が浮かび上がらせるのは、サラが服を着ていないという事実にほかならない。彼女が気にもとめていないのは、自らが裸体であるということなのだ。

ヴィクトル・ユゴーは、la baigneuse と peu soigneuse という韻を踏む二つの言葉によって、裸体を恥じることなく自然の中で水と戯れるサラの無邪気さと、そこから立ちのぼる健康なエロティシズムを描き出したのだと考えてもいいだろう。


第18詩節にはサラ自身は登場せず、サラの仲間たちの姿が描かれる。そのことで、かえってサラの姿が陰画のように浮かび上がってくる。

Et cependant des campagnes   その間に、草原から
Ses compagnes          彼女の仲間たちは、
Prennent toutes le chemin.    みんな一緒に帰り道につく。
Voici leur troupe frivole      ほら、無邪気な彼女たちの群れが
Qui s’envole            飛び去っていく、
En se tenant par la main.     手に手を取って。

サラが日陰や水辺という密やかな一角に留まっていたのに対し、彼女の仲間たちは広大な草原を、手をつなぎながら遠ざかっていく。

彼女たちの屈託のない陽気さは、campagnes と compagnes、frivole と s’envole という、豊かな韻(rime riche)を踏む明るい響きによって、読者に伝えられている。
とりわけ frivole と s’envole では、両語の末尾に [vɔl] が完全に重なっている。そのため、彼女たちは仲間と手をつないだまま、草原からそのまま空中へと舞い上がっていきそうにも感じられる。

ここで、これまでサラを形容してきた rieuse、oublieuse、peu soigneuse と、彼女の仲間の乙女たちを形容する frivole の音を聞き比べてみると、frivole という形容詞が、単に「軽薄な」「移り気な」「浮気な」といった意味だけではなく、s’envole、さらには vol(飛翔)を連想させる響きを持っていることに気づくだろう。

つまり、frivole は意味だけでなく、その音によっても彼女たちの軽やかな運動を表現しているのである。サラが日陰で身体をゆっくりと揺らし、水辺で裸体のまま時を過ごしていたのに対して、仲間たちは手をつないで、まるで飛翔するように草原を去っていく。ここでも、サラと仲間たちの運動の対照が、言葉の響きによって鮮やかに描き出されている。 


最終詩節では、仲間たちがサラを軽く叱責する歌を歌い、サラが他の人々の目にはどのような乙女として映っているのかが伝えられる。

Chacune, en chantant comme elle,   誰しもが、サラと同じように歌いながら、
Passe, et mêle             通りすがりに、交えるのだ、
Ce reproche à sa chanson :       こんな批難を、歌の中に。
– Oh ! la paresseuse fille        — ああ! なんて怠け者の娘なの、
Qui s’habille              服を着るのが
Si tard un jour de moisson !      こんなに遅いなんて、収穫の日だというのに!

農繁期、みんなが汗を流して働き、仕事を終えて帰っていく時、サラは一人だけ、なかなか服も着ずに(s’habille si tard)、水辺でまどろんでいる paresseuse な娘なのである。

Un jour de moisson(収穫の日)は、第16詩節でサラが忘れている(oublieuse)と言われた des promptes ailes du jour(日の素早い翼)を思い出させる。

そして、そのスピード感は、7/3/7 // 7/3/7 という短いリズムを、さらに細かく刻む詩句の運びによっても表現されている。

chacune (2) / enchantant comme elle (5)
passe (1) / et mêle (2)
Oh ! (1) / la paresseuse fille (6)
si tard (2) / un jour de moisson (5)

このようにして、s’envole する娘たちがサラをからかう歌のスピード感が、ゆっくりとしか服を着ないサラの姿を際立たせ、第1詩節の冒頭の « Sara, belle d’indolence » ( サラは物憂げで美しく)を思い起こさせる。

Oh ! という嘆息の声は、la paresseuse fille qui s’habille si tard に対する呆れた叱責のようでもある。しかしその一方で、それは eau([o])という水の音を思わせ、la baigneuse であるサラの美の根源に向けられた感嘆の声であるのかもしれない。


« Sara la baigneuse » という詩の織物には、ここまでの説明ではとても言い尽くせない、意味と音とリズムが織りなす無数の模様が隠されている。
だからこそ、ベルリオーズを始めとして、何人もの作曲家によって曲が付けられたのだった。


実際、この詩は読むたびに新たな発見を与えてくれる。その意味でも、歌(chanson)と同じように、何度も何度も私たちを楽しませてくれる作品なのである。

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