『万葉集』を通してみる日本的感受性

『万葉集』に収められた和歌は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本的感性がどのようなものだったかを教えてくれる。

当時の日本人の心は、次の時代と共通する一つの一つの表現法を持っていた。
それは、『古今和歌集』の「仮名序」で、「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」と言われるように、心の中の思いを「見るもの聞くもの」という知覚対象に「つけて」、つまり「託して」、表現するという方法。

他方、そこで表現された心のありさまは、平安時代の『古今和歌集』の和歌によるものとはある違いがある。
時の経過、季節の移り変わりから現実の生の空しさを感じ取ることは共通しているのだが、その事実に対する感じ方が同じというわけではなかった。

法隆寺が創建され、大化の改新が行われ、『古事記』や『日本書紀』で大和朝廷が神話によって自らの正当性を確立しようとしていた時代、人々はどのような心を持ち、何をどのように感じていたのだろうか?

(1)「心もしのに」から「うら悲し」へ

まず最初に、初期の歌人である柿本人麻呂と後期を代表する大伴家持の句を読んでみよう。

近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥(ゆふなみちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ  (柿本人麻呂)

春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し この夕かげに 鶯(うぐいす)鳴くも (大伴家持)

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日本的感受性 『古今和歌集』の「仮名序」 

今から1000年以上前に書かれた『枕草子』の有名な一節、「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕ぐれ。冬はつとめて。」を目にすると、現代の私たちでも思わず肯いてしまう。
日本的な感受性は、それほど自然に対する親和性が強く、四季の変化に敏感に反応する。

その『枕草子』よりも約100年前に書かれた『古今和歌集』の「仮名序」は、そうした日本人の心のあり方の起源がどのようなものかを、彼らの遠い子孫である私たち現代の日本人に、こっそりと明かしてくれる。

冒頭の一節は、日本人の心と言葉の関係を、これ以上ないほど美しい言葉で語り始める。

 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

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ボードレール 「風景」 Baudelaire « Paysage » 都市の情景を創造する

『悪の華(Les Fleurs du mal)』は1857年に裁判にかけられ、社会の風紀を乱すものとして、100編の内の6編の詩の削除が命じられた。

その後、ボードレールは、1861年に『悪の華』第2版を出版するにあたり、新たに32編の詩を加えると同時に、「パリ情景(Tableaux parisiens)」と名付けた新たな章を作り、1857年の初版とは異なる様相を示す詩集とした。

「風景(Paysage)」は、その新たな章である「パリ情景」の冒頭に置かれ、ボードレールの描き出す都市風景がどのように生成されるのかを示す役割を果たしている。
別の言い方をすると、この詩は、「私(Je)」と名乗る詩人が、パリの情景をテーマとする詩を「創作する(composer)」姿を描いているのだといえる。

まず、最初の8詩行を読んでみよう。

Je veux, pour composer chastement mes églogues,
Coucher auprès du ciel, comme les astrologues,
Et, voisin des clochers écouter en rêvant
Leurs hymnes solennels emportés par le vent.
Les deux mains au menton, du haut de ma mansarde,
Je verrai l’atelier qui chante et qui bavarde;
Les tuyaux, les clochers, ces mâts de la cité,
Et les grands ciels qui font rêver d’éternité.

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ボードレール 「宝石」 Baudelaire Les Bijoux 官能を刺戟する美

1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が裁判にかけられた時、検事エルネスト・ピナールは「宝石(Les Bijoux)」の第5−7詩節を取り上げ、「猥褻であり、公共の道徳を傷つける絵画(peinture lascive, offensant la morale publique)」という言葉で批難した。

その言葉は、二重の意味で、「宝石」という詩を的確に表現している。
一つは、19世紀の基準から見ると、猥褻で非道徳的なテーマを扱ってること。
「最愛の女(ひと)は裸だった(La très chère était nue)」という出だしが、全てを物語っている。

Delacroix, Femme carressant le perroquet

もう一つは、ボードレールが、造形芸術(art plastique)、具体的に言えば絵画(peinture)を、詩の世界に置き換えようとしたこと。
詩人は、ドラクロワの絵画「オウムを愛撫する女性」を頭に置きながら、それを単に描写するのではなく、詩として表現したのではないかと考えられている。

絵画においてであれば、理想化された女神の姿という理由で許されている裸体(ヌード)が、詩においても許されていいはず。詩人はそんな風に考えたのかもしれない。

Ingres, Jupiter et Antiope

その際、裸体を描く詩句は、古典的な均整を保ち、ほぼ全ての詩句が6//6のリズムを刻んでいく。
従って、様式は、ロマン主義のドラクロワというよりも、古典主義のアングル的といっていいかもしれない。
アングルの「ジュピターとアンティオペ」を見ると、「オウムを愛撫する女性」との違いがよくわかるだろう。
実際、「宝石」は、詩句の姿としては6/6のリズムでしっかりと輪郭が形作られ、端正に描かれた印象を生み出している。
こう言ってよければ、「宝石」の語る内容はドラクロワ的だが、形式はアングル的だ。


第1詩節は正確に6//6のリズムを刻みながら、裸体の女性を描き出していく。

La très chère était nue, // et, connaissant mon cœur,
Elle n’avait gardé // que ses bijoux sonores,
Dont le riche attirail // lui donnait l’air vainqueur
Qu’ont dans leurs jours heureux // les esclaves des Maures.

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マラルメ 白鳥のソネ 「手付かずのまま、生き生きとした、美しい今日が」 Mallarmé Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui 白鳥(詩人)の肖像

マラルメの詩はとにかく難しい。というか、何が書いてあるのかほぼ不明だということが多い。それにもかかわらず高く評価され、20世紀以降の文学の始祖のように見なされることもある。
理解不可能に思える詩を書いた詩人に、なぜそうした高い評価が与えられるのだろうか?

ここでは、マラルメの目指した「詩」について考えながら、理論の実践として、「手つかずのままで、生き生きとした、美しい今日(le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui)」を読んでいこう。

実際、この詩も、他のマラルメの詩と同様、普通に読んだだけでは意味がほとんどわからない。
その一方で、音色についてははっきりとした特色があり、14行のソネット全ての詩行で [ i ]の音が何度も耳を打つ。

Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d’aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n’ont pas fui !

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ボードレール 「陽気すぎる女(ひと)へ」 Baudelaire « À celle qui est trop gaie » 自然な女性の美を前にした芸術家の願い

「陽気すぎる女(ひと)へ(A celle qui est trop gaie)」は、1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が出版された際、公衆道徳に違反するという理由で裁判に裁判にかけられ、削除を命じされた6編の詩の一つ。
そのため、猥褻と判断された詩句は、19世紀半ばの社会道徳を知る手掛かりになる。

しかし、それ以上に興味を引かれるのは、ボードレールが、ここで歌われている女性に匿名の手紙を出し、この詩を彼女に贈ったこと。
つまり、「陽気すぎる女(ひと)へ」は、現実に存在する女性を対象として書かれ、実際にその女性に送られたのだ。しかも詩人は自分の名前を隠し、匿名で。

その女性とは、アポロニー・サバティエ(Apollonie Sabatier)夫人。
彼女は、彫刻家オーギュスト・クレザンジェが1847年にサロンに出品し、大きなスキャンダルを引き起こした「蛇に噛まれた女(Femme piquée par un serpent)」のモデルとして一躍有名になり、パリの上級階級や芸術家たちの間で、女性大統領(La Présidente)とあだ名される存在だった。
蛇に噛まれて激しく身をよじる女性の肉体は、アポロニーの体から直接石膏で型を取ったものだと言われている。

Auguste Clésinger, Femme piquée par un serpent

ボードレールがサバティエ夫人と知り合ったのは1849年頃らしい。
「陽気すぎる女へ」を転写した手紙を送ったのは1852年12月9日。それ以降も6編の詩を贈っているのだが、ずっと匿名のままだった。
しかし、1857年に『悪の華』が裁判にかかり、ボードレールは、有力者たちを多く知るサバティエ夫人の助力を求めるために、とうとう詩の作者が自分であることを明かした。

その後の展開はどのようになるのか? 
「陽気すぎる女へ」を読んだ後から、二人のその後を辿ってみよう。

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ボードレール 「忘却の河」  Baudelaire « Le Léthé » 忘却への誘い

愛する女性の髪に顔を埋め、その香りに包まれたい。ボードレールはそんな望みをいくつかの詩の中で歌っている。

例えば、「異国の香り(Parfum exotique)」。

Quand, les deux yeux fermés, en un soir chaud d’automne,
Je respire l’odeur de ton sein chaleureux,

両目を閉じる、秋の暖かい夕べ、
そして、香りを吸い込む、お前の熱い胸の、

ボードレール 「異国の香り」 Charles Baudelaire « Parfume exotique » エロースの導き

あるいは散文詩「髪の中の半球(Un hémisphère dans une chevelure)」。

Laisse-moi respirer longtemps, longtemps, l’odeur de tes cheveux, y plonger tout mon visage, comme un homme altéré, dans l’eau d’une source, et les agiter avec ma main comme un mouchoir odorant, pour secouer des souvenirs dans l’air.

ずっと、ずっと、お前の髪の香りを吸わせておいてくれ、髪の中に顔を沈めさせておいてくれ、喉の渇いた男が泉の水に顔を浸すように。この手でその髪を揺らさせておいてくれ、香り高いハンカチを振るように、思い出を空中に撒き散らすために。

ボードレール 「髪の中の半球」 Baudelaire « Un Hémisphère dans une chevelure » 散文で綴った詩

「忘却の河(Le Léthé)」もこの二つの詩と同じ願いを歌う詩だが、1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が出版された際、風俗を乱すという罪に問われ、詩集から削除することを命じられた。

「異国の香り」は問題にならず、「忘却の河」が断罪されたとすると、この詩のどこが問題だったのだろう?

Viens sur mon cœur, âme cruelle et sourde,
Tigre adoré, monstre aux airs indolents; 
Je veux longtemps plonger mes doigts tremblants 
Dans l’épaisseur de ta crinière lourde ;

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フランス語の詩の音楽性 その2 音色

私たちは普段あまり意識しないのだが、言葉の音色を敏感に聞き取り、その音色が意味の理解も影響を与えている。

その例として、源実朝の和歌を取り上げてみよう。

大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも

ooumino / isomo todoroni / yoshuru nami // warete kudakete / sakete chirukamo

大海(o-o-u-mi-no)という最初の5音の中だけで3つの[ o ]の音が重ねられ、読者は大きな海へと誘われる。
さらにその音は、次に7音でも5回反復し、続く5音の中にも1回現れる。
その反復は、大きな波が磯に何度も何度も押し寄せる光景を、音によって体感させる効果を発揮する。

後半の 7/7では、[ e ]の音を中心に、 re – te – ke -te -ke -teとここでも波が打ち寄せ、割れ、砕け、裂ける感じが、音を通して伝わってくる。

そして、最後の最後になり、「散るかも(mo)」と [ o ]の音が再び現れ、ばらばらに砕けた波のイメージが最初の大海原へと収束する。

『私家版日本語文法』の中で井上ひさしがしてくれたように解説されないとなかなか気付かないことが多いのだが、実朝の歌が私たちに強い印象をもたらす理由に一つに、こうした言葉も音の効果がある。

フランスの詩人たちは、源実朝に劣らず詩句の音楽性に敏感であり、リズムだけではなく、音色にも細心の注意を払った。
(リズムに関しては フランス語の詩の音楽性 その1 リズム)
だからこそ、フランス語の詩を楽しむためには、音色を意識することも大切な要素になる。

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フランス語の詩の音楽性 その1 リズム

歌を聞くとき、私たちはメロディーと歌詞の両方に注意を向けている。歌詞が好きでなかったら聞く気がしないし、メロディーが好みでなければ、歌詞は好きでも好んでその歌を聞こうとは思わない。

詩も歌と同じで、言葉が伝える「意味」と同様に、言葉の作り出す「音楽」も重要な要素。とりわけ、フランス語の詩では音楽性が重視される。

ところが、日本ではせっかくフランス語で詩を読みながら、詩句のリズムや音色に注意を払わず、意味にばかり注目する傾向にある。
意味が不明な詩を選び、あれこれとひねくり回して意味を考えたりもする人たちさえいる。
素晴らしい詩を読みながら、詩句の美しさには無関心ということもさえある。

歌詞とメロディーの両方を好きでなければ歌を好んで聞こうとは思わないように、意味と音楽の両方を好きでなければ詩を好きにはなれないし、意味の理解もままならない。

せっかくフランス語で詩を読むのであれば、詩句の奏でる音楽も楽しみたい。
そんな思いで、ここでは、フランス語の詩句のリズムと音色について、考えてみたい。

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