ランボーが死んだ頃、家族は恥ずかしい思いをしていたそうだが、今ではシャルルヴィル=メジエールの誇りであり、ランボーの足跡を巡るツアーも行われている。
Sur les pas d’Arthur Rimbaud à Charleville-Mézières
Charleville-Mézières, dans les Ardennes, est la ville natale du plus grand poète français, Arthur Rimbaud.
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Sur les pas d’Arthur Rimbaud à Charleville-Mézières
Charleville-Mézières, dans les Ardennes, est la ville natale du plus grand poète français, Arthur Rimbaud.
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芭蕉と曽良は江戸を出発して以来、歌枕の地を数多く訊ねながら、仙台までやって来る。そして、「おくのほそ道」と呼ばれる小道を通った後、多賀城で壷碑(つぼのいしぶみ)を目にする。
それは多賀城の由来が刻まれた石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれたものだった。
壷碑を実際に目にした時の感激を、芭蕉は次のように綴る。
むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。
芭蕉は、壷碑が「疑いなき千歳の記念」、つまり1000年前から続く姿をそのまま留めているに疑いはないと確信し、これこそが長い旅の恩恵であり、生きていてよかったと痛感し、旅の苦労を忘れるほどに感激し、涙を流しそうになる。
その歌枕が古の時代に詠われた姿のままであるのを前にし、心を深く動かされるのはごく自然なことに違いないが、感激が大きいのにはもう一つの理由があった。
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「わが放浪(ファンテジー)Ma Bohême (Fantaisie)」は、1870年10月に、年長の友人ポール・デメニーに預けた手書きの詩22編の中の一編。
翌1871年6月にデメニーに手紙を書き、全ての詩を燃やしてくれと依頼した。しかし、幸いなことに、デメニーは要求に従わなかった。そのおかげで、私たちは、16歳を直前にしたランボーの書いた詩を読むことができる!
当時のランボーは、「詩人になる」という目標を掲げ、模索していた。
1870年5月24日に高名な詩人テオドール・ド・バンヴィルに送った3編の詩(「感覚(Sensation)」を含む)は、ロマン主義的な傾向をはっきりと示していた。
その1年後、1871年5月に書かれた「見者(le Voyant)の手紙」では、ロマン主義の詩を真っ向から否定し、「あらゆる感覚を理性的に狂わせ、未知なるものに達する」という詩法を展開した。
その中間時点にあるデメニーに託した詩群は、ロマン主義から出発して「見者の手紙」の詩法へと歩みを進めつつある段階にあった。
そのことは、放浪と詩作のつながりをテーマとする「感覚」と「我が放浪」 を並べてみるとよくわかる。
「感覚」では、全ての動詞が単純未来に活用され、まだ実現されていない希望が理想として思い描かれる。
夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers
(ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福)

理想との対比を強調するために、「わが放浪」では動詞は過去時制で活用される。
Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
Mon paletot aussi devenait idéal ;
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
Oh ! là ! là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !
ぼくは出掛けていった、破れたポケットに拳骨を突っ込んで。
ハーフコートも同じように、理想的になっていた。
大空の下を歩いていたんだ、ミューズよ! ぼくはお前の僕(しもべ)だった。
あーあ! なんて数多くの輝く愛を、ぼくは夢見たことだろう!

「感覚(Sensation)」は、15歳のランボーが、高踏派を代表する詩人テオドール・ド・バンヴィルに宛てた1870年5月24日付けの手紙の中に同封した詩の一つ。
その手紙でランボーは、16世紀の詩人ロンサールを起源とし、ロマン主義から高踏派へと続く、「理想の美(la beauté idéale)」を追い求める詩人たちを真の詩人と見なし、その系譜の中に自分を位置づけている。
「感覚」はその言葉を証明するために同封された詩だった。
「感覚」の中で使われる動詞が全て単純未来で活用されるのは、「私(je)」の感じる幸福感が、これから実現されるはずの「理想」であり、15歳の少年詩人がその感覚に「美」を見出したことを示している。
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue !
夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう、
麦の穂にちくちくさされながら、細い草を踏んで。
夢見心地の中で、草のひんやりとした感覚を感じるだろう、ぼくの足に。
風が浸すままにしておくだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を!

太平洋側の旅と日本海側の旅という二つの側面からなる『おくのほそ道』の中で、「象潟(きさがた)」は「松島」と対応し、芭蕉は、「松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」とした。
その対比は、決して、太平洋側(表日本)の松島が「明」で美しく、日本海側(裏日本)の象潟が「暗」で美しさが劣るといった、近代的な固定観念に基づいているわけではない。
そのことは、芭蕉が敬愛する西行の和歌を読めば、すぐに理解できる。
松島や 雄島の磯も 何ならず ただ象潟の 秋の夜の月 (「山家集」)
(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)
旅立つ前の芭蕉が何よりも見たいと思った「松島の月」でさえも、象潟の月に比べたら何のことはない。そう西行は詠った。
ここに、明暗、表裏に基づく美的判断はない。
象潟を描くにあたり芭蕉の頭にあったのは、もしかすると、吉田兼好の『徒然草』の一節かもしれない。
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方も知らぬも、なほあはれに情け深し。
満開の花や満月だけが美しいのではなく、雨のために見えない月を見たいと望み、垂れ込めて(=家の中にこもっているために)、春が過ぎていく様を見ることができないということも、日本人の美意識に強く訴えかけてくる。
芭蕉と曽良が酒田から象潟に向けて出発したのは、旧暦の6月15日、現在の暦だと7月31日のこと。
朝から小雨が続き、昼過ぎには強風になり、その日は吹浦(ふくうら)に宿泊した。そして翌日、象潟に向かったが、到着した時も雨の中だった。
雨の象潟もまたいいものだ、と芭蕉は思ったことだろう。
『おくのほそ道』を執筆するにあたり、芭蕉は松島に匹敵する散文で象潟を描き、さらに最後に二つの俳句を置いた。

おくのほそ道の旅に芭蕉を誘った最大の理由は、序の中で告白されるように、「松島の月まず心にかかりて」ということだった。
その松島を実際に目の前にした時、芭蕉は景観の美しさに心を深く動かされたに違いない。旅人の感動は、松島を描く散文によって見事に表現されている。
俳句も詠んだらしい。
島々や 千々に砕きて 夏の海 (「蕉翁全伝附録」)
260を数える島々の情景が心に浮かんでくる句であり、写生として決して悪い出来ではないと思うのだが、しかし芭蕉はこの句を『おくのほそ道』では取り上げなかった。
芭蕉が選択したのは、漢詩的な表現が多く使われる前半と、隠者文学を思わせる後半を組み合わせ、二つの相の下で松島を描き出すことだった。

おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」
白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。
平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。
最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。
みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに
たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
(「拾遺和歌集」)
(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)
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『おくのほそ道』は、1689年の春から秋にかけて芭蕉が行った長い旅に基づく紀行文の形式で書かれているが、執筆には時間を要し、1694年に芭蕉がこの世を去るまで書き継がれ、出版されたのは1702年になってからだった。
なぜそんな時間をかけたかといえば、事実に忠実な旅の記録を書き残すのではなく、芭蕉が俳諧の本質だと考えた不易流行」の概念を具体的な形で表現することを意図したからに違いない。
実際、『おくのほそ道』は江戸の深川から出発して、前半では、日光、松島を経て平泉に達する太平洋側の旅が語られ、後半では、出羽三山を通過し、日本海側を下り、最後は岐阜の大垣にまで至る、大きく分けて二つの部分から成り立つ。つまり、単に旅程をたどるのではなく、はっきりとした意図の下で構成されているのだ。
その旅の前に置かれた「序」は、『おくのほそ道』の意図を格調高い文章によって宣言している。
最初に旅とは何かが記され、次に「予(よ)=(私)」に言及することで芭蕉自身に視線を向け、旅立ちに際しての姿が描き出されていく。
ここで注意したいことは、芭蕉は俳人だが、俳句だけではなく、旅を語る散文もまた、俳諧の精神に貫かれていること。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という最初の一文を読むだけで、俳文の美が直に感じられる。
ここではまず朗読を聞くことで、芭蕉の文章の音楽性を感じることから始めよう。(朗読は16秒から1分33秒まで)

松尾芭蕉は、1689(元禄2)年、46歳の時、旧暦の3月27日から9月6日まで、現在の暦であれば5月16日から10月18日までの約5ヶ月をかけて、江戸を発ち、東北地方から北陸地方を回り、最後は岐阜県の大垣に至る、長い旅を行った。
その主な目的は、1689年が平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人である西行法師の生誕500年にあたり、東北と北陸の各地に点在する「歌枕」の地を訪ねることだったと考えられる。
「歌枕」というのは、和歌の中で伝統的に読み継がれてきた地名で、現代で言えば、名所旧跡といった観光名所と考えていいかもしれない。
ただし、現代とは違い、それらの地名にはそれまでに読まれた和歌の記憶が刻み込まれ、例えば、「吉野」と言えば、「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」(西行)などといった句が数多く思い出された。
その連想を通して、実際に吉野山を見たことがなくても、和歌を通して「吉野」を思い描き、時には、その地名からインスピレーションを受けて、自分でも「吉野」を和歌に詠み込む。
そうした伝統は、俳句でも続いていた。
そうした中で、芭蕉は、東北や北陸に数多くある「歌枕」を実際に自分の目で見、実体験から得られた生の情感を言葉によって表現しようとしたのではないかと考えられる。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」(土芳(とほう)『三冊子(さんぞうし)』)
『おくのほそ道』はその旅に基づいた紀行文であり、実際の旅程と、その間に芭蕉および同行者である曾良(そら)の詠んだ俳句から出来上がっているように見える。
しかし、実はいくつかの虚構が含まれているし、作品全体が中央で分割され、対照的な二つの部分で構成されている。そのことからも、『おくのほそ道』が単なる旅の記録ではないことがわかる。
では、何を目指した書なのか?
芭蕉自身はどこでも使っていないが、弟子たちが芭蕉の俳諧論の中で中心に置いたのは、「不易流行」という概念だった。
「不易」とは永遠に変わらないということ。「流行」は常に変化し、新しくなっていくこと。
その対立する二つの概念が「根源においては一つ」というのが、芭蕉の俳諧論の本質だと考えられている。
弟子によって多少の解釈に違いがあり、「不易流行」という表現が何を意味にしているのか完全に解明されているとは言えないのだが、ここでは、『おくのほそ道』全体を通して、芭蕉自身が俳諧の本質を伝えようとしたのだと考えてみたい。
そのことによって、芭蕉の説く「不易流行」を具体的に知ることにもなるはずである。
鴨長明は『方丈記』の前半で、四つの自然災害と一つの人災を、非常に生き生きとした描写で描き出す。
その目的は、序の中で言われた、「その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常をあらそふさま、いはば朝顏の露にことならず。』という言葉を具体的な事実として語るためである。
そして、5つの災害を語り終えた後には、「すべて世のありにくきこと、わが身と栖(すみか)との、はかなく、徒(あだ)なるさま、又かくのごとし。」と、この世のはかなさ、無常さが再確認される。
従って、長明の意図は明らかなのだが、ここで注目したいのは、長明の視線が細部に渡り、描写が実に生々しく描かれていること。
その様子は、平安時代末期から鎌倉時代に描かれた六道絵や、「地獄草紙(じごくそうし)」、「餓鬼草紙(がきそうし)」、「病草紙」などの絵画を連想させる。
それらは、10世紀末、平安時代の中期に書かれた源信の『往生要集』などで説かれた六道、つまり、 「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人」を映像化したものと考えられる。




鴨長明は、実際に自分が体験した悲惨な状況、しかも1177年から1185年というわずか8年のあまりの間に起こった度重なる災禍を、六道に匹敵するものとして、絵画ではなく言葉で描き出したのだった。
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