アルチュール・ランボーの新しい写真(?)   

「1873年11月1日にパリで撮影されたアルチュール・ランボーの写真」というタイトルを付けて、ソーシャル・メディアにアップされた写真。

Rarissime photo d’Arthur Rimbaud prise par Ernest Balthazar, un photographe de rue, à Paris le 1er novembre 1873

顔は1871年にエチエンヌ・カルジャによって撮影された有名な写真そっくり! 
しかし、実際には、リュック・ロワゾーという芸術家が、AI(人口知能)のソフトを使い制作したもので、そのことは作者によって始めから明らかにされている

故郷シャルルヴィル=メジエールにあるランボー博物館の館長は、こうした試みは、« Il faut être absolument moderne. »(絶対的に現代的であること)と言ったランボーに相応しい、と語っているらしい。

芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 7/7 立石寺 月山 最上川 佐渡

『おくのほそ道』は、太平洋側を歩む行き旅と、日本海側に沿った帰りの旅という二つの行程によって、大きな構造が形作られている。
その分岐点となるのが、平泉と尿前。

平泉では、「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」の句によって捉えられた「無常な時の流れ」(流行)と、「五月雨の降(ふり)のこしてや光堂」の句が感知させる「不変・永遠」(不易)とが、古代の英雄や中尊寺の金色堂を通して詠われた。
それに対して、後半の旅の開始となる尿前の関で、芭蕉は悪天候のために門番の家に3日間も泊まることになり、「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」といった、卑近な題材を俳句として表現する。
この明確な対比を境にして、芭蕉の旅は後半に入る。

尿前の関から日本海側に抜けるためには、尾花沢の近くにある大石田で船に乗り、最上川を下っていくという行程が考えられる。
芭蕉もその旅程を取るのだが、しかし、二か所で寄り道をする。
まず、尾花沢からすぐに船に乗らず、立石寺を訪れる。
大石田で船に乗った後、出羽三山(白黒山、湯殿、月山)を訪れるために、いったん船を下りる。

太平洋側の旅では、時間の経過によって失われたもの(流行)と、永遠に残っているもの(不易)が別々に捉えられてきた。
ところが、蚤、虱、馬の尿から始まる後半の旅の始まりにおいて、山中を横切りながら、芭蕉は流行と不易が一つであることを悟っていく。
弟子の去来(きょらい)が伝える言葉で言えば、「不易と流行は元は一つ」(「去来抄」)。
それが日本海側の旅の中で、どのように表現されているのか見ていこう。

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アルチュール・ランボー 吐いた泥までが煌(きら)めく詩人 2/3 『地獄の季節』

『地獄の季節』は、1854年10月生まれのアルチュール・ランボーが、1873年、19-20歳の頃に書き上げた散文詩集。

1871年9月、17歳直前のランボーはポール・ヴェルレーヌと出会い、その翌年からはベルギーやロンドンで共同生活を送った。
その生活は、1873年7月10日、ブリュッセルにおいてヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件によって終結する。

『地獄の季節』の最後に「1873年、4月-8月」と記されているが、その日付は、詩集がヴェルレーヌとの波乱に富んだ関係の中で構想されたことを教えてくれる。

ちなみに、ヴェルレーヌの有名な詩「巷に雨が降るごとく/わが心にも涙降る」のエピグラフには、ランボーの「街に静かに雨が降る」という詩句が掲げられ、二人の詩人が相互に影響を与え合っていたことを示している。

彼らの最も大きな点は、音楽性の重視。
ランボーとヴェルレーヌの詩句においては、言葉の持つ音楽性が際立ち、大変に美しいフランス語の響きを聞かせてくれる。

他方、大きな違いもある。
ヴェルレーヌはあくまでも韻文詩の枠内に留まったが、ランボーは素晴らしい韻文詩を書きながらも、そこに留まることなく、「散文」による詩へと表現の幅を広げていった。

「散文詩」の試みは、19世紀後半には非常に革新的なものだった。
フランスでは、詩は「韻文」であることが不可欠な条件であり、「散文詩」というジャンルは、1850年代の半ば、シャルル・ボードレールによって展開されたものだった。
その際に前提として知っておくべきことは、詩的散文、つまり詩を思わせる散文はあくまで散文であり、詩ではないということ。
(まれな例だが、現在でも、詩は韻文でなければならず、散文詩は存在しないと主張する研究者が存在する。)

では、散文で書かれた作品を、どのようにして「散文詩」という一つの文学ジャンル」として認めさせるのか?
韻文でなければ詩として認められなかった時代、それが大きな問題だった。
『地獄の季節』の散文は、その問題に対する一つの解答に他ならない。

ただし、いかにもランボーらしく、自費出版の約束でブリュッセルの出版社に原稿を渡しながら、1873年10月に印刷製本が終わった時、費用の残額を支払わなかった。そのために彼は数冊を受け取っただけで、残りの500部近くはポート社の倉庫に残されたままになった。

その『地獄の季節』が、20世紀になると広く読まれるようになり、現在では世界中で最もよく知られた詩集であり続けている。文学における奇跡の一つと言っていいだろう。

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シャルルヴィルのランボー・ツアー

ランボーが死んだ頃、家族は恥ずかしい思いをしていたそうだが、今ではシャルルヴィル=メジエールの誇りであり、ランボーの足跡を巡るツアーも行われている。

Sur les pas d’Arthur Rimbaud à Charleville-Mézières

Charleville-Mézières, dans les Ardennes, est la ville natale du plus grand poète français, Arthur Rimbaud. 

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 6/7 失われたもの 永遠なもの

芭蕉と曽良は江戸を出発して以来、歌枕の地を数多く訊ねながら、仙台までやって来る。そして、「おくのほそ道」と呼ばれる小道を通った後、多賀城で壷碑(つぼのいしぶみ)を目にする。
それは多賀城の由来が刻まれた石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれたものだった。

壷碑を実際に目にした時の感激を、芭蕉は次のように綴る。

むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。

芭蕉は、壷碑が「疑いなき千歳の記念」、つまり1000年前から続く姿をそのまま留めているに疑いはないと確信し、これこそが長い旅の恩恵であり、生きていてよかったと痛感し、旅の苦労を忘れるほどに感激し、涙を流しそうになる。

その歌枕が古の時代に詠われた姿のままであるのを前にし、心を深く動かされるのはごく自然なことに違いないが、感激が大きいのにはもう一つの理由があった。

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ランボー 「わが放浪(ファンテジー)」 Rimbaud « Ma Bohême (Fantaisie) » 放浪する若き詩人の自画像

「わが放浪(ファンテジー)Ma Bohême (Fantaisie)」は、1870年10月に、年長の友人ポール・デメニーに預けた手書きの詩22編の中の一編。

翌1871年6月にデメニーに手紙を書き、全ての詩を燃やしてくれと依頼した。しかし、幸いなことに、デメニーは要求に従わなかった。そのおかげで、私たちは、16歳を直前にしたランボーの書いた詩を読むことができる! 

当時のランボーは、「詩人になる」という目標を掲げ、模索していた。
1870年5月24日に高名な詩人テオドール・ド・バンヴィルに送った3編の詩(「感覚(Sensation)」を含む)は、ロマン主義的な傾向をはっきりと示していた。
その1年後、1871年5月に書かれた「見者(le Voyant)の手紙」では、ロマン主義の詩を真っ向から否定し、「あらゆる感覚を理性的に狂わせ、未知なるものに達する」という詩法を展開した。

その中間時点にあるデメニーに託した詩群は、ロマン主義から出発して「見者の手紙」の詩法へと歩みを進めつつある段階にあった。
そのことは、放浪と詩作のつながりをテーマとする「感覚」と「我が放浪」 を並べてみるとよくわかる。

「感覚」では、全ての動詞が単純未来に活用され、まだ実現されていない希望が理想として思い描かれる。

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers

(ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福)

理想との対比を強調するために、「わが放浪」では動詞は過去時制で活用される。

Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
Mon paletot aussi devenait idéal ;
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
Oh ! là ! là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !

ぼくは出掛けていった、破れたポケットに拳骨を突っ込んで。
ハーフコートも同じように、理想的になっていた。
大空の下を歩いていたんだ、ミューズよ! ぼくはお前の僕(しもべ)だった。
あーあ! なんて数多くの輝く愛を、ぼくは夢見たことだろう!

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ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

「感覚(Sensation)」は、15歳のランボーが、高踏派を代表する詩人テオドール・ド・バンヴィルに宛てた1870年5月24日付けの手紙の中に同封した詩の一つ。

その手紙でランボーは、16世紀の詩人ロンサールを起源とし、ロマン主義から高踏派へと続く、「理想の美(la beauté idéale)」を追い求める詩人たちを真の詩人と見なし、その系譜の中に自分を位置づけている。
「感覚」はその言葉を証明するために同封された詩だった。

「感覚」の中で使われる動詞が全て単純未来で活用されるのは、「私(je)」の感じる幸福感が、これから実現されるはずの「理想」であり、15歳の少年詩人がその感覚に「美」を見出したことを示している。

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue !

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう、
麦の穂にちくちくさされながら、細い草を踏んで。
夢見心地の中で、草のひんやりとした感覚を感じるだろう、ぼくの足に。
風が浸すままにしておくだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を!

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 5/7 象潟  魂をなやます美

太平洋側の旅と日本海側の旅という二つの側面からなる『おくのほそ道』の中で、「象潟(きさがた)」は「松島」と対応し、芭蕉は、「松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」とした。

その対比は、決して、太平洋側(表日本)の松島が「明」で美しく、日本海側(裏日本)の象潟が「暗」で美しさが劣るといった、近代的な固定観念に基づいているわけではない。

そのことは、芭蕉が敬愛する西行の和歌を読めば、すぐに理解できる。

松島や 雄島の磯も 何ならず ただ象潟の 秋の夜の月  (「山家集」)

(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)

旅立つ前の芭蕉が何よりも見たいと思った「松島の月」でさえも、象潟の月に比べたら何のことはない。そう西行は詠った。
ここに、明暗、表裏に基づく美的判断はない。

象潟を描くにあたり芭蕉の頭にあったのは、もしかすると、吉田兼好の『徒然草』の一節かもしれない。

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方も知らぬも、なほあはれに情け深し。

満開の花や満月だけが美しいのではなく、雨のために見えない月を見たいと望み、垂れ込めて(=家の中にこもっているために)、春が過ぎていく様を見ることができないということも、日本人の美意識に強く訴えかけてくる。

芭蕉と曽良が酒田から象潟に向けて出発したのは、旧暦の6月15日、現在の暦だと7月31日のこと。
朝から小雨が続き、昼過ぎには強風になり、その日は吹浦(ふくうら)に宿泊した。そして翌日、象潟に向かったが、到着した時も雨の中だった。
雨の象潟もまたいいものだ、と芭蕉は思ったことだろう。

『おくのほそ道』を執筆するにあたり、芭蕉は松島に匹敵する散文で象潟を描き、さらに最後に二つの俳句を置いた。

(朗読は44分29秒から46分58秒まで)
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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 4/7 松島 造化の天工 

おくのほそ道の旅に芭蕉を誘った最大の理由は、序の中で告白されるように、「松島の月まず心にかかりて」ということだった。

その松島を実際に目の前にした時、芭蕉は景観の美しさに心を深く動かされたに違いない。旅人の感動は、松島を描く散文によって見事に表現されている。

俳句も詠んだらしい。

島々や 千々に砕きて 夏の海    (「蕉翁全伝附録」)

260を数える島々の情景が心に浮かんでくる句であり、写生として決して悪い出来ではないと思うのだが、しかし芭蕉はこの句を『おくのほそ道』では取り上げなかった。

芭蕉が選択したのは、漢詩的な表現が多く使われる前半と、隠者文学を思わせる後半を組み合わせ、二つの相の下で松島を描き出すことだった。

(朗読は27分16分から29分34秒まで)
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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 3/7 白河の関  歌枕を詠う散文

おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」

白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。

平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。

最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。

みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに

  たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
                           (「拾遺和歌集」)

(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)

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